夏祭りの夜、僕は会場に急いでいた。
というのも、スマホのマップを頼りに歩いていたら、神社の裏手に出てしまって、遠回りをする羽目になったから。
こんなことなら、もっとわかりやすい場所で待ち合せればよかった。
そうすれば、琥珀先輩を待たせるという状況も作られなかっただろうから。
そんな、今さら気にしても仕方ないことを考えているうちに、やっと待ち合わせ場所が見えてきた。
だけど、会場はすでに賑わっていて、先輩を見つけるのは容易ではなさそう。
そう思ったけど、案外すぐに見つかった。
なんせ、相手はあの琥珀先輩。女子たちが放っておくわけがないような人。
予想通り、先輩は浴衣を着た、見知らぬ女子たちに囲まれていた。
……僕も、浴衣着てくればよかったかな。
いや、僕がどれだけ着飾ったところで、女子の華やかさには敵わない。
先輩、やっぱりああいう可愛い子たちが好きなんだろうな。
……違う、先輩のこと信じるって決めただろ。こんな簡単に弱気になってどうするんだ。
そうやって脳内会話を繰り広げていると、先輩と目が合った。
「チアキくん」
僕を見つけた先輩は、一気に表情を明るくした。
そして、先輩が僕に声をかけたことで、先輩を囲っていた二人が振り向いた。
知らない人で、一瞬身体に緊張が走る。
「あの子が連れ? 彼女じゃないじゃん」
「あの子も一緒に回ろうよ」
どうやら先輩は、逆ナンをされていたらしい。
……僕は、二人で回りたいんだけどな。
「悪いけど、却下」
琥珀先輩はそう言いながら、二人の間を抜け、僕の手を引いた。
「あの、さっきの、いいんですか?」
僕としては嬉しい状況だけど、先輩がどうかはわからない。
心のどこかで、先輩は女の子と回りたかったんじゃないかって思ってしまう。
……やっぱり僕は、まだ先輩のことが信じ切れていないみたいだ。
「いいよ。今日はチアキくんとデートに来てるからね」
琥珀先輩は、僕の手首から手を離すと、右手を握ってきた。
「え、あの……!」
人混みで見えないかもしれないけど!
これはさすがに緊張で死ぬ!
「ん?」
先輩は、戸惑う僕を見て、どうかした?とでも言う目を向けてきた。
――……じゃあ、もっと意識してよ。
――俺にチャンスくれない?
あれ、嘘でもからかいでもなかったってこと……!?
琥珀先輩に本気出されたら、絶対に数時間も持たない!
手汗とかかいてしまうだろうし、離してほしいって思うのに、僕は先輩の手を振り払うことができなかった。
「チアキくん、本当に可愛い」
すると、先輩は思いっきり声を出して笑った。
……僕が動揺するの、そんなに面白かったですか、そうですか、それはよかった。
それにしても、ここまで爆笑するなんて、初めて見た。
なんだか、先輩らしくない。
「……先輩、どうしちゃったんですか」
「どうもしないよ。好きな子と一緒にいれて、浮かれてるだけ」
無邪気で、楽しそうな笑顔。
琥珀先輩って、こんなふうにストレートに言ってくる人だったっけ。
ダメだ、ますます沼に落とされる予感しかしない。
「チアキくん、なにが食べたい?」
「えっと……」
先輩に聞かれて、出店に視線をやる。
ずっと先輩に手を引かれていることにしか意識が行かなかったから、あまり見ていなかった。
焼きそばやたこ焼きのソースの匂いが漂い、焼き鳥やイカ焼きのたれの香ばしさが鼻をくすぐる。
少し先では、子供たちがかき氷屋の前に列を作っている。
遠くからは和太鼓の音が聞こえ、僕も祭りに来ているんだと実感した。
こういう雰囲気、本当に久しぶりだ。
ずっと、僕はふさわしくないって、遠ざけてきたから。
でも今日は、僕も楽しい雰囲気に染まるひとりなんだ。
そう思うと、なんだかわくわくしてきた。
「決まった?」
