家に帰ると、父が遅めの昼食としてサンドウィッチを食べていた。昨晩作っておいたものだ。わたしは現在、父とふたりで暮らしている。お母さんは五年前に交通事故で亡くなった。
 父はわたしの存在に気づくと、口の中のものを飲み込み、「おかえり、美歌(みか)」と言った。
「うん、ただいま」と返事をし、そのままキッチンで手を洗った。

「早かったな」

「もうすぐ春休みだから、最近は早帰りが多いよ」

「そうか……もうすぐ春休みか」

 父は最後のひと切れを齧りながらつぶやいた。多めに用意していたのだが、ぺろりと平らげられてしまった。

「なあ、美歌。春休み、どこか行きたいところはないか? 連休は取れないから近場にはなるが、せっかくの長期休暇だし……」

 どこか遠慮がちに言った。実際、彼はきっと私に遠慮している、というか、気を遣っているのだろう。

「もう受験生だし、バイトもあるから大丈夫だよ」

 滔々(とうとう)と言うと、父は勢いをそがれたように「そうか、ならいいんだ」と言った。
 受験、バイトと言えば、父もそれ以上は踏み込んでこない。良くも悪くもいい人すぎるのだ、この人は。

「……じゃあ、私はまた仕事に行ってくる。夕食はビーフシチューを作ってあるから、温めて食べなさい」

 たしかに、コンロに鍋があり、中にビーフシチューが見える。

「今日は、帰って来る?」

「いや、今日は難しいかもしれん。だから、お前の顔が見れてよかった。できるだけ早く帰って来るから、戸締りだけ頼むな」

「ううん、わたしのことは気にしなくていいから、お父さんは仕事に集中して」

 そう声をかけ、わたしは二階の自室へ直行した。階段をのぼりながら、大きく息を吐く。
 わたしは、あの人と話すのが苦手だった。
 もちろん、最初からそうだったわけではないし、あの人は正真正銘、わたしと血のつながった家族だ。
 部屋に戻った私は荷物を置き、さっと着替えて家を出た。
 いつもなら軽く何かをつまむが、先ほどの父との会話のせいか、何かを食べる気分ではなかった。


 机の引き出しに隠すようにしまってあったノートを五冊取り出す。A5サイズの大学ノートで、それぞれに『日記』という文字と、西暦日づけが書かれている。
 これは、亡くなったお母さんが生前書いていた日記だった。特別な出来事を、西暦と日づけと共に記していた。まあ、まめな性格ではなかったので、ところどころ飛んでいるだけかもしれないが。この日記の存在を知ったのは、お母さんの遺品整理の時だったので、真相は分からない。
 わたしは一番古いものを選んで、ページをめくる。

『二〇〇一年 四月七日 秀太(しゅうた)くんと同じクラスになった! 文理が違うとはいえ、これからは毎日、教室で大好きな秀太くんに会えるなんて最高! 決めた、今年の目標は、志望校合格と秀太君に告白すること! どっちも頑張るぞーっ!』

 やけにビックリマークが多用された元気な文章だった。これは、お母さんが高校三年生の時だ。
 秀太くんはもちろん、父のことだ。
 めくっていくと、『遠足で同じ班になれた、國本(くにもと)先生ナイス!』『冬課外の時に、クリスマスプレゼントを渡した。喜んでくれて、空を歩けそうな気分だった!』『今日はバレンタイン。ほんとは手作りしたかったけど既製品になっちゃった。でも、すごく喜んでくれた! もう、本当に大好き……!』と言ったような、小っ恥ずかしくなるような内容ばかり書かれている。きっとお母さんにとっても、これはもはや黒歴史の域に達しているだろうな、と思った。
 そして、

『二〇〇二年 三月四日 今日は卒業式だった。ダメもとで卒業式の後、水族館に誘ったらOKしてくれた。地元のちょっぴり古い水族館。平日だったし、ちょっと遅い時間帯だったから、人は少なかった。ペンギンやイルカ、たくさんの魚たちを見た後、クラゲコーナーで告白した。大学は別々だから、もう今しかなかった。そしたらね……「俺も好きだった」って、OKしてくれたんだ。あの時は、本当に今なら死んでもいいとすら思えた。嬉しすぎて今でも信じられない。秀太くん、大好きだよ!!! ㎰.そのあと、階段で告白を聞いていた子連れ家族に祝福されて、すごく恥ずかしかった』

