次の日、いつもより早く大学に行った俺は、ゼミ室でわかりやすく頭を抱えていた。
昨日の夜、らしくないことを言った、よな……?
――じゃあ、もっと意識してよ。
いや、恥ずかしすぎる。
いつもは缶一本で酔ったりしないのに。
チアキくんといるのが楽しすぎて、悪酔いしたのかもしれない。そういうことにしたい。
でも、今朝のチアキくんの反応。
――お、はようございます……
ベッドの上で、一晩を共にしたかのような照れ具合。
あれだと絶対、俺が言った言葉、忘れてないよなあ……
なんであんなこと言ったんだか。
自分でも知らないうちに、チアキくんのこと、かなり気に入っていたのかな。
てか、二本目を飲み終えたあたりから記憶が曖昧なんだけど。
……え、俺、ガチで手を出した?
それなら、チアキくんのあの反応も納得だけど……いやいや、まさか。
さすがの俺も、そこまで見境なしじゃないだろ。
……そうだよな?
ダメだ、一度そうかもしれないと思ったら、不安になってきた。
「琥珀、おはよ」
急に背後から手を置かれ、俺は肩を跳ねさせた。
振り向くと、美希が軽く手を振っている。
その笑顔が、かっこ悪い俺の反応を嘲笑っているみたいに思えた。
「どした? いつものイケメンが台無し」
美希はそう言いながら、俺の隣に座る。
いつものイケメン、ね。
あんな作り笑いしか浮かべない俺の、どこがいいんだか。
まあ、そういう人間関係を築いてきたのは俺なんだけど。
「えー? いつもよりイケメンの間違いでしょ」
俺がおどけて見せると、美希は「なにそれ」と笑ってくれる。
……うん、俺にはこれくらいがお似合いだ。
お互いに踏み込みすぎない、適切な距離で、適当に過ごす。そんな、表面的な人間関係が。
たぶんそれは、美希も同じ。
だから俺は、美希といるのが楽なんだと思う。チアキくんの隣とは違う居心地の良さがあるから。
「あ、そうだ」
美希はなにかを思い出したかのように、声を上げた。
「琥珀、最近あの子とよくいるよね。チアキって後輩」
そういえば、美希はチアキくんのこと、知ってたっけ。あの飲み会で一番隣にいたのは、美希だし。
……てか、チアキくんを狙ってなかった?
まさか、それでチアキくんのことを聞き出そうとしてる、とか。
それはなんか、面白くないな。
「そんな睨まないでよ」
美希のほんの少し引いた表情で、また俺らしくないことをしてしまったことに気付いた。
「いや、睨んだわけじゃ……」
俺が慌てて弁明すると、それすらも、美希は笑った。
「あの子のこと、相当可愛がってるんだね」
そんなふうに言われると、違うって否定しにくいんだけど。
「安心して。あんなふうに甘えるところ見せつけられて、もう誘う気なくなったし」
あんなふうに。
ああ、チアキくんが、俺の服を掴んで引き留めたときのことね。たしかにあれは可愛かったけど。
そっか、あれを見たのは俺だけじゃないんだっけ。
……今になって、ムカついてきた。
なんで俺だけじゃないんだよ、なんて。
そんなふうに思う俺がいた。
「それにしても、琥珀、とうとう男にまで手を出しちゃった?」
美希はにやりと口角を上げる。
そういうわけじゃないんだけどなあ。
「琥珀ってば、本当に見境ないね」
「人聞き悪いなあ」
笑ってみるけど、そう言われても仕方ないか。
実際、何度もワンナイトを過ごしてきたし。
来る者拒まず、去る者追わず。
そんな最低なモットーを掲げていたのもある。
美希は、そんな俺を尊重してくれているひとりだ。いや、同類と言うべきか。
「あの子、琥珀に振り回されちゃって可哀想に」
美希はチアキくんに同情するように、息を吐き出す。
『どうせ、ワンナイトで切れる関係なのに』
美希のため息には、そんな意味が込められているように感じた。
「……振り回してないよ」
いつも、チアキくんは俺の前であたふたしてて、それを楽しんでいるのもまた事実だから、否定しきれない。
でも、チアキくんとの関係を、そんな簡単に縁を切ろうとは思っていない。
そんなことを言えば、ますますからかわれるだろうから、言わないけど。
「……もう、チアキくんの話は終わりにしよう」
これ以上話していたら、橘琥珀の仮面が剥がれ落ちてしまう。イケメンで遊び人という仮面が。
まあ、美希の前でなら、少々崩れても笑い飛ばしてくれるんだろうけど。
俺なりにプライドはあるんでね。
「いいの? さっきあの子、晴香たちに連れてかれてたけど」
晴香。よく俺と遊んでいたひとりだ。
おそらく、彩乃も一緒にいるんだろう。
その二人が、チアキくんを?