僕が祭りの空気に圧倒されていると、先輩が横から覗き込んできた。
周りに人が多いから仕方のないことなのかもしれないけど、さすがに距離が近すぎる。
再び出店に視線をやることで、先輩から少しだけ離れた。
「じゃあ……焼きそば?」
「いいね、行こう」
そして僕たちは一番近くの焼きそば屋に並んだ。
やっぱり焼きそばは人気らしく、結構並んでいる。
「チアキくんは、どんな人が好きなの?」
先輩が話題を提供してくれたのはいいけど、それはここで話すようなことじゃない気がする。
周りに聞かれていないだろうかと、ついあたりを見渡してしまった。
「それ、今じゃないとダメですか」
「いや? でも、どんな恋がしたいかは聞いたけど、タイプは聞いてなかったなと思って」
僕は小声で抗議したけど、先輩の耳には届いていなさそう。
先輩はきっと、僕みたいに周りの目が怖いって思ったことがないんだろうな。
でも、少しでも堂々としていれば、なにか違うのかもしれない。
それこそ、先輩みたいに。
そう思って、僕は必要以上に周りの目を警戒するのをやめた。
「……秘密です」
今、僕の頭に浮かぶ人物像は、どうしたって琥珀先輩に当てはまってしまう。
さすがに、告白まがいのことを大勢の人の前でする勇気は、僕にはない。
「ヒミツかあ」
それでも先輩は楽しそうにしている。
なんだか、見抜かれている気がする。
……まあ、それでもいいんだけど。
そして僕たちは焼きそばとたこ焼き、唐揚げを買いそろえた。
食べ物を持つこともあって、僕たちの手は自然と離れていた。
「座れるところ、あるかな」
先輩はそう言いながら、飲食スペースのほうを見た。
恐ろしく大盛況のそこには、もう僕たちが座れるところなんてなさそうだ。
どこか、ほかに座れそうな場所……
「あ……」
僕が見つけたのは、祭りスペースの端にあるベンチ。
薄暗いからか、そこを使っている人はいない。
座ろうと思えば座れるけど……
「いいね、あそこにしよっか」
「え、でも」
琥珀先輩が迷わず進むから、思わず引き留めてしまった。
こっちを振り向いた先輩は、にやりと笑う。
「チアキくん、もしかして期待してる?」
「してない!」
僕が全力で否定すると、先輩は笑って見せた。
いつも通りの、憎たらしい琥珀先輩がそこにいる。
……だとしても、今のはあんまり許したくないけど。
そして僕たちはそのベンチに並んで座った。
人の視線を感じながら飲食をするのは気が引けるから、祭り会場に背を向けて。
琥珀先輩はたこ焼き、僕は焼きそばを手にする。
「あっつ……」
一番最初に買ったのに、焼きそばはまだ熱くて、まるで熱湯に触ったみたいな反応をしてしまった。
それを琥珀先輩に見られたのが恥ずかしくて、僕は何事もなかったかのように、焼きそばを膝の上に置く。
「うん、美味しい」
僕が焼きそばを一口食べたとき、先輩はたこ焼きを口に入れていた。
「チアキくん、はい」
その声に反応すると、先輩は竹串に刺したたこ焼きをこちらに向けていた。
……まさか。
「食べてみて」
どうやら、そのまさかだったみたいだ。
「……自分で食べれます」
なんて、左手に焼きそば、右手に箸を持っていたら、説得力なんてないか。
僕は先輩の視線に負け、半分にされたたこ焼きを食べた。
これはたしかに美味しい。タコも大きいし。
いつも冷凍食品のたこ焼きを食べているから、余計にそう感じるのかもしれないけど。
「付いてる」
琥珀先輩はそう言うと、右手で僕の口の端を拭った。
この人は本当……
「……たらし」
「チアキくーん?」
「……女泣かせ」
「酷いなあ」
僕が言う悪口を、先輩は笑って流した。
まあ、こうして冗談としてくれるってわかってるから、言ったんだけど。
「チアキくんは、してくれないの?」
僕にも、同じことをやれと?
