目が覚めて、僕はまた琥珀先輩の家にいることに気付いた。
 だけど、どうしてここにいるのかが思い出せない。
 女の人に迫られて、動揺して、間違ってお酒を飲んだところまでは覚えてるんだけど……

「おはよう、チアキくん」

 僕が起きたのとほぼ同じくらいに、先輩が目を覚ました。
 やっぱり、先輩はソファで寝ていたらしい。
 寝起きで色っぽさを漂わせる先輩にどきっとしてる場合じゃない。

「あの、僕……また先輩に迷惑を……?」

 恐る恐る尋ねると、せんっぱいは少しだけ驚いた表情を見せた。

「チアキくん、覚えてないの?」

 僕はゆっくりと頷く。
 そんなふうに言われてしまうようなことを、僕はやらかしてしまったのか。
 しばらくはお酒が関わる場を避けたほうがいいのかもしれない。

「チアキくんね、家に帰りたくない、俺の家に行きたいって甘えてきたんだよ。俺、ちょっとドキッとしたんだけどなあ」
「は!?」

 僕が覚えていないのをいいことに、琥珀先輩はにやりと笑いながら言った。
 ……嘘だ。そんなこと、僕がするわけない。ありえない!
 だって僕は、先輩には近寄らないのが最善だってわかってるんだから。
 どうせまた、僕が困っているのを見て楽しもうとしているんだ。
 そうに決まってる!

「……帰ります!」

 先輩にからかわれたのが面白くなくて、僕はベッドを降り、床にあった荷物を取る。

「またね、チアキくん」

 琥珀先輩の楽しそうな笑みに見送られながら、僕は家を出る。

「なんなんだ、あの人! そんなに僕のことからかって面白い? ああ、もう、なにがまたね、だ。二度と関わりたくない!」

 感情のまま独り言ちながら、階段を降りていく。
 アパートを出たのはいいものの、一度通っただけの道は覚えていない。
 帰り道を調べるためにカバンからスマホを取り出した。
 ……なんでこんなに画面が割れてるんだ?

 ――……先輩の家、行っちゃダメですか。

 ふと、僕の声が聞こえてきた。
 え、待って、まさか先輩が言ってたのって、本当だったってこと?
 それで僕は、先輩の家に行ったのか?
 ……なにも、なかったよね?
 いやいや、あるわけがない。相手はあの琥珀先輩。女の子とワンナイトを過ごすような人。
 僕なんか、遊び相手にすらならないんだから。
 ……ちょっと、自分で言ってて悲しくなってきた。
 それにしても、恥ずかしさで死ねる。
 先輩にデートだって遊ばれて、お酒の席で連れ出されて、あんなことを言ったってことでしょ?
 勘違い野郎の完成じゃないか。
 
「うあああ……!」

 僕は小さな奇声を発しながら、座り込む。
 次、どんな顔をして琥珀先輩に会えって言うんだ。
 むしろ会いたくない……会えるわけがない!

   ◇

 空きコマになり、僕は外にあるベンチに腰掛けた。
 ため息を吐きながら、空を仰ぐ。
 青い空を雲が流れていく光景は、平和の象徴。
 だけど、僕の心はあまり穏やかじゃなかった。
 癒されたいのに、癒されない。
 またひとつ、ため息が出る。

「ため息ついたら幸せが逃げちゃうよ?」

 背後から、誰かが耳元で囁いた。
 その声に驚いて、僕は肩をびくつかせる。
 誰かなんて、見なくてもわかった。

「琥珀先輩……」

 僕は右耳を抑えながら、先輩を睨みつける。
 琥珀先輩はケラケラと笑い、僕の隣に座った。
 あの日、琥珀先輩にはもう関わりたくないと思ったはずなのに。
 先輩がこうしてからかいに来るせいで、僕の心の叫びは無念に散っていった。

「チアキくん、ここでなにしてるの?」
「……別に」

 先輩に見つからなければ、ただ青い空に癒されていただけだったけど。

「じゃあ、暇なんだ?」

 先輩がゆっくりと口角をあげるから、嫌な予感が走った。

「暇じゃないです、忙しいです」

 僕は慌てて言った。
 どうしても、また先輩に振り回される未来しか見えない。

「先輩こそ、忙しいんじゃないんですか」

 僕じゃなくて、女の子たちの相手とか。

「んー? 俺は暇だよ? だからさ、チアキくん。俺とデート」
「しませんからね!?」

 先輩が言い切る前に、僕は強く否定した。
 もう、本当に先輩に振り回されるのはごめんなんだ。
 すると、僕が全力で言ったからか、先輩はくすくすと笑う。
 この流れで笑われるのは憎たらしいけど、その笑顔から目が離せなかった。
 本物の笑顔だ。
 琥珀先輩のことを対して知らないのに、なぜかそう思った。

「チアキくん?」

 先輩に名前を呼ばれたことで、僕は先輩の顔を凝視していたことに気付いた。
 「ん?」と不思議そうにしている表情から視線を逸らす。
 そんな優しい顔、できるなんて聞いてない。
 そんなの見せられたら、勘違いするに決まってるだろ。それで一体何人の女子を落としてきたんだか。僕もそのひとりにするつもりか?
 ……なんて、先輩は男の僕を落とすつもりなんて一切なんだろうけど。
 つまり、僕が勝手にあたふたしてるだけ。
 そう考えると、むなしくなってくる。
 やっぱり、これ以上先輩の隣にいるのは危険だ。
 また、新しい出会いを探したほうがいいのかな。
 あのバーじゃなくて、もっと、僕にふさわしい場所で。

「バイト、しようかな……」
「チアキくん、バイトするの?」

 先輩が反応したことで、僕は独りごとを言ったことに気付いた。

「まあ……はい」

 どこでするか、まだ一ミリも考えてないけど。

「じゃあ……バイト先、紹介してあげよっか?」
「いいんですか?」

 いや、よくない。
 先輩が知らない場所を探そうとしているのに、先輩に紹介してもらったら、意味がない。
 でも、自分でバイトを探すのって大変そうだし、いまどき、怖いバイトとかもあるって聞くし。
 僕は、自分にそう言い聞かせることで、衝動的に反応したことを納得させようとした。

「うん。チアキくんだけ、特別」

 特別。
 その言葉が反芻される。
 僕だけ。特別だって。
 ……って、待て待て、勘違いするな、僕!
 先輩の特別なんて、きっと意味がないし、いろんな女子に言ってるに決まってる。だから、絶対に喜ぶな!
 そう言い聞かせるのに、僕の顔は熱くなっていく。

「チアキくん、今日忙しいんだっけ?」

 琥珀先輩はスマホを操作しながら言った。

「えっと……」

 先輩の誘いを断るために言った嘘。
 それをここで覆したら、現金なヤツだって思われたりしないかな。

「さっそく、今日行ってみない?」
「……はい」

 バイト先の紹介となれば、話は別。
 僕はそう思って、先輩の誘いを受けた。
 そんな僕の思考回路がバレバレなのか、琥珀先輩はまだ楽しそうに笑っている。

「……なんでそんな笑ってるんですか」
「だって、楽しいから」

 僕は楽しくない。
 僕が思いっきり顔を顰めたからか、先輩はまた声を殺して笑う。
 ますます面白くないっていうのに……この人、本当に楽しそうだな。

「チアキくんといると、楽でいいや」

 思う存分笑った先輩は、そうこぼした。
 冗談でも気まぐれでもない、本心みたいな言葉。
 僕がそれに戸惑ったら、どうせまた笑うんだ。
 だから僕は、聞かなかったことにした。