人通りが少ない廊下を無心で進める。その途中でチャイムが鳴った。どうやら、今から講義が始まるみたいだ。
僕はこの時間は空きコマだから、ただひたすら、心を落ち着かせるために足を進めていく。
――あー、本当……俺、チアキくんのこと、好きだなあ。
無意識にこぼれたであろう、琥珀先輩の独り言。
――チアキくんの恋の相手、俺じゃダメ?
そして、先輩からの告白。
あの熱がこもった瞳は、今思い出しても、体温が上昇する感覚がある。
本当は、嬉しかったし、応えたかった。
でも、先輩のそれを聞いて、思い出してしまったんだ。
――あれ? もしかして本気にしちゃった?
何度蓋をし、鍵をかけても蘇ってくる、あの嘲笑を。
◆
僕の恋愛対象が同性だってことに気付いたのは、中学の頃だ。
当時副担任だった先生に惹かれたのを、今でも覚えている。
といっても、幼稚園生が先生が好きだというみたいに、幼い恋心だった。
だから、あれが恋だったのかと言われると、正直わからない。
でも、同性に惹かれ、恋をすることが普通ではないことは、すぐに理解した。
最近は割と寛容な世界になっているみたいだけど、僕の周りはそうでもなかった。
――男同士でなんて、ねえ……
今でも覚えているのは、お母さんのなにか言いたげな言葉。
キモチワルイ。
僕には、そう言っているように聞こえた。
近くにそういう人がいるとは思っていないからこその、遠慮のない言葉。
そこからどんな会話になっていったのか、一切覚えていない。
とにかく、その言葉だけが、頭に残り続けている。
だから僕は、自分が同性愛者だということは、隠さないといけないんだと思った。
周りに嘘をつくことは心苦しかったけど、拒絶の目を向けられるよりはましだと、何度も言い聞かせて。
そして僕は、高校生になった。
そのときには、中学のころより周りの目に敏感になっていた。
友達として仲良くしていても、無意識のうちに、僕はその境界線を越えてしまうんじゃないか。そして、みんなに後ろ指を指されるんじゃないか。
そうやって被害妄想を膨らませて、僕は独りを選んだ。
でも、暇を持て余した彼らは、僕を放っておいてはくれなかった。
あれは、去年のこと。僕が高校三年生だった夏のことだ。
あっという間に春が終わり、うんざりするような暑さが始まったころだった。
その日、学校に行くと、机の中にルーズリーフの切れ端が入っていた。
『放課後、話したいことがある。
教室にいてほしい』
それくらい、シンプルなメッセージだったと思う。
あのときは、差出人の名前もなくて、無視しようとも思った。
だけど、書かれていた時間が近くなるにつれて罪悪感が芽生えてきて、結局僕は、放課後、自分の席で手紙の差出人を待った。
英語の課題をして時間を潰しているうちに、室内は僕だけになっていた。
「……八瀬」
もう少しで課題が終わるというときに、その人物は現れた。
真柴大翔。
よく先生にいたずらを仕掛けては、怒られているような、やんちゃ者だった。
彼の周りにはいつも人が集まっていて、笑いが絶えない空間がそこにはあった。
僕とは真逆で、関わることなんて一生ない存在。
そんな真柴君が、なんだか緊張した面持ちで僕の名前を呼んだ。
「遅れてごめん。もう帰ったかと思った」
真柴君の言葉に、僕は首を横に振って応える。
「あのさ。俺、八瀬のこと好きなんだけど」
それは単刀直入に言われた。
今思い返せば、淡々とした言葉だったように思う。
でも、当時の僕は、それに気付かなかった。
特に惹かれるところがあったわけじゃない。
でも、僕と同じように男の人を好きになる人が身近にいて、その人が僕を好きだって言ってくれた。
嘘みたいだと思った。こんな狭い世界で、彼みたいな人に出会えることなんて、ありえないって。
そう言い聞かせたのに、僕は期待してしまったんだ。
僕も、普通の人たちのように、幸せになれるかもしれないって。
「だからさ、俺ら、付き合わない?」
だから僕は、その提案に頷いた。
それが、彼の罠だと知らずに。
僕が頷いたと同時に、背後から笑い声が聞こえてきた。
振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずなのに、ベランダによく真柴君といる人が二人、そこにいた。