そんなの、正気の沙汰じゃない。
でも、先輩のその表情は、冗談だからできなくていいって言ってるみたいで、それはなんだか悔しい。
……僕だって、やろうと思えばそれくらい。
そう思って焼きそばをすくったそのときだった。
「……八瀬?」
背後から名前を呼ばれた。
大学に進学してからは友達作りに励んでいないから、呼ばれるとしたら「八瀬君」のはず。
苗字を呼び捨てにするということは。
「真、柴君……」
そこにいたのは、もう一生再会したくない人物だった。
「チアキくん、知り合い?」
僕が固まってしまったのを、琥珀先輩は不思議そうに、いや、心配そうに見てきた。
たぶん、そうなってしまうくらい、僕は青ざめた顔をしているんだと思う。
こんなところで、真柴君に会うなんて、微塵も思っていなかったのに。
どうして。なんで、ここにいるの。
お願い、先輩の前で変なこと言わないで。
「あんた、八瀬の彼氏?」
僕の願いなんて、真柴君に届くわけがなかった。
真柴君の言い草が癇に障ったのか、先輩のまとう空気が変わった。
「……違うけど」
すると、真柴君は片側の口角を上げた。
――お前を好きになる奴なんて、いないんだよ。
それを告げたときと、同じ表情。
それを思い出し、背筋が凍る。
「悪いことは言わない。そいつには近付かないほうがいい」
「……なんで?」
今までに聞いたことがないくらい、先輩の声は低かった。
いや、一回だけあるかも。
あの雨の日、僕が真柴君に言われた言葉を聞いたとき。
――それ、誰が言ったの。
……さすがに、琥珀先輩にも、誰がそれを言ったのかって、わかっただろうな。
「だって、気持ち悪いだろ。男が男を好きになるとか」
琥珀先輩に対しても、真柴君の態度は変わらなかった。
……こうして、追い打ちをかけられるとは思っていなかったけど。
「……ああ、気持ち悪いね」
一瞬、心臓が止まった気がした。
違う。先輩はそんなこと、言わない。
わかっていても、その強い言葉に、息が詰まる。
「だったら」
「千瑛のことをそうやって傷付け続ける君が、気持ち悪いって言ったんだ」
そっと先輩のほうに視線をやると、先輩は見たことがないくらいの恐ろしさで真柴君を睨みつけている。
「な、なんだよ、俺は別に……」
真柴君はそう言いながら、人混みに消えていった。
彼の姿が見えなくなって、ようやく僕は息ができた気がした。
だけど、心臓の鼓動はまだ早いまま。
「チアキくん、大丈夫? 水、買ってこようか?」
そこまで先輩に甘えるわけにはいかない。
そう思ったけど、僕が思っている以上に、僕は平気じゃなかったみたいだ。
先輩はすぐに水を買ってきてくれた。
優しく差し出されたペットボトルの水を飲み、ようやく心拍数が落ち着いてきた。
「……チアキくんにあれを言ったの、彼だね」
先輩の静かな確認に、僕は肯定も否定もしなかった。
真柴君をかばうつもりなんて、一切ない。
そうじゃなくて、これ以上、僕たちの間に真柴君を存在させたくなかった。
「……まだ、チアキくんの中には、あいつがいるのかな」
琥珀先輩がそう呟いたことで、僕は顔を上げた。
先輩は、罰が悪そうに視線を逸らす。
その反応に、胸が締め付けられる。
先輩がこんなふうに苦しむ必要は、ないのに。
「……ごめん、責めたかったわけじゃない」
たしかに、僕の心には消えない傷がある。
それは、真柴君たちによってつけられたもので、どれだけ時が経ってもその事実は変わらない。
だけど、その傷を抱えて生きていけるかもしれないって、僕はやっと思えるようになったんだ。
琥珀先輩に出会えたから。
それなのに、そんなふうに言われたら、悲しい。
「……わかるよ。心ない言葉のほうが、傷として残り続けるよね。それこそ、いつまでも」
それは、同情で言っているようには聞こえなかった。
その痛みを知っているという、共感。
「琥珀先輩も……?」
「俺は、らしくないって言葉が一番しんどかったかな」
先輩は、作り笑いを浮かべた。
周りに合わせるための、胡散臭い笑顔じゃない。
ただ苦しくて、でも、笑うしかない。
そんなふうに見えた。
でも、僕も琥珀先輩にそう言うか、思ったことがある気がする。それも、無意識に。
「結構前の話なんだけどね。普通に過ごしているつもりだったんだけど……それを否定されちゃったら、俺らしさってなんだよって思うようになって」
先輩は遠くを見つめながら語る。
その横顔から、目が離せない。
「俺は、簡単に自分を見失った。で、どうせ誰も俺を受け入れないなら、みんなが思い描く橘琥珀でいればいいやって、俺でいることを諦めた」
――琥珀はずっと他人に合わせる生き方をしててさ。定期的に疲れては、ここで回復してきたんだけど……
亮太さんが言っていたのって、こういうことだったんだ。
琥珀先輩は、毎日が楽しくて、悩みなんかない人だって思っていた。
でもそれは、僕が琥珀先輩のことを知らなかったから。
こうして先輩の心の傷に触れた今、愛おしさが増していく。
どうしたら、この人は自分を受け入れてくれる人がここにいるって、信じてくれるだろうか。
――チアキくんのことが好きな奴。ここにいるよ。
……そっか。あのときの先輩も、こういう気持ちだったのかな。
ねえ、先輩。僕は、琥珀先輩のためになにができますか。
「でも、チアキくんといたら、忘れてた自分を取り戻せた気がするんだ」
そう言って僕のほうを向いた先輩は、笑っていた。
無理をして笑っているようには見えない。
「だから俺は、チアキくんの傍にいたいんだよ」
もしかして、僕はすでに、琥珀先輩の力になれていたってこと?
