屋島は、瀬戸内海沿いにある台形状の山だ。山頂には水族館や展望台などがあり、瀬戸内海の絶景を拝める、香川の観光スポットのひとつである。
そして、俺の死に場所でもあった。俺は亡くなる半年前に肺がんが発見されていた。しかも、発見されたときにはすでに深刻な状態で、もって一年程度だと言われた。
肺がんは高齢者や喫煙者に多いがんというイメージがあるが、俺のような若年層でも罹患することがあるそうだ。
正直、診断されたときは絶望で頭がいっぱいになった。死ぬのか? 夢も希望もすべて捨てて、幼い妹を遺して? 苦労ばかりの幼少期を乗り越えて、これからは夢を追いかけながら、空美の成長を一番近くで見守っていきたかったのに。もしかしたら中学生姿すら見えないかもしれないだなんて……。
俺は神様なんていないのだと思い、ひと月ほど家に籠ったりもした。俺たち兄妹を苦しめただけでは飽き足らず、こんな体に産んだ両親さえも恨んだ。
そこから立ち直れたのは、間違いなく空美のおかげだった。あいつだってつらいはずなのに、それを一切表には出さずに、俺を応援してくれた。
そんな妹の気持ちに応えたかった。だから治療も必死に頑張ったし、受験勉強も再開した。もしかしたら、宣告された時間よりも、長く生きられるのかもしれないのだ。
そんな気持ちを持って通院をしていたある日、俺は院内の屋上で、ひとりの女の子を見かけた。長い黒髪をポニーテールにした高校生ぐらいの子で、ノートらしきものを片手に、フェンス越しに景色を眺めていた。セーラー服を着ていたので、おそらくお見舞いに来た子なんだろうと思った。
その子は、歌っていた。といっても鼻歌だったが、その日は寒い日だったので他に人もおらず、彼女の声はよく響いた。
——綺麗な声だな。
俺はそう思った。それ以外のことが考えられなくなるほど、俺はその声に引き込まれた。一歩一歩、少しずつ彼女に近づいたが、彼女は不意に振り向き、俺の横をすり抜けていった。
残念に思うと同時に、また聴きたい、会いたいと思った。
下心のようになってしまうが、ある意味で生きる意味が増えたような気がした。
だが、神様はどこまでも残酷だった。
冬休み最後の日、俺と空美は屋島にある水族館を訪れた。空美は小さな頃から水族館が大好きで、とくべつな日は決まって足を運んでいた。
あまり大きくはない、地元の小さな水族館だったが、空美は誰よりも楽しそうに笑っていて、特にイルカショーは大爆笑していた。あの水族館では、休日は侍に扮したスタッフが寸劇を披露するのだ。
帰りに俺は、少し早い卒業祝いのつもりで、文房具とハンカチ、そして売店で買ったイルカのキーホルダーをラッピング袋に入れて渡そうと思っていた。二ヶ月後、俺が直接渡せる保証はないのだ。だから早めに渡しておこうと思っていた。まあ、「卒業するまで元気でいてよ!」と怒られるだろうが。
そして、観光駐車場近くにある柵の側で、トイレに行っている空美を待っていた時だった。その日は冬らしいカラッとした晴れ空で、遠くの景色までくっきりと見えた。その柵に少し身を預け、木々の向こうに見える海と島を眺めていた。
その時だった。
「……っ?」
急に胸のあたりが苦しくなったと思ったら、一気に呼吸が荒くなる。マズい、そう思った時には意識が半分飛んでいて、最後に自身の体の重心が、柵の向こう側に移ってゆくような感覚を覚えて……そこから先は、記憶がない。
気づいた時には、自身の遺体のそばで、幽霊として呆然と立ち尽くしていた。
俺はあの日、発作を起こして、柵を乗り越え転落したのだ。本当に、俺はつくづく運が悪い。
そして警察の調査が入り、俺のことは自殺として処理された。まあ、殺人だったのにそう処理されてしまうよりは幾分マシな結果ではあった。
だが、空美はきっと、罪悪感に苛まれただろう。
あの時自分がトイレに行かなければ、そもそも水族館になんていかなければ、と思ったに違いない。
叶うことなら、真実を伝えたかった。お前は何も悪くない。柵から身を乗り出していた俺が悪かったのだ。そして、警察も見つけられなかった、空美に渡すはずだった卒業祝いも、ちゃんとこの手で渡したかった。
そんな後悔を抱えながら、二か月ほどさまよっている時に、俺はようやく出会った——否、〝再会〟した。
俺の姿を瞳に映し、声を拾う彼女に。
美しい歌を紡ぎ出す、彼女に。
♢
美歌さんの言葉が、未だに頭にこびりついている。彼女が放った、殺してほしいという言葉。そして、あの日、すれ違いざまに聞こえた歌声。
俺は、自身が死んだ場所に立っている。足元には、例の遺品があるが、触れることはかなわない。もどかしいものだ。
美歌さんは、あの時病院で聴いた歌声の持ち主に違いなかった。彼女に会ったのはあれきりだったが、妙な確信があった。
俺にとって、生きる意味のひとつを生み出した彼女が、今は死にたいと願っている。いったい彼女の身に、何があったというのか。皆目見当がつかなかった。
俺と同じく、何かの病気だろうか。いや、だとしたら誤魔化す必要なんてない。虐められているなら、こんな迂遠なことはせずに、自ら命を絶てばよいはずだ。
自殺ができない理由があるのか、それともほかに何か目的があるのか。考えるだけ無駄だと分かっていても、考えずにはいられなかった。こんな状態になってもなお、生前の正義感の強さが出てしまう。良くも悪くも正義感が強い、だからよく貧乏くじを引くのだ、と何度言われたことか。
——何か、死んだ俺だからこそできることはあるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は空を見上げた。澄んだ美しい色だった。