「マジで頷いたんだけど」
「やっば、カップル誕生じゃん」
僕たちにスマホを向けながら、彼らは笑った。
僕は、なにが起きているのかまったくわからなかった。
「な? 言ったろ? 八瀬が男好きってのはマジだって」
追い打ちをかけたのは、真柴君の楽しそうな声。
そう。あの告白は、嘘だったというわけだ。
誰にも言っていなかったのに。
どこかで、彼らは僕の秘密を知ったらしい。
それを確かめるために、あんな最低なことをした。
でも、彼らはそれだけでは終わらなかった。
「大翔、サイテー」
「八瀬クン、ショック受けちゃってんじゃん」
そんなことを言いながら、彼らはいつまでも笑った。
僕がどんな風に感じているのかなんて、まるで興味ない。
同性に恋をするという設定の、人形。
だから、どれだけ傷付けてもいい。
そう思っているように感じた。
「あれ? 本気にしちゃった?」
極めつけは、真柴君のその言葉だった。
信じたのに。
信じたかったのに。
それを、彼はすべてぶち壊した。
「可哀そうな八瀬クンに教えてやるよ」
真柴君は改めて僕の真正面に立った。
そして、片側の口角を上げる。
「お前を好きになる奴なんて、いないんだよ」
それを告げると、彼らは笑いながら、教室から出て行った。
そして、その日を境に、僕は教室に足を踏み入れることができなくなった。
◆
あれから、僕は心の傷に何重もの包帯を巻きつけた。
あんな最低な人たちに、僕の人生を潰されてたまるかって、自分を奮い立たせて。
そうして大学に進学したし、新しい世界にも踏み込んだ。
琥珀先輩は、真柴君とは違う。
僕のことをたくさんからかってきたけど、真柴君みたいに最低なことをするような人じゃない。
そう、わかっているのに。
『本気にされても、困るんだけど』
あの告白の続きとして、そう言われてしまうような気がした。
信じるなって、過去の僕が警告をしてくるんだ。何度も、何度も。血まみれの心を隠さず、僕に告げてくる。
それに、あの女の先輩たちも言っていた。
――君が期待してたら可哀想だと思って教えてあげてるんだからね?
――琥珀は誰にも本気にならないの。
だから僕は、悪い方向に考えてしまうんだろう。
やっぱり、恋をするなら、先輩はダメだった。
頭では、わかっているのに。
僕の頭には先輩の笑顔ばかり浮かんでくる。
諦めないと、いけないの?
諦めたくない。こんなに誰かを好きになったのは、初めてなのに。
窓の外を見上げると、薄暗い雲が空を覆っていた。
どうやら、梅雨が近付いているらしい。
雨は、僕の心を綺麗に癒してくれるかな。
そんなバカげたことを考えているうちに、チャイムが鳴った。
◇
バイトをしているうちに、雨が降り始めていた。
今日、天気予報を見忘れたせいで、傘なんて持ってきていない。
先輩の告白を断っちゃったし、あのときのことを思い出すし、雨が降るし。
憂鬱さが増して、ため息が出そうになる。
だけど、一度、お客さんがいても関係なしにため息をついたのを亮太さんに見つかり、注意されたのもあって、ぐっと堪える。
お客さんがいなくなってからは、その反動で止まらなくなったけど。
そうして、何度目かのため息をついたとき、ドアベルが鳴った。
「……チアキくん」
入ってきたのは、琥珀先輩。
勝手に、今日の迎えはなしなんだと思っていた。
「琥珀先輩……」
あんなやり取りをした僕たちの間には、気まずい空気が流れる。
お互いに、目が合わせられない。
「お、琥珀。今日もお迎え?」
僕たちの間に起きたことを知らない亮太さんは、いつも通りに声をかけてきた。
「まあね」
「琥珀は本当に千瑛くんのことが好きなんだな」
なにも知らないんだよな?と疑ってしまうくらい、最悪なタイミングでの言葉。
亮太さんは笑い飛ばしているから、すぐにそれがラブではなく、ライクなんだと理解したけど……
一瞬、ラブで受け取ってしまったせいで、戸惑いが隠せない。
「じゃあ千瑛くん、先に上がっていいよ」
亮太さんに言われると、僕は逃げるように、スタッフルームに入る。
バイトの制服から私服に着替えていく中で、心が落ち着いてくれると思った。
だけど、これから先輩と帰るんだと思うと、とても落ち着いてはいられなかった。
