次の日、いつもより早く大学に行った俺は、ゼミ室でわかりやすく頭を抱えていた。
 昨日の夜、らしくないことを言った、よな……?

 ――じゃあ、もっと意識してよ。

 いや、恥ずかしすぎる。
 いつもは缶一本で酔ったりしないのに。
 チアキくんといるのが楽しすぎて、悪酔いしたのかもしれない。そういうことにしたい。
 でも、今朝のチアキくんの反応。

 ――お、はようございます……

 ベッドの上で、一晩を共にしたかのような照れ具合。
 あれだと絶対、俺が言った言葉、忘れてないよなあ……
 なんであんなこと言ったんだか。
 自分でも知らないうちに、チアキくんのこと、かなり気に入っていたのかな。
 てか、二本目を飲み終えたあたりから記憶が曖昧なんだけど。
 ……え、俺、ガチで手を出した?
 それなら、チアキくんのあの反応も納得だけど……いやいや、まさか。
 さすがの俺も、そこまで見境なしじゃないだろ。
 ……そうだよな?
 ダメだ、一度そうかもしれないと思ったら、不安になってきた。

「琥珀、おはよ」

 急に背後から手を置かれ、俺は肩を跳ねさせた。
 振り向くと、美希(みき)が軽く手を振っている。
 その笑顔が、かっこ悪い俺の反応を嘲笑っているみたいに思えた。

「どした? いつものイケメンが台無し」

 美希はそう言いながら、俺の隣に座る。
 いつものイケメン、ね。
 あんな作り笑いしか浮かべない俺の、どこがいいんだか。
 まあ、そういう人間関係を築いてきたのは俺なんだけど。

「えー? いつもよりイケメンの間違いでしょ」

 俺がおどけて見せると、美希は「なにそれ」と笑ってくれる。
 ……うん、俺にはこれくらいがお似合いだ。
 お互いに踏み込みすぎない、適切な距離で、適当に過ごす。そんな、表面的な人間関係が。
 たぶんそれは、美希も同じ。
 だから俺は、美希といるのが楽なんだと思う。チアキくんの隣とは違う居心地の良さがあるから。

「あ、そうだ」

 美希はなにかを思い出したかのように、声を上げた。

「琥珀、最近あの子とよくいるよね。チアキって後輩」

 そういえば、美希はチアキくんのこと、知ってたっけ。あの飲み会で一番隣にいたのは、美希だし。
 ……てか、チアキくんを狙ってなかった?
 まさか、それでチアキくんのことを聞き出そうとしてる、とか。
 それはなんか、面白くないな。

「そんな睨まないでよ」

 美希のほんの少し引いた表情で、また俺らしくないことをしてしまったことに気付いた。

「いや、睨んだわけじゃ……」

 俺が慌てて弁明すると、それすらも、美希は笑った。

「あの子のこと、相当可愛がってるんだね」

 そんなふうに言われると、違うって否定しにくいんだけど。

「安心して。あんなふうに甘えるところ見せつけられて、もう誘う気なくなったし」

 あんなふうに。
 ああ、チアキくんが、俺の服を掴んで引き留めたときのことね。たしかにあれは可愛かったけど。
 そっか、あれを見たのは俺だけじゃないんだっけ。
 ……今になって、ムカついてきた。
 なんで俺だけじゃないんだよ、なんて。
 そんなふうに思う俺がいた。

「それにしても、琥珀、とうとう男にまで手を出しちゃった?」

 美希はにやりと口角を上げる。
 そういうわけじゃないんだけどなあ。

「琥珀ってば、本当に見境ないね」
「人聞き悪いなあ」

 笑ってみるけど、そう言われても仕方ないか。
 実際、何度もワンナイトを過ごしてきたし。
 来る者拒まず、去る者追わず。
 そんな最低なモットーを掲げていたのもある。
 美希は、そんな俺を尊重してくれているひとりだ。いや、同類と言うべきか。

「あの子、琥珀に振り回されちゃって可哀想に」

 美希はチアキくんに同情するように、息を吐き出す。

『どうせ、ワンナイトで切れる関係なのに』

 美希のため息には、そんな意味が込められているように感じた。

「……振り回してないよ」

 いつも、チアキくんは俺の前であたふたしてて、それを楽しんでいるのもまた事実だから、否定しきれない。
 でも、チアキくんとの関係を、そんな簡単に縁を切ろうとは思っていない。
 そんなことを言えば、ますますからかわれるだろうから、言わないけど。

「……もう、チアキくんの話は終わりにしよう」

 これ以上話していたら、橘琥珀の仮面が剥がれ落ちてしまう。イケメンで遊び人という仮面が。
 まあ、美希の前でなら、少々崩れても笑い飛ばしてくれるんだろうけど。
 俺なりにプライドはあるんでね。

