全速力で駆け寄り、声をかける。息を切らせた暁史を、胡乱そうな六つの目玉が振り向いた。その彼らの頭の向こうから、紅もこちらを見る。大きな目が暁史を捉え、まん丸に見開かれた。
「多賀、なにしてんの」
「な、なにしてんのはこっちの台詞。ほら、や、約束してたのに、なんでこんなとこ、いんの」
 震える足を進め、彼らの間に分け入る。ぐい、と手首を掴むと、彼は驚いたような顔をしたが、構わず走り出した。おい! 待てよ! と背中で三人が騒いでいるのが聞こえたものの、止まるつもりはなかった。
「ちょ、あの……!」
 コンビニからどれほど遠ざかっただろう。いつの間にか帰り道とは逆方向に走っていて、学校近くにある、自然公園の入り口まで戻ってきてしまっていた。
「多賀ってば!」
 声と共に手が大きく振られ、握っていた彼の手首が手からすり抜ける。え、と振り向くと、肩で息をしながら紅がこちらを見上げていた。
「どしたの、急に……」
「だって、なんか囲まれてたじゃん!」
 あんな状態で、放っておけるわけがないだろう!
 本当はそう怒鳴りたかった。だがうまく言えなくて、暁史は俯く。
 彼もまた、なにも言わない。数秒顔を伏せたままでいたが、沈黙に耐えかねてそろそろと顔を上げると、口許を片手で覆ったままこちらを見つめている紅と目が合った。あの、と手の向こうからくぐもった声がする。
「それ、多分、誤解」
「誤解……?」
「さっきの別にいじめとか、そういうんじゃない。あれ、兄貴の後輩」
「え、そ、そうなの?」
「そう。たまたまあそこで顔合わせて、兄貴元気かって言われて。兄貴もう独立してるし、最近会ってないって言ったら、ちったあ兄貴孝行しろよって言われて。それくらい?」
 話を聞くうち、だんだん頬が熱くなってきた。
「ごめん、あの、てっきり困ってたのかと」
 確かに同学年というよりは少し年上そうには見えた。が、そんな可能性、思いつきもしなかった。ただ大変だ、とそればかりで……。
「余計なことしたな。どうしよう……」
 早とちりにも程がある。焦って頭を下げるが、彼は無言だ。
 呆れられても仕方ない。空回りして息巻いて、ヒーロー気分で知り合いとの時間に割り込むなんて恥ずかしい以外のどんな感情を抱けば許されるだろう。ごめん、とますますうなだれた暁史の肩に、ふっと手が触れた。くい、と押されて顔を上げさせられる。
「謝らなくていいから、代わりに時間、くれない?」
「え、でも、さっきの人たちのとこ、戻らないと」
「いい」
「よくないよ。なんか、俺、めっちゃ失礼なこと……」
「そんなことより今、俺は多賀と話したい」
 きっぱりと言われ、口を噤む。と、先ほどとは逆に、ぐい、と手首が引っ掴まれた。そのままぐいぐいと引きずられる。
 彼の足は公園へと向かっていた。
 夕暮れ時の公園には親子連れ、犬の散歩中の主婦、ご近所同士の老人の姿がちらほらあった。その誰もがそろそろ帰路に就こうとしているのが彼等の足取りからわかる。だが紅は完全に逆行し、公園の中へ中へと足を進めていく。
 ようやく彼が足を止めたのは、公園の中央にある大時計の近くだった。広場の真ん中には噴水も配されているが、そろそろ閉園時間なのか、水は出ていない。
「多賀はなんであんなことしたの?」
 するっと手首から彼の手が解ける。彼はこちらを振り向かないまま、すたすたと歩いていき、噴水の前で立ち止まった。
 子どもたちが遊べる水場をと作られたそこは円形の浅いプールになっている。溜まった水が傾き始めた太陽の光で竜の背びれさながらに光っているのを見下ろしながら、彼は言った。
 ……明るさを、取り繕った声に聞こえた。
「する必要、ないよね。するタイプでもない。なのに、なんで?」
