「あ、あの……!」

 人の行き交う雑踏、ひとつの声が耳朶(じだ)を打つ。
 それとほぼ同時に、むせかえるような甘い匂いが全身をめぐり、わたしの中で飽和する。
 帰宅ラッシュを迎えた今、多くの人々が駅に向かって歩いている。無論わたしも、そのひとりだった。東京に比べればずっと密度は低いものの、幼い頃からこの小さな県で暮らしていたわたしにとっては、目がまわるほど人が多い。まあ、それにも今となっては慣れてしまったが。
 ありとあらゆる雑音の中で、その声はわたしの鼓膜をしっかりと刺激した。
 わたしは立ち止まり、おもむろに振り返る。こちらに向かってくる人の波の中に、ひとりの青年が、わたし同様立ち尽くしている。わたしと同世代だろうか。切れ長の凛々しい瞳は、驚いたように揺れている。動揺しているようにも見える。もう三月も半ばに入っているというのに、ベージュのアウターにジーンズをはいており、どこか異様な服装だった。
 不意に、青年の脇をひとりの男性が通り過ぎる。肩が触れる。しかし、男性は謝罪ひとつ言うことなくさっさと歩いて行った。当たり前だ。だって、あの人は、気づいていない——否、気づけないのだから。
 またひとり、青年の横を通る。肩が触れる。
 その瞬間、青年の肩が霧のように透け、霧散するように形を失う。そしてすぐに、元の形を取り戻す。
 そして、あたりに漂うむせかえるような甘い匂い。

 ——間違いない。

「……」

 わたしは何も言わず、青年の双眸を見つめ続ける。
 客観的に見れば、女子高生が雑踏の中に立ち尽くし、虚空を見つめ続ける、という異様な状況であろうことは分かっている。
 でも、わたしは目を背けるわけにはいかないのだ。

「……お、俺のことが……見えてるんですか?」

 自身がなさそうな声だった。これは元来の声音というより、動揺して出た声といった方がよいだろう。

「……。うん」

 わたしは青年の問いを、静かに肯定した。