そう思うと、嬉しくなってくる。
「……なんて、自分勝手な理由だね、ごめん」
僕が首を横に振ると、先輩は微笑んだ。
「にしても、気に入らないなあ」
先輩はそう言って、たこ焼きを頬張る。
「なにがですか?」
「それはもちろん、チアキくんの中に、俺以外の男が住み着いてることだよ」
……まだ言うか。
さすがにしつこいと思う。
「……先輩って、琥珀糖みたいですね」
「琥珀糖?」
「知らないですか? 外は甘い飴、中はドロッとしたゼリーみたいなお菓子です」
先輩はあまり興味なさそうに「へえ」と相槌を打った。
「もしかして、名前にかけてる?」
「いや……」
普段は甘い罠みたいな性格をしているけれど。
蓋を開けてみれば、嫉妬、独占欲満載。
そういうところが、まさに琥珀糖みたいだと思った。
「……うん、俺も自分がこんなに嫉妬深いなんて、知らなかったよ」
先輩は、そっと僕の頬に触れる。
「だからチアキくん、あんまり俺の嫉妬心を煽らないでね?」
……琥珀糖。ぴったりだな。
というのも、スマホのマップを頼りに歩いていたら、神社の裏手に出てしまって、遠回りをする羽目になったから。
こんなことなら、もっとわかりやすい場所で待ち合せればよかった。
そうすれば、琥珀先輩を待たせるという状況も作られなかっただろうから。
そんな、今さら気にしても仕方ないことを考えているうちに、やっと待ち合わせ場所が見えてきた。
だけど、会場はすでに賑わっていて、先輩を見つけるのは容易ではなさそう。
そう思ったけど、案外すぐに見つかった。
なんせ、相手はあの琥珀先輩。女子たちが放っておくわけがないような人。
予想通り、先輩は浴衣を着た、見知らぬ女子たちに囲まれていた。
……僕も、浴衣着てくればよかったかな。
いや、僕がどれだけ着飾ったところで、女子の華やかさには敵わない。
先輩、やっぱりああいう可愛い子たちが好きなんだろうな。
……違う、先輩のこと信じるって決めただろ。こんな簡単に弱気になってどうするんだ。
そうやって脳内会話を繰り広げていると、先輩と目が合った。
「チアキくん」
僕を見つけた先輩は、一気に表情を明るくした。
そして、先輩が僕に声をかけたことで、先輩を囲っていた二人が振り向いた。
知らない人で、一瞬身体に緊張が走る。
「あの子が連れ? 彼女じゃないじゃん」
「あの子も一緒に回ろうよ」
どうやら先輩は、逆ナンをされていたらしい。
……僕は、二人で回りたいんだけどな。
「悪いけど、却下」
琥珀先輩はそう言いながら、二人の間を抜け、僕の手を引いた。
「あの、さっきの、いいんですか?」
僕としては嬉しい状況だけど、先輩がどうかはわからない。
心のどこかで、先輩は女の子と回りたかったんじゃないかって思ってしまう。
……やっぱり僕は、まだ先輩のことが信じ切れていないみたいだ。
「いいよ。今日はチアキくんとデートに来てるからね」
琥珀先輩は、僕の手首から手を離すと、右手を握ってきた。
「え、あの……!」
人混みで見えないかもしれないけど!