「だって、あの」
「困ってると思ったから?」
 問いかけられ、うん、と反射的に頷く。そっか、と軽い声が漏れた後、彼がこちらを向いた。
「偉いなって思うけど、正直俺はさ、あんまりああいう真似はしてほしくない。今回は勘違いだったけど、そうじゃないことだってあるんだから」
 だからさ、と言って彼は肩をすくめる。クラスメイトに向ける乾いた笑みが彼の顔にはあった。
「もう、やめな。そもそも、誰にでもああいうの、よくないよ」
 誰にでも。
 もちろん、困っている人がいたら誰にでも手を差し伸べるべきだ。それはそうなのだ。
 でも自分があのとき、彼らの間に割って入ったのは、人助けしたかったからなのだろうか。
 相手が誰だろうと、あんなふうに無鉄砲に行動しただろうか。
 彼は緩く首を傾げるようにしてこちらを見ている。さらさらと前髪が風に揺れて乱れる。それを細い指で押さえる彼を見ていて、気づいた。
「誰にでも、じゃないよ」
 言い返すと、ふっと彼の睫毛が震えた。それを目にしたら、少し視界が揺れた。
 けれど、黙ってなんていられなかった。
「困ってるのが時任くんだったから……俺」
 言いたいのに、俺、の続きが言えない。ああ、自分はなんでこうも臆病なのだろう。息を吸って言葉を絞り出そうとするけれど、やっぱり出てこない。
 紅は黙っている。彼の肩を夕日が撫で、白いシャツの肩を霞ませる。眩しくて目を細めたとき、とろりと重い日差しの向こうでぽつりと声が落ちた。
「多賀は俺と一緒にいたくないんじゃなかったの」
「い、たくないっていうか、あの、俺はただ……」
「嫌いなんじゃないの? 俺みたいなの」
「そんなこと言ってない!」
 自分でも予期していなかったほどの大声が出た。足元をふわふわと歩いていた鳩が驚いたように飛び上がる。ばさばさ、と乾いた羽音と共に彼らが去ると、夕日と水面と、自分達だけが広場には残った。
 遠く、蝉がじりじりと鳴いている。やけに耳につくその声を頭の中から追い出すように、暁史は髪を掻き回す。
「俺はただ……好きって言われるような、そんなすごいこと、してないし。そもそも俺……時任くんほど、まっすぐな人間じゃない。そんな俺じゃふさわしくない、と思って」
 ああ、足が震える。すごく怖い。けれど彼には話しておきたかった。
 想いのすべてを伝えてくれた彼には言うべきだと思った。
「時任くんには……話すけど。俺、ね、いじめられて、たんだ。小学校のとき」
 語りだした彰史を紅は無言で見返してくる。迷いがなくて純粋で。そんな彼の目がとても綺麗で。でも怖くて。震えながらもそれでも彰史は口を動かした。
「なにが原因だったのか、今でもわからない。ある朝、学校に行ったら、それまで一番の親友だって思ってた子に嫌がらせされるようになってた。クラスみんなをけしかけて悪口言ったり。靴、隠されたり。ランドセルに泥詰め込まれたり、まあ、いろいろ」
 あのころ。どこにも行けなくて。息もできなくて。毎日苦しかった。そんな自分を母は積極的にボランティアに連れ出した。誰かを助ける、ではなく、息子の心を救う、の意味のほうがきっと大きかったのだろう。
 その気遣いがうっとうしくもあった。でもうっとうしい、と言うだけの気力もなかった。だから勧められるままにボランティアの活動にも参加した。
「誰かのためとか、そういうの、俺は考えたことなかったんだ。自分だけで精一杯で。そんなだから俺……中学のときも俺みたいにいじめられてるやつがいるの知ってたのに、なにもしなかった。ボランティアなんかしててもさ、優しいってわけじゃないんだ。結局は自分が一番大事で」
 声が震えてしまう。こんなことを言ったら確実に紅にも嫌われる。それが怖くてたまらない。
