初めて見上家を訪れてから早半月、春休みに入ったわたしは、朝から夕方まで空美ちゃんと家事を通して言葉を交わしていった。それだけではなく、何回か彼女と遊びに出かけたこともあった。
初めて見たときよりも素直になった彼女の様子を見ていると、心を開いてくれているんだと思って嬉しくなった。
ちなみに、初日のあの掃除以来、空美ちゃんが稀にわたしを師匠と呼んでいるのを、海斗さんは複雑そうな表情で見ている。どうやら尊敬されてしまったらしい。わたしもお母さんが亡くなってからは家事全般を行っていたので、これに関しては完全に慣れなのだが。空美ちゃん曰く、わたしには家事の才能があるらしい。
「空美、完全に美歌さんに懐いてますね」
ベランダの壁にもたれながら、海斗さんはつぶやいた。「単純すぎて少し心配になるんですが……」と続けて言った。
「まあまあ、いいことじゃないですか」と洗濯物を取り込みながら答えた。この時期は取り込む前に花粉を落とさなければならないから、少し面倒だ。
「俺が死んでから、まだ二か月ちょっとしか経ってないんです。だから最初、もっとふさぎ込んでると思ってました。もしかしたら、玄関を開けることすらしないんじゃないかって……」
「……」やはり、死んでからはそんなに時は経っていないのか。でもそのわりには、空美ちゃんには元気がある気がする。
「ですが、ああやって笑ってくれていて、すごく安心しています。それは、美歌さんのおかげでもあると思うんです」
「ええ、そんな……」
確かに、空美ちゃんが少しでも元気になるようにと思っているが、今の彼女のことを、わたしのおかげというのは、少し言い過ぎではなかろうか。
「謙遜しないでください」と、海斗さんは言う。「あなたの優しさが、空美に届いたんですよ。少なくとも、俺はそう思います」
どこまでも純粋そうな言葉に、わたしの胸中は乱れる。自分にそんなことを言ってもらえるような資格はないと思ってしまう。
この世に生れ落ちることが分かった瞬間から、お母さんを苦しめ続けたわたしに、そんな言葉は似合わないのだと。
だからこそ、この〝優等生〟としての生き方が今は苦痛なのだ。
それなのに、
——海斗さんのその言葉に、泣きたくなるほど嬉しくなってもいるのだ。
彼は風流れる方向をぼんやりと眺めていて、表情を見ることはできない。いったい彼は今、何を思い、何を感じているのか。
分かるはずもないことなのに、考えずにはいられなかった。
三月の最後の週、わたしはまた見上家を訪れていた。今回は海斗さんも一緒に来ていた。今彼は自室におり、リビングで空美ちゃんとふたりきりだった。
仕事が一段落着いたわたしは、空美ちゃんの勉強を見ていた。もはや家庭教師である。
「あー疲れた……」
「一時間集中してたら疲れるよね、いったん休憩しよう」
「はーい」と言いながらペンを置き、ワークを横によけた。わたしもキッチンで紅茶を淹れて、持参したクッキーをお皿に乗せて持って行った。
「わーい! 美歌ちゃんのクッキーだ!」
前まではさん付けだったが、今ではちゃん付けだった。心を許された証拠だ。だからこそ、今日こそは言わなければならないのだ。
「……ねえ、空美ちゃん」
クッキーをつまむ空美ちゃんに、意を決して声をかける。
「ん、なあに?」
「空美ちゃん、初めて会った時、ちょっとだけお兄ちゃんの話をしてたよね」
しん、と耳が痛い沈黙が下りる。怖くて、空美ちゃんの顔が見れなかった。
「それからずっと、そのことが気になってて……それでね、わたし」
「——なんで」
「え」
そこでやっと、空美ちゃんの顔を見ることができた。今にも泣きだしそうな幼い子供が、そこにいる気がした。
「ずっとずっと、考えないようにしてたのに、どうしてそんなこと言うの?」
今にも泣きだしそうな声だった。
「お兄ちゃんが自殺しちゃって、わたし、ずっとずっと自分が嫌で……それで考えないように、思い出さないようにしてたのに……! 思い出させないでよ!」
最後まで言い切るよりも先に、空美ちゃんは滂沱した。必死に重しを乗せて、思い出さないようにしていたことが溢れ、爆発したのだと悟った。ふと、あのにおいが強くなる。海斗さんが近くに来ているのだ。
「……ごめんなさい、今日はもういいから、ひとりにさせてください」