「……お先に失礼します」
「うん、お疲れ様」
そして僕たちは、店を出る。
……そういえば、傘を忘れたんだっけ。
それなりに振っている雨を見つめながら、途方に暮れる。
「チアキくん、傘は?」
先に傘を差し、雨の中に足を進めた琥珀先輩が、立ち止まったままの僕を不思議そうに見つめる。
「忘れちゃって」
「じゃあ……」
先輩はそう言いながら、僕に近寄った。
「一緒に入る?」
それはつまり、相合傘的な。
先輩の告白を断った手前、その提案に甘えてもいいものなのかな。
そんな僕の葛藤もお見通しなのか、先輩は僕のほうに傘を差し出し、入りやすいようにしてくれた。
すると、斜めに降っている雨が、先輩の肩を濡らした。このままだと、先輩が濡れ続けることになる。
だから僕は、その傘に入った。
店に戻って傘を借りてくればよかったと気付いたのは、僕の家への道を歩き始めて、しばらくしてからだった。
そう考える余裕があるくらい、僕たちの間には沈黙が流れた。
お互いに濡れないように肩を寄せ合うけど、お互いに肩が触れないように、距離を作って。
少しずつ左肩の布が水を吸収し始める。
いつもなら不快だけど、今日はなんとも思わなかった。
そんなことよりも、この距離による緊張感のせいで、息ができているか、わからない。
僕の家までって、こんなに遠かったっけ。もっと、あっという間に着いてたと思うんだけど。
早く着け。もう、この沈黙から解放されたいんだ。
「……ねえ、チアキくん」
すると、先輩が僕を呼んだ。
最後まで無言で歩き続けるんだとばかり思っていたから、反応した声は裏返った。
これでは緊張していることがバレバレだ。また、先輩にからかわれてしまう。
そう思ったけど、横目に見た先輩は、真剣な面持ちでそこにいた。
「俺がチアキくんのこと好きって、信じられない?」
先輩の視線は、僕を捉える。
笑顔なんて、作る余裕がないらしい。
僕が「ごめんなさい」って、言い逃げしたせいだろう。
きっと、気まずくても僕を迎えにきたのは、これを聞き出すため。
だったら、ちゃんと答えなければ。
「……怖いんです」
「怖い?」
先輩が繰り返すと、僕は頷いた。
「信じられないんじゃなくて、信じるのが、怖いんです」
僕が先輩の言葉を信じて。それがウソでした、なんて言われたら。
間違いなく僕は、耐えられない。
真柴君のときとは、違うんだ。
あのときは、僕と同じように同性に恋をする人がいて嬉しいってだけで、真柴君に惹かれていたわけじゃなかった。
でも今回は、僕が先輩のことを好きになってしまった。
それでやっぱり勘違いでした、なんてことになったら。
僕は一生、恋ができなくなる。
だから、先輩の言葉を簡単には信じられなかった。
「どうして?」
「……僕を好きになってくれる人なんて、いない、から……」
それが答えになっているのか、わからない。
でも、これはたしかに、僕が踏み出せない理由のひとつだ。
すると、緊張で張り詰めていた空気が、ほんの少し、ピリッとした。
「なにそれ。なんでそんなふうに思うの?」
先輩の声には、怒りが潜んでいる。
僕が怒られているわけではないのに、身体が強張ってしまう。
「それは……」
――お前を好きになる奴なんて、いない。
どれだけ、乗り越えたつもりでいても、頭から消えてくれない言葉。
これは、僕にかかった呪いだ。
きっと、そう簡単には解けてはくれない。
「ここにいるよ」
「え……」
「チアキくんのことが好きな奴。ここにいる」
信じて。
琥珀先輩の声、そして瞳には、そんな意思が宿っているように感じた。
こうやって、先輩は何度でも伝えてくれるのに。
どうして僕は、信じることができないんだろう。
信じたい。
そう、思っているのに。
呪われた僕の思考回路は、闇に引きずり込まれていく。
「……俺が適当だから?」
そう言った琥珀先輩は、過去の自分を悔いているように見えた。
「俺がこれまで、誰にも本心を見せてこなかったから、信じてくれないの?」
「先輩は、僕の前でたくさん本心を見せていたじゃないですか」
……そうだ。
少しずつ、先輩は僕の前で胡散臭い笑い方をしなくなっていた。
――久しぶりにアイツが楽しそうに入ってきたのは、君のおかげかな?