 たまらないけれど……黙っては、いられない。
「俺、そんな人間なんだよ。時任くんには、ふさわしくない、最低な」
「でも、多賀はさっき、俺を助けてくれたよね」
 静かな声が返ってくる。柔らかく包み込むように彼は言う。
「それだって多賀じゃないの? 弱かったのもそうかもしれないけど、助けてくれようとした。そんな多賀だっているんじゃないの?」
「だからそれは……夢中だっただけだし。そもそも俺の勘違いだったわけだし……」
「それでも踏み出してくれたんだろ。相手が俺だったから。違う?」
 突き付ける刃みたいな強い声だった。俯いたまま息を呑む彰史の前ですうっと紅が息を吸うのが、わかった。
「多賀」
 硬い声が呼ぶ。柔らかさの絶えたその声にはっと目を上げた暁史に向かい、すっと手が差し出された。
「こっち、来て」
 暁史のすぐそばに立つ大時計が五時のチャイムを鳴らす。その音を背負いながら彼がそっと手招きを寄越す。
 拒否を許さない、と言いたげな厳かなその顔を見ていたら……怖いのに、どうしてかそばに行ってみたくなってしまった。
 全部を話してしまった。卑怯な自分の姿も知られてしまった。それでも彼は自分を見てくれている。
 想いのままに歩を踏み出そうかと足を上げかけた。
 けれど、やはり迷う。
 だって、やはり自分は彼ほどかっこよくも、スマートでもない。
 読み聞かせのボランティアのとき、怒鳴られて立往生した自分を鮮やかに救ってくれた。あんな機転がきく人間でもない。勘違いしてじたばたして……気持ちのままで動くだけ。
 そんな自分、本当に彼のそばに行っていいのか? 本当に?
 迷いばかりが先に立って動けない。コンビニで彼と彼の兄の後輩達の間に割り込んだときは躊躇なく動けたのに。
 そばに、行きたいのに。どうして。
 唇を噛む彰史の前で、ふっと目が伏せられる。呆れられたのだろうか、と絶望感にさいなまれたとき。
 彼の足がすっと動いた。そのままゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 瞬きもできぬまま、彼の動向を見守っていた彰史のすぐ目の前に彼が立った。そして。
 細い腕が伸ばされて、くい、とネクタイが引かれた。
 瞼がすうっと上がる。太陽光を反射して亜麻色に透けた虹彩が間近く見え、どきり、とした。
「選んでほしい」
 はたから見たらそれこそカツアゲとかそういうのと間違われてしまうかもしれない。
 でも、違う。
 これから危害を加えようとする人が、こんな熱っぽい目でこちらを見上げてくることなんてきっと、ない。
「今ここで俺にキスされるか、俺にはっきり嫌いって言うか、どっちか選んで」
 無茶苦茶過ぎないか、その二択。
 少し、憤った。文句を言いたいとも思った。なのに、やっぱり声が出ない。
 容赦なく退けるには、彼の目は熱過ぎたから。
 息を止めた暁史の前で、紅が笑う。
 少しの衝撃で崩れてしまいそうな、儚い笑みに見えた。
「多賀の声で、聞かせて」
「そんな、言い方、ずるいと思う」
 やっとのことでそう言うと、そうだね、と呟く声と共に暁史のネクタイからするりと指が解ける。彼の瞳がゆらっと揺れたのがわかった。
「でも聞かせてほしい。こうでもしないと、俺は諦める踏ん切りつかないから」
 諦める、踏ん切り。
――猫ってさ、具合悪いとき隠れるとか、死が迫ってくると姿を消すとか言うじゃない。そういうのしそうでさあ。
 こう言ったのは高階だ。あのときはこの人はなにを言っているのだろう、と思った。けれど今、目の前の彼を見ていると高階がそう言いたくなったのもわかる。
 ここでの自分の答え次第で、彼はきっと、猫のように姿を消す。
 いや、逆か。
