幽鬼を惑わすローレライ

「あ、あの……!」

 人の行き交う雑踏、ひとつの声が耳朶(じだ)を打つ。
 それとほぼ同時に、むせかえるような甘い匂いが全身をめぐり、わたしの中で飽和する。
 帰宅ラッシュを迎えた今、多くの人々が駅に向かって歩いている。無論わたしも、そのひとりだった。東京に比べればずっと密度は低いものの、幼い頃からこの小さな県で暮らしていたわたしにとっては、目がまわるほど人が多い。まあ、それにも今となっては慣れてしまったが。
 ありとあらゆる雑音の中で、その声はわたしの鼓膜をしっかりと刺激した。
 わたしは立ち止まり、おもむろに振り返る。こちらに向かってくる人の波の中に、ひとりの青年が、わたし同様立ち尽くしている。わたしと同世代だろうか。切れ長の凛々しい瞳は、驚いたように揺れている。動揺しているようにも見える。もう三月も半ばに入っているというのに、ベージュのアウターにジーンズをはいており、どこか異様な服装だった。
 不意に、青年の脇をひとりの男性が通り過ぎる。肩が触れる。しかし、男性は謝罪ひとつ言うことなくさっさと歩いて行った。当たり前だ。だって、あの人は、気づいていない——否、気づけないのだから。
 またひとり、青年の横を通る。肩が触れる。
 その瞬間、青年の肩が霧のように透け、霧散するように形を失う。そしてすぐに、元の形を取り戻す。
 そして、あたりに漂うむせかえるような甘い匂い。

 ——間違いない。

「……」

 わたしは何も言わず、青年の双眸を見つめ続ける。
 客観的に見れば、女子高生が雑踏の中に立ち尽くし、虚空を見つめ続ける、という異様な状況であろうことは分かっている。
 でも、わたしは目を背けるわけにはいかないのだ。

「……お、俺のことが……見えてるんですか?」

 自身がなさそうな声だった。これは元来の声音というより、動揺して出た声といった方がよいだろう。

「……。うん」

 わたしは青年の問いを、静かに肯定した。
 なんとなく『DNA』という単語を検索したことがあった。平たく言えば、遺伝情報の物質的な実体らしい。その言葉の通り、わたしたち生物は、この世に生を受けることが決まったその瞬間から、DNAによって形作られている。
 例えば、好き嫌いが多いところが父親に似てるだとか、兄弟姉妹と顔が似てるとか。それらが生物の中にあるDNAによるものだということは、言うまでもないだろう。もちろん、生まれてからの環境も大きく関係してくるが、大体のことはこのDNAによって決められてしまう。
 そして、そのDNAが、人によっては一生自身を縛り付ける呪いになるということを、多くの人は実感しないまま死んでゆくことだろう。

 例年よりも低い気温が続く三月の某日、わたしは現在進行形で、そのDNAという呪いに苦しんでいる。 
これまでと何も変わらない日常。それが、わたしにとっては不快でしかない。
 三月のの浮ついた空気で満たされた箱に押し込まれ、わたしはいつも通りの惰性で授業を受け、放課後はさっさと家に帰る。

星野(ほしの)さん、今日の弁論大会で賞状貰ってたやん! しかも優秀賞!」

 辞書のせいで重たく感じるリュックを背負おうとした時だった。クラスメイトが声をかけてきた。斜向かいの席の西野紗英(にしのさえ)さんだった。さらさらの黒髪に、女子高生らしい、どこかに幼さを残した顔立ちの子だ。わたしは彼女を初めて見たとき、なんとなく日焼け止めとかポカリスエットのCMに出てきそうな雰囲気だな、と思った。

「賞状は本選に出た人ならみんなもらえるし、それに最優秀賞じゃなかったし」

 弁論大会は、この高校の伝統行事のひとつだ。スクールポリシーの中にある、「自らの意見を主体的に表現する」という項目に基づいて行われる行事だと、校長先生が説明していた。
 本選——全校生徒の前で発表をするのは六人。優秀賞はふたり選ばれるので、とくべつすごいというわけではない。

「いやいや、本選に出れるだけでもすごいのに、そのうえ上位二位の成績を残したんだよ? もっと誇った方がいいよ!」

 そういうものだろうか。いまいちピンとこない。もしかしたらわたしは、面倒なタイプの完璧主義者なのかもしれない。

「もー、謙遜しちゃって!」と、自身の机に腰かけ、西野さんは茶目っ気たっぷりに言う。彼女は少しあざとすぎる気がする。

「まあ、謙遜するところが優等生っぽいよねえ‥‥‥よっ! 我が校一の優等生!」

 西野さんは、そう言ってわたしを持ち上げた。
 その言葉に、わたしの心がわずかにえぐられる。悟られないように、「そ、そうかもね」と返した。

「じゃあ、うちは部活あるけん、じゃね!」

 流れるようなしぐさで手を振って、離れたところにいた同じ部活の友人と教室を出て行った。
 それを見届けた後、わたしもさっさと教室を出た。鍵を職員室に戻すのが面倒なので、なるべく最後にはなりたくない。
 三階分の階段を降りて、昇降口で靴を履き、外に出た。門をくぐって、校外へと飛び出す——前に、わたしはつと、足を止める。春特有の暖か何おいに混じって、微かに甘い匂いが鼻を掠めた。
 ただ甘いのではなく、砂糖を焦がしたような焦げ臭さも混じった匂いだった。
 この匂いがしたときは、だいたい近くに〝いる〟のだ。辺りを見渡していると、

「あっ」

 三階の渡り廊下に、その姿をとらえた。
 わたしは急いで昇降口に戻って、スリッパに履き替えた。
 あの匂いは、まだ残っている。
 この高校には校舎が三棟あって、各棟を二階と三階の渡り廊下がつないでいる。わたしの教室は四階にあるので、いちいち三階まで降りなければならいのが面倒だった。
 主に二年生が使う棟と三年生の使う棟の三階同士をつなぐ渡り廊下に、目的のものはいた。
 学校指定の学ランに、ズボンの男子生徒が立っていた。物思いにでもふけっているのか、手すりに手をかけたまま、ぼんやりと遠くにそびえる山々を見つめている。わずかになびく学ランの袖からは、青紫色の痣が見える。
 そんな彼からは、体臭では誤魔化しきれないような甘い匂いが漂っており、息をするのも苦しかった。
 間違いない。
 彼は、生きた人ではない。