そう言って、空美ちゃんはリビングから出ていく。その際に、海斗さんの体をすり抜けていった。
途端に静かになったリビング。海斗さんはいまいち状況が呑み込めていないのか、呆然と立ち尽くしていた。
わたしもまた、呆然とするほかなかった。
荷物を手に、重たい足取りで駅に向かう。
カードを改札口に通してホームの椅子に腰かける。幸か不幸か、他に人はいなかった。時刻表を調べると、まだ十五分ほど電車は来ないらしい。
誰もいないのをいいことに、わたしは椅子の上でだらけた。
「……一応俺がいますよ」
わたしの心を読まないでもらいたい。本当に読心術がある訳ではないが、いい気分はしなかった。
「……さっきは、何があったんですか?」
しばらく黙り込む。頭の中で状況を整理するためだ。そして、おもむろに口を開き、先ほどのことをすべて話した。
「……そう、だったんですね」海斗さんは、沈痛ともいえるような表情をした。「まさか、俺のせいでそこまで追い詰めていただなんて……」
「空美ちゃん、お兄ちゃんは自殺したって言ってましたけど、どうなんですか?」
彼は最初、転落事故だと言っていたが。
「あの日、トイレに行っていた空美を待っていたんです。その時、俺は柵から少し身を乗り出していて……発作を起こして、そのまま転落してしまったんです。ですが、柵が壊れたわけではなかったので、自殺として片づけられたんです」
警察も案外いい加減である。
——そのせいで、空美ちゃんは自分を責めている。
自分が兄から目を離したせいでああなったのだと。
「でも、今の空美ちゃんの気持ち、わたしには少しわかるんです。大切な人が、自分のせいで死んでしまったっていう絶望」
「え、っと、それは……」
困惑している。でも、彼も薄々感づいているはずなのだ。わたしが何かを隠していることぐらい。
「……聞いてくれる? わたしも、楽になりたいから。その代わり、海斗さんにも自分のことを、話してほしい」
だいぶ我儘なことを言ったつもりだったが、海斗さんは覚悟を決めてくれた。表情からもそれがよくわかる。
「もちろんです。美歌さんが話してくれるなら、俺も話します」
海斗さんは、わたしの隣に腰を下ろした。そしてわたしは語り始める。
わたしを苦しめる、絶望の話を。
初めて見たときよりも素直になった彼女の様子を見ていると、心を開いてくれているんだと思って嬉しくなった。
ちなみに、初日のあの掃除以来、空美ちゃんが稀にわたしを師匠と呼んでいるのを、海斗さんは複雑そうな表情で見ている。どうやら尊敬されてしまったらしい。わたしもお母さんが亡くなってからは家事全般を行っていたので、これに関しては完全に慣れなのだが。空美ちゃん曰く、わたしには家事の才能があるらしい。
「空美、完全に美歌さんに懐いてますね」
ベランダの壁にもたれながら、海斗さんはつぶやいた。「単純すぎて少し心配になるんですが……」と続けて言った。
「まあまあ、いいことじゃないですか」と洗濯物を取り込みながら答えた。この時期は取り込む前に花粉を落とさなければならないから、少し面倒だ。
「俺が死んでから、まだ二か月ちょっとしか経ってないんです。だから最初、もっとふさぎ込んでると思ってました。もしかしたら、玄関を開けることすらしないんじゃないかって……」
「……」やはり、死んでからはそんなに時は経っていないのか。でもそのわりには、空美ちゃんには元気がある気がする。
「ですが、ああやって笑ってくれていて、すごく安心しています。それは、美歌さんのおかげでもあると思うんです」
「ええ、そんな……」
確かに、空美ちゃんが少しでも元気になるようにと思っているが、今の彼女のことを、わたしのおかげというのは、少し言い過ぎではなかろうか。
「謙遜しないでください」と、海斗さんは言う。「あなたの優しさが、空美に届いたんですよ。少なくとも、俺はそう思います」
どこまでも純粋そうな言葉に、わたしの胸中は乱れる。自分にそんなことを言ってもらえるような資格はないと思ってしまう。
この世に生れ落ちることが分かった瞬間から、お母さんを苦しめ続けたわたしに、そんな言葉は似合わないのだと。
だからこそ、この〝優等生〟としての生き方が今は苦痛なのだ。
それなのに、
——海斗さんのその言葉に、泣きたくなるほど嬉しくなってもいるのだ。