そして、俺の死に場所でもあった。俺は亡くなる半年前に肺がんが発見されていた。しかも、発見されたときにはすでに深刻な状態で、もって一年程度だと言われた。
肺がんは高齢者や喫煙者に多いがんというイメージがあるが、俺のような若年層でも罹患することがあるそうだ。
正直、診断されたときは絶望で頭がいっぱいになった。死ぬのか? 夢も希望もすべて捨てて、幼い妹を遺して? 苦労ばかりの幼少期を乗り越えて、これからは夢を追いかけながら、空美の成長を一番近くで見守っていきたかったのに。もしかしたら中学生姿すら見えないかもしれないだなんて……。
俺は神様なんていないのだと思い、ひと月ほど家に籠ったりもした。俺たち兄妹を苦しめただけでは飽き足らず、こんな体に産んだ両親さえも恨んだ。
そこから立ち直れたのは、間違いなく空美のおかげだった。あいつだってつらいはずなのに、それを一切表には出さずに、俺を応援してくれた。
そんな妹の気持ちに応えたかった。だから治療も必死に頑張ったし、受験勉強も再開した。もしかしたら、宣告された時間よりも、長く生きられるのかもしれないのだ。
そんな気持ちを持って通院をしていたある日、俺は院内の屋上で、ひとりの女の子を見かけた。長い黒髪をポニーテールにした高校生ぐらいの子で、ノートらしきものを片手に、フェンス越しに景色を眺めていた。セーラー服を着ていたので、おそらくお見舞いに来た子なんだろうと思った。
その子は、歌っていた。といっても鼻歌だったが、その日は寒い日だったので他に人もおらず、彼女の声はよく響いた。
——綺麗な声だな。
俺はそう思った。それ以外のことが考えられなくなるほど、俺はその声に引き込まれた。一歩一歩、少しずつ彼女に近づいたが、彼女は不意に振り向き、俺の横をすり抜けていった。
残念に思うと同時に、また聴きたい、会いたいと思った。
下心のようになってしまうが、ある意味で生きる意味が増えたような気がした。
だが、神様はどこまでも残酷だった。
冬休み最後の日、俺と空美は屋島にある水族館を訪れた。空美は小さな頃から水族館が大好きで、とくべつな日は決まって足を運んでいた。
あまり大きくはない、地元の小さな水族館だったが、空美は誰よりも楽しそうに笑っていて、特にイルカショーは大爆笑していた。あの水族館では、休日は侍に扮したスタッフが寸劇を披露するのだ。
帰りに俺は、少し早い卒業祝いのつもりで、文房具とハンカチ、そして売店で買ったイルカのキーホルダーをラッピング袋に入れて渡そうと思っていた。二ヶ月後、俺が直接渡せる保証はないのだ。だから早めに渡しておこうと思っていた。まあ、「卒業するまで元気でいてよ!」と怒られるだろうが。
そして、観光駐車場近くにある柵の側で、トイレに行っている空美を待っていた時だった。その日は冬らしいカラッとした晴れ空で、遠くの景色までくっきりと見えた。その柵に少し身を預け、木々の向こうに見える海と島を眺めていた。
その時だった。
「……っ?」
急に胸のあたりが苦しくなったと思ったら、一気に呼吸が荒くなる。マズい、そう思った時には意識が半分飛んでいて、最後に自身の体の重心が、柵の向こう側に移ってゆくような感覚を覚えて……そこから先は、記憶がない。
気づいた時には、自身の遺体のそばで、幽霊として呆然と立ち尽くしていた。
俺はあの日、発作を起こして、柵を乗り越え転落したのだ。本当に、俺はつくづく運が悪い。
そして警察の調査が入り、俺のことは自殺として処理された。まあ、殺人だったのにそう処理されてしまうよりは幾分マシな結果ではあった。
だが、空美はきっと、罪悪感に苛まれただろう。
あの時自分がトイレに行かなければ、そもそも水族館になんていかなければ、と思ったに違いない。
叶うことなら、真実を伝えたかった。お前は何も悪くない。柵から身を乗り出していた俺が悪かったのだ。そして、警察も見つけられなかった、空美に渡すはずだった卒業祝いも、ちゃんとこの手で渡したかった。
そんな後悔を抱えながら、二か月ほどさまよっている時に、俺はようやく出会った——否、〝再会〟した。
俺の姿を瞳に映し、声を拾う彼女に。
美しい歌を紡ぎ出す、彼女に。
♢
美歌さんの言葉が、未だに頭にこびりついている。彼女が放った、殺してほしいという言葉。そして、あの日、すれ違いざまに聞こえた歌声。
俺は、自身が死んだ場所に立っている。足元には、例の遺品があるが、触れることはかなわない。もどかしいものだ。
美歌さんは、あの時病院で聴いた歌声の持ち主に違いなかった。彼女に会ったのはあれきりだったが、妙な確信があった。
俺にとって、生きる意味のひとつを生み出した彼女が、今は死にたいと願っている。いったい彼女の身に、何があったというのか。皆目見当がつかなかった。
俺と同じく、何かの病気だろうか。いや、だとしたら誤魔化す必要なんてない。虐められているなら、こんな迂遠なことはせずに、自ら命を絶てばよいはずだ。
自殺ができない理由があるのか、それともほかに何か目的があるのか。考えるだけ無駄だと分かっていても、考えずにはいられなかった。こんな状態になってもなお、生前の正義感の強さが出てしまう。良くも悪くも正義感が強い、だからよく貧乏くじを引くのだ、と何度言われたことか。
——何か、死んだ俺だからこそできることはあるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は空を見上げた。澄んだ美しい色だった。