 ♢

 物心ついたときにはもう、わたしには人ならざる者——幽霊が見えていた。
 おそらく、物心がつく前から、わたしには霊感があったのだと思う。
 今となっては故人の祖母が、「何もないところを指さしていた」「独り言が多くて気味が悪い」とむかしから言っていたからだ。
 まあ、祖母はわたしのことを毛嫌いしていたので、どこからどこまで信用できるのかは怪しいところだった。
 とにもかくにも、わたしにとって幽霊は、最も身近な存在だった。
 生きてる人に言えないことも、幽霊にはなんでも話せたし、個体によっては返事もしてくれた。
 いちいち顔色を疑わなくてはいけない生者なんかよりも、死者の方が気が楽なのは道理だとすら思った。
 特にあの日から、わたしはなおさら幽霊への声かけに躍起になっていた。
 でも、声かけに反応する幽霊、しかも返事をしてくれる個体はかなり限られていて、空振りすることは日常茶飯事だった。
 それでもわたしはめげずに幽霊に声をかけ続けた。
 頼みたいことが、あるのだ。

 ♢

「こんにちは」

 わたしは青年に声をかけた。幸い、周りに人はいない。
 ここでわたしの声に反応するのか否か。まずはそこが分かれ道だ。
 彼がどんな理由でここにいるのか、わたしはとんと知らない。ここの生徒だったことは想像できるが、死因やなぜここにいるのかまでは分からない。
 自殺や事故死からくる地縛霊かもしれない。たまたまここに流れ着いただけの、まったく関係ない人の可能性だってある。
 この場合、前者の方が都合がよい。地縛霊は声かけに反応しやすいからだ。
 声かけからひと拍置いて、青年はこちらを向いた。顔に痣がある。虐められていたのかもしれない。

 ——反応した……!

 わたしは口許が緩むのを抑えられなかった。反応した幽霊を見たのは久しぶりだったからだ。

「……」

 青年はわたしの顔を凝視し、目をしぱしぱさせた。寝起きじゃあるまいのに、と思う。

「わたしのこと、わかる?」

 首をかしげて聞いてみる。偶然出ないことを確認するためだ。
 青年は一瞬戸惑ったような、いや今にも泣きだしそうな顔をして、「……——……——」と、わずかに口を開閉させ、何かを発した。でも、上手く聞き取れなかった。
 そして、砂城が崩れるように姿をくらまし、陽光を反射しながら、おもむろにその姿を消した。そしてそのばに、心地よい香りの余韻を残した。
 これが、世間一般で言う成仏だ。

「いや……はあ」

 失敗だったと、わたしは頭を抱えた。きっと彼は、わたしに声をかけてもらえた、見つけてもらえたことに安心して成仏してしまったのだ。
 たったそれだけで成仏してしまう。そして、顔や学ランの袖から覗く痣。きっと、生前は相当辛い思いをしたのだろう。
 だが、残されたわたしの落胆は大きかった。

 ——せっかく見つかったと思ったのに……。

 風船がしぼむよう、とはまさにこのことだった。周りに人がいないのをいいことに、わたしはその場に座り込んだ。これでいったい何人目だろうか。指を折って数えるが、十を超える前に止めた。
 しかし、あのまま放っておいては、あの幽霊が浮かばれない。だからこれでよかったのだ。
 そう、思うほかなかった。
 わたしは昇降口に戻り、今度こそ校内を出た。登校ルートは徒歩五分ほどの駅まで行き、その後電車で十五分ほど揺られ、また十分程度歩くというものだった。帰りは無論、この逆だ。
 駅まで歩いていると、スマホの通知音が鳴る。メッセージだ。父からだった。
『今日の夕食は父さんが作るから、お前はすぐにバイトに行ってもいいぞ』
 わたしは息を吐いて、既読もつけずにスマホをしまった。
 家に帰ると、父が遅めの昼食としてサンドウィッチを食べていた。昨晩作っておいたものだ。わたしは現在、父とふたりで暮らしている。お母さんは五年前に交通事故で亡くなった。
 父はわたしの存在に気づくと、口の中のものを飲み込み、「おかえり、美歌(みか)」と言った。
「うん、ただいま」と返事をし、そのままキッチンで手を洗った。

「早かったな」

「もうすぐ春休みだから、最近は早帰りが多いよ」

「そうか……もうすぐ春休みか」

 父は最後のひと切れを齧りながらつぶやいた。多めに用意していたのだが、ぺろりと平らげられてしまった。

「なあ、美歌。春休み、どこか行きたいところはないか? 連休は取れないから近場にはなるが、せっかくの長期休暇だし……」

 どこか遠慮がちに言った。実際、彼はきっと私に遠慮している、というか、気を遣っているのだろう。

「もう受験生だし、バイトもあるから大丈夫だよ」

 滔々(とうとう)と言うと、父は勢いをそがれたように「そうか、ならいいんだ」と言った。
 受験、バイトと言えば、父もそれ以上は踏み込んでこない。良くも悪くもいい人すぎるのだ、この人は。

「……じゃあ、私はまた仕事に行ってくる。夕食はビーフシチューを作ってあるから、温めて食べなさい」

 たしかに、コンロに鍋があり、中にビーフシチューが見える。

「今日は、帰って来る?」

「いや、今日は難しいかもしれん。だから、お前の顔が見れてよかった。できるだけ早く帰って来るから、戸締りだけ頼むな」

「ううん、わたしのことは気にしなくていいから、お父さんは仕事に集中して」

 そう声をかけ、わたしは二階の自室へ直行した。階段をのぼりながら、大きく息を吐く。
 わたしは、あの人と話すのが苦手だった。
 もちろん、最初からそうだったわけではないし、あの人は正真正銘、わたしと血のつながった家族だ。
 部屋に戻った私は荷物を置き、さっと着替えて家を出た。
 いつもなら軽く何かをつまむが、先ほどの父との会話のせいか、何かを食べる気分ではなかった。


 机の引き出しに隠すようにしまってあったノートを五冊取り出す。A5サイズの大学ノートで、それぞれに『日記』という文字と、西暦日づけが書かれている。
 これは、亡くなったお母さんが生前書いていた日記だった。特別な出来事を、西暦と日づけと共に記していた。まあ、まめな性格ではなかったので、ところどころ飛んでいるだけかもしれないが。この日記の存在を知ったのは、お母さんの遺品整理の時だったので、真相は分からない。
 わたしは一番古いものを選んで、ページをめくる。

