ガラス玉と琥珀糖

 初対面の人の家で目覚めたあの日から、二日が経った。
 あの一夜は僕にとって非日常で、刺激が強すぎたせいか、僕はあれから今まで以上に普通の日々を送っていた。
 大学に行っても、とくに誰とも話さず家に帰る、そんなつまらない日常。
 琥珀さんと会ったのは夢だったんじゃないか。
 そう思うくらいに平凡な時間を過ごしていた。
 今日もまた、一言も発さずに帰るのかな、なんてむなしく思って講義室を出た、そのとき。

「チアキくん?」

 ふと、どこからか名前を呼ばれた。
 僕の下の名前を呼ぶ人なんて、ここにはいない。
 だから、無視を決め込もうと思ったけれど、やけにその声に聴き覚えがあって、僕は足を止めた。
 視線を動かし、僕を呼んだかもしれない人を探してみる。
 女子の集団に囲まれた、少し派手なイケメン。
 ……嘘でしょ?

「あれ? もしかして忘れた?」

 琥珀さんはなんだか寂しそうに言った。
 いや、なんでここに?

「琥珀、知り合い?」

 僕が固まっていると、琥珀さんを囲んでいる女子の一人が、琥珀さんを見上げ、甘い声で尋ねた。
 ……なるほど、琥珀さんはこういう女子と一夜をともにしたかったのか。
 あの日、邪魔をしてしまって申し訳なかったな。
 そしてやっぱり、この人とは関わらないほうがよさそうだ。
 女子からの刺さる視線を受けながら、身の危険を感じた。

「あの夜は忘れられないよね、チアキくん」

 わざとらしく、女子たちを挑発するような言い回し。
 どうしてそんなことを言うんだ。ますます睨まれてしまったじゃないか。

「へえ……」

 女子の低い声なんて、恐ろしさしかない。
 それを聞いた琥珀さんは、ケラケラと笑っている。まるで他人事みたいに。
 なにがそんなに面白いんだ。僕は生きた心地がしないというのに。
 ここで弁明でもすれば、彼女たちは落ち着いてくれるのだろうか。
 酔ってしまったのを、介抱してもらったんだ、と。
 ……いや、この人とそんな状況になっておきながら、なにもなかったなんて、信じてもらえるのか?
 違う、男同士でなにかあったなんて、普通の人は思わない。
 僕の愚かな行動を笑われて終わるだけ。
 だから、正直に説明してもいいのだろうけど、一対多数の構図のせいで、僕の声は上手く出てくれなかった。

「みんな、先に店に向かっててくれる?」

 すると、困り果てた僕に助け舟を出すかのように、琥珀さんが言った。
 女子たちはつまらなさそうな声を出す。

「後から絶対に行くから」

 琥珀さんはそう言って、丁寧にひとりひとりの頭に触れていく。
 ……僕はなにを見せられているんだ。
 そんなことを思ったのもつかの間、彼女たちは満足そうに、手を振って琥珀さんから離れていった。

「チアキくん、後輩だったんだね」

 女子たちの背中がまだ見えながらも、琥珀さんはこちらを向いた。
 後輩……って、琥珀さん、同じ大学なうえに、先輩だったのか。
 それなら、こうして会ってしまうのも納得だ。
 そうか、同じ学科の女子たちが噂していたイケメンの先輩って、琥珀さんのことだったんだ。
 とんでもないプレイボーイで、一度でいいから遊ばれたいって言っていたけれど……
 遊び、ね……やっぱり、関わってもいいことなんてなさそう。

「やっと会えたね」

 それを、改めて感じた。
 この人、歯が浮きそうな言葉を、なんて自然に言うんだ。

「この前、住所調べるために学生証を見て、知ってはいたんだけど……なかなか会えなかったから、だんだんチアキくんが本当に存在してるのか疑い始めてたんだよね」

 勝手に幽霊にされるところだったのか。それなら、存在証明できてよかった。
 まあ、僕も琥珀先輩のことを夢にしようとしていたから、お互い様か。

「この前は帰れた?」
「……ネットがあるので」

 勢いよく琥珀先輩の家を飛び出したあの日。
 僕は、自分がどこにいるのかなんて、まるでわからなかった。
 約一か月前、ここに来た身だ。この辺の土地勘なんて、あるわけがなかった。
 自分の家の住所もまだ覚えていなかったのは、ほんの少し困ったけど。

