……なんでこうなったんだっけ。
 琥珀先輩が連れてきた地味な僕に興味本位で絡んでくる女性陣から目を逸らす。
 視界の端で楽しそうに飲んでいる琥珀先輩をこっそり睨み、僕は視線を落とした。
 さっきまで、僕は琥珀先輩に連れ回されていて。

 ――チアキくん、これから暇?

 ジェラートを食べ終えて、先輩はそう聞いてきた。
 先輩に付き合っていてもろくなことがない。
 身をもって知ったから、僕は断ろうとした。もう帰りたいって、正直に言ってやろうとした。
 でも、先輩は僕の返事を聞くよりも先に、また僕の手を引いた。

 ――いいところに連れてってあげる。

 楽しそうで、いたずらっ子みたいな笑顔。
 なんだか悪いところに連れていかれるような予感がして、僕は抵抗した。
 だけど、僕はひ弱だったらしく、琥珀先輩の力には敵わなかった。

 ――チアキくん、恋がしたいんでしょ?

 先輩はたしかにそう言った。
 信じられなかった。
 なんで、琥珀先輩がそれを知っているのか。
 僕は、先輩はもちろん、誰にもそのことを言っていない。
 それなのに、なぜか先輩はそれを知っていた。
 そうして僕が戸惑っているのを見て、先輩はにやりと笑った。
 どこで知ったのか聞いたけれど、先輩は「ヒミツ」と言うだけで、一切教えてくれなかった。
 そして、あそこで帰れば、僕がいないところで笑い話にされてしまうような気がして、僕はのこのことついてきた、というわけだ。
 あのジェラート屋みたいに、先輩のお気に入りの場所に連れていかれるんだろうと思っていたのもあって。
 だけど、僕が連れてこられたのは、合コン的な場所。
 はやく教えてくれていれば、帰ったのに。
 ここには、僕が望むものは絶対にないから。
 ……まあ、普通は新たな出会いと言えば、男女の出会いを想像するのはわかる。
 だから先輩も、ぼっちの僕に気を使ってここに連れてきてくれたんだろうけど。
 正直、有難迷惑というやつだ。

「チアキくんって、可愛いよね。初心な感じがいいっていうか」

 右隣に座る女性が、妖艶に微笑みながら言った。
 異性にもこんな迫られたことがなくて、僕はただ小さくなることしかできない。
 嫌だと、やめてほしいと言う勇気が、僕にはなかった。

「……ねえ」

 右側から、僕の太ももにそっと手のひらが置かれる。
 ぞわっとした。
 先輩に手を握られたときとは違う、変な緊張感。

「このあと、抜け出さない?」

 彼女は周りの賑やかさにかき消されるような声で囁く。
 ……冗談じゃない。なんで僕なんだ。もっと、応えてくれそうな人、いっぱいいるだろ。
 ああ、どうやって断ろう。どうすれば、角が立たない?
 大混乱の末、僕は飲み物でも飲んで自分を落ち着かせることにした。
 ぐいっと一口、一気に煽る。

「それ、私の」

 彼女の声が聞こえたと同時に、僕はそれを飲み込んだ。
 そして、気付いた。
 あの日知った味だということに。
 慣れない飲み物が喉を通ったせいか、僕は思いっきり咳き込んでしまった。
 一部始終を見ていた彼女に水を渡され、今度こそ落ち着くために水を飲む。

「チアキくん、どうしたの?」

 異変に気付いた琥珀先輩が、いち早く駆けつけてきた。
 僕をここに連れてきた責任でも感じているんだろうか。
 勘違いしてしまいそうになるから、どうか、自分の席で楽しく飲んでいてほしい。
 そう悪態つく自分と、喜んでいる僕がいた。

「間違えて私のお酒飲んじゃったの」
「なんだ、そんなことか」

 先輩の声が、ほんの少し、冷たく感じた。
 まあ、そうか。先輩にはすでに一回、迷惑をかけている。
 今日もまた、迷惑をかけることなんてできない。
 そう、わかってるけど……

「じゃあ美希、チアキくんのこと、よろしくね。チアキくん、めちゃくちゃお酒に弱いから」
「りょーかい」

 そして琥珀先輩は、僕に背を向けた。
 ……待って先輩、行かないで。
 唐突に、これまでに感じたことのないほどの寂しさに襲われ、気付けば僕は、先輩の服を掴んでいた。

「……チアキくん?」

 そのせいで、琥珀先輩は笑いながらも怒った表情で振り向いた。
 離さないと。
 嫌だ、置いて行かないで。独りは嫌だ。
 僕の理性はどんどん薄れていき、寂しさが大きくなっていく。
 僕の手には力が入るばかり。

「琥珀、連れて帰ってあげなよ」
「はあ?」

 僕を誘ってきた彼女が提案すると、琥珀先輩は面倒そうに言った。
 わかってる。先輩は、僕の世話なんかしたくないって。
 でも、それでも僕は、先輩の傍にいたいって思ってしまうんだ。

「……帰るよ、チアキくん」

 僕は先輩に手を引かれ、店を出た。
 最近は夏になるのが早いと言うけれど、夜風はまだ冷たい。
 ときどきこけそうになりながら、琥珀先輩についていく。

「まったく……チアキくん、恋がしたいなら、俺じゃなくて女の子を捕まえなよ」

 琥珀先輩は呆れたように言う。
 あの場で女の子を捕まえたとして、先輩はその子と恋をする気はないくせに。
 ただ、楽しく一夜を過ごすだけだろ。
 僕はそんな関係、いらない。
 お互いに大切に思い合える関係がほしい。
 ……だから、琥珀先輩はダメなんだ。

