この高校には校舎が三棟あって、各棟を二階と三階の渡り廊下がつないでいる。わたしの教室は四階にあるので、いちいち三階まで降りなければならいのが面倒だった。
主に二年生が使う棟と三年生の使う棟の三階同士をつなぐ渡り廊下に、目的のものはいた。
学校指定の学ランに、ズボンの男子生徒が立っていた。物思いにでもふけっているのか、手すりに手をかけたまま、ぼんやりと遠くにそびえる山々を見つめている。わずかになびく学ランの袖からは、青紫色の痣が見える。
そんな彼からは、体臭では誤魔化しきれないような甘い匂いが漂っており、息をするのも苦しかった。
間違いない。
彼は、生きた人ではない。
♢
物心ついたときにはもう、わたしには人ならざる者——幽霊が見えていた。
おそらく、物心がつく前から、わたしには霊感があったのだと思う。
今となっては故人の祖母が、「何もないところを指さしていた」「独り言が多くて気味が悪い」とむかしから言っていたからだ。
まあ、祖母はわたしのことを毛嫌いしていたので、どこからどこまで信用できるのかは怪しいところだった。
とにもかくにも、わたしにとって幽霊は、最も身近な存在だった。
生きてる人に言えないことも、幽霊にはなんでも話せたし、個体によっては返事もしてくれた。
いちいち顔色を疑わなくてはいけない生者なんかよりも、死者の方が気が楽なのは道理だとすら思った。
特にあの日から、わたしはなおさら幽霊への声かけに躍起になっていた。
でも、声かけに反応する幽霊、しかも返事をしてくれる個体はかなり限られていて、空振りすることは日常茶飯事だった。
それでもわたしはめげずに幽霊に声をかけ続けた。
頼みたいことが、あるのだ。
♢
「こんにちは」
わたしは青年に声をかけた。幸い、周りに人はいない。
ここでわたしの声に反応するのか否か。まずはそこが分かれ道だ。
彼がどんな理由でここにいるのか、わたしはとんと知らない。ここの生徒だったことは想像できるが、死因やなぜここにいるのかまでは分からない。
自殺や事故死からくる地縛霊かもしれない。たまたまここに流れ着いただけの、まったく関係ない人の可能性だってある。
この場合、前者の方が都合がよい。地縛霊は声かけに反応しやすいからだ。
声かけからひと拍置いて、青年はこちらを向いた。顔に痣がある。虐められていたのかもしれない。
——反応した……!
わたしは口許が緩むのを抑えられなかった。反応した幽霊を見たのは久しぶりだったからだ。
「……」
青年はわたしの顔を凝視し、目をしぱしぱさせた。寝起きじゃあるまいのに、と思う。
「わたしのこと、わかる?」
首をかしげて聞いてみる。偶然出ないことを確認するためだ。
青年は一瞬戸惑ったような、いや今にも泣きだしそうな顔をして、「……——……——」と、わずかに口を開閉させ、何かを発した。でも、上手く聞き取れなかった。
そして、砂城が崩れるように姿をくらまし、陽光を反射しながら、おもむろにその姿を消した。そしてそのばに、心地よい香りの余韻を残した。
これが、世間一般で言う成仏だ。
「いや……はあ」
失敗だったと、わたしは頭を抱えた。きっと彼は、わたしに声をかけてもらえた、見つけてもらえたことに安心して成仏してしまったのだ。
たったそれだけで成仏してしまう。そして、顔や学ランの袖から覗く痣。きっと、生前は相当辛い思いをしたのだろう。
だが、残されたわたしの落胆は大きかった。
——せっかく見つかったと思ったのに……。
風船がしぼむよう、とはまさにこのことだった。周りに人がいないのをいいことに、わたしはその場に座り込んだ。これでいったい何人目だろうか。指を折って数えるが、十を超える前に止めた。
しかし、あのまま放っておいては、あの幽霊が浮かばれない。だからこれでよかったのだ。
そう、思うほかなかった。
わたしは昇降口に戻り、今度こそ校内を出た。登校ルートは徒歩五分ほどの駅まで行き、その後電車で十五分ほど揺られ、また十分程度歩くというものだった。帰りは無論、この逆だ。
駅まで歩いていると、スマホの通知音が鳴る。メッセージだ。父からだった。
『今日の夕食は父さんが作るから、お前はすぐにバイトに行ってもいいぞ』