彼は風流れる方向をぼんやりと眺めていて、表情を見ることはできない。いったい彼は今、何を思い、何を感じているのか。
分かるはずもないことなのに、考えずにはいられなかった。
三月の最後の週、わたしはまた見上家を訪れていた。今回は海斗さんも一緒に来ていた。今彼は自室におり、リビングで空美ちゃんとふたりきりだった。
仕事が一段落着いたわたしは、空美ちゃんの勉強を見ていた。もはや家庭教師である。
「あー疲れた……」
「一時間集中してたら疲れるよね、いったん休憩しよう」
「はーい」と言いながらペンを置き、ワークを横によけた。わたしもキッチンで紅茶を淹れて、持参したクッキーをお皿に乗せて持って行った。
「わーい! 美歌ちゃんのクッキーだ!」
前まではさん付けだったが、今ではちゃん付けだった。心を許された証拠だ。だからこそ、今日こそは言わなければならないのだ。
「……ねえ、空美ちゃん」
クッキーをつまむ空美ちゃんに、意を決して声をかける。
「ん、なあに?」
「空美ちゃん、初めて会った時、ちょっとだけお兄ちゃんの話をしてたよね」
しん、と耳が痛い沈黙が下りる。怖くて、空美ちゃんの顔が見れなかった。
「それからずっと、そのことが気になってて……それでね、わたし」
「——なんで」
「え」
そこでやっと、空美ちゃんの顔を見ることができた。今にも泣きだしそうな幼い子供が、そこにいる気がした。
「ずっとずっと、考えないようにしてたのに、どうしてそんなこと言うの?」
今にも泣きだしそうな声だった。
「お兄ちゃんが自殺しちゃって、わたし、ずっとずっと自分が嫌で……それで考えないように、思い出さないようにしてたのに……! 思い出させないでよ!」
最後まで言い切るよりも先に、空美ちゃんは滂沱した。必死に重しを乗せて、思い出さないようにしていたことが溢れ、爆発したのだと悟った。ふと、あのにおいが強くなる。海斗さんが近くに来ているのだ。
「……ごめんなさい、今日はもういいから、ひとりにさせてください」
そう言って、空美ちゃんはリビングから出ていく。その際に、海斗さんの体をすり抜けていった。
途端に静かになったリビング。海斗さんはいまいち状況が呑み込めていないのか、呆然と立ち尽くしていた。
わたしもまた、呆然とするほかなかった。
荷物を手に、重たい足取りで駅に向かう。
カードを改札口に通してホームの椅子に腰かける。幸か不幸か、他に人はいなかった。時刻表を調べると、まだ十五分ほど電車は来ないらしい。
誰もいないのをいいことに、わたしは椅子の上でだらけた。
「……一応俺がいますよ」
わたしの心を読まないでもらいたい。本当に読心術がある訳ではないが、いい気分はしなかった。
「……さっきは、何があったんですか?」
しばらく黙り込む。頭の中で状況を整理するためだ。そして、おもむろに口を開き、先ほどのことをすべて話した。
「……そう、だったんですね」海斗さんは、沈痛ともいえるような表情をした。「まさか、俺のせいでそこまで追い詰めていただなんて……」
「空美ちゃん、お兄ちゃんは自殺したって言ってましたけど、どうなんですか?」
彼は最初、転落事故だと言っていたが。
「あの日、トイレに行っていた空美を待っていたんです。その時、俺は柵から少し身を乗り出していて……発作を起こして、そのまま転落してしまったんです。ですが、柵が壊れたわけではなかったので、自殺として片づけられたんです」
警察も案外いい加減である。
——そのせいで、空美ちゃんは自分を責めている。
自分が兄から目を離したせいでああなったのだと。
「でも、今の空美ちゃんの気持ち、わたしには少しわかるんです。大切な人が、自分のせいで死んでしまったっていう絶望」
「え、っと、それは……」
困惑している。でも、彼も薄々感づいているはずなのだ。わたしが何かを隠していることぐらい。
「……聞いてくれる? わたしも、楽になりたいから。その代わり、海斗さんにも自分のことを、話してほしい」
だいぶ我儘なことを言ったつもりだったが、海斗さんは覚悟を決めてくれた。表情からもそれがよくわかる。
「もちろんです。美歌さんが話してくれるなら、俺も話します」
海斗さんは、わたしの隣に腰を下ろした。そしてわたしは語り始める。
わたしを苦しめる、絶望の話を。



