「多賀さ、覚えてない? 鬼姫っていうの」
彼が口にしたのは、思いもよらない単語だった。
鬼姫。それは中学時代、市内で有名だったヤンキーのあだ名だ。とにかく凶暴で、警察ですら手を焼いたとかなんとか。
なんとか、というのは暁史が噂でしか鬼姫を知らなかったからだ。同学年ではあったけれど、鬼姫がいるとされている学校は暁史の中学とは別だったから接点などなかったのだ。
その鬼姫がなぜ今ここに出てくるのだろう。首を傾げる暁史の腕を握ったまま、彼が小さく息を吐いた。
「それ、俺」
「え」
目の前の彼を暁史はまじまじと見つめる。自分より小柄で華奢な彼を。
「あの、鬼姫ってあれ、だよね? 警察に百回補導されたとか、自販機をバールで片っ端から叩き壊したとか、そのいろいろと武勇伝ある……あの……」
「武勇伝」
繰り返し、皮肉げに彼は笑みを零す。
「実際にはそんなことしてない。ってか、俺、ヤンキーですらなかった」
「じゃあなんでそんな噂になるの? 俺、学校違ったのに知ってたよ? 舐めたことすると鬼姫が来るぞ〜ってねぶたの鬼みたいに恐れられてたのに」
「俺の兄貴がね、ガチでやんちゃしてたんだ。それこそ地元じゃ敵なしの気合入ったタイプで。知らない? 菊塚の黄色い鬼ってやつ」
「黄色い鬼って、え、あの、もしかしてひとりで百人組手して全員のしたとか、殺し屋にも命狙われてるとか……」
噂だけは聞いたことがある。ただ自分たちより歳が上だったこともあり、半ば都市伝説のような気持ちで噂話を聞いた程度だ。鬼姫についてもまあ、そうかもしれない。しかしその都市伝説まがいの人物を兄であると彼は言い、同じく噂話の産物だった鬼姫を自分だと名乗るのだ。
「多賀も知ってたんだ。兄貴、やっぱ有名人だな」
心底嫌そうに零し、彼は落ちてきた前髪を掻き上げる。
「まあそんなわけで。面倒だから兄貴のことは隠してたんだけど、中学のとき、広まっちゃったんだよ。学校中に。俺が兄貴の弟だって」
淡々と言いながら紅は、掴んだままでいた暁史の腕からすうっと手を引く。放されたとたん、彼の体温が逆に腕に再生された気がして暁史は自由になった腕に思わず目を落としてしまった。
なんだか、すごく、寒かった。
「そこからがひどかった。あの化け物が兄貴ならお前もそうだろうとか言われて、鬼姫なんて呼ばれるようになっちゃって。自分がしてもいない万引きの罪を押し付けられたり、ものがなくなればお前だろうって疑われたり。なんでもありだった。本気で兄貴を憎んだし、いっそのこと全部本当にしてやろうかとも思ってた」
言いながらすたすたと歩いていく。階段を上り、一番上の段に腰掛けた彼は、座らない? と暁史を手招いた。
「ただやっぱり兄貴と同じになるのは嫌でさ。中学卒業するまでは我慢しようって思ってたんだ。時間が経てば少しは状況変わるかなって。でも」
でも、と言った彼の肩が再び上下に動く。それを見ていたら突っ立っていられなくなった。階段を駆け上がり、彼の隣に座る。とん、と軽く上履きと上履きの端が当たる。すると、彼はなぜか泣き笑いに似た顔をした。
「変わらなかった。少しも。どんどんひどくなって。そのうち、学校行くって嘘言って家、出るようになった。学校行かないって意味じゃ、まあ、ヤンキー? になっちゃったわけだけど」
「そんなこと……」
首を振りかけて唇を噛む。なんと言っていいか本気でわからなかった。
彼は黙って自身の膝に目を落としていたが、ややあって、で、と声を継いだ。
「行くとこなんてないから図書館に行くようになって。そこでさ、読み聞かせってやつ、聞いたんだよ」
膝の上で彼は両手の指を組む。
「そのとき聞いた物語のタイトルがなんなのかは知らない。でもストーリーは今でも覚えてる。根も葉もない噂によって窒息しそうになっていく少年に、白鳥が寄り添う話だった。最後、白鳥は言うんだ。声高らかに。『私はこの少年の声を信じる。だってこの少年だけは怪我をしていた私を助けようとしてくれたから』って」
組んでいた手をすっと彼が解く。ゆらり、と顔が上がる。ふっと引かれたように彼のほうを見ると彼もこちらを見た。
「その本を選んで、読んで聞かせてくれたのが、多賀だった。覚えて、ない?」
問われ、暁史は口許を手で覆う。