俺が手を出した女の子たちに牽制してきた、あの二人が。
……嫌な予感しかしないんだけど。
「それ、どこ!?」
俺がぐっと顔を近づけたことで、美希はのけぞった。
「えっと……本館の裏に行ってたかな」
その返事を聞いて、俺はゼミ室を飛び出した。
本館の、裏。
チアキくんは男だから、今までみたいに、晴香たちが泣かせにかかることはないだろうけど……
でも、心配なものは心配だ。
どれだけ些細なことだとしても、チアキくんを傷付けるのは、誰であっても許さない。
「これは意地悪なんかじゃなくて」
本館の一階廊下を歩いていると、ふと、晴香の凛とした声が聞こえた。
「そうそう」
彩乃の頷く声。
やっぱり、二人でチアキくんに声をかけていたらしい。
俺の嫌な予感は的中したというわけだ。
「君が期待してたら可哀想だと思って、教えてあげてるんだからね?」
なんて上から目線なんだ。
可哀想、とか思ってないくせに。
俺が、チアキくんばっかり構うようになって、面白くなくなったんだろ。
それを、チアキくんに八つ当たりしてるだけ。
はやくチアキくんを助けないと。
そして俺は、焦りに突き動かされるように、外へ急いだ。
チアキくんは、校舎の壁を背に立っている。そして、晴香と彩乃は逃げ道をなくすように、チアキくんの前に立ちはだかっていた。
「……僕は、男の後輩ですよ。期待なんか、するわけないです」
チアキくんの言葉が聞こえ、俺はまた陰に隠れた。このセリフの後に出ていくのは、なんだか気まずい。
期待するわけない、か……もっと意識してよって言った手前、全然気にされてないみたいで、悔しいな。
そしてそっと顔を覗かせて見ると、チアキくんは笑顔を作っている。
もしかして、嘘を言ってる?
見るからに傷付いてることが伝わってきて、胸が痛い。
昨日も、そうやって悲しい気持ちを隠そうとして。誰が、チアキくんにそんな顔をさせているの?
「……なら、いいんだけど」
晴香の声は、なんだか腑に落ちない、と言っているみたいだ。
「まあ、琥珀は大人で優しいし、君の告白も聞いてくれるだろうけど……君も、琥珀を困らせたくないでしょ?」
意地悪のつもりで言っているわけじゃないことが、一番の残酷だと思う。
俺が困るなんて、いつ、彩乃に言った?