『二〇〇一年 四月七日 秀太(しゅうた)くんと同じクラスになった! 文理が違うとはいえ、これからは毎日、教室で大好きな秀太くんに会えるなんて最高! 決めた、今年の目標は、志望校合格と秀太君に告白すること! どっちも頑張るぞーっ!』

 やけにビックリマークが多用された元気な文章だった。これは、お母さんが高校三年生の時だ。
 秀太くんはもちろん、父のことだ。
 めくっていくと、『遠足で同じ班になれた、國本(くにもと)先生ナイス!』『冬課外の時に、クリスマスプレゼントを渡した。喜んでくれて、空を歩けそうな気分だった!』『今日はバレンタイン。ほんとは手作りしたかったけど既製品になっちゃった。でも、すごく喜んでくれた! もう、本当に大好き……!』と言ったような、小っ恥ずかしくなるような内容ばかり書かれている。きっとお母さんにとっても、これはもはや黒歴史の域に達しているだろうな、と思った。
 そして、

『二〇〇二年 三月四日 今日は卒業式だった。ダメもとで卒業式の後、水族館に誘ったらOKしてくれた。地元のちょっぴり古い水族館。平日だったし、ちょっと遅い時間帯だったから、人は少なかった。ペンギンやイルカ、たくさんの魚たちを見た後、クラゲコーナーで告白した。大学は別々だから、もう今しかなかった。そしたらね……「俺も好きだった」って、OKしてくれたんだ。あの時は、本当に今なら死んでもいいとすら思えた。嬉しすぎて今でも信じられない。秀太くん、大好きだよ!!! ㎰.そのあと、階段で告白を聞いていた子連れ家族に祝福されて、すごく恥ずかしかった』

 日記をすべて読んでも、この内容が一二を争うほどの長文だった。相当嬉しかったであろうことが、文面からもわかる。
 二冊目からは、大学生活のことが書かれているが、大概父が関わっていることばかりだ。これはただの日記というより〝恋する乙女の〟という枕詞のついた日記だと思った。
 そして、プロポーズ。結婚式の準備、式本番の内容、そして結婚生活でのこと……といった具合で、日記は進んでいく。
 でも、わたしを妊娠した時のことは、なかなか出てこない。
 そしてとうとう、四冊目の内容は終わってしまった。半分のところで白紙になっていた。
 この続きを見つけたのは、お母さんの死から五年たったあとだった。
 そして、最後の五冊目。

「——っ……!」

 気持ち悪い。深く深呼吸をして、真っ黒く濁ってひび割れているであろう心に酸素を送る。
 でも、これだけじゃ足りない。おぼつかない足取りで部屋を出て、一階まで下りる。今家にいるのはわたしだけだ。
 冷蔵庫の奥で、濡れたキッチンペーパーに巻かれた缶を取り出した。薄っすらと、ハイボールと書かれているのが見える。
 わたしはためらいなく栓を開け、開け口に口づける。傾ければ、冷たい中身が口内に流れ込み、飲み込めば喉に熱を残しながら身体に染みこんでゆく。
 立派な未成年飲酒だが、今のわたしの心を消毒するには、こうするしかなかった。もういっそのこと、退学になってもいいとすら思えた。
 あの日、五冊目の日記を見つけた日から、わたしの心はひび割れ、黒い何かがしたたり落ちている。その何かがしたたるたび、耐え難い苦痛と絶望が、わたしの胸中に溢れかえるのだ。

「誰か……わたしを——」

 言葉の続きを遮るために、わたしは自ら酒を仰いだ。 


 高松駅を降りて、香川県のローカル電車、ことでんの高松築港(たかまつちっこう)駅に向かって歩く。
 今日のバイト先は少し遠いうえ乗り換えもあったが、何度も利用しているためスムーズに移動することができた。
 わたしは家事代行のバイトをしており、今日は隣の市まで行っていた。なるべく父と顔を合わせたくないので、少し遠いところの依頼まで、受けられる仕事はすべて受けることが多い。
 わたしは周りの迷惑にならない程度に鼻歌を歌いながら、人の波に従って歩く。むかしからよく歌っていた歌で、一時は歌い手がこぞって動画を出していた曲だった。
 時間帯も相まって、少し大きな声でもあまり目立たないのが、この時間の利点でもあった。
 もうすぐ横断歩道に差し掛かるといった時、

「あ、あの……!」

 ひとつの声が、耳朶(じだ)を打った。
 また、あのむせかえるような甘い匂いがした。

 ♢

 幽霊には、大きく分けてふたつの種類がいる。
 ひとつ目は、単純にこの世を漂っているだけの幽霊。普通、人は死んだら約一か月半この世を漂った後であの世に行く。
 これが仏教で言うところの四十九日の法要の由来でもある。
 ふたつ目は、なんらかの理由で成仏できずにいる幽霊。理由は様々で、この世に強い未練があったり、単純に死んでいることに気づけなかったりと千差万別だ。もちろん、このふたつのどちらかを満たしていても、成仏することはあるので、結局のところ、理由は分からない。
 ちなみにあの甘い匂いがする幽霊は後者のみだ。そうでなければ、わたしの鼻はとっくのむかしに曲がっていただろうと、冗談抜きに思っている。
 ちなみのこの匂いについてだが、霊感がある人すべてが感じるわけではないらしく、わたしのように極端に霊感が強い人のみ感じるらしい。
 わたしはこの匂いを頼りに、成仏できない幽霊を探すわけだ。


 ところで、だ。
 先ほどからわたしの後をつけてくる幽霊の青年は、いったいどういう目的があるのだろうか。
 声をかけられたとき、わたしはとりあえずその青年を無視した。当然だ。あんな雑踏の中で誰もいない空間に向かって話し続けていたら、不審者認定されるのは必至だ。
 それに、わざわざ声をかけてきて、ついてこないような幽霊に、わたしのお願いを聞いてはもらえないだろうから。一応選別の意味もあった。
 そうしたら案の定、わたしについて来るように電車に乗り込んできた。シートの陰にしゃがみ込んで隠れているようだが、あの匂いでバレバレだ。ただでさえ密閉空間である電車の中に幽霊がいるのだから、甘い匂いで頭が痛くなった。慣れてはいるが、それでもキツいことには変わりがない。
 ハンカチとカバンで鼻を塞ぎつつ、なんとか最寄り駅までたどり着いた時にはフラフラになっていた。近くにいたおばちゃんが声をかけてきたが、あの甘い匂いと香水の匂いと混じって嘔吐しそうになった。
 わたしはおぼつかない足取りで、駅を出てすぐの路地裏に入り込む。青年もついて来る。ほどよきところで立ち止まり、振り返る。