思い出せなかったからじゃ、ない。
覚えていた。読み聞かせのボランティアを始めたばかりのころで、がちがちに緊張もしていた。
好きな本読んでいいよ、と母親に丸投げされて……なんの気なしにあの本、『白鳥の声』を選んだ。
そうなのだ。思い入れなど、なかったのだ。なのに、彼はそのことを今も忘れずにいる。
「あの話を伝えてくれた多賀の声が忘れられなかった。だから……多賀のこと、俺、図書館で張ってた。ここの高校、受験するっての、図書館で勉強してるとき話してるの聞いて知って、俺もここ、受けた。ごめん、ストーキングして」
まさかの告白に絶句する。ええと、と口ごもると、ごめん、と彼はもう一度詫びてから目を細めた。
「多賀はさ、わかってないだろうけど、あの話を朗読してくれたことで、俺をずっと支えてくれてる。しっかり立っていれば、信じてくれる人もいるって思わせてくれている。だから今、俺が笑っていられるのは、多賀のおかげなんだよ」
「ちが、違うよ。俺はただ読んだだけだ。時任くんを支えたのは俺じゃ……」
「でも、多賀もあの話、好きだろ。だから選んだんじゃないの?」
違う。
確かにあの本は好きだった。でも、彼が言うような優しい思いで選んだわけじゃない。
「多賀?」
彼が顔を覗き込んでくる。その彼の顔を見ていられず、暁史は顔を背けた。
「俺があの本を選んだのは読みやすかったからだ。すごいのは本で……俺じゃ、ない」
過ったのはあのときの彼の顔だ。
バスのドアが閉まった向こう、好き、と囁いてくれた彼の。
柔らかい笑みと潤んだ目は迷いなくこちらを見てくれた。
暁史だけを。
じゃあ、自分は?
その彼の心を受け止めていいほど、自分は彼になにかをしてあげたのか?
いや、なにもしてない。
それどころか、卑怯すぎる自分は彼にふさわしくない。
脳裏に過ぎったのは、ずっと自分の中に沈めていた感情。
思い出すまいと鍵をかけていた過去。
はやし立てる子どもたちの中心で泣く自分。
そして……ひとりを取り囲んで大声を上げる集団を遠くから眺め、なにもしない、自分。
他人に踏みつけにされてきた彼とはもしかしたら通じ合う部分もあるかもしれない。でも、だからこそ自分の過去を知られたら彼は絶対に幻滅する。
好きだなんてもう、言ってくれなくなる。
「俺なんかにそんなこと、言っちゃだめ、だよ」
掠れた声が自分の口から零れた。廊下に穿たれた窓から初夏の風が流れ込んでくる。
見ていないのに、その風に彼の前髪がさらり、と揺れた気がした。
「それって、やっぱり、俺とは一緒にいられないって意味?」
痛みは滲んではいなかった。淡々とした声音だった。
声同様の凪いだ顔をしているのだろうか、と確かめてみたくなった。でも……できなかった。
ただ、こくり、と頷いた。
「そっか。わかった」
すっと風が左頬をなぞる。衣擦れの音がする。けれどまだ気配がある。恐る恐る目を上げると、こちらを見下ろす彼の顔が見えた。
時任くん、と名を呼ぼうとしてぎりぎりでこらえる。その暁史に向かって目を細めてみせてから、彼はポケットに手を入れた。
差し出されたのは、土曜日に彼に貸したハンカチだった。
「これ、ありがと」
穏やかな手つきでハンカチがつい、と顔の前に押し出される。そろそろと受け取ると、彼は微笑んだ。感情の読み取れない淡い笑みだった。そのまま、とんとんとん、と軽い足音と共に彼が階段を下っていく。彼の足音が完全に絶えたところで暁史は細く、細く、息を吐いた。
もう聞こえない、彼の足音。
それを探しながら、暁史は彼から返されたハンカチに目を落とす。
そろそろとそれを顔に当てると、自分の家の柔軟剤とは違う、カモミールの香りがした。
彼の顔が瞼に張り付いて離れない。いくら瞼を擦っても。
――す、き
透明なドア越し贈られた言葉が思い出され、胸がずくり、と痛んだ。
好かれる要素なんてもともとないし、彼の好意を受け止めていいほど、自分は優しくもない。
でも気づいてしまった。
……受け止めていいわけないくせに、好きなんだ。
……時任くんが、好きになってたんだ。
気づいたけれどもう、遅い。
じわりと瞼が熱を持つ。頭上でチャイムが鳴り響く。遠く人声が引き潮のように遠ざかっていく。