 姿を消したくても離れられないから、その場で死んでしまいそうな気がする。
 馬鹿みたいな思い付きだったのに、その考えに囚われたらもうどうにも気持ちが落ち着かなくなってしまった。
「多賀、どっち?」
 掠れた声で彼が問いかけてくる。
「嫌い? それとも」
 一度離したネクタイに彼が思わずというように指を触れる。切なげに潤んだ目がこちらを見上げた。
 その目に映り込んだ陽光は、あまりにも鮮烈過ぎた。
「いい、よ」
 ゆらりと彼が首を傾げる。その彼の目から目を逸らす。この言い方じゃあちゃんとした答えになっていないかもしれない。それは彼もそう思ったようで、鋭く切り返された。
「なにが、いい? ちゃんと言って」
「いや、だから、あの」
「多賀」
 哀願するように名前が呼ばれる。その声は、震えていた。
「お願いだから、言って」
 そうされて……なぜか、わかった。
 いつも陽気で朗らかで。ぐいぐいと容赦なく迫ってくる彼。
 からかうみたいな態度でこちらをどきどきさせて。
 いつだって敵わないと感じていた。
 けれど多分……彼だって同じだ。
 緊張するのは……同じなのだ。
「キス、して、いい」
 必死に言葉を押し出すと、ふっと彼が小さく息を吐く。ゆっくりと薄い唇に笑みが刻まれた。
「よかった」
 囁き声とともにくいっとネクタイが引っ張られる。前屈みになった暁史の頬を乾いた掌が包む。
 友達同士だってまずしない距離で視線が交じり合う。普段意識せずにしていたはずなのに、呼吸の仕方をつい振り返ってしまう。鼻から息を吐くってどうするんだっけ、もしかして鼻息が荒いと思われやしないだろうか、などとぐるぐる考えていると、近すぎる距離で彼が笑った。
「ちゃんと息して。ずっと止めてたら死んじゃうから。それは、絶対嫌だ」
「あ、うん」
 恥ずかしい。真っ赤になりながらふううっと息を吐いた直後だった。
 柔らかく、キスされた。
 唇が唇でふわりと押し潰され、くらりとする。ふらつきそうになってとっさに彼の肩に捕まると、頬に添えられていた手が滑って背中に回された。
 心臓が跳ね過ぎて体の外に飛び出てしまいそうだ。心音にさえ動揺していたが、ふっと気づいた。
 響いてくる鼓動がひとつじゃないことに。
 自分を抱きしめてくれる彼の細い体からも、激しい音は聞こえていた。
 その音が……うれしかった。
「ヤバい……めっちゃ、照れる」
 唇を離すや否や彼の口から零れたのはそんな台詞で、それを聞いて暁史は笑ってしまった。
「自分から……したくせに」
「そうだけど。仕方ないだろ。俺、多賀のこと、めちゃくちゃ好きなんだから」
 好き、と、しかも、めちゃくちゃ、という枕詞までつけて言われてしまったら、どうしたらいいのだろう。体温が上がり過ぎて体温計も壊してしまいそうだ。
 真っ赤になってそろそろと彼の肩から腕を引くと、彼もそうっと暁史の背から腕を解いた。すうっと体温が離れていくのが寂しいと感じて、そのことに動揺した。
 自分だって、好き、とは思っていた。でも。これは……。
「……キスしたら、ますます好きになっちゃったみたいだ」
 自分の心の声が出てしまったのかと、口を押さえた。けれど違った。声の主をそろそろと窺うと、彼はかすかに口許に笑みを浮かべて、目を伏せていた。
 聞かせようとして言ったものではなく、つい漏れてしまった本音だったのだ、とその表情が告げていて……胸がいっぱいになった。
「俺も、好き、だよ」
 吐息めいた声で言う。聞こえていなかったのか、彼は瞼を下ろしたままだ。
 それが残念で……でももう一度言うなんて恥ずかしくて、彰史も目を伏せる。
……いつか、ちゃんと、言おう。
……俺も、すごく、好きって。
 そう思いながら。