俺はむしろ……
「先輩たち、僕よりも琥珀先輩の近くにいたのに、なにも知らないんですね」
チアキくんの、まっすぐ、強い声が聞こえた。その瞳には、静かな怒りが見える。
「……は?」
チアキくんの煽りに、晴香の低い声が響いた。
「琥珀先輩は、貴方たちが思っているよりも子供っぽいんです。知らなかったんですか」
だけど、チアキくんは怯まずに返す。
俺が子供っぽい、か。
「琥珀が子供っぽいとか、ありえないから」
晴香もそう思ったらしい。鼻で笑うような声で返す。
たしかに、晴香たちの前での橘琥珀なら、ありえない。
でもそれは、周りが作り出した虚像。
だからたぶん、チアキくんの感覚が正しい。
チアキくんと出会わなかったら、いつまでも眠り続けていた、本当の俺。
それを、チアキくんは見つけてくれただけじゃなくて、こんなにも簡単に、受け止めてくれた。
なんだろう、この感覚。胸がくすぐったい気がする。
「君のほうこそ、なにも知らないんじゃない? 琥珀がどんなふうに大人なのか」
彩乃も、晴香と同じような表情を浮かべていそうだ。
どんなふうに、ね。
これ以上は二人が余計なことを言ってしまいそうで、俺は一歩踏み出した。
「俺が子供っぽかったら、そんなに変?」
俺が声をかけると、晴香たちは勢いよく振り向いた。
「こ、はく……?」
その顔には、はっきりと「しまった」と書かれている。
チアキくんも驚いて俺の顔を見張ったけど、すぐに目を逸らした。
「いや、変って言うか……」
「らしくない、みたいな?」
晴香たちはお互いの顔を見合せ、逃げるように去っていった。
あの様子だと、俺が晴香たちのこれまでの行いを知ってるなんて、思いもしてないんだろうな。
こういうことに口を挟めば、余計面倒になるだけだって思ってたし。だから、目を瞑って来たけど。
なんか、チアキくんだけは、無視できなかった。
「あの、琥珀先輩……」
二人が去っていく背中を見つめていたら、チアキくんの震える声が聞こえた。
「ごめんね、チアキくん。助けに入るのが遅くなっちゃって」
怖い思いをしたチアキくんを安心させられるように、笑顔を見せる。
だけど、チアキくんは怯えているというより、恥ずかしそうに見えた。
「いや……そんなことより、先輩、どこから聞いてたんですか?」
「期待なんかしてないってあたりからかな」
「それは……!」
チアキくんは慌てて声を上げる。
実際にそこから聞いたけど、それを選んだのは少し意地悪だったかもしれない。
でも、俺がショックを受けたんだって、チアキくんに知ってほしいと思ってしまったんだ。
チアキくんは視線を落としたまま、こっちを見てくれない。
「……先輩は結構すんなりと受け入れてくれましたけど、みんながみんな、そうじゃないんです」
チアキくんの声が震える。
「同性に恋することを気持ち悪いって言う人も、いるんです」
チアキくんはそう言うと、拳を強く握りしめた。
たしかに、俺はチアキくんの恋愛対象については、否定しなかった。チアキくんが俺に惹かれてるかもってときは、ダメだろって思ったけど。
……そっか。だからチアキくんは、自分の気持ちを押し殺して、あんな嘘をついたのか。
でも、誰がチアキくんにあんなことを言ったんだろう。これもだけど、チアキくんを好きになる人がいないってやつも。
どうしてこんなに優しい人を、平気で傷付けられるんだよ。
俺のことじゃないのに、俺は怒りが込み上げて来た。
だけど、これはチアキくんに言うようなことじゃない。
「……そっか」
俺は怒りを抑えるのに精一杯で、気の利いたことが言えなかった。
この話題を続けていたら、お互いにしんどいだけだ。
「それより、俺ってそんなに子供っぽい?」
「え……まあ、割と」
俺が急に話題を変えたから、チアキくんは戸惑いながら、素直に答えた。
いつもよりも本音に近い反応に、俺はつい笑ってしまう。
それを見て、チアキくんは「あ……」と声をもらした。
自分が正直すぎたことに気付いたのかな。
「チアキくんは変って思わないんだ?」
実際、晴香たちはすぐにあり得ないって否定していた。きっと、美希も信じないだろう。
「だって、あれが先輩じゃないですか。いいとは思わないですけど」
憎たらしいと言わんばかりの表情。
「あー、本当……俺、チアキくんのこと、好きだなあ」
素直で、可愛くて、どんな俺でも受け入れてくれる。
変に取り繕う必要もないし、ずっと楽しくて。
チアキくんが許してくれるなら、いつまでも隣にいたい。
そう思うくらい、チアキくんが好きだ。
「え……?」
チアキくんの声がして顔を見ると、チアキくんは顔を真っ赤にしていた。
照れてるような、動揺してるような。
「……ん?」
今、もしかして声に出した!?