初めて亮太さんの店に行ったとき、叔父である亮太さんがそう言ったくらいだ。
先輩が僕の反応を見て楽しそうだったのは、面白くなかったけど、本物の笑顔から目が離せなくなってて。
どうしてそれを、忘れていたんだろう。
……違う、気付きたくなかったんだ。
気付いたら、期待してしまうから。
琥珀先輩も、僕と同じように、僕のことを好きでいてくれるんじゃないかって。
「じゃあ……どうして?」
「……昔、言われたんです」
自分から、その言葉を口にしたことはなかった。
いつだって、忘れることに必死で、誰にも言えなかったから。
それに、誰に言っても、僕の気持ちに寄り添ってくれることはないんだって、勝手に諦めていたから。
でも、先輩は聞いてくれる。
そんな予感がした。
「……男が好きなんて、気持ち悪い。お前を好きになる奴なんていないって」
それを聞いて、先輩は足を止めた。
僕が続いて足を止めなかったことで、僕は傘からはみ出した。
まだ降り続ける雨が、僕の頬に落ちる。
それに気付いた琥珀先輩は、僕に傘を傾けてくれた。
だけど、傘のほとんどを僕に向けたせいで、今度は琥珀先輩が濡れてしまっている。
「それ、誰が言ったの」
先輩の声は、震えていた。
怒っているようで、悲しそうな声。
まるで、先輩が傷付けられたみたい。
それくらい、先輩は痛そうな顔をしている。
先輩の頬にも雫が伝った。それが雨なのか、涙なのか。僕にはわからない。
「……僕に嘘の告白をしてきた同級生、です」
前者は違うけど……たぶん、真柴君たちはそう思っていたと思う。
そうじゃないと、あんなこともしないだろうし。
そもそも、“気持ち悪い”は直接的に言われたわけじゃない。
お母さんだって、僕にそれを暗示させるために『男同士なんて』と言ったつもりはないだろう。
だけど、僕はそう受け取ってしまった。
だからこれは、言われたようなものだと思う。
「そんな奴の言葉、忘れなよ」
僕が先輩にも傘を傾けるためにほんの少し近寄ると、先輩はまっすぐ、俺の目を見つめてきた。
怒りと悲しみで揺れ動く瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「ねえ、チアキくん」
琥珀先輩は、傘に触れている僕の手に、そっと自分の手を重ねた。
先輩の手はひんやりとしている。
けれど、触れ合ったところから、お互いの熱を分け合っているんじゃないかって思うくらい、僕の体温は上昇した。
「俺の言葉を信じてよ」
こうして、まっすぐ伝えてくれるのは、何度目だろう。
もう、疑う余地がないくらい、琥珀先輩は僕に伝えてくれている。
そのおかげか、少しずつ、僕の身体にまとわりついていた鎖から解放されている気がした。
「俺を変えてくれたのは、チアキくんだよ」
僕を変えてくれたのだって、琥珀先輩だ。
「チアキくんに出会わなかったら、俺はいつまでも、自分の時間を無駄にしてたと思う」
琥珀先輩に出会わなかったら、僕はいつまでも、恋がしたいって理想を掲げていただけだと思う。
「誰かと時間をともにしたい、大切にしていきたいって思えたのは、チアキくんが初めてなんだよ」
それは、僕も同じ。
こんなにも誰かのことを想うのは、琥珀先輩が初めてだ。
「チアキくんは、十分素敵な人だよ。好きにならずにはいられないくらいね」
そこまで聞いて、涙が込み上げてきた。
「俺は、八瀬千瑛が好き。チアキくんは信じられないかもしれないけど、これは事実だ」
まっすぐ伝えられた言葉に、僕の目から涙が落ちた。
この人の言葉なら、信じられる。
心から、そう思った。
「チアキくん、泣いてる?」
「な、泣いてません! これは、雨です!」
そう言ったものの、もう雨音は聞こえてこない。先輩ももちろんそれに気付いている。
だから、そんな苦し紛れな言い訳を、先輩は笑ってくれた。
作り笑いじゃない、本物の笑顔。
それにつられるように、僕も笑みをこぼした。
「ねえ、俺にチャンスくれない?」
先輩はそう言いながら、傘を閉じる。
チャンスもなにも、もう琥珀先輩に惹かれているのに。
そう思ったけど、僕はまだ、自分の思いを口にしていないことに気付いた。
……いや、この流れで言うのは、なんか違う。
「一緒に夏祭り行こ」
いわゆる、デートのお誘い。
少し前の僕なら、勢い任せで断っていただろう。
でも、今回は小さく頷いた。
そんな僕の反応を見て、琥珀先輩は嬉しそうに頬をほころばせた。
祭りの雰囲気に便乗すれば、僕だって気持ちを伝えられる。
そんな気がしていた。
僕はこの時間は空きコマだから、ただひたすら、心を落ち着かせるために足を進めていく。
――あー、本当……俺、チアキくんのこと、好きだなあ。
無意識にこぼれたであろう、琥珀先輩の独り言。
――チアキくんの恋の相手、俺じゃダメ?