「え、あ……どうも」

 青年は言う。あくまで偶然を装う気なのだろうが、無駄なことだ。

「気づいてましたよ、匂いでバレバレです」

 年が分からないので、とりあえず敬語で話しかけた。

「に、匂い!?」

 青年は慌てた様子で袖を嗅ぎ始めた。なんだか、可愛らしく感じた。顔立ちが整った美青年であるので、なおさらだ。
 その様子を少しだけ観察した後、
「幽霊の匂いなので、気にしないでください。あなたみたいな幽霊からはみんな同じ匂いがします」
 と説明した。
 青年は拍子抜けしたような顔をして、頬を紅潮させた。幽霊、とは言ったものの、顔色は生前同様に変化する。

「そ、そうですか……安心しました」青年は深く息を吐いて言った。「その……あなたのような見える人に出会ったのが初めてなので、知らなかったんです」

 幽霊本人も、あの匂いのことは知らないらしい。

「あれは極端に霊感が強い人しか感じないものなので、そんなに気にするほどのものでもないですよ」

「ですが、あなたは気になってしまうんですよね? 先ほどまで顔色が悪かったようですし……」

「密閉空間だったから気になっただけですよ。ここなら大丈夫です」

 本当は少し強すぎるが、暗闇に目が慣れるように、段々と慣れてくるものなので、余計なことは言わないようにした。

「……それで、わたしに何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「え」

 青年は目をしばたたかせる。

「ずっとわたしについて来たんですから、何かあるんでしょう?」

「……その」そう言ったきり、青年はむっつりと黙り込んでしまう。わたしが気分を悪くしたのを見て、頼みにくくなってしまったのかもしれない。だとしたら申し訳ない。
「とりあえず、話してみてください。話しはそれからですよ」と念を押すと、青年は覚悟を決めたのか、やっと口を開いた。

「その、話したいことはいろいろありますが……俺の遺品が——あ、俺は事故で亡くなったんですが、とにかく、その遺品を妹に届けてほしいんです」

「遺品?」

 それが未練となって、死にきれないのだろうか。

「はい、ミント色のラッピングがされているんですけど……妹に渡すために持っていたのですが、渡す前に死んでしまって」

「今どこにあるんですか?」

 遺品、ということは、本来なら遺族の手元にあるはずだ。それか、警察の手元か。あるいは——

「俺が死んだ場所、事故現場です」

 やはり、そう来たか。正直、一番面倒なパターンだと思う。警察の手元もなかなか厄介だとは思うが、事故現場に落ちているのも同じぐらい厄介だ。
 警察がどれほど真剣に探したのか分からないが、それでも見つからないとなると、探すのは困難を極めるだろう。

「あの……やはり難しいでしょうか?」

 黙ったままのわたしを見て罪悪感でも沸いたのか、青年は言った。

 ——そういえば。

「あの、えっと……名前は」

「あ、見上海斗(みかみかいと)です。海斗でいいです」

 海斗、なるほど彼によく似合う名前だ。海斗さんに合わせて、「星野美歌(ほしのみか)です。わたしも美歌って呼んでください」と自己紹介をしておいた。
「美歌さん、ですね、わかりました」と海斗さんもうなずいた。

「で、海斗さんは、その遺品の場所は分かるんですか?」

 まずはそこだ。それによって大きく変わる。

「はい、だいたいの位置は分かっています」海斗は言った。「でも、俺は見てのとおり幽霊なので、知らせることも、拾うこともできなくて……そんな中で、あなたを見つけたんです」

 申し訳なさそうに言うが、これは都合がいいのではないか。位置が分かっているなら、探す手間は省ける。
 まあ、その落ちているところにたどり着けるのか、という問題はあるが。

「そういうことなら、引き受けますよ」

 と私が答えると、海斗さんは表情を明るくして、「ほ、本当ですか!?」と聞き返してきた。

「はい、でも……」

 わたしはしばらく黙り込む。海斗さんはきょとんとしてこちらの表情を見ている。

「その代わりに、わたしもお願いがあるんです」

「お願い、ですか……?」

 海斗さんの揺れる瞳をしっかりと見据えて、にっこりと微笑む。自分でも驚くほど自然な笑顔ができたと思う。

「わたしを……殺して」 
「美歌さんは、人気者ですね」

 放課後、クラスメイトたちが散りじりになった頃を見計らって、海斗さんが声をかけてきた。
 殺してほしい、と頼んだのが二日前。あの日、いつまでも答えを出さない彼に痺れを切らして、わたしは答えも待たずにその場を立ち去った。内心期待外れだと思った。
 彼とのことは、あれきりで終わりだと思っていた。しかし、予想外に海斗さんはしつこくわたしに付き纏ってきた。幽霊じゃなかったら完全なストーカーだが、彼が見えているのはわたしだけなので、特に大きな問題にはならないのだった。

「別に、そんなことないですよ」

 一応謙遜しておく。

「俺は友達が多くなかったので、クラスメイトの中心にいて、友達も多い美歌さんをすごいと思ってしまいます」

「‥‥‥友達は多ければ多いほど良いってもんじゃないですよ。少ない友達を大切にする方がいいと思いますけどね」

 会話を続けつつ、わたしはリュックを背負って教室を出た。もうすぐこの棟ともお別れだ。そう思うと少し名残惜しい。
 昇降口に着いたところで、わたしは再度、海斗さんに尋ねた。「で、この前の話、どうするつもりですか?」

 海斗さんの表情がわかりやすく強張る。やはり、まだ決めかねているのだろうか。

「……美歌さんは、どうしてそこまでして死にたいと思うんですか?」

 当然の疑問だ。

「いろいろあるんですよ、優等生にだって……生きるのをやめたくなることだってありますよ」

 曖昧に誤魔化すと、海斗さんは憂いを帯びた表情をする。心情が顔に出やすい人なのかもしれないと思った。

「……もし、俺がその話を受けなかったら、美歌さんは自殺、するんですか?」

「わからない」

 考えていないわけではなかった。幽霊にとり殺してほしいというのも、できるだけ綺麗に死にたかったから。血の繋がったあの人に、下手なトラウマを植え付けたくないという、わたしの小さな気遣いのつもりだった。
 だがもう、死ねるのならどうでもいい、そんな気持ちもあった。