 日記をすべて読んでも、この内容が一二を争うほどの長文だった。相当嬉しかったであろうことが、文面からもわかる。
 二冊目からは、大学生活のことが書かれているが、大概父が関わっていることばかりだ。これはただの日記というより〝恋する乙女の〟という枕詞のついた日記だと思った。
 そして、プロポーズ。結婚式の準備、式本番の内容、そして結婚生活でのこと……といった具合で、日記は進んでいく。
 でも、わたしを妊娠した時のことは、なかなか出てこない。
 そしてとうとう、四冊目の内容は終わってしまった。半分のところで白紙になっていた。
 この続きを見つけたのは、お母さんの死から五年たったあとだった。
 そして、最後の五冊目。

「——っ……!」

 気持ち悪い。深く深呼吸をして、真っ黒く濁ってひび割れているであろう心に酸素を送る。
 でも、これだけじゃ足りない。おぼつかない足取りで部屋を出て、一階まで下りる。今家にいるのはわたしだけだ。
 冷蔵庫の奥で、濡れたキッチンペーパーに巻かれた缶を取り出した。薄っすらと、ハイボールと書かれているのが見える。
 わたしはためらいなく栓を開け、開け口に口づける。傾ければ、冷たい中身が口内に流れ込み、飲み込めば喉に熱を残しながら身体に染みこんでゆく。
 立派な未成年飲酒だが、今のわたしの心を消毒するには、こうするしかなかった。もういっそのこと、退学になってもいいとすら思えた。
 あの日、五冊目の日記を見つけた日から、わたしの心はひび割れ、黒い何かがしたたり落ちている。その何かがしたたるたび、耐え難い苦痛と絶望が、わたしの胸中に溢れかえるのだ。

「誰か……わたしを——」

 言葉の続きを遮るために、わたしは自ら酒を仰いだ。 


 高松駅を降りて、香川県のローカル電車、ことでんの高松築港(たかまつちっこう)駅に向かって歩く。
 今日のバイト先は少し遠いうえ乗り換えもあったが、何度も利用しているためスムーズに移動することができた。
 わたしは家事代行のバイトをしており、今日は隣の市まで行っていた。なるべく父と顔を合わせたくないので、少し遠いところの依頼まで、受けられる仕事はすべて受けることが多い。
 わたしは周りの迷惑にならない程度に鼻歌を歌いながら、人の波に従って歩く。むかしからよく歌っていた歌で、一時は歌い手がこぞって動画を出していた曲だった。
 時間帯も相まって、少し大きな声でもあまり目立たないのが、この時間の利点でもあった。
 もうすぐ横断歩道に差し掛かるといった時、

「あ、あの……!」

 ひとつの声が、耳朶(じだ)を打った。
 また、あのむせかえるような甘い匂いがした。

 ♢

 幽霊には、大きく分けてふたつの種類がいる。
 ひとつ目は、単純にこの世を漂っているだけの幽霊。普通、人は死んだら約一か月半この世を漂った後であの世に行く。
 これが仏教で言うところの四十九日の法要の由来でもある。
 ふたつ目は、なんらかの理由で成仏できずにいる幽霊。理由は様々で、この世に強い未練があったり、単純に死んでいることに気づけなかったりと千差万別だ。もちろん、このふたつのどちらかを満たしていても、成仏することはあるので、結局のところ、理由は分からない。
 ちなみにあの甘い匂いがする幽霊は後者のみだ。そうでなければ、わたしの鼻はとっくのむかしに曲がっていただろうと、冗談抜きに思っている。
 ちなみのこの匂いについてだが、霊感がある人すべてが感じるわけではないらしく、わたしのように極端に霊感が強い人のみ感じるらしい。
 わたしはこの匂いを頼りに、成仏できない幽霊を探すわけだ。


 ところで、だ。
 先ほどからわたしの後をつけてくる幽霊の青年は、いったいどういう目的があるのだろうか。
 声をかけられたとき、わたしはとりあえずその青年を無視した。当然だ。あんな雑踏の中で誰もいない空間に向かって話し続けていたら、不審者認定されるのは必至だ。
 それに、わざわざ声をかけてきて、ついてこないような幽霊に、わたしのお願いを聞いてはもらえないだろうから。一応選別の意味もあった。
 そうしたら案の定、わたしについて来るように電車に乗り込んできた。シートの陰にしゃがみ込んで隠れているようだが、あの匂いでバレバレだ。ただでさえ密閉空間である電車の中に幽霊がいるのだから、甘い匂いで頭が痛くなった。慣れてはいるが、それでもキツいことには変わりがない。
 ハンカチとカバンで鼻を塞ぎつつ、なんとか最寄り駅までたどり着いた時にはフラフラになっていた。近くにいたおばちゃんが声をかけてきたが、あの甘い匂いと香水の匂いと混じって嘔吐しそうになった。
 わたしはおぼつかない足取りで、駅を出てすぐの路地裏に入り込む。青年もついて来る。ほどよきところで立ち止まり、振り返る。