これはさすがに緊張で死ぬ!
「ん?」
先輩は、戸惑う僕を見て、どうかした?とでも言う目を向けてきた。
――……じゃあ、もっと意識してよ。
――俺にチャンスくれない?
あれ、嘘でもからかいでもなかったってこと……!?
琥珀先輩に本気出されたら、絶対に数時間も持たない!
手汗とかかいてしまうだろうし、離してほしいって思うのに、僕は先輩の手を振り払うことができなかった。
「チアキくん、本当に可愛い」
すると、先輩は思いっきり声を出して笑った。
……僕が動揺するの、そんなに面白かったですか、そうですか、それはよかった。
それにしても、ここまで爆笑するなんて、初めて見た。
なんだか、先輩らしくない。
「……先輩、どうしちゃったんですか」
「どうもしないよ。好きな子と一緒にいれて、浮かれてるだけ」
無邪気で、楽しそうな笑顔。
琥珀先輩って、こんなふうにストレートに言ってくる人だったっけ。
ダメだ、ますます沼に落とされる予感しかしない。
「チアキくん、なにが食べたい?」
「えっと……」
先輩に聞かれて、出店に視線をやる。
ずっと先輩に手を引かれていることにしか意識が行かなかったから、あまり見ていなかった。
焼きそばやたこ焼きのソースの匂いが漂い、焼き鳥やイカ焼きのたれの香ばしさが鼻をくすぐる。
少し先では、子供たちがかき氷屋の前に列を作っている。
遠くからは和太鼓の音が聞こえ、僕も祭りに来ているんだと実感した。
こういう雰囲気、本当に久しぶりだ。
ずっと、僕はふさわしくないって、遠ざけてきたから。
でも今日は、僕も楽しい雰囲気に染まるひとりなんだ。
そう思うと、なんだかわくわくしてきた。
「決まった?」
僕が祭りの空気に圧倒されていると、先輩が横から覗き込んできた。
周りに人が多いから仕方のないことなのかもしれないけど、さすがに距離が近すぎる。
再び出店に視線をやることで、先輩から少しだけ離れた。
「じゃあ……焼きそば?」
「いいね、行こう」
そして僕たちは一番近くの焼きそば屋に並んだ。
やっぱり焼きそばは人気らしく、結構並んでいる。
「チアキくんは、どんな人が好きなの?」
先輩が話題を提供してくれたのはいいけど、それはここで話すようなことじゃない気がする。
周りに聞かれていないだろうかと、ついあたりを見渡してしまった。
「それ、今じゃないとダメですか」
「いや? でも、どんな恋がしたいかは聞いたけど、タイプは聞いてなかったなと思って」
僕は小声で抗議したけど、先輩の耳には届いていなさそう。
先輩はきっと、僕みたいに周りの目が怖いって思ったことがないんだろうな。
でも、少しでも堂々としていれば、なにか違うのかもしれない。
それこそ、先輩みたいに。
そう思って、僕は必要以上に周りの目を警戒するのをやめた。
「……秘密です」
今、僕の頭に浮かぶ人物像は、どうしたって琥珀先輩に当てはまってしまう。
さすがに、告白まがいのことを大勢の人の前でする勇気は、僕にはない。
「ヒミツかあ」
それでも先輩は楽しそうにしている。
なんだか、見抜かれている気がする。
……まあ、それでもいいんだけど。
そして僕たちは焼きそばとたこ焼き、唐揚げを買いそろえた。
食べ物を持つこともあって、僕たちの手は自然と離れていた。
「座れるところ、あるかな」
先輩はそう言いながら、飲食スペースのほうを見た。
恐ろしく大盛況のそこには、もう僕たちが座れるところなんてなさそうだ。
どこか、ほかに座れそうな場所……
「あ……」
僕が見つけたのは、祭りスペースの端にあるベンチ。
薄暗いからか、そこを使っている人はいない。
座ろうと思えば座れるけど……
「いいね、あそこにしよっか」
「え、でも」
琥珀先輩が迷わず進むから、思わず引き留めてしまった。
こっちを振り向いた先輩は、にやりと笑う。
「チアキくん、もしかして期待してる?」
「してない!」
僕が全力で否定すると、先輩は笑って見せた。
いつも通りの、憎たらしい琥珀先輩がそこにいる。
……だとしても、今のはあんまり許したくないけど。