「……わかりました」

 長い沈黙の末、海斗さんは意を決したように言った。

「本当?」

「はい。俺が成仏する時、あなたを連れて行きます。その代わりに、妹のことを頼みます」

 深く頭を下げて、わたしに頼み込んだ。ここまでされるとは思っていなかったので、いくらか驚いた。
 海斗さんは、相当妹のことを心配しているのだろうと思った。妹に渡すはずだった遺品ひとつで、ここまでこの世に執着し、頭を下げてくるのだから。

「じゃあ、早速帰って作戦を考えないとですね」

「作戦、ですか?」

「遺品を見つけた後、それを妹さんに渡さないといけませんから。少しでも妹さんと関係を作っておく必要がありますよ」

 見ず知らずの女がいきなり家にやってきて、「これはあなたのお兄さんが残したものです」なんて言っても受け取ってもらえない。通報されるのがオチだろう。

「い、言われてみれば、そうですね」わたしに言われて気づいたのか、少しばつの悪そうな声色で言った。「す、すみません、そこまで頭が回ってなくて」

「いえ、大丈夫ですよ」

 はやる気持ちを抑えられなかったのだろう。無理もない。

「な、なんだか、美歌さんが俺よりも大人っぽく見えますね」

「そういえば、海斗さんっていくつなんですか?」

「えっと、死んだのは十八の時ですね」

 じゃあ、わたしよりもひとつ年上か。同い年だと思っていたので少し驚いた。それを伝えると海斗さんは少し不服そうな顔をしたのだった。
 そういう表情が幼そうに見えるのだけど、とはもちろん言わなかった。 
 

 翌日、海斗さんと共に電車に乗り込んだ。祝日ということもあり、車内はいつもよりも空いていて、久しぶりに座ることができた。電車に乗ることに関して、海斗さんは申し訳なそうに眉尻を下げていたが、数日間彼の近くにいたので、匂いに慣れてきていた。それでも密閉空間では少ししんどかったが、そんなことは言ってられなかった。
 今わたしは海斗さんの家に向かっていた。ことでんで高松築港駅まで向かい、この後高松駅に乗り換えし、端岡(はしおか)駅まで行くことになる。ちなみに海斗さんは一度瓦町駅で乗り換えをする。よくよく考えれば、幽霊が公共交通機関を普通に利用していると考えたら、なかなかシュールである。
 昨晩立てた作戦はこうだ。まず、わたしは見上家の新しいお手伝いさんということで家に入る。
 昨晩、海斗さんは自身の生い立ちを簡単に説明した。海斗さんたち兄妹は、幼い頃に母親のネグレクトが原因で親戚夫婦に引き取られたらしい。しかし、彼らは共働きで家にはほとんど帰ってこないため、家事はふたりで分担していたらしい。なので、お手伝いさんとして入り込める隙があったのだ。しかし、そんなに辛い人生を送ってきながら、最期は若くして亡くなってしまうだなんて、神様は本当に無慈悲だ。
 そして、海斗さんの妹の件と同時進行で、彼に落とした遺品の場所までのルートを探してもらう、これが一連の流れだった。なので彼は今、ことでんで彼が死亡した屋島に向かっている。
 海斗さんがなぜ、屋島で死んだのかなどは()かなかった。事故と言っていたので、おそらく転落死だろうと思うが、無理に聞き出すつもりはない。人には触れられたくない過去のひとつやふたつ、あるものだ。
 端岡駅から降りて、海斗さんに教えられた住所に向かって歩き出す。国道十一号から外れた道をトボトボと歩いていくと、閑静な住宅地に入る。周りにはビニールハウスや背の低い松の木があり、良い意味で田舎っぽい雰囲気があった。
 しばらく歩いて、ようやく目的地に到着する。道路に背を向けるように建つクリーム色の壁に黒い屋根の家、伝えられた情報とも一致している。表札にも、『mikami』と書かれている。

「思ったより遠かったな」

 最寄駅が最寄駅ではないのは田舎あるあるである。わたしにとっては自転車が欲しい距離である。もうすでに疲れたが、とりあえずインターホンを鳴らした。ほどなくして、ひとりの女の子がドアの隙間から顔を出した。
 その容姿を見て、ハッとした。兄妹というだけあって海斗さんとよく似た整った容姿だが、美しさの中に可愛らしさのある、まさにお人形さんのような子だった。なので思わず、

「お人形さんみたい……」

 と口走った。それを聞いた彼女はまんざらでもなさそうな表情をした。どうやら良いように受け取ってもらえたらしい。
 しかし、我に帰ったのか、警戒心むき出しの表情でこちらを見てくる。

「あーええっと……どちら様でしょうか?」

 幼さはあるが、しっかりとした声だった。

「は、はい、今日からこの家のお手伝いさんとしてやってきました。星野と言います」と、打ち合わせ通りに言った。

「お手伝いさん……? あの、聞いてないんですけど」

 予想通りの反応だった。

「えっと……ちょっと待っててくださいね」

 わたしはスマホを取り出し、画面を見せる。わたしが家事代行で人の家に上がる前に見せるプロフィールのようなものだった。彼女は訝しげに画面を見つめる。

「急に決まったことなので、誤解されちゃうかもって言われてるんです。これからもずっと家事炊事をさせるわけにもいかないからって、少しでも負担が減るようにわたしに依頼してきたんです」

 滔々と語るわたしに、彼女はうつむく。もしかしたら、お手伝いさんよりも、叔父さんや叔母さんに構って欲しかったのかもしれない。

「……とりあえず、中に入ってください」

 そう言われ、中に通してもらえた。正直、ホッとすると同時に、よくもまあペラペラと嘘の説明ができたものだと思った。
 自身の出自を知ったあの日から、わたしは自分の壊れたところを隠すように行動するようになった。だから自然と、演技力も身についたのかもしれない。
 わたしは覚悟を決め、見上家に上がり込んだのだった。


 わたしは、普段初回のお客さんにしている説明に、少しだけ嘘を盛り込んで説明した。説明自体は慣れたものだったが、緊張で噛むんじゃないかと気が気ではなかった。
 全て話し終えて肩の力を少し抜くと、書類を見つめていた彼女は、「なるほどなるほど……」とうなずいていた。まあ、本当に理解できているのかは怪しいが。