「いいの? さっきあの子、晴香(はるか)たちに連れてかれてたけど」

 晴香。よく俺と遊んでいたひとりだ。
 おそらく、彩乃(あやの)も一緒にいるんだろう。
 その二人が、チアキくんを?
 俺が手を出した女の子たちに牽制してきた、あの二人が。
 ……嫌な予感しかしないんだけど。

「それ、どこ!?」

 俺がぐっと顔を近づけたことで、美希はのけぞった。

「えっと……本館の裏に行ってたかな」

 その返事を聞いて、俺はゼミ室を飛び出した。
 本館の、裏。
 チアキくんは男だから、今までみたいに、晴香たちが泣かせにかかることはないだろうけど……
 でも、心配なものは心配だ。
 どれだけ些細なことだとしても、チアキくんを傷付けるのは、誰であっても許さない。

「これは意地悪なんかじゃなくて」

 本館の一階廊下を歩いていると、ふと、晴香の凛とした声が聞こえた。

「そうそう」

 彩乃の頷く声。
 やっぱり、二人でチアキくんに声をかけていたらしい。
 俺の嫌な予感は的中したというわけだ。

「君が期待してたら可哀想だと思って、教えてあげてるんだからね?」

 なんて上から目線なんだ。
 可哀想、とか思ってないくせに。
 俺が、チアキくんばっかり構うようになって、面白くなくなったんだろ。
 それを、チアキくんに八つ当たりしてるだけ。
 はやくチアキくんを助けないと。
 そして俺は、焦りに突き動かされるように、外へ急いだ。
 チアキくんは、校舎の壁を背に立っている。そして、晴香と彩乃は逃げ道をなくすように、チアキくんの前に立ちはだかっていた。

「……僕は、男の後輩ですよ。期待なんか、するわけないです」

 チアキくんの言葉が聞こえ、俺はまた陰に隠れた。このセリフの後に出ていくのは、なんだか気まずい。
 期待するわけない、か……もっと意識してよって言った手前、全然気にされてないみたいで、悔しいな。
 そしてそっと顔を覗かせて見ると、チアキくんは笑顔を作っている。
 もしかして、嘘を言ってる?
 見るからに傷付いてることが伝わってきて、胸が痛い。
 昨日も、そうやって悲しい気持ちを隠そうとして。誰が、チアキくんにそんな顔をさせているの?

「……なら、いいんだけど」

 晴香の声は、なんだか腑に落ちない、と言っているみたいだ。

「まあ、琥珀は大人で優しいし、君の告白も聞いてくれるだろうけど……君も、琥珀を困らせたくないでしょ?」

 意地悪のつもりで言っているわけじゃないことが、一番の残酷だと思う。
 俺が困るなんて、いつ、彩乃に言った?
 俺はむしろ……

「先輩たち、僕よりも琥珀先輩の近くにいたのに、なにも知らないんですね」

 チアキくんの、まっすぐ、強い声が聞こえた。その瞳には、静かな怒りが見える。

「……は?」

 チアキくんの煽りに、晴香の低い声が響いた。

「琥珀先輩は、貴方たちが思っているよりも子供っぽいんです。知らなかったんですか」

 だけど、チアキくんは怯まずに返す。
 俺が子供っぽい、か。

「琥珀が子供っぽいとか、ありえないから」

 晴香もそう思ったらしい。鼻で笑うような声で返す。
 たしかに、晴香たちの前での橘琥珀なら、ありえない。
 でもそれは、周りが作り出した虚像。
 だからたぶん、チアキくんの感覚が正しい。
 チアキくんと出会わなかったら、いつまでも眠り続けていた、本当の俺。
 それを、チアキくんは見つけてくれただけじゃなくて、こんなにも簡単に、受け止めてくれた。
 なんだろう、この感覚。胸がくすぐったい気がする。

「君のほうこそ、なにも知らないんじゃない? 琥珀がどんなふうに大人なのか」

 彩乃も、晴香と同じような表情を浮かべていそうだ。
 どんなふうに、ね。
 これ以上は二人が余計なことを言ってしまいそうで、俺は一歩踏み出した。

「俺が子供っぽかったら、そんなに変?」

 俺が声をかけると、晴香たちは勢いよく振り向いた。

「こ、はく……?」

 その顔には、はっきりと「しまった」と書かれている。
 チアキくんも驚いて俺の顔を見張ったけど、すぐに目を逸らした。

「いや、変って言うか……」
「らしくない、みたいな?」

 晴香たちはお互いの顔を見合せ、逃げるように去っていった。
 あの様子だと、俺が晴香たちのこれまでの行いを知ってるなんて、思いもしてないんだろうな。
 こういうことに口を挟めば、余計面倒になるだけだって思ってたし。だから、目を瞑って来たけど。
 なんか、チアキくんだけは、無視できなかった。