そして、先輩からの告白。
あの熱がこもった瞳は、今思い出しても、体温が上昇する感覚がある。
本当は、嬉しかったし、応えたかった。
でも、先輩のそれを聞いて、思い出してしまったんだ。
――あれ? もしかして本気にしちゃった?
何度蓋をし、鍵をかけても蘇ってくる、あの嘲笑を。
◆
僕の恋愛対象が同性だってことに気付いたのは、中学の頃だ。
当時副担任だった先生に惹かれたのを、今でも覚えている。
といっても、幼稚園生が先生が好きだというみたいに、幼い恋心だった。
だから、あれが恋だったのかと言われると、正直わからない。
でも、同性に惹かれ、恋をすることが普通ではないことは、すぐに理解した。
最近は割と寛容な世界になっているみたいだけど、僕の周りはそうでもなかった。
――男同士でなんて、ねえ……
今でも覚えているのは、お母さんのなにか言いたげな言葉。
キモチワルイ。
僕には、そう言っているように聞こえた。
近くにそういう人がいるとは思っていないからこその、遠慮のない言葉。
そこからどんな会話になっていったのか、一切覚えていない。
とにかく、その言葉だけが、頭に残り続けている。
だから僕は、自分が同性愛者だということは、隠さないといけないんだと思った。
周りに嘘をつくことは心苦しかったけど、拒絶の目を向けられるよりはましだと、何度も言い聞かせて。
そして僕は、高校生になった。
そのときには、中学のころより周りの目に敏感になっていた。
友達として仲良くしていても、無意識のうちに、僕はその境界線を越えてしまうんじゃないか。そして、みんなに後ろ指を指されるんじゃないか。
そうやって被害妄想を膨らませて、僕は独りを選んだ。
でも、暇を持て余した彼らは、僕を放っておいてはくれなかった。
あれは、去年のこと。僕が高校三年生だった夏のことだ。
あっという間に春が終わり、うんざりするような暑さが始まったころだった。
その日、学校に行くと、机の中にルーズリーフの切れ端が入っていた。
『放課後、話したいことがある。
教室にいてほしい』
それくらい、シンプルなメッセージだったと思う。
あのときは、差出人の名前もなくて、無視しようとも思った。
だけど、書かれていた時間が近くなるにつれて罪悪感が芽生えてきて、結局僕は、放課後、自分の席で手紙の差出人を待った。
英語の課題をして時間を潰しているうちに、室内は僕だけになっていた。
「……八瀬」
もう少しで課題が終わるというときに、その人物は現れた。
真柴大翔。
よく先生にいたずらを仕掛けては、怒られているような、やんちゃ者だった。
彼の周りにはいつも人が集まっていて、笑いが絶えない空間がそこにはあった。
僕とは真逆で、関わることなんて一生ない存在。
そんな真柴君が、なんだか緊張した面持ちで僕の名前を呼んだ。
「遅れてごめん。もう帰ったかと思った」
真柴君の言葉に、僕は首を横に振って応える。
「あのさ。俺、八瀬のこと好きなんだけど」
それは単刀直入に言われた。
今思い返せば、淡々とした言葉だったように思う。
でも、当時の僕は、それに気付かなかった。
特に惹かれるところがあったわけじゃない。
でも、僕と同じように男の人を好きになる人が身近にいて、その人が僕を好きだって言ってくれた。
嘘みたいだと思った。こんな狭い世界で、彼みたいな人に出会えることなんて、ありえないって。
そう言い聞かせたのに、僕は期待してしまったんだ。
僕も、普通の人たちのように、幸せになれるかもしれないって。
「だからさ、俺ら、付き合わない?」
だから僕は、その提案に頷いた。
それが、彼の罠だと知らずに。
僕が頷いたと同時に、背後から笑い声が聞こえてきた。
振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずなのに、ベランダによく真柴君といる人が二人、そこにいた。
「マジで頷いたんだけど」
「やっば、カップル誕生じゃん」
僕たちにスマホを向けながら、彼らは笑った。
僕は、なにが起きているのかまったくわからなかった。
「な? 言ったろ? 八瀬が男好きってのはマジだって」