「つまり、今回はお試し期間で、三月と春休みいっぱいだけの期間限定ってこと?」

「はい、わたし自身も学生で、他にも依頼を受けている状態なので……」

「え、星野さん学生なんですか?」彼女は身を乗り出して聞いてきた。「てっきりもう社会人かと」

 思わず笑みが溢れた。海斗さんにも大人っぽいと言われたが、やはりそう見えるのだろうか。それとも、兄妹だからお互いそう思ったのだろうか。

「こう見えてもまだ高校生ですよ」

「ええ!? 高校生なんですか? わたしのお兄ちゃんと同じじゃ——」

 言いかけて彼女は口をつぐむ。その様子を見るに、海斗さんが死んだ時の傷は、まだまだ癒えていないのかもしれない。
 わたしはあえて何も言わず、彼女の次の言葉を待った。ほどなくして彼女は咳払いをして、

「ええっと……じゃあ、今日から? 明日から? よろしくお願いします」

 ぺこっと頭を下げて言った。海斗さん曰く、彼女はまだ十二歳らしいが、本当にしっかりしている子だと思った。

「はい、わたしもよろしくお願いしますね。改めて、わたしは星野美歌といいます」

「わたしは見上空美(そらみ)っていいます。ええっと、この春に中学生になります。こちらこそよろしくお願いします」

 海斗さんもそうだったが、空美という名前も彼女によく似合っている。「じゃあ、空美ちゃんって呼びますね」

「一応、今日からって言われているので、早速始めたいと思います。今日は何をしましょうか」

「ええっとじゃあ……」空美ちゃんは少し悩んだ末、「今日は家の掃除をお願いしても良いですか? 最近サボりがちだったので」と言った。

「はい! 家中掃除しますね」

「わたしは二階の部屋で宿題してるので、終わったら言ってください」

「わかりました。では、始めますね」

 わたしは荷物を邪魔にならないところに移動させて、早速リビングの掃除を始めるのだった。
 屋島は、瀬戸内海沿いにある台形状の山だ。山頂には水族館や展望台などがあり、瀬戸内海の絶景を拝める、香川の観光スポットのひとつである。
 そして、俺の死に場所でもあった。俺は亡くなる半年前に肺がんが発見されていた。しかも、発見されたときにはすでに深刻な状態で、もって一年程度だと言われた。
 肺がんは高齢者や喫煙者に多いがんというイメージがあるが、俺のような若年層でも罹患することがあるそうだ。
 正直、診断されたときは絶望で頭がいっぱいになった。死ぬのか? 夢も希望もすべて捨てて、幼い妹を遺して? 苦労ばかりの幼少期を乗り越えて、これからは夢を追いかけながら、空美の成長を一番近くで見守っていきたかったのに。もしかしたら中学生姿すら見えないかもしれないだなんて……。
 俺は神様なんていないのだと思い、ひと月ほど家に籠ったりもした。俺たち兄妹を苦しめただけでは飽き足らず、こんな体に産んだ両親さえも恨んだ。
 そこから立ち直れたのは、間違いなく空美のおかげだった。あいつだってつらいはずなのに、それを一切表には出さずに、俺を応援してくれた。
 そんな妹の気持ちに応えたかった。だから治療も必死に頑張ったし、受験勉強も再開した。もしかしたら、宣告された時間よりも、長く生きられるのかもしれないのだ。
 そんな気持ちを持って通院をしていたある日、俺は院内の屋上で、ひとりの女の子を見かけた。長い黒髪をポニーテールにした高校生ぐらいの子で、ノートらしきものを片手に、フェンス越しに景色を眺めていた。セーラー服を着ていたので、おそらくお見舞いに来た子なんだろうと思った。
 その子は、歌っていた。といっても鼻歌だったが、その日は寒い日だったので他に人もおらず、彼女の声はよく響いた。

 ——綺麗な声だな。

 俺はそう思った。それ以外のことが考えられなくなるほど、俺はその声に引き込まれた。一歩一歩、少しずつ彼女に近づいたが、彼女は不意に振り向き、俺の横をすり抜けていった。
 残念に思うと同時に、また聴きたい、会いたいと思った。
 下心のようになってしまうが、ある意味で生きる意味が増えたような気がした。
 だが、神様はどこまでも残酷だった。
 冬休み最後の日、俺と空美は屋島にある水族館を訪れた。空美は小さな頃から水族館が大好きで、とくべつな日は決まって足を運んでいた。
 あまり大きくはない、地元の小さな水族館だったが、空美は誰よりも楽しそうに笑っていて、特にイルカショーは大爆笑していた。あの水族館では、休日は侍に(ふん)したスタッフが寸劇を披露するのだ。
 帰りに俺は、少し早い卒業祝いのつもりで、文房具とハンカチ、そして売店で買ったイルカのキーホルダーをラッピング袋に入れて渡そうと思っていた。二ヶ月後、俺が直接渡せる保証はないのだ。だから早めに渡しておこうと思っていた。まあ、「卒業するまで元気でいてよ!」と怒られるだろうが。
 そして、観光駐車場近くにある柵の側で、トイレに行っている空美を待っていた時だった。その日は冬らしいカラッとした晴れ空で、遠くの景色までくっきりと見えた。その柵に少し身を預け、木々の向こうに見える海と島を眺めていた。
 その時だった。

「……っ?」 

 急に胸のあたりが苦しくなったと思ったら、一気に呼吸が荒くなる。マズい、そう思った時には意識が半分飛んでいて、最後に自身の体の重心が、柵の向こう側に移ってゆくような感覚を覚えて……そこから先は、記憶がない。
 気づいた時には、自身の遺体のそばで、幽霊として呆然と立ち尽くしていた。
 俺はあの日、発作を起こして、柵を乗り越え転落したのだ。本当に、俺はつくづく運が悪い。
 そして警察の調査が入り、俺のことは自殺として処理された。まあ、殺人だったのにそう処理されてしまうよりは幾分マシな結果ではあった。
 だが、空美はきっと、罪悪感に苛まれただろう。
 あの時自分がトイレに行かなければ、そもそも水族館になんていかなければ、と思ったに違いない。
 叶うことなら、真実を伝えたかった。お前は何も悪くない。柵から身を乗り出していた俺が悪かったのだ。そして、警察も見つけられなかった、空美に渡すはずだった卒業祝いも、ちゃんとこの手で渡したかった。
 そんな後悔を抱えながら、二か月ほどさまよっている時に、俺はようやく出会った——否、〝再会〟した。
 俺の姿を瞳に映し、声を拾う彼女に。
 美しい歌を紡ぎ出す、彼女に。