「現代っ子だなあ」

 先輩はまた楽しそうに笑う。
 ……先輩だって、現代っ子のくせに。
 そう思ったけど、そんな軽口を叩いてもいいのかわからなくて、僕は言葉を飲み込んだ。

「でも、ダメだよ? 未成年なのに、お酒飲んじゃ」
「飲もうと思って飲んだわけじゃ……」

 というか、飲んでない。口に付いたやつを、ちょっと舐めただけ。
 それだけで倒れるとは、僕だって思ってなかった。
 そして、こんなふうに先輩に絡まれるとも。

「チアキくんはなんであんなところにいたの?」
「……先輩には関係ないです」
「冷たいなあ」

 傷付いた、みたいな表情がわざとらしく見える。
 それがわかっていて、言うものか。
 恋を探していました、なんて。
 バカにされるどころか、理解されないのも簡単に予想できる。
 遊びで恋をしている人に、僕の望みなんてわかってもらえないに決まっている。

「ね、チアキくん。デートしよっか」

 それは本当に唐突だった。
 琥珀先輩はにんまりと笑っている。
 今、なんて?
 デートって言った?
 誰が? 誰と?
 まさか、先輩が、僕と?

「……しない!」

 この提案に応えても、絶対いいことがない。
 だって、僕をおもちゃにしようとしているのが丸わかりなんだ。
 それがわかっていて、頷くわけがない。

「まあまあ、そう言わずにさ」

 僕は全力で拒否をしたはずなのに、先輩は僕の手首を掴んで歩き始めた。
 男同士が手を繋いで歩いているもんだから、すっかり注目の的になってしまっている。それに、相手はあの琥珀先輩。特に女子の視線がよく集まる。
 その視線から逃げるように俯き、大人しく手を引かれる。
 抵抗はできる。僕だって男だし。
 でも、できなかった。
 先輩の少し冷たくて骨ばった手が掴んでいる場所から、全身に熱が伝わっていく。
 ダメ。意識するな。僕にとって非日常でも、この人にとっては日常の一部。意識するだけむなしいだけ。だから。
 そうやって自分に命令すればするほど、全神経が手首に集中していく。
 そんな僕の混乱もつゆ知らず、先輩はどんどん歩みを進める。
 先輩の気が済むまで放してもらえなさそうだ。

「……あの、さっきの人たち、いいんですか」

 なにか話すことで、僕の気がまぎれると思い、適当に話題を選んだ。
 後で行く。
 先輩はそう言って、彼女たちを解散させていた。
 それなのに、僕にデートしよう、なんて。
 この人はどういう神経をしているんだろう。
 それが気になったのもあった。

「いいよ。どうせ、そんな俺のこと待ってないし」

 先輩の声が、寂しそうに聞こえた。
 あんなに人気なのに、先輩がひとりぼっちでいるみたいに感じた。
 ……なんて、僕の気のせいだろうけど。

「……先輩は、なんで僕なんかに構うんですか」

 少しでも空気が変わればいいと思い、そう尋ねた。
 すると、先輩は少し振り向いた。
 先輩の切れ長な目が僕を捉える。
 どきっとした僕は、思わず顔を逸らした。

「なんとなく?」

 あまり深く考えていなさそうな答え。
 ……聞くんじゃなかった。

「ね、チアキくん。甘いもの好き?」

 本当に僕のことなんてお構いなしだな。
 これほど自由奔放な先輩が寂しそうなんて、やっぱり気のせいだ。

「別に……」
「この辺においしいジェラート屋があるんだよね」

 琥珀先輩は少しだけ強く、手を引いた。
 そうだ、まだ握られたままだった。
 思い出した途端、また体温が上がった気がした。

「あの……手、離してくれませんか」

 僕が困ったように言ったのが面白かったのか、先輩はにんまりと口角を上げた。

「ん? ドキドキしちゃう?」

 ……なんだ、この人。
 するよ。するからやめてほしいんだよ。
 ああ、もう。僕なんかで遊ばずに、女子たちと仲良くしていればいいのに。それじゃ足りないって言うのか。
 先輩ということを忘れて言わせてもらおう。
 ……クズ。