「いや、ちがっ……」
想定外の事態に、慌てて声を上げた。
ああ、そっか。さっきのチアキくんも、こんな気持ちだったのかな。
本心じゃないけど、知られたくない、みたいな。
でも、俺のはもう、伝えよう。伝えないといけない。
かっこ悪いけど、きっとチアキくんは引かずに笑い飛ばしてくれるだろうから。
「……あの、さ、チアキくん」
小さく深呼吸をして出した声は、震えていた。
その言葉で空気に緊張が走る。チアキくんの瞬きが止まり、その鼓動も聞こえてしまいそうだ。
……いや、俺の心音のほうがうるさいか。
「チアキくんの恋の相手……俺じゃダメ?」
いや、さすがにこれは、かっこ悪すぎる。もっといい告白の仕方があっただろ。
ずっと告白されるばっかりで、どんな言葉がかっこいいのか、考えたこともないし。
でも、これが今の俺だ。チアキくんの前で背伸びをしても、意味がないんだから。
ねえ、チアキくん。受け入れてくれる?
「僕……」
チアキくんは目を泳がせながら、俯いた。
もしかして、困らせた?
いや、照れてるだけか。
だとしても、沈黙の数秒が長く感じる。
チアキくんは静かに顔を上げると、ほんの少し、口を開いた。
だけど、再び下を向いてしまった。
「……ごめんなさい」
チアキくんはそう言うと、俺の横を走り去って行った。
え……今、チアキくん、なんて言った?
――ごめんなさい。
嘘、だろ……?
あんなに、俺のことを意識してたのに?
さっきだって、俺の心の声が口から出たときだって、赤面してたじゃん。
それなのに、ごめん?
チアキくんの返事が信じられなくて、俺はしばらくその場に立ち尽くすことしかできなかった。
昨日の夜、らしくないことを言った、よな……?
――じゃあ、もっと意識してよ。
いや、恥ずかしすぎる。
いつもは缶一本で酔ったりしないのに。
チアキくんといるのが楽しすぎて、悪酔いしたのかもしれない。そういうことにしたい。
でも、今朝のチアキくんの反応。
――お、はようございます……
ベッドの上で、一晩を共にしたかのような照れ具合。
あれだと絶対、俺が言った言葉、忘れてないよなあ……
なんであんなこと言ったんだか。
自分でも知らないうちに、チアキくんのこと、かなり気に入っていたのかな。
てか、二本目を飲み終えたあたりから記憶が曖昧なんだけど。
……え、俺、ガチで手を出した?
それなら、チアキくんのあの反応も納得だけど……いやいや、まさか。
さすがの俺も、そこまで見境なしじゃないだろ。
……そうだよな?
ダメだ、一度そうかもしれないと思ったら、不安になってきた。
「琥珀、おはよ」
急に背後から手を置かれ、俺は肩を跳ねさせた。
振り向くと、美希が軽く手を振っている。
その笑顔が、かっこ悪い俺の反応を嘲笑っているみたいに思えた。
「どした? いつものイケメンが台無し」
美希はそう言いながら、俺の隣に座る。
いつものイケメン、ね。
あんな作り笑いしか浮かべない俺の、どこがいいんだか。
まあ、そういう人間関係を築いてきたのは俺なんだけど。
「えー? いつもよりイケメンの間違いでしょ」
俺がおどけて見せると、美希は「なにそれ」と笑ってくれる。
……うん、俺にはこれくらいがお似合いだ。
お互いに踏み込みすぎない、適切な距離で、適当に過ごす。そんな、表面的な人間関係が。
たぶんそれは、美希も同じ。
だから俺は、美希といるのが楽なんだと思う。チアキくんの隣とは違う居心地の良さがあるから。
「あ、そうだ」
美希はなにかを思い出したかのように、声を上げた。
「琥珀、最近あの子とよくいるよね。チアキって後輩」
そういえば、美希はチアキくんのこと、知ってたっけ。あの飲み会で一番隣にいたのは、美希だし。
……てか、チアキくんを狙ってなかった?