追い打ちをかけたのは、真柴君の楽しそうな声。
そう。あの告白は、嘘だったというわけだ。
誰にも言っていなかったのに。
どこかで、彼らは僕の秘密を知ったらしい。
それを確かめるために、あんな最低なことをした。
でも、彼らはそれだけでは終わらなかった。
「大翔、サイテー」
「八瀬クン、ショック受けちゃってんじゃん」
そんなことを言いながら、彼らはいつまでも笑った。
僕がどんな風に感じているのかなんて、まるで興味ない。
同性に恋をするという設定の、人形。
だから、どれだけ傷付けてもいい。
そう思っているように感じた。
「あれ? 本気にしちゃった?」
極めつけは、真柴君のその言葉だった。
信じたのに。
信じたかったのに。
それを、彼はすべてぶち壊した。
「可哀そうな八瀬クンに教えてやるよ」
真柴君は改めて僕の真正面に立った。
そして、片側の口角を上げる。
「お前を好きになる奴なんて、いないんだよ」
それを告げると、彼らは笑いながら、教室から出て行った。
そして、その日を境に、僕は教室に足を踏み入れることができなくなった。
◆
あれから、僕は心の傷に何重もの包帯を巻きつけた。
あんな最低な人たちに、僕の人生を潰されてたまるかって、自分を奮い立たせて。
そうして大学に進学したし、新しい世界にも踏み込んだ。
琥珀先輩は、真柴君とは違う。
僕のことをたくさんからかってきたけど、真柴君みたいに最低なことをするような人じゃない。
そう、わかっているのに。
『本気にされても、困るんだけど』
あの告白の続きとして、そう言われてしまうような気がした。
信じるなって、過去の僕が警告をしてくるんだ。何度も、何度も。血まみれの心を隠さず、僕に告げてくる。
それに、あの女の先輩たちも言っていた。
――君が期待してたら可哀想だと思って教えてあげてるんだからね?
――琥珀は誰にも本気にならないの。
だから僕は、悪い方向に考えてしまうんだろう。
やっぱり、恋をするなら、先輩はダメだった。
頭では、わかっているのに。
僕の頭には先輩の笑顔ばかり浮かんでくる。
諦めないと、いけないの?
諦めたくない。こんなに誰かを好きになったのは、初めてなのに。
窓の外を見上げると、薄暗い雲が空を覆っていた。
どうやら、梅雨が近付いているらしい。
雨は、僕の心を綺麗に癒してくれるかな。
そんなバカげたことを考えているうちに、チャイムが鳴った。
◇
バイトをしているうちに、雨が降り始めていた。
今日、天気予報を見忘れたせいで、傘なんて持ってきていない。
先輩の告白を断っちゃったし、あのときのことを思い出すし、雨が降るし。
憂鬱さが増して、ため息が出そうになる。
だけど、一度、お客さんがいても関係なしにため息をついたのを亮太さんに見つかり、注意されたのもあって、ぐっと堪える。
お客さんがいなくなってからは、その反動で止まらなくなったけど。
そうして、何度目かのため息をついたとき、ドアベルが鳴った。
「……チアキくん」
入ってきたのは、琥珀先輩。
勝手に、今日の迎えはなしなんだと思っていた。
「琥珀先輩……」
あんなやり取りをした僕たちの間には、気まずい空気が流れる。
お互いに、目が合わせられない。
「お、琥珀。今日もお迎え?」
僕たちの間に起きたことを知らない亮太さんは、いつも通りに声をかけてきた。
「まあね」
「琥珀は本当に千瑛くんのことが好きなんだな」
なにも知らないんだよな?と疑ってしまうくらい、最悪なタイミングでの言葉。
亮太さんは笑い飛ばしているから、すぐにそれがラブではなく、ライクなんだと理解したけど……
一瞬、ラブで受け取ってしまったせいで、戸惑いが隠せない。
「じゃあ千瑛くん、先に上がっていいよ」
亮太さんに言われると、僕は逃げるように、スタッフルームに入る。
バイトの制服から私服に着替えていく中で、心が落ち着いてくれると思った。
だけど、これから先輩と帰るんだと思うと、とても落ち着いてはいられなかった。
「……お先に失礼します」
「うん、お疲れ様」
そして僕たちは、店を出る。
