大学生になれば、新しいことばかりだ。すべてが一新されたことに対しての寂しさと期待感。
 新しい生活に慣れてきた夜。今は、期待感のほうが大きい。
 高校生の間は踏み込むことすらできなかった、夜の街。
 これが、大人の世界。
 キラキラしてて、目がくらみそう。ほんの少しでも気を抜けば、どこか知らない世界に迷い込んでしまいそうだと思ってしまう僕は、まだ子供なんだろう。だから、なんだか悪いことをしてる気分。
 そうやっていろいろ目移りする中で、僕は目的の店に辿り着いた。
 ネットで調べて、僕が入っても違和感がなさそうなバー。そして、僕の願いが叶うかもしれない場所。
 でも、まだ二十歳になっていないのに、バーに来るなんていいのかな。
 いや、誤魔化そう、それがいい。このまま店の前でうだうだしてられないし。
 僕はドアノブを握りしめ、ドアを引いた。
 その瞬間、賑やかだった店内が、静まり返る。
 ……やっぱり、場違いだったかな。

「いらっしゃいませ」

 僕が戸惑っていると、おそらく店員の男性が、声をかけてきてくれた。
 緊張が勝り、僕はただ頷いた。

「好きな席にどうぞ」
 
 言われるがまま、僕はカウンター席の端に座る。
 勇気を振り絞ったものの、やっぱり場違い感がある。
 でももう、間違えましたなんて言えないし……

「注文、どうされますか?」

 肩身の狭い思いをしていたら、さっきの男性がカウンター越しに聞いてきた。

「えっと……」
「基本的なお酒なら、なんでも出せますよ」

 僕が迷って視線を動かすと、男の人は優しく声をかけてくれた。

「あの……僕、お酒飲めなくて……」

 申し訳なさの勝利。
 お酒を飲めば、きっと罪悪感に押しつぶされる。だから僕は、間違ってないんだ。

「大丈夫ですよ。うちは琥珀(こはく)……いえ、ある人物の影響でよく大学生が来ましてね。お酒飲めない人がよく来店されるんですよ」

 いたたまれなく思っていると、彼が僕に柔らかく微笑みかけてくれた。少なくとも彼には歓迎されていることにほっとした。
 ところで……琥珀って、誰だろう。周りに影響を与えるなんて、まるで芸能人みたい。そんな人が、ここにいるってこと?

「さて、ノンアルコールですね。どのような飲み物がお好みですか?」

 僕が気になったことを聞くより先に、質問された。
 甘い系とか、少し辛い系とか。聞かれたことに素直に返し、僕の好みを伝えた。

「では、少々お待ちください」

 彼が飲み物の用意を始めると、僕は店内を見渡した。
 大人が集まる場所は、仄暗くて、少しいけないことをしてる気分になると思っていた。
 でも、ここは喫茶店のようにも感じて、ほんのりと居心地がいい。
 そんな中で、ひとつの集団が気になった。僕と同じくらいの年齢の男女が、楽しそうに談笑している。
 あの集団に入ることができたら、世界が変わる気がする。でも、まだあそこに飛び込む勇気はない。
 それにしても、みんなで輪を作っているというより、ひとりの人物を中心に輪ができているみたい。少し遠くて、その人の顔までは見えないけど……

「気になりますか?」
「あ、いえ……」

 彼に言われて、慌てて視線を逸らした。
 そんなふうに言われるくらい、見ていたのかな。少し恥ずかしい。
 若干俯いていると、視界にひとつのグラスが置かれた。
 雲ひとつない青空みたいに、澄んだ青色のドリンクが、そのグラスに注がれていく。
 青色のドリンクなんて、初めて見た。
 すっかり僕は、そのドリンクに釘付けになってしまった。