「あ、もしかして、好みの子がいなかった? それならごめんね」

 僕はなにも言っていないのに、先輩は勝手に話を進めていく。
 まあ、たしかに好みの人はいませんでしたけど。

「……どうして、僕をあそこに連れてったんですか」

 僕が問いかけると、先輩は足を止め、わずかに振り向いた。

「チアキくんが、恋がしたいって言ってたから」

 それはもう聞いた。なんで知ってるのかは教えてくれないんだろうけど。
 結局からかわれただけか。
 そう心の中でため息をつこうとしたとき、先輩の寂しそうな表情が目に入った。
 遠くを見る瞳を寂しそうと言ってもいいのかわからないけど……
 その表情に目を奪われていることだけはわかった。

「俺は、恋なんて面倒なだけだし、したいとも思わないからさ。なんでしたいって言えるのか、気になったんだよね」

 それが本心なのかわからない。
 でも、先輩の胡散臭い笑顔がそこにはないから、少しは本音なのかもしれない。
 それにしても、それで僕をあの空間に飛び込ませたのなら、間違っていると思う。
 あそこには、先輩が見てきた世界しかなくて。ただ先輩の世界に引き入れられただけ。
 僕がしたいと思える恋がないのは、考えるまでもない。

「それで、チアキくんはどんな恋がしたいの?」
「……相手のことを知って、思いやって、大切にしあえる関係を築いていきたいんです」

 いつもの僕なら、バカにされると身構えて、言わないのに。
 さっきのお酒が回って、判断力を鈍らせているのかもしれない。
 僕は馬鹿正直に先輩の質問に答えた。

「大切に……」

 先輩が僕の言葉を繰り返して、ほんの少し恥ずかしくなった。
 なんだそれ、みたいに言わないでよ。
 僕はそれが素敵だなって思っているんだから。

 「……いいね、それ」

 僕が勝手にふてくされていると、先輩はそう続けた。
 ……今、なんて?
 思わず先輩の顔を凝視してしまう。
 先輩は、僕のことをからかっていたんじゃないの?

「じゃあ、あそこにはチアキくんが望むもの、なかったでしょ」

 僕は素直に頷く。
 だって、本当だし。
 恋愛対象が違うこともあったけど、もし見た目が好みの人がいたとしても、きっと価値観が合わない。
 それで僕が思い描く恋なんて、できるわけがないし。
 すると、琥珀先輩の小さな笑い声が聞こえた。

「チアキくん、正直者だね」

 ……そんなに笑えるか?
 琥珀先輩はよくわからない人だ。

「チアキくんに好きになってもらえる人は、きっと幸せ者だろうね」

 今までの笑みとは違う、柔らかくて、優しくて、心惹かれる笑顔。
 ダメだって言い聞かせているのに、僕の胸はうるさくなるばかり。
 じゃあ先輩は、幸せだって思ってくれますか。
 そんなことを思ってしまうくらいには、僕は先輩の罠に嵌ってしまっていた。

「チアキくん、家どこだっけ」
「えっと……」

 答えようにも、自分がどこにいるのか、わかっていなかった。
 スマホで調べればわかるだろうと、ズボンのポケットからスマホを取り出したけど、手が滑って落ちてしまった。

「あーあ、なにしてるの」

 僕がしゃがむより先に、先輩が僕のスマホに手を伸ばした。
 ……期待したくなる。
 このまま家に帰らないで、先輩の家に行けたら。
 ……違う。先輩が望むのは、可愛い女の子。男の僕じゃない。
 でも、僕は、この人がいいって思ってしまってて。
 さっき、僕の価値観をいいねって言ってくれたし。
 先輩はきっと、アイツらとは違うから。

「……先輩の家、行っちゃダメですか」
「え?」

 琥珀先輩の戸惑う声で、僕は自分がなにを言ったのか、理解した。
 やっぱりダメだった。わかってたけど。
 調子に乗ってしまった。先輩には不釣り合いのくせに。
 言わなきゃよかった。

「……ダメだよ、チアキくん」

 先輩はそう言いながら、僕の手のひらにスマホをそっと置いた。
 画面がしっかりと割れているけど、今はそんなことどうでもよかった。
 僕は今、先輩に断られた。
 やんわりと断るとかじゃなくて、はっきりと。
 たったそれだけのことで胸が痛むくらいには、僕は先輩に惹かれていたらしい。

「チアキくんは、俺みたいなのに引っかかったらダメ」

 僕だってそう思ってた。
 恋をするなら、先輩はダメだって。
 でも、やっぱり手遅れだったんだ。
 僕はダメだって思っていても、もう、心が琥珀先輩がいいって言ってる。
 そう簡単には引き下がれないくらいに。
 だけど、ここで駄々をこねても、先輩を困らせるだけ。
 先輩は、僕に好かれても幸せにはなれない人だったんだ。
 だから、笑え。

「帰るのが面倒で泊めてもらおうと思ったんですけど、やっぱりダメですよね」

 先輩と後輩の線は超えていない。
 そう思ってもらえるように。
 僕は、笑顔を歪ませながら言った。

「今日も邪魔してしまって、すみませんでした」

 もう、怖くて先輩の顔が見れない。
 せめて、困った後輩だって笑い飛ばしてくれればいいのに、先輩はそんなことしなかった。

「……じゃあ」

 また、とは言えなかった。
 もう一度会えば、僕は後輩ではいられないから。
 今日が最後。
 僕が先輩に背を向けて歩みを進めようとしたとき、先輩に腕を掴まれ、引き留められた。

「先輩……?」
「そんな状態で、ひとりで帰らせれないから」

 先輩はまた、僕の手を引いて歩き始める。
 期待してしまうようなこと、しないでほしい。
 そう思っていながら、先輩に優しくされて喜んでいる僕がいた。