そして僕たちはそのベンチに並んで座った。
人の視線を感じながら飲食をするのは気が引けるから、祭り会場に背を向けて。
琥珀先輩はたこ焼き、僕は焼きそばを手にする。
「あっつ……」
一番最初に買ったのに、焼きそばはまだ熱くて、まるで熱湯に触ったみたいな反応をしてしまった。
それを琥珀先輩に見られたのが恥ずかしくて、僕は何事もなかったかのように、焼きそばを膝の上に置く。
「うん、美味しい」
僕が焼きそばを一口食べたとき、先輩はたこ焼きを口に入れていた。
「チアキくん、はい」
その声に反応すると、先輩は竹串に刺したたこ焼きをこちらに向けていた。
……まさか。
「食べてみて」
どうやら、そのまさかだったみたいだ。
「……自分で食べれます」
なんて、左手に焼きそば、右手に箸を持っていたら、説得力なんてないか。
僕は先輩の視線に負け、半分にされたたこ焼きを食べた。
これはたしかに美味しい。タコも大きいし。
いつも冷凍食品のたこ焼きを食べているから、余計にそう感じるのかもしれないけど。
「付いてる」
琥珀先輩はそう言うと、右手で僕の口の端を拭った。
この人は本当……
「……たらし」
「チアキくーん?」
「……女泣かせ」
「酷いなあ」
僕が言う悪口を、先輩は笑って流した。
まあ、こうして冗談としてくれるってわかってるから、言ったんだけど。
「チアキくんは、してくれないの?」
僕にも、同じことをやれと?
そんなの、正気の沙汰じゃない。
でも、先輩のその表情は、冗談だからできなくていいって言ってるみたいで、それはなんだか悔しい。
……僕だって、やろうと思えばそれくらい。
そう思って焼きそばをすくったそのときだった。
「……八瀬?」
背後から名前を呼ばれた。
大学に進学してからは友達作りに励んでいないから、呼ばれるとしたら「八瀬君」のはず。
苗字を呼び捨てにするということは。
「真、柴君……」
そこにいたのは、もう一生再会したくない人物だった。
「チアキくん、知り合い?」
僕が固まってしまったのを、琥珀先輩は不思議そうに、いや、心配そうに見てきた。
たぶん、そうなってしまうくらい、僕は青ざめた顔をしているんだと思う。
こんなところで、真柴君に会うなんて、微塵も思っていなかったのに。
どうして。なんで、ここにいるの。
お願い、先輩の前で変なこと言わないで。
「あんた、八瀬の彼氏?」
僕の願いなんて、真柴君に届くわけがなかった。
真柴君の言い草が癇に障ったのか、先輩のまとう空気が変わった。
「……違うけど」
すると、真柴君は片側の口角を上げた。
――お前を好きになる奴なんて、いないんだよ。
それを告げたときと、同じ表情。
それを思い出し、背筋が凍る。
「悪いことは言わない。そいつには近付かないほうがいい」
「……なんで?」
今までに聞いたことがないくらい、先輩の声は低かった。
いや、一回だけあるかも。
あの雨の日、僕が真柴君に言われた言葉を聞いたとき。
――それ、誰が言ったの。
……さすがに、琥珀先輩にも、誰がそれを言ったのかって、わかっただろうな。
「だって、気持ち悪いだろ。男が男を好きになるとか」
琥珀先輩に対しても、真柴君の態度は変わらなかった。
……こうして、追い打ちをかけられるとは思っていなかったけど。
「……ああ、気持ち悪いね」
一瞬、心臓が止まった気がした。
違う。先輩はそんなこと、言わない。
わかっていても、その強い言葉に、息が詰まる。
「だったら」
「千瑛のことをそうやって傷付け続ける君が、気持ち悪いって言ったんだ」
そっと先輩のほうに視線をやると、先輩は見たことがないくらいの恐ろしさで真柴君を睨みつけている。
「な、なんだよ、俺は別に……」
真柴君はそう言いながら、人混みに消えていった。
彼の姿が見えなくなって、ようやく僕は息ができた気がした。
だけど、心臓の鼓動はまだ早いまま。
「チアキくん、大丈夫? 水、買ってこようか?」
そこまで先輩に甘えるわけにはいかない。
そう思ったけど、僕が思っている以上に、僕は平気じゃなかったみたいだ。