「え、あ……どうも」

 青年は言う。あくまで偶然を装う気なのだろうが、無駄なことだ。

「気づいてましたよ、匂いでバレバレです」

 年が分からないので、とりあえず敬語で話しかけた。

「に、匂い!?」

 青年は慌てた様子で袖を嗅ぎ始めた。なんだか、可愛らしく感じた。顔立ちが整った美青年であるので、なおさらだ。
 その様子を少しだけ観察した後、
「幽霊の匂いなので、気にしないでください。あなたみたいな幽霊からはみんな同じ匂いがします」
 と説明した。
 青年は拍子抜けしたような顔をして、頬を紅潮させた。幽霊、とは言ったものの、顔色は生前同様に変化する。

「そ、そうですか……安心しました」青年は深く息を吐いて言った。「その……あなたのような見える人に出会ったのが初めてなので、知らなかったんです」

 幽霊本人も、あの匂いのことは知らないらしい。

「あれは極端に霊感が強い人しか感じないものなので、そんなに気にするほどのものでもないですよ」

「ですが、あなたは気になってしまうんですよね? 先ほどまで顔色が悪かったようですし……」

「密閉空間だったから気になっただけですよ。ここなら大丈夫です」

 本当は少し強すぎるが、暗闇に目が慣れるように、段々と慣れてくるものなので、余計なことは言わないようにした。

「……それで、わたしに何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「え」

 青年は目をしばたたかせる。

「ずっとわたしについて来たんですから、何かあるんでしょう?」

「……その」そう言ったきり、青年はむっつりと黙り込んでしまう。わたしが気分を悪くしたのを見て、頼みにくくなってしまったのかもしれない。だとしたら申し訳ない。
「とりあえず、話してみてください。話しはそれからですよ」と念を押すと、青年は覚悟を決めたのか、やっと口を開いた。

「その、話したいことはいろいろありますが……俺の遺品が——あ、俺は事故で亡くなったんですが、とにかく、その遺品を妹に届けてほしいんです」

「遺品?」

 それが未練となって、死にきれないのだろうか。

「はい、ミント色のラッピングがされているんですけど……妹に渡すために持っていたのですが、渡す前に死んでしまって」

「今どこにあるんですか?」

 遺品、ということは、本来なら遺族の手元にあるはずだ。それか、警察の手元か。あるいは——

「俺が死んだ場所、事故現場です」

 やはり、そう来たか。正直、一番面倒なパターンだと思う。警察の手元もなかなか厄介だとは思うが、事故現場に落ちているのも同じぐらい厄介だ。
 警察がどれほど真剣に探したのか分からないが、それでも見つからないとなると、探すのは困難を極めるだろう。

「あの……やはり難しいでしょうか?」

 黙ったままのわたしを見て罪悪感でも沸いたのか、青年は言った。

 ——そういえば。

「あの、えっと……名前は」

「あ、見上海斗(みかみかいと)です。海斗でいいです」

 海斗、なるほど彼によく似合う名前だ。海斗さんに合わせて、「星野美歌(ほしのみか)です。わたしも美歌って呼んでください」と自己紹介をしておいた。
「美歌さん、ですね、わかりました」と海斗さんもうなずいた。

「で、海斗さんは、その遺品の場所は分かるんですか?」

 まずはそこだ。それによって大きく変わる。

「はい、だいたいの位置は分かっています」海斗は言った。「でも、俺は見てのとおり幽霊なので、知らせることも、拾うこともできなくて……そんな中で、あなたを見つけたんです」

 申し訳なさそうに言うが、これは都合がいいのではないか。位置が分かっているなら、探す手間は省ける。
 まあ、その落ちているところにたどり着けるのか、という問題はあるが。

「そういうことなら、引き受けますよ」

 と私が答えると、海斗さんは表情を明るくして、「ほ、本当ですか!?」と聞き返してきた。

「はい、でも……」

 わたしはしばらく黙り込む。海斗さんはきょとんとしてこちらの表情を見ている。

「その代わりに、わたしもお願いがあるんです」

「お願い、ですか……?」

 海斗さんの揺れる瞳をしっかりと見据えて、にっこりと微笑む。自分でも驚くほど自然な笑顔ができたと思う。

「わたしを……殺して」