……そういえば、傘を忘れたんだっけ。
それなりに振っている雨を見つめながら、途方に暮れる。
「チアキくん、傘は?」
先に傘を差し、雨の中に足を進めた琥珀先輩が、立ち止まったままの僕を不思議そうに見つめる。
「忘れちゃって」
「じゃあ……」
先輩はそう言いながら、僕に近寄った。
「一緒に入る?」
それはつまり、相合傘的な。
先輩の告白を断った手前、その提案に甘えてもいいものなのかな。
そんな僕の葛藤もお見通しなのか、先輩は僕のほうに傘を差し出し、入りやすいようにしてくれた。
すると、斜めに降っている雨が、先輩の肩を濡らした。このままだと、先輩が濡れ続けることになる。
だから僕は、その傘に入った。
店に戻って傘を借りてくればよかったと気付いたのは、僕の家への道を歩き始めて、しばらくしてからだった。
そう考える余裕があるくらい、僕たちの間には沈黙が流れた。
お互いに濡れないように肩を寄せ合うけど、お互いに肩が触れないように、距離を作って。
少しずつ左肩の布が水を吸収し始める。
いつもなら不快だけど、今日はなんとも思わなかった。
そんなことよりも、この距離による緊張感のせいで、息ができているか、わからない。
僕の家までって、こんなに遠かったっけ。もっと、あっという間に着いてたと思うんだけど。
早く着け。もう、この沈黙から解放されたいんだ。
「……ねえ、チアキくん」
すると、先輩が僕を呼んだ。
最後まで無言で歩き続けるんだとばかり思っていたから、反応した声は裏返った。
これでは緊張していることがバレバレだ。また、先輩にからかわれてしまう。
そう思ったけど、横目に見た先輩は、真剣な面持ちでそこにいた。
「俺がチアキくんのこと好きって、信じられない?」
先輩の視線は、僕を捉える。
笑顔なんて、作る余裕がないらしい。
僕が「ごめんなさい」って、言い逃げしたせいだろう。
きっと、気まずくても僕を迎えにきたのは、これを聞き出すため。
だったら、ちゃんと答えなければ。
「……怖いんです」
「怖い?」
先輩が繰り返すと、僕は頷いた。
「信じられないんじゃなくて、信じるのが、怖いんです」
僕が先輩の言葉を信じて。それがウソでした、なんて言われたら。
間違いなく僕は、耐えられない。
真柴君のときとは、違うんだ。
あのときは、僕と同じように同性に恋をする人がいて嬉しいってだけで、真柴君に惹かれていたわけじゃなかった。
でも今回は、僕が先輩のことを好きになってしまった。
それでやっぱり勘違いでした、なんてことになったら。
僕は一生、恋ができなくなる。
だから、先輩の言葉を簡単には信じられなかった。
「どうして?」
「……僕を好きになってくれる人なんて、いない、から……」
それが答えになっているのか、わからない。
でも、これはたしかに、僕が踏み出せない理由のひとつだ。
すると、緊張で張り詰めていた空気が、ほんの少し、ピリッとした。
「なにそれ。なんでそんなふうに思うの?」
先輩の声には、怒りが潜んでいる。
僕が怒られているわけではないのに、身体が強張ってしまう。
「それは……」
――お前を好きになる奴なんて、いない。
どれだけ、乗り越えたつもりでいても、頭から消えてくれない言葉。
これは、僕にかかった呪いだ。
きっと、そう簡単には解けてはくれない。
「ここにいるよ」
「え……」
「チアキくんのことが好きな奴。ここにいる」
信じて。
琥珀先輩の声、そして瞳には、そんな意思が宿っているように感じた。
こうやって、先輩は何度でも伝えてくれるのに。
どうして僕は、信じることができないんだろう。
信じたい。
そう、思っているのに。
呪われた僕の思考回路は、闇に引きずり込まれていく。
「……俺が適当だから?」
そう言った琥珀先輩は、過去の自分を悔いているように見えた。
「俺がこれまで、誰にも本心を見せてこなかったから、信じてくれないの?」
「先輩は、僕の前でたくさん本心を見せていたじゃないですか」
……そうだ。
少しずつ、先輩は僕の前で胡散臭い笑い方をしなくなっていた。
――久しぶりにアイツが楽しそうに入ってきたのは、君のおかげかな?