 ♢

 美歌さんの言葉が、未だに頭にこびりついている。彼女が放った、殺してほしいという言葉。そして、あの日、すれ違いざまに聞こえた歌声。
 俺は、自身が死んだ場所に立っている。足元には、例の遺品があるが、触れることはかなわない。もどかしいものだ。
 美歌さんは、あの時病院で聴いた歌声の持ち主に違いなかった。彼女に会ったのはあれきりだったが、妙な確信があった。
 俺にとって、生きる意味のひとつを生み出した彼女が、今は死にたいと願っている。いったい彼女の身に、何があったというのか。皆目見当がつかなかった。
 俺と同じく、何かの病気だろうか。いや、だとしたら誤魔化す必要なんてない。虐められているなら、こんな迂遠なことはせずに、自ら命を絶てばよいはずだ。
 自殺ができない理由があるのか、それともほかに何か目的があるのか。考えるだけ無駄だと分かっていても、考えずにはいられなかった。こんな状態になってもなお、生前の正義感の強さが出てしまう。良くも悪くも正義感が強い、だからよく貧乏くじを引くのだ、と何度言われたことか。

 ——何か、死んだ俺だからこそできることはあるのだろうか。

 そんなことを考えながら、俺は空を見上げた。澄んだ美しい色だった。
「……ここまでしろってわたし言ったかな」

 空美ちゃんは引き気味につぶやいた。まあ、それもそのはずだ。家の掃除をしてほしいと言われたわたしは、一日かけて家中をピカピカに磨き上げた。掃除機や雑巾がけはもちろん、窓の汚れ、洗濯物、水回りの汚れエトセトラをすべてやり切ったのだ。個人的にも納得のいく仕上がりだった。

「やり始めたら止まらなくって……」

 そして今は、キッチンを借りて紅茶を淹れている。ここにクッキーでもあったら最高だが、材料がないので難しそうだ。

「年末の大掃除じゃないんですから、ここまでする必要はなかったけど……とにかく、今日はありがとうございました。気持ちがすっきりしてきました」

 きちんと礼をする姿が、やはり海斗さんに似ている。わたしは完成した紅茶を空美ちゃんに差し出し、彼女の正面に腰を下ろした。

「その気持ち、わかります。掃除した後の部屋って、心がすっきりするような感覚になりますよね」

 自分が掃除する側ならなおさらだ。空美ちゃんも、うんうんとうなずき肯定してくれた。

「まあ、家事の中では一二を争うめんどくささはありますけどね」

「でも、結局一番面倒なのは料理じゃない?」

「それ、わかります! 毎日毎日メニュー考えて作らなきゃいけないのって大変ですよね、そのうえ栄養まで考えなきゃいけないなんて……!」

 そこからしばらく、家事談議に花が咲いた。話の内容から察するに、どうやらほとんどの家事は空美ちゃんの役目だったらしい。海斗さんの役目は、洗濯物と洗い物だったらしい。なぜかは分からないが、高校生で、勉強が忙しかったからかもしれない。
 その話の中で、空美ちゃんが海斗さんの話題を持ち出すことはなかった。それとなく聞いてみたりもしたが、見事にはぐらかされてしまった。
 海斗さんがいつ、どうやって亡くなったのかは分からないが、もしかしたら、亡くなってからそんなに経っていないのかもしれない。少なくともひと月半以上は経っているだろうが、それ以上は分からない。
 そんな話をしていると、ふとまた、あのにおいが鼻を掠める。ほどなくして、海斗さんがリビングまで入ってきた。無論、空美ちゃんには見えていない。

「……こんなに綺麗だったか?」

 開口一番、出た言葉はそれなのか、という突っ込みはするべきだろうか。普通もっと、懐かしいとか言うべきだろうに、と思う。
 わたしが視線を向けていることに気づいたのか、海斗さんは軽い会釈をして、

「その、戻りました」

 と言った。わたしも軽い会釈をした。
 その間も空美ちゃんのマシンガントークは続き、しまいには学校の話に変わっていたが、彼女の気持ちが軽くなるならと、わたしはその話を聞き続けた。時折、海斗さんがばつの悪そうな顔をしていたのは、ここだけの話だ。
 それから一時間ほど話し込んだ後、わたしは次回の日時を伝えて見上家を後にした。
 駅への道中、周りに誰もいないことを確認して、海斗さんに声をかける。

「どうでしたか? ルートは見つかりそうですか?」

「まだ少し考えている途中です。まあ、無理ではないでしょうが、できるだけ、簡単に行ける道を探します」

「はい、よろしくお願いします」

 そこでいったん会話が途切れ、お互い無言で歩く。不意に、「空美はどんな様子でしたか?」と海斗さんは問うてきた。

「思ってたよりも可愛らしくてびっくりしました。海斗さんにそっくりでしたし」

 言われ慣れているのか、海斗さんは微妙な反応を見せた。

「……やっぱり、海斗さんのことは何も言いませんでしたね。一瞬だけお兄ちゃんって呼んだんですけど、すぐにごまかされちゃって」

「……」

「でも、マシンガントークができる元気はありそうで安心しました。本当に心が弱っている時に、そんなことなんてできませんから」

「そう、ですよね。それだけは少し安心しました。あの様子だと、空美は美歌さんのことを気に入っているようだったので、すぐにでも心を開いてくれますよ」

 本当だろうか、とも思うが、空美ちゃんを一番よく知っている海斗さんが言うのだから、信じてもいいだろう。
「ありがとうございます、これからも頑張りますね」と言って、満面の笑みを作ってみた。
 ふと、海斗さんが複雑そうな表情を浮かべていることに気づく。わたしは足を止め、彼の双眸を見据える。

「どうかしましたか?」

「え、あ……」

 海斗さんは一瞬動揺するそぶりを見せたが、すぐに、

「なんでもありません。ほら、もうすぐ駅に着きますよ」

 と言うだけだった。
 初めて見上家を訪れてから早半月、春休みに入ったわたしは、朝から夕方まで空美ちゃんと家事を通して言葉を交わしていった。それだけではなく、何回か彼女と遊びに出かけたこともあった。
 初めて見たときよりも素直になった彼女の様子を見ていると、心を開いてくれているんだと思って嬉しくなった。
 ちなみに、初日のあの掃除以来、空美ちゃんが稀にわたしを師匠と呼んでいるのを、海斗さんは複雑そうな表情で見ている。どうやら尊敬されてしまったらしい。わたしもお母さんが亡くなってからは家事全般を行っていたので、これに関しては完全に慣れなのだが。空美ちゃん曰く、わたしには家事の才能があるらしい。

