「おつかれ」
 軽い声と共にふわっと風が背後を通り過ぎた。あ、うん、と返事をしながら、暁史は書架の本を並べ直す。
 開け放した窓からは蝉の声がじりじりと聞こえてくる。今年は蝉が早い。暑くなるかもしれない。
 なんて、蝉に無理やり意識を向けでもしないと、ついつい視線で彼を追ってしまう。
 乱れそうになる呼吸を注意深く整え、暁史は作業に集中する。視界の端では彼がやっぱり間違った場所に本を戻していた。
 あの日以来、紅は必要以上に距離を詰めてはこなくなった。あれほど毎日来ていたRINEもぱったりと来なくなり、近くても常に人間二人分が挟まるくらいの間隔が空いている。
 それは図書委員の当番時もそうだ。ここまで気まずくさせてしまったのだから、さぼったって暁史からは文句を言えるはずもないのに、彼は当番をすっぽかすことなく、真面目に図書室へ通ってくる。
 二人分の間隔を保ったまま、作業も続けている。
「ねえ、多賀くんってば、時任くんと喧嘩したの?」
 そう言ってきたのは高階だった。
「なんで、ですか」
 紅は作業を終えて先に図書室を出ている。自分も帰ろうと鞄を肩に引っかけたままでたどたどしく返すと、高階は、だって、と笑った。
「言っちゃなんだけど、あんたたち、いっつも猫鍋かってくらい密着して作業してたじゃない」
「猫鍋……」
 鍋の中、完全にジグソーパズルのピースとピースと化した猫を想像し、暁史は肩を落とす。
「さすがにそんなことは」
「気づいてないのは本人たちだけよ〜。もう見ててめっちゃ面白、じゃない、微笑ましかったのに。なんか最近よそよそしくない? 特に時任くんが多賀くんを避けてるって感じかなあ」
 ぐさっぐさっと音が聞こえてくる。う、と胸を押さえつつ暁史はうなだれた。
「いやあの、別になにがあったというわけでは……」
「まあもう夏だもんねえ。くっつくのも暑いか〜」
 そういうことじゃない。脱力しながら、じゃあ俺はこれで、と図書室を出ようとするが、高階は許してくれなさそうだった。
「猫鍋はともかくさ、時任くんってちょっと心配にならない?」
「心配……え、なんで、ですか?」
「だって、あの子さあ」
 高階は、図書だより、と書かれたプリントをとんとん、とカウンターの上で揃えつつ言う。
「猫ってさ、具合悪いとき隠れるとか、死が迫ってくると姿を消すとか言うじゃない。そういうのしそうでさあ」
「隠れてないし、当番にも来てるじゃないですか」
「そうなんだけどねえ。あの子、なんか危ういとこない? まっしぐらっていうか。一途過ぎるっていうか……。多賀くん、時任くんとなにがあったか知らないけど、仲直りしなさいよ。見てて痛々しいから」
 言いたいことを言って気が済んだのか、高階は、おつかれさま、と話を終える。その声に押し出されるように図書室を出たものの、暁史の心中は複雑だった。
 紅に元気がなさそうなのは、高階に言われるまでもなく、見ていてわかったから。
 しかもそれは間違いなく、この自分のせいなのだ。
 でもどう言えばいいのだろう。彼は暁史を真剣に想ってくれている。本気で命の恩人くらいにも思っているだろう。対する自分は、そこまで清らかな人間ではないと自覚しているし、好かれる価値があるとも思っていない。
 そもそも彼は……あまりにも恰好良すぎるのだ。
 最初に言葉を交わした美術の授業でもそうだった。自分からは周りに声をかけられない暁史に壁を感じさせないで済むように、ちょっと強引なくらいの態度で誘ってくれた。
 グループホームで読み聞かせをしていて、怒鳴られたときもそうだった。完全に立ち往生してしまった暁史へ、彼は自然な形で助け舟を出してくれた。相手を傷つけることなく、ナチュラルに朗読を続けられるようにしてくれた。
 結局……助けられてばかりなのだ。
 そんな自分が彼に好かれていいのか? なにもできないのに?
 くそ、と小さく呟いたとき、スマホがかすかに震えた。のろのろと鞄から取り出して表示を確かめる。
 なんのことはない。母親からだった。
――ごめん、帰りにごま油買って来てくれる? 買い忘れちゃった。てへ。
 てへ、じゃない。人と話すのが大好きな母は、いつも若々しい。送られてくるメッセージもクラスメイトの女子たちのノリと多分近い。
 とはいえ、今はその母の、てへ、が煩わしい。
 ため息を吐きながらスマホを仕舞って歩き出す。数分歩くと、コンビニが見えてきた。
 コンビニでもごま油は売っているはずだ。さっさと済ませてしまおう。
 お使いなどしている気分じゃないのに、と重い足取りでコンビニの自動ドアに足を向けようとした暁史は、そこでふと足を止めた。
 コンビニの横手に数人の人影があった。そろってボトムスを腰履きした私服姿の男が三人。壁際に追い詰められるようにして立っている制服姿の男がひとり。よく見ると、囲まれている彼が着ている制服は暁史と同じものだった。
 あんなところでたむろしてなにをしているのだろう、と目を凝らしていて気づいた。
 囲まれていたのは。
 紅だった。
 あまり楽しげな空気ではない。と思っている間に、ひとりの手がぐい、と紅の肩を押した。よろめいた彼の肩を別のひとりが掴む。
 揺さぶられて彼の頭がかくかくと、揺れた。
 それを見ていたら……黙ってなんていられなかった。
 走り出し、大声で彼の名前を呼んでいた。
「と、時任くん!」