まさか、それでチアキくんのことを聞き出そうとしてる、とか。
それはなんか、面白くないな。
「そんな睨まないでよ」
美希のほんの少し引いた表情で、また俺らしくないことをしてしまったことに気付いた。
「いや、睨んだわけじゃ……」
俺が慌てて弁明すると、それすらも、美希は笑った。
「あの子のこと、相当可愛がってるんだね」
そんなふうに言われると、違うって否定しにくいんだけど。
「安心して。あんなふうに甘えるところ見せつけられて、もう誘う気なくなったし」
あんなふうに。
ああ、チアキくんが、俺の服を掴んで引き留めたときのことね。たしかにあれは可愛かったけど。
そっか、あれを見たのは俺だけじゃないんだっけ。
……今になって、ムカついてきた。
なんで俺だけじゃないんだよ、なんて。
そんなふうに思う俺がいた。
「それにしても、琥珀、とうとう男にまで手を出しちゃった?」
美希はにやりと口角を上げる。
そういうわけじゃないんだけどなあ。
「琥珀ってば、本当に見境ないね」
「人聞き悪いなあ」
笑ってみるけど、そう言われても仕方ないか。
実際、何度もワンナイトを過ごしてきたし。
来る者拒まず、去る者追わず。
そんな最低なモットーを掲げていたのもある。
美希は、そんな俺を尊重してくれているひとりだ。いや、同類と言うべきか。
「あの子、琥珀に振り回されちゃって可哀想に」
美希はチアキくんに同情するように、息を吐き出す。
『どうせ、ワンナイトで切れる関係なのに』
美希のため息には、そんな意味が込められているように感じた。
「……振り回してないよ」
いつも、チアキくんは俺の前であたふたしてて、それを楽しんでいるのもまた事実だから、否定しきれない。
でも、チアキくんとの関係を、そんな簡単に縁を切ろうとは思っていない。
そんなことを言えば、ますますからかわれるだろうから、言わないけど。
「……もう、チアキくんの話は終わりにしよう」
これ以上話していたら、橘琥珀の仮面が剥がれ落ちてしまう。イケメンで遊び人という仮面が。
まあ、美希の前でなら、少々崩れても笑い飛ばしてくれるんだろうけど。
俺なりにプライドはあるんでね。
「いいの? さっきあの子、晴香たちに連れてかれてたけど」
晴香。よく俺と遊んでいたひとりだ。
おそらく、彩乃も一緒にいるんだろう。
その二人が、チアキくんを?
俺が手を出した女の子たちに牽制してきた、あの二人が。
……嫌な予感しかしないんだけど。
「それ、どこ!?」
俺がぐっと顔を近づけたことで、美希はのけぞった。
「えっと……本館の裏に行ってたかな」
その返事を聞いて、俺はゼミ室を飛び出した。
本館の、裏。
チアキくんは男だから、今までみたいに、晴香たちが泣かせにかかることはないだろうけど……
でも、心配なものは心配だ。
どれだけ些細なことだとしても、チアキくんを傷付けるのは、誰であっても許さない。
「これは意地悪なんかじゃなくて」
本館の一階廊下を歩いていると、ふと、晴香の凛とした声が聞こえた。
「そうそう」
彩乃の頷く声。
やっぱり、二人でチアキくんに声をかけていたらしい。
俺の嫌な予感は的中したというわけだ。
「君が期待してたら可哀想だと思って、教えてあげてるんだからね?」
なんて上から目線なんだ。
可哀想、とか思ってないくせに。
俺が、チアキくんばっかり構うようになって、面白くなくなったんだろ。
それを、チアキくんに八つ当たりしてるだけ。
はやくチアキくんを助けないと。
そして俺は、焦りに突き動かされるように、外へ急いだ。
チアキくんは、校舎の壁を背に立っている。そして、晴香と彩乃は逃げ道をなくすように、チアキくんの前に立ちはだかっていた。
「……僕は、男の後輩ですよ。期待なんか、するわけないです」
チアキくんの言葉が聞こえ、俺はまた陰に隠れた。このセリフの後に出ていくのは、なんだか気まずい。
期待するわけない、か……もっと意識してよって言った手前、全然気にされてないみたいで、悔しいな。
そしてそっと顔を覗かせて見ると、チアキくんは笑顔を作っている。
もしかして、嘘を言ってる?