わたしは息を吐いて、既読もつけずにスマホをしまった。
主に二年生が使う棟と三年生の使う棟の三階同士をつなぐ渡り廊下に、目的のものはいた。
学校指定の学ランに、ズボンの男子生徒が立っていた。物思いにでもふけっているのか、手すりに手をかけたまま、ぼんやりと遠くにそびえる山々を見つめている。わずかになびく学ランの袖からは、青紫色の痣が見える。
そんな彼からは、体臭では誤魔化しきれないような甘い匂いが漂っており、息をするのも苦しかった。
間違いない。
彼は、生きた人ではない。
♢
物心ついたときにはもう、わたしには人ならざる者——幽霊が見えていた。
おそらく、物心がつく前から、わたしには霊感があったのだと思う。
今となっては故人の祖母が、「何もないところを指さしていた」「独り言が多くて気味が悪い」とむかしから言っていたからだ。
まあ、祖母はわたしのことを毛嫌いしていたので、どこからどこまで信用できるのかは怪しいところだった。
とにもかくにも、わたしにとって幽霊は、最も身近な存在だった。
生きてる人に言えないことも、幽霊にはなんでも話せたし、個体によっては返事もしてくれた。
いちいち顔色を疑わなくてはいけない生者なんかよりも、死者の方が気が楽なのは道理だとすら思った。
特にあの日から、わたしはなおさら幽霊への声かけに躍起になっていた。
でも、声かけに反応する幽霊、しかも返事をしてくれる個体はかなり限られていて、空振りすることは日常茶飯事だった。
それでもわたしはめげずに幽霊に声をかけ続けた。
頼みたいことが、あるのだ。
♢
「こんにちは」
わたしは青年に声をかけた。幸い、周りに人はいない。
ここでわたしの声に反応するのか否か。まずはそこが分かれ道だ。
彼がどんな理由でここにいるのか、わたしはとんと知らない。ここの生徒だったことは想像できるが、死因やなぜここにいるのかまでは分からない。
自殺や事故死からくる地縛霊かもしれない。たまたまここに流れ着いただけの、まったく関係ない人の可能性だってある。
この場合、前者の方が都合がよい。地縛霊は声かけに反応しやすいからだ。
声かけからひと拍置いて、青年はこちらを向いた。顔に痣がある。虐められていたのかもしれない。
——反応した……!
わたしは口許が緩むのを抑えられなかった。反応した幽霊を見たのは久しぶりだったからだ。
「……」
青年はわたしの顔を凝視し、目をしぱしぱさせた。寝起きじゃあるまいのに、と思う。
「わたしのこと、わかる?」
首をかしげて聞いてみる。偶然出ないことを確認するためだ。
青年は一瞬戸惑ったような、いや今にも泣きだしそうな顔をして、「……——……——」と、わずかに口を開閉させ、何かを発した。でも、上手く聞き取れなかった。
そして、砂城が崩れるように姿をくらまし、陽光を反射しながら、おもむろにその姿を消した。そしてそのばに、心地よい香りの余韻を残した。
これが、世間一般で言う成仏だ。
「いや……はあ」
失敗だったと、わたしは頭を抱えた。きっと彼は、わたしに声をかけてもらえた、見つけてもらえたことに安心して成仏してしまったのだ。
たったそれだけで成仏してしまう。そして、顔や学ランの袖から覗く痣。きっと、生前は相当辛い思いをしたのだろう。
だが、残されたわたしの落胆は大きかった。
——せっかく見つかったと思ったのに……。
風船がしぼむよう、とはまさにこのことだった。周りに人がいないのをいいことに、わたしはその場に座り込んだ。これでいったい何人目だろうか。指を折って数えるが、十を超える前に止めた。
しかし、あのまま放っておいては、あの幽霊が浮かばれない。だからこれでよかったのだ。
そう、思うほかなかった。
わたしは昇降口に戻り、今度こそ校内を出た。登校ルートは徒歩五分ほどの駅まで行き、その後電車で十五分ほど揺られ、また十分程度歩くというものだった。帰りは無論、この逆だ。
駅まで歩いていると、スマホの通知音が鳴る。メッセージだ。父からだった。
『今日の夕食は父さんが作るから、お前はすぐにバイトに行ってもいいぞ』
わたしは息を吐いて、既読もつけずにスマホをしまった。