「あの、琥珀先輩……」

 二人が去っていく背中を見つめていたら、チアキくんの震える声が聞こえた。

「ごめんね、チアキくん。助けに入るのが遅くなっちゃって」

 怖い思いをしたチアキくんを安心させられるように、笑顔を見せる。
 だけど、チアキくんは怯えているというより、恥ずかしそうに見えた。

「いや……そんなことより、先輩、どこから聞いてたんですか?」
「期待なんかしてないってあたりからかな」
「それは……!」

 チアキくんは慌てて声を上げる。
 実際にそこから聞いたけど、それを選んだのは少し意地悪だったかもしれない。
 でも、俺がショックを受けたんだって、チアキくんに知ってほしいと思ってしまったんだ。
 チアキくんは視線を落としたまま、こっちを見てくれない。

「……先輩は結構すんなりと受け入れてくれましたけど、みんながみんな、そうじゃないんです」

 チアキくんの声が震える。

「同性に恋することを気持ち悪いって言う人も、いるんです」

 チアキくんはそう言うと、拳を強く握りしめた。
 たしかに、俺はチアキくんの恋愛対象については、否定しなかった。チアキくんが俺に惹かれてるかもってときは、ダメだろって思ったけど。
 ……そっか。だからチアキくんは、自分の気持ちを押し殺して、あんな嘘をついたのか。
 でも、誰がチアキくんにあんなことを言ったんだろう。これもだけど、チアキくんを好きになる人がいないってやつも。
 どうしてこんなに優しい人を、平気で傷付けられるんだよ。
 俺のことじゃないのに、俺は怒りが込み上げて来た。
 だけど、これはチアキくんに言うようなことじゃない。

「……そっか」

 俺は怒りを抑えるのに精一杯で、気の利いたことが言えなかった。
 この話題を続けていたら、お互いにしんどいだけだ。

「それより、俺ってそんなに子供っぽい?」
「え……まあ、割と」

 俺が急に話題を変えたから、チアキくんは戸惑いながら、素直に答えた。
 いつもよりも本音に近い反応に、俺はつい笑ってしまう。
 それを見て、チアキくんは「あ……」と声をもらした。
 自分が正直すぎたことに気付いたのかな。

「チアキくんは変って思わないんだ?」

 実際、晴香たちはすぐにあり得ないって否定していた。きっと、美希も信じないだろう。

「だって、あれが先輩じゃないですか。いいとは思わないですけど」

 憎たらしいと言わんばかりの表情。

「あー、本当……俺、チアキくんのこと、好きだなあ」

 素直で、可愛くて、どんな俺でも受け入れてくれる。
 変に取り繕う必要もないし、ずっと楽しくて。
 チアキくんが許してくれるなら、いつまでも隣にいたい。
 そう思うくらい、チアキくんが好きだ。

「え……?」

 チアキくんの声がして顔を見ると、チアキくんは顔を真っ赤にしていた。
 照れてるような、動揺してるような。

「……ん?」

 今、もしかして声に出した!?

「いや、ちがっ……」

 想定外の事態に、慌てて声を上げた。
 ああ、そっか。さっきのチアキくんも、こんな気持ちだったのかな。
 本心じゃないけど、知られたくない、みたいな。
 でも、俺のはもう、伝えよう。伝えないといけない。
 かっこ悪いけど、きっとチアキくんは引かずに笑い飛ばしてくれるだろうから。

「……あの、さ、チアキくん」

 小さく深呼吸をして出した声は、震えていた。
 その言葉で空気に緊張が走る。チアキくんの瞬きが止まり、その鼓動も聞こえてしまいそうだ。
 ……いや、俺の心音のほうがうるさいか。

「チアキくんの恋の相手……俺じゃダメ?」

 いや、さすがにこれは、かっこ悪すぎる。もっといい告白の仕方があっただろ。
 ずっと告白されるばっかりで、どんな言葉がかっこいいのか、考えたこともないし。
 でも、これが今の俺だ。チアキくんの前で背伸びをしても、意味がないんだから。
 ねえ、チアキくん。受け入れてくれる?

「僕……」

 チアキくんは目を泳がせながら、俯いた。
 もしかして、困らせた?
 いや、照れてるだけか。
 だとしても、沈黙の数秒が長く感じる。
 チアキくんは静かに顔を上げると、ほんの少し、口を開いた。
 だけど、再び下を向いてしまった。

「……ごめんなさい」

 チアキくんはそう言うと、俺の横を走り去って行った。
 え……今、チアキくん、なんて言った?

 ――ごめんなさい。

 嘘、だろ……?
 あんなに、俺のことを意識してたのに?
 さっきだって、俺の心の声が口から出たときだって、赤面してたじゃん。
 それなのに、ごめん?
 チアキくんの返事が信じられなくて、俺はしばらくその場に立ち尽くすことしかできなかった。