初めて亮太さんの店に行ったとき、叔父である亮太さんがそう言ったくらいだ。
先輩が僕の反応を見て楽しそうだったのは、面白くなかったけど、本物の笑顔から目が離せなくなってて。
どうしてそれを、忘れていたんだろう。
……違う、気付きたくなかったんだ。
気付いたら、期待してしまうから。
琥珀先輩も、僕と同じように、僕のことを好きでいてくれるんじゃないかって。
「じゃあ……どうして?」
「……昔、言われたんです」
自分から、その言葉を口にしたことはなかった。
いつだって、忘れることに必死で、誰にも言えなかったから。
それに、誰に言っても、僕の気持ちに寄り添ってくれることはないんだって、勝手に諦めていたから。
でも、先輩は聞いてくれる。
そんな予感がした。
「……男が好きなんて、気持ち悪い。お前を好きになる奴なんていないって」
それを聞いて、先輩は足を止めた。
僕が続いて足を止めなかったことで、僕は傘からはみ出した。
まだ降り続ける雨が、僕の頬に落ちる。
それに気付いた琥珀先輩は、僕に傘を傾けてくれた。
だけど、傘のほとんどを僕に向けたせいで、今度は琥珀先輩が濡れてしまっている。
「それ、誰が言ったの」
先輩の声は、震えていた。
怒っているようで、悲しそうな声。
まるで、先輩が傷付けられたみたい。
それくらい、先輩は痛そうな顔をしている。
先輩の頬にも雫が伝った。それが雨なのか、涙なのか。僕にはわからない。
「……僕に嘘の告白をしてきた同級生、です」
前者は違うけど……たぶん、真柴君たちはそう思っていたと思う。
そうじゃないと、あんなこともしないだろうし。
そもそも、“気持ち悪い”は直接的に言われたわけじゃない。
お母さんだって、僕にそれを暗示させるために『男同士なんて』と言ったつもりはないだろう。
だけど、僕はそう受け取ってしまった。
だからこれは、言われたようなものだと思う。
「そんな奴の言葉、忘れなよ」
僕が先輩にも傘を傾けるためにほんの少し近寄ると、先輩はまっすぐ、俺の目を見つめてきた。
怒りと悲しみで揺れ動く瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「ねえ、チアキくん」
琥珀先輩は、傘に触れている僕の手に、そっと自分の手を重ねた。
先輩の手はひんやりとしている。
けれど、触れ合ったところから、お互いの熱を分け合っているんじゃないかって思うくらい、僕の体温は上昇した。
「俺の言葉を信じてよ」
こうして、まっすぐ伝えてくれるのは、何度目だろう。
もう、疑う余地がないくらい、琥珀先輩は僕に伝えてくれている。
そのおかげか、少しずつ、僕の身体にまとわりついていた鎖から解放されている気がした。
「俺を変えてくれたのは、チアキくんだよ」
僕を変えてくれたのだって、琥珀先輩だ。
「チアキくんに出会わなかったら、俺はいつまでも、自分の時間を無駄にしてたと思う」
琥珀先輩に出会わなかったら、僕はいつまでも、恋がしたいって理想を掲げていただけだと思う。
「誰かと時間をともにしたい、大切にしていきたいって思えたのは、チアキくんが初めてなんだよ」
それは、僕も同じ。
こんなにも誰かのことを想うのは、琥珀先輩が初めてだ。
「チアキくんは、十分素敵な人だよ。好きにならずにはいられないくらいね」
そこまで聞いて、涙が込み上げてきた。
「俺は、八瀬千瑛が好き。チアキくんは信じられないかもしれないけど、これは事実だ」
まっすぐ伝えられた言葉に、僕の目から涙が落ちた。
この人の言葉なら、信じられる。
心から、そう思った。
「チアキくん、泣いてる?」
「な、泣いてません! これは、雨です!」
そう言ったものの、もう雨音は聞こえてこない。先輩ももちろんそれに気付いている。
だから、そんな苦し紛れな言い訳を、先輩は笑ってくれた。
作り笑いじゃない、本物の笑顔。
それにつられるように、僕も笑みをこぼした。
「ねえ、俺にチャンスくれない?」
先輩はそう言いながら、傘を閉じる。
チャンスもなにも、もう琥珀先輩に惹かれているのに。
そう思ったけど、僕はまだ、自分の思いを口にしていないことに気付いた。
……いや、この流れで言うのは、なんか違う。
「一緒に夏祭り行こ」
いわゆる、デートのお誘い。
少し前の僕なら、勢い任せで断っていただろう。
でも、今回は小さく頷いた。
そんな僕の反応を見て、琥珀先輩は嬉しそうに頬をほころばせた。
祭りの雰囲気に便乗すれば、僕だって気持ちを伝えられる。
そんな気がしていた。