「ごゆっくりどうぞ」

 再び優しい笑みを向けられ、僕はそれに応えるように、グラスに手を伸ばした。
 好奇心に惹かれるまま、青色のドリンクを喉に通す。
 甘いような、ほんの少し苦いような。まったく知らない味だ。でも、美味しくていくらでも飲めそう。
 こんな不思議な飲み物が存在していたなんて。
 もっといろいろ飲んでみたい。
 ……いや、違う。僕は、ここのドリンクを堪能しに来たんじゃない。交友関係を広げるために来たんだ。
 でも、誰に、どんなふうに声をかければいいのか、まったくもってわからない。
 これまでにもっと、友達作りに力を入れていたら、違ったんだろうけど……生憎、僕はそれを避けて生きてきた。
 今までそれを後悔してこなかったけど、今日ばかりは、そんな自分を恨む。
 こんな寂しく、美味しいドリンクを飲むつもりじゃなかったんだけどな。

「君、ひとり?」

 青色のドリンクを半分ほど飲んだとき、知らない男の人に声をかけられた。
 グラスを持ったその人は、まさに仕事のできる大人という感じ。
 これほどの大人の男の人を見てしまうと、僕の場違い感が増して、いたたまれない。

「はい……」

 ほんの少し緊張がほぐれたと思っていたけど、一瞬にしてそれが戻ってきた。

「隣、いい?」

 僕が小さく頷くと、彼は僕の隣に座った。
 これほどまでに近い距離に他人が来たのは久しぶりで、まったく彼の顔を見れない。
 でも、こういう場でそれは失礼な気がする。
 ……だとしても、僕は人見知りだし、見れないものは見れない。

「緊張してる?」

 ほんの少し笑い声が混ざっている。
 子供っぽいって思われてるんだろうな。まあ、この人みたいな大人からすれば、僕なんて子供か。
 そんなこと、わかってるけど、ちょっとおもしろくない。

「君、名前は?」

 知らない人に、名乗ってもいいものなのか。
 ……いっか。
 僕は、出会いを求めて、ここに来ているんだから。

「……千瑛(ちあき)です」

 といっても、フルネームで答えるのは怖くなって、下の名前だけを伝えた。

「千瑛君ね」

 彼が僕の名前を口にしたことで、変な緊張感が走った。
 親以外から名前を呼ばれたのなんて、いつ以来だろう。
 彼の大人の余裕も相まって、ますます彼の顔が見れなくなる。

「千瑛君のドリンク、そろそろなくなるね」

 彼はそう言うと、さっき僕のドリンクを用意してくれた店員を呼び、なにかを注文した。

「よかったらどうぞ。俺のおごり」

 すぐに提供された黄金色のドリンクは、僕の前に移動してきた。

「ありがとう、ございます」

 青色のドリンクはまだ残っていたけど、親切を無下にすることはできない。
 そして、僕が新たに渡されたグラスに口をつけた、そのとき。

「ストップ」

 ドリンクが唇に付いたとき、誰かにグラスを引きはがされた。
 驚いて顔を上げると、明るい髪色をした、かっこいい人がそこにいた。
 この人、さっき見ていた集団の真ん中にいた人に似ているような……

「え、と……」
「お前……」

 戸惑う僕に対して、男の人はイラついた声色で彼を睨んだ。

「おっさん、無知な子につけいるなんてタチ悪いことすんなよ」
「なにを」
「これ。超強い酒だろ」

 彼が遮ると、僕の隣に座っていた男の人は、舌打ちをして店を出て行った。
 僕が渡されたのって、お酒だったんだ……
 下唇を舐めると、微かに、不快な味がした。
 これがお酒の味……僕には合わないな。

「危なかったね。悪い人に連れ去られるところだったよ」
「え……」

 連れ去られる。
 恐ろしい言葉に、背筋が凍る。
 僕、もしかしなくても、勇気の出し方を間違えた?
 やっぱり、僕には、まだはやかったのかな……

「よかったね、俺がいて」

 彼は不敵に微笑んだ。
 その笑顔から、目が離せない。
 ……この人がいい。
 僕の心が、そう叫んだ気がした。

「あなたは……」
「俺? 俺は橘琥珀だよ」

 この人が、琥珀さん……
 こうして言葉を交わしたことで、琥珀さんがたくさんの人に囲まれる理由がわかった気がする。
 まず、かっこいいでしょ。そして、ほどよく優しい。
 もっと優しくされたら、どうなるんだろう。
 もっと笑ってみてほしい。
 あの妖艶な笑みを、ずっと見ていたい。
 対面していたら、そんな欲が芽生えてくる。