見るからに傷付いてることが伝わってきて、胸が痛い。
昨日も、そうやって悲しい気持ちを隠そうとして。誰が、チアキくんにそんな顔をさせているの?
「……なら、いいんだけど」
晴香の声は、なんだか腑に落ちない、と言っているみたいだ。
「まあ、琥珀は大人で優しいし、君の告白も聞いてくれるだろうけど……君も、琥珀を困らせたくないでしょ?」
意地悪のつもりで言っているわけじゃないことが、一番の残酷だと思う。
俺が困るなんて、いつ、彩乃に言った?
俺はむしろ……
「先輩たち、僕よりも琥珀先輩の近くにいたのに、なにも知らないんですね」
チアキくんの、まっすぐ、強い声が聞こえた。その瞳には、静かな怒りが見える。
「……は?」
チアキくんの煽りに、晴香の低い声が響いた。
「琥珀先輩は、貴方たちが思っているよりも子供っぽいんです。知らなかったんですか」
だけど、チアキくんは怯まずに返す。
俺が子供っぽい、か。
「琥珀が子供っぽいとか、ありえないから」
晴香もそう思ったらしい。鼻で笑うような声で返す。
たしかに、晴香たちの前での橘琥珀なら、ありえない。
でもそれは、周りが作り出した虚像。
だからたぶん、チアキくんの感覚が正しい。
チアキくんと出会わなかったら、いつまでも眠り続けていた、本当の俺。
それを、チアキくんは見つけてくれただけじゃなくて、こんなにも簡単に、受け止めてくれた。
なんだろう、この感覚。胸がくすぐったい気がする。
「君のほうこそ、なにも知らないんじゃない? 琥珀がどんなふうに大人なのか」
彩乃も、晴香と同じような表情を浮かべていそうだ。
どんなふうに、ね。
これ以上は二人が余計なことを言ってしまいそうで、俺は一歩踏み出した。
「俺が子供っぽかったら、そんなに変?」
俺が声をかけると、晴香たちは勢いよく振り向いた。
「こ、はく……?」
その顔には、はっきりと「しまった」と書かれている。
チアキくんも驚いて俺の顔を見張ったけど、すぐに目を逸らした。
「いや、変って言うか……」
「らしくない、みたいな?」
晴香たちはお互いの顔を見合せ、逃げるように去っていった。
あの様子だと、俺が晴香たちのこれまでの行いを知ってるなんて、思いもしてないんだろうな。
こういうことに口を挟めば、余計面倒になるだけだって思ってたし。だから、目を瞑って来たけど。
なんか、チアキくんだけは、無視できなかった。
「あの、琥珀先輩……」
二人が去っていく背中を見つめていたら、チアキくんの震える声が聞こえた。
「ごめんね、チアキくん。助けに入るのが遅くなっちゃって」
怖い思いをしたチアキくんを安心させられるように、笑顔を見せる。
だけど、チアキくんは怯えているというより、恥ずかしそうに見えた。
「いや……そんなことより、先輩、どこから聞いてたんですか?」
「期待なんかしてないってあたりからかな」
「それは……!」
チアキくんは慌てて声を上げる。
実際にそこから聞いたけど、それを選んだのは少し意地悪だったかもしれない。
でも、俺がショックを受けたんだって、チアキくんに知ってほしいと思ってしまったんだ。
チアキくんは視線を落としたまま、こっちを見てくれない。
「……先輩は結構すんなりと受け入れてくれましたけど、みんながみんな、そうじゃないんです」
チアキくんの声が震える。
「同性に恋することを気持ち悪いって言う人も、いるんです」
チアキくんはそう言うと、拳を強く握りしめた。