「空美、完全に美歌さんに懐いてますね」

 ベランダの壁にもたれながら、海斗さんはつぶやいた。「単純すぎて少し心配になるんですが……」と続けて言った。

「まあまあ、いいことじゃないですか」と洗濯物を取り込みながら答えた。この時期は取り込む前に花粉を落とさなければならないから、少し面倒だ。

「俺が死んでから、まだ二か月ちょっとしか経ってないんです。だから最初、もっとふさぎ込んでると思ってました。もしかしたら、玄関を開けることすらしないんじゃないかって……」

「……」やはり、死んでからはそんなに時は経っていないのか。でもそのわりには、空美ちゃんには元気がある気がする。

「ですが、ああやって笑ってくれていて、すごく安心しています。それは、美歌さんのおかげでもあると思うんです」

「ええ、そんな……」

 確かに、空美ちゃんが少しでも元気になるようにと思っているが、今の彼女のことを、わたしのおかげというのは、少し言い過ぎではなかろうか。

「謙遜しないでください」と、海斗さんは言う。「あなたの優しさが、空美に届いたんですよ。少なくとも、俺はそう思います」

 どこまでも純粋そうな言葉に、わたしの胸中は乱れる。自分にそんなことを言ってもらえるような資格はないと思ってしまう。
 この世に生れ落ちることが分かった瞬間から、お母さんを苦しめ続けたわたしに、そんな言葉は似合わないのだと。
 だからこそ、この〝優等生〟としての生き方が今は苦痛なのだ。
 それなのに、

 ——海斗さんのその言葉に、泣きたくなるほど嬉しくなってもいるのだ。

 彼は風流れる方向をぼんやりと眺めていて、表情を見ることはできない。いったい彼は今、何を思い、何を感じているのか。
 分かるはずもないことなのに、考えずにはいられなかった。


 三月の最後の週、わたしはまた見上家を訪れていた。今回は海斗さんも一緒に来ていた。今彼は自室におり、リビングで空美ちゃんとふたりきりだった。
 仕事が一段落着いたわたしは、空美ちゃんの勉強を見ていた。もはや家庭教師である。

「あー疲れた……」

「一時間集中してたら疲れるよね、いったん休憩しよう」

「はーい」と言いながらペンを置き、ワークを横によけた。わたしもキッチンで紅茶を淹れて、持参したクッキーをお皿に乗せて持って行った。

「わーい! 美歌ちゃんのクッキーだ!」

 前まではさん付けだったが、今ではちゃん付けだった。心を許された証拠だ。だからこそ、今日こそは言わなければならないのだ。

「……ねえ、空美ちゃん」

 クッキーをつまむ空美ちゃんに、意を決して声をかける。

「ん、なあに?」

「空美ちゃん、初めて会った時、ちょっとだけお兄ちゃんの話をしてたよね」

 しん、と耳が痛い沈黙が下りる。怖くて、空美ちゃんの顔が見れなかった。

「それからずっと、そのことが気になってて……それでね、わたし」

「——なんで」

「え」

 そこでやっと、空美ちゃんの顔を見ることができた。今にも泣きだしそうな幼い子供が、そこにいる気がした。

「ずっとずっと、考えないようにしてたのに、どうしてそんなこと言うの?」

 今にも泣きだしそうな声だった。

「お兄ちゃんが自殺しちゃって、わたし、ずっとずっと自分が嫌で……それで考えないように、思い出さないようにしてたのに……! 思い出させないでよ!」

 最後まで言い切るよりも先に、空美ちゃんは滂沱(ぼうだ)した。必死に重しを乗せて、思い出さないようにしていたことが溢れ、爆発したのだと悟った。ふと、あのにおいが強くなる。海斗さんが近くに来ているのだ。

「……ごめんなさい、今日はもういいから、ひとりにさせてください」

 そう言って、空美ちゃんはリビングから出ていく。その際に、海斗さんの体をすり抜けていった。
 途端に静かになったリビング。海斗さんはいまいち状況が呑み込めていないのか、呆然と立ち尽くしていた。
 わたしもまた、呆然とするほかなかった。


 荷物を手に、重たい足取りで駅に向かう。
 カードを改札口に通してホームの椅子に腰かける。幸か不幸か、他に人はいなかった。時刻表を調べると、まだ十五分ほど電車は来ないらしい。
 誰もいないのをいいことに、わたしは椅子の上でだらけた。

「……一応俺がいますよ」

 わたしの心を読まないでもらいたい。本当に読心術がある訳ではないが、いい気分はしなかった。

「……さっきは、何があったんですか?」

 しばらく黙り込む。頭の中で状況を整理するためだ。そして、おもむろに口を開き、先ほどのことをすべて話した。

「……そう、だったんですね」海斗さんは、沈痛ともいえるような表情をした。「まさか、俺のせいでそこまで追い詰めていただなんて……」

「空美ちゃん、お兄ちゃんは自殺したって言ってましたけど、どうなんですか?」

 彼は最初、転落事故だと言っていたが。

「あの日、トイレに行っていた空美を待っていたんです。その時、俺は柵から少し身を乗り出していて……発作を起こして、そのまま転落してしまったんです。ですが、柵が壊れたわけではなかったので、自殺として片づけられたんです」

 警察も案外いい加減である。

 ——そのせいで、空美ちゃんは自分を責めている。

 自分が兄から目を離したせいでああなったのだと。

「でも、今の空美ちゃんの気持ち、わたしには少しわかるんです。大切な人が、自分のせいで死んでしまったっていう絶望」

「え、っと、それは……」

 困惑している。でも、彼も薄々感づいているはずなのだ。わたしが何かを隠していることぐらい。

「……聞いてくれる? わたしも、楽になりたいから。その代わり、海斗さんにも自分のことを、話してほしい」

 だいぶ我儘なことを言ったつもりだったが、海斗さんは覚悟を決めてくれた。表情からもそれがよくわかる。

「もちろんです。美歌さんが話してくれるなら、俺も話します」

 海斗さんは、わたしの隣に腰を下ろした。そしてわたしは語り始める。
 わたしを苦しめる、絶望の話を。