「君は? 名前、なんていうの?」
八瀬(やせ)千瑛です」

 さっきの男の人に名乗るのは抵抗があったのに、琥珀さんに聞かれて、反射的に答えてしまった。
 そのせいか、琥珀さんはまた小さく口角を上げた。

「チアキくんね」

 琥珀さんはあの男の人と同じような応答をした。
 それなのに、僕の心臓はさっきよりもうるさい。心拍数がこんなに跳ね上がったの、初めてだ。どきどきしすぎて、むしろ痛い。

「また悪い人に捕まる前に帰りな」

 琥珀さんはそう言うと、僕から奪い取ったお酒を手に、さっきのグループに戻って行った。
 ……もっと、話してみたかったな。
 でも、今日はもう帰ろう。琥珀さんに言われたし。
 そうして席を立ったとき、ぐらりと視界が歪んだ。

   ◇

 真っ白な、天井。僕の布団にしては、やわらかすぎる布団。
 ……違う、これはベッドだ。
 身体を起こせば、そこはまったく知らない部屋だった。ベッドがあるのに、ソファもあって。小さな本棚に、観葉植物まである。
 物寂しい僕の部屋と違って、おしゃれ全開な部屋。
 どこだ、ここ。

「お。目、覚めた?」

 声がしたほうを見ると、お風呂上りの琥珀さんがそこにいた。
 まだ髪を乾かしていない琥珀さんは、上半身は服を着ていなくて、髪を雑に拭いている。
 その光景を直視できるわけもなく、僕は顔を逸らす。

「あの、ここは……」
「俺の家。チアキくん、悪い大人が出したお酒ちょっと飲んだみたいなんだけど、覚えてる?」

 ……琥珀さんの、家? このおしゃれ空間が?
 いや、納得ではあるけど。でも、なんで、僕がここにいるのかがわからない。
 お酒を飲んだ記憶もない。
 ……もしかして、ちょっと唇に付いたお酒を舐めた、あれだけで酔ったのか?
 だとしたら、相当かっこ悪いじゃないか。

(まこと)さん……あの店のバーテンね。あの人に、声かけたなら責任持てって言われちゃってさ。でも俺、チアキくんの家知らないし、連れて帰ったんだよね」

 めちゃくちゃ迷惑かけてる……!

「ご、ごめんなさい」
「んー? いいよ、チアキくんのせいじゃないしね」

 ああ、こんなにも優しい人に、僕はなんてことを……
 ソファの上にブランケットがあるってことは、きっと、琥珀さんはソファで寝たんだ。僕が、ベッドを占領してたから。
 僕のせいじゃないとは言ってくれたけど、もう一度謝らないといけないような気がしてくる。

「まあ、女の子をお持ち帰りできなかったのは残念だったけど」
「……え」

 聞き間違い、か?
 爽やかな笑みを浮かべて、今、なんて?

「昨日は結構可愛い子がいたから、狙ってたんだけどね」

 ……聞き間違いなんかじゃない。この人、遊び人だ。

「……あの、本当にすみませんでした」
「あれ? チアキくん?」

 琥珀さんの戸惑う声も気に止めず、ベッドのそばに置かれていた僕の荷物を手に取ると、僕は飛び出すように、家を出た。
 ダメだ。あの人はダメ。絶対ダメ。
 何度も自分に言い聞かせながら、知らない道をただ進んでいく。
 きっと、僕の望む恋は、あそこにはない。だから、ダメ。
 そう、頭ではわかっているのに。
 なんだか手遅れな気がした。