たしかに、俺はチアキくんの恋愛対象については、否定しなかった。チアキくんが俺に惹かれてるかもってときは、ダメだろって思ったけど。
……そっか。だからチアキくんは、自分の気持ちを押し殺して、あんな嘘をついたのか。
でも、誰がチアキくんにあんなことを言ったんだろう。これもだけど、チアキくんを好きになる人がいないってやつも。
どうしてこんなに優しい人を、平気で傷付けられるんだよ。
俺のことじゃないのに、俺は怒りが込み上げて来た。
だけど、これはチアキくんに言うようなことじゃない。
「……そっか」
俺は怒りを抑えるのに精一杯で、気の利いたことが言えなかった。
この話題を続けていたら、お互いにしんどいだけだ。
「それより、俺ってそんなに子供っぽい?」
「え……まあ、割と」
俺が急に話題を変えたから、チアキくんは戸惑いながら、素直に答えた。
いつもよりも本音に近い反応に、俺はつい笑ってしまう。
それを見て、チアキくんは「あ……」と声をもらした。
自分が正直すぎたことに気付いたのかな。
「チアキくんは変って思わないんだ?」
実際、晴香たちはすぐにあり得ないって否定していた。きっと、美希も信じないだろう。
「だって、あれが先輩じゃないですか。いいとは思わないですけど」
憎たらしいと言わんばかりの表情。
「あー、本当……俺、チアキくんのこと、好きだなあ」
素直で、可愛くて、どんな俺でも受け入れてくれる。
変に取り繕う必要もないし、ずっと楽しくて。
チアキくんが許してくれるなら、いつまでも隣にいたい。
そう思うくらい、チアキくんが好きだ。
「え……?」
チアキくんの声がして顔を見ると、チアキくんは顔を真っ赤にしていた。
照れてるような、動揺してるような。
「……ん?」
今、もしかして声に出した!?
「いや、ちがっ……」
想定外の事態に、慌てて声を上げた。
ああ、そっか。さっきのチアキくんも、こんな気持ちだったのかな。
本心じゃないけど、知られたくない、みたいな。
でも、俺のはもう、伝えよう。伝えないといけない。
かっこ悪いけど、きっとチアキくんは引かずに笑い飛ばしてくれるだろうから。
「……あの、さ、チアキくん」
小さく深呼吸をして出した声は、震えていた。
その言葉で空気に緊張が走る。チアキくんの瞬きが止まり、その鼓動も聞こえてしまいそうだ。
……いや、俺の心音のほうがうるさいか。
「チアキくんの恋の相手……俺じゃダメ?」
いや、さすがにこれは、かっこ悪すぎる。もっといい告白の仕方があっただろ。
ずっと告白されるばっかりで、どんな言葉がかっこいいのか、考えたこともないし。
でも、これが今の俺だ。チアキくんの前で背伸びをしても、意味がないんだから。
ねえ、チアキくん。受け入れてくれる?
「僕……」
チアキくんは目を泳がせながら、俯いた。
もしかして、困らせた?
いや、照れてるだけか。
だとしても、沈黙の数秒が長く感じる。
チアキくんは静かに顔を上げると、ほんの少し、口を開いた。
だけど、再び下を向いてしまった。
「……ごめんなさい」
チアキくんはそう言うと、俺の横を走り去って行った。
え……今、チアキくん、なんて言った?
――ごめんなさい。
嘘、だろ……?
あんなに、俺のことを意識してたのに?
さっきだって、俺の心の声が口から出たときだって、赤面してたじゃん。
それなのに、ごめん?
チアキくんの返事が信じられなくて、俺はしばらくその場に立ち尽くすことしかできなかった。