「なんてね。ごめんごめん」

 先輩はぱっと手を離した。
 僕の心の声が聞こえてしまったのかと錯覚してしまうほどの、タイミングの良さ。
 ……僕、口に出したりしてないよな?
 勝手に不安になったけど、先輩がなにも言わずに歩き始めたことで、静かに胸をなでおろした。
 それにしても、一歩下がって先輩の背中を追えば、琥珀先輩が本当に人の視線を集める人なんだと思い知らされる。
 すれ違う女子が、ことごとく先輩を盗み見ている。
 だけど、琥珀先輩はまったくもって気にしていない。
 こうして注目が集まることが、まるで当たり前かのような振る舞いだ。
 僕なら逃げてしまいたくなる。なんなら、今すぐ逃げたい。

「チアキくん」

 僕が離れすぎたせいか、琥珀先輩は立ち止まり、僕を待っている。
 そして先輩の隣に立つまで、先輩は動かなかった。
 それから少し歩くと、先輩の言うジェラート屋に着いた。

「チアキくんは何味にする?」
「えっと……」

 目の前に並ぶのは、カラフルなジェラート。
 あまりこういうお店に来たことがないから、迷ってしまう。

「俺のおすすめはティラミス。フルーツ系の味も美味しいって言ってたけど」

 それは、かつて先輩がここに連れて来た女子が、ですか。
 そう思ったけど、なんだか僕が嫉妬しているみたいに聞こえるから、言わない。

「……じゃあ、バニラで」

 琥珀先輩のおすすめを素直に選ぶのもなんだか癪で、無難な味に決めた。
 それがまた先輩のツボにはまったのか、先輩は鼻で笑った。

「チアキくんは素直じゃないね」

 そして先輩はティラミス味とバニラを注文し、僕の分まで料金を支払ってくれた。

「僕、自分で払いますよ」
「いいの。後輩は大人しく奢られとけば」

 僕が財布を出そうとすると、先輩は優しい笑みでそれを制止してきた。
 ……なんだか、先輩が女子にモテる理由が、わかった気がする。
 こんなふうに恋人ムーブを出されたら、惹かれるだろう。
 ……いや、違う。僕は勘違いなんかしてない。決して。
 そして店員からジェラートを受け取ると、店の前にあるひとつのベンチに並んで座った。

「はい、チアキくん」

 僕がバニラ味のジェラートをすくい、口に運ぼうとしたとき、先輩が声をかけて来た。
 隣を見れば、ティラミス味のジェラートがプラスチック製のスプーンに乗せられ、僕のほうに向けてきている。
 これは、どういうことだろう。まさか、食べろと? 人目があるここで?

「ほら、溶けちゃうよ」

 僕の葛藤をわかって、そんなことを言っているのなら、相当性格が悪い。
 いや、琥珀先輩が意地悪いのは、この数十分で理解した。
 これも応えなければ、解放されないんだろうな。
 僕は諦めて、ティラミス味のジェラートを口に含んだ。

「ね、おいしいでしょ?」

 先輩は得意げに言うと、僕に食べさせたスプーンでジェラートを食べた。
 え、は……?
 たしかに美味しいけど。美味しいけどね?
 もう、ジェラートを味わうどころじゃないんだけど。

「……人たらし」

 僕は堪えきれず、そう呟いた。
 しまったと思ったけど、事実だし、撤回する気にはならなかった。

「ヒドいなあ、チアキくん」

 先輩がそう言って笑っているのを聞きながら、僕はバニラ味のジェラートを食べ進めた。
 それは先輩のせいで上がった体温を、ちょっとだけ下げてくれた気がした。