先輩はすぐに水を買ってきてくれた。
優しく差し出されたペットボトルの水を飲み、ようやく心拍数が落ち着いてきた。
「……チアキくんにあれを言ったの、彼だね」
先輩の静かな確認に、僕は肯定も否定もしなかった。
真柴君をかばうつもりなんて、一切ない。
そうじゃなくて、これ以上、僕たちの間に真柴君を存在させたくなかった。
「……まだ、チアキくんの中には、あいつがいるのかな」
琥珀先輩がそう呟いたことで、僕は顔を上げた。
先輩は、罰が悪そうに視線を逸らす。
その反応に、胸が締め付けられる。
先輩がこんなふうに苦しむ必要は、ないのに。
「……ごめん、責めたかったわけじゃない」
たしかに、僕の心には消えない傷がある。
それは、真柴君たちによってつけられたもので、どれだけ時が経ってもその事実は変わらない。
だけど、その傷を抱えて生きていけるかもしれないって、僕はやっと思えるようになったんだ。
琥珀先輩に出会えたから。
それなのに、そんなふうに言われたら、悲しい。
「……わかるよ。心ない言葉のほうが、傷として残り続けるよね。それこそ、いつまでも」
それは、同情で言っているようには聞こえなかった。
その痛みを知っているという、共感。
「琥珀先輩も……?」
「俺は、らしくないって言葉が一番しんどかったかな」
先輩は、作り笑いを浮かべた。
周りに合わせるための、胡散臭い笑顔じゃない。
ただ苦しくて、でも、笑うしかない。
そんなふうに見えた。
でも、僕も琥珀先輩にそう言うか、思ったことがある気がする。それも、無意識に。
「結構前の話なんだけどね。普通に過ごしているつもりだったんだけど……それを否定されちゃったら、俺らしさってなんだよって思うようになって」
先輩は遠くを見つめながら語る。
その横顔から、目が離せない。
「俺は、簡単に自分を見失った。で、どうせ誰も俺を受け入れないなら、みんなが思い描く橘琥珀でいればいいやって、俺でいることを諦めた」
――琥珀はずっと他人に合わせる生き方をしててさ。定期的に疲れては、ここで回復してきたんだけど……
亮太さんが言っていたのって、こういうことだったんだ。
琥珀先輩は、毎日が楽しくて、悩みなんかない人だって思っていた。
でもそれは、僕が琥珀先輩のことを知らなかったから。
こうして先輩の心の傷に触れた今、愛おしさが増していく。
どうしたら、この人は自分を受け入れてくれる人がここにいるって、信じてくれるだろうか。
――チアキくんのことが好きな奴。ここにいるよ。
……そっか。あのときの先輩も、こういう気持ちだったのかな。
ねえ、先輩。僕は、琥珀先輩のためになにができますか。
「でも、チアキくんといたら、忘れてた自分を取り戻せた気がするんだ」
そう言って僕のほうを向いた先輩は、笑っていた。
無理をして笑っているようには見えない。
「だから俺は、チアキくんの傍にいたいんだよ」
もしかして、僕はすでに、琥珀先輩の力になれていたってこと?
そう思うと、嬉しくなってくる。
「……なんて、自分勝手な理由だね、ごめん」
僕が首を横に振ると、先輩は微笑んだ。
「にしても、気に入らないなあ」
先輩はそう言って、たこ焼きを頬張る。
「なにがですか?」
「それはもちろん、チアキくんの中に、俺以外の男が住み着いてることだよ」
……まだ言うか。
さすがにしつこいと思う。
「……先輩って、琥珀糖みたいですね」
「琥珀糖?」
「知らないですか? 外は甘い飴、中はドロッとしたゼリーみたいなお菓子です」
先輩はあまり興味なさそうに「へえ」と相槌を打った。
「もしかして、名前にかけてる?」
「いや……」
普段は甘い罠みたいな性格をしているけれど。
蓋を開けてみれば、嫉妬、独占欲満載。
そういうところが、まさに琥珀糖みたいだと思った。
「……うん、俺も自分がこんなに嫉妬深いなんて、知らなかったよ」
先輩は、そっと僕の頬に触れる。
「だからチアキくん、あんまり俺の嫉妬心を煽らないでね?」
……琥珀糖。ぴったりだな。