それでも動けなかった。空気が完全に静寂に支配されても、暁史は膝を抱えたままそこに蹲り続けた。
彼が口にしたのは、思いもよらない単語だった。
鬼姫。それは中学時代、市内で有名だったヤンキーのあだ名だ。とにかく凶暴で、警察ですら手を焼いたとかなんとか。
なんとか、というのは暁史が噂でしか鬼姫を知らなかったからだ。同学年ではあったけれど、鬼姫がいるとされている学校は暁史の中学とは別だったから接点などなかったのだ。
その鬼姫がなぜ今ここに出てくるのだろう。首を傾げる暁史の腕を握ったまま、彼が小さく息を吐いた。
「それ、俺」
「え」
目の前の彼を暁史はまじまじと見つめる。自分より小柄で華奢な彼を。
「あの、鬼姫ってあれ、だよね? 警察に百回補導されたとか、自販機をバールで片っ端から叩き壊したとか、そのいろいろと武勇伝ある……あの……」
「武勇伝」
繰り返し、皮肉げに彼は笑みを零す。
「実際にはそんなことしてない。ってか、俺、ヤンキーですらなかった」
「じゃあなんでそんな噂になるの? 俺、学校違ったのに知ってたよ? 舐めたことすると鬼姫が来るぞ〜ってねぶたの鬼みたいに恐れられてたのに」
「俺の兄貴がね、ガチでやんちゃしてたんだ。それこそ地元じゃ敵なしの気合入ったタイプで。知らない? 菊塚の黄色い鬼ってやつ」
「黄色い鬼って、え、あの、もしかしてひとりで百人組手して全員のしたとか、殺し屋にも命狙われてるとか……」
噂だけは聞いたことがある。ただ自分たちより歳が上だったこともあり、半ば都市伝説のような気持ちで噂話を聞いた程度だ。鬼姫についてもまあ、そうかもしれない。しかしその都市伝説まがいの人物を兄であると彼は言い、同じく噂話の産物だった鬼姫を自分だと名乗るのだ。
「多賀も知ってたんだ。兄貴、やっぱ有名人だな」
心底嫌そうに零し、彼は落ちてきた前髪を掻き上げる。
「まあそんなわけで。面倒だから兄貴のことは隠してたんだけど、中学のとき、広まっちゃったんだよ。学校中に。俺が兄貴の弟だって」
淡々と言いながら紅は、掴んだままでいた暁史の腕からすうっと手を引く。放されたとたん、彼の体温が逆に腕に再生された気がして暁史は自由になった腕に思わず目を落としてしまった。
なんだか、すごく、寒かった。
「そこからがひどかった。あの化け物が兄貴ならお前もそうだろうとか言われて、鬼姫なんて呼ばれるようになっちゃって。自分がしてもいない万引きの罪を押し付けられたり、ものがなくなればお前だろうって疑われたり。なんでもありだった。本気で兄貴を憎んだし、いっそのこと全部本当にしてやろうかとも思ってた」
言いながらすたすたと歩いていく。階段を上り、一番上の段に腰掛けた彼は、座らない? と暁史を手招いた。
「ただやっぱり兄貴と同じになるのは嫌でさ。中学卒業するまでは我慢しようって思ってたんだ。時間が経てば少しは状況変わるかなって。でも」
でも、と言った彼の肩が再び上下に動く。それを見ていたら突っ立っていられなくなった。階段を駆け上がり、彼の隣に座る。とん、と軽く上履きと上履きの端が当たる。すると、彼はなぜか泣き笑いに似た顔をした。
「変わらなかった。少しも。どんどんひどくなって。そのうち、学校行くって嘘言って家、出るようになった。学校行かないって意味じゃ、まあ、ヤンキー? になっちゃったわけだけど」
「そんなこと……」
首を振りかけて唇を噛む。なんと言っていいか本気でわからなかった。
彼は黙って自身の膝に目を落としていたが、ややあって、で、と声を継いだ。
「行くとこなんてないから図書館に行くようになって。そこでさ、読み聞かせってやつ、聞いたんだよ」
膝の上で彼は両手の指を組む。
「そのとき聞いた物語のタイトルがなんなのかは知らない。でもストーリーは今でも覚えてる。根も葉もない噂によって窒息しそうになっていく少年に、白鳥が寄り添う話だった。最後、白鳥は言うんだ。声高らかに。『私はこの少年の声を信じる。だってこの少年だけは怪我をしていた私を助けようとしてくれたから』って」
組んでいた手をすっと彼が解く。ゆらり、と顔が上がる。ふっと引かれたように彼のほうを見ると彼もこちらを見た。
「その本を選んで、読んで聞かせてくれたのが、多賀だった。覚えて、ない?」
問われ、暁史は口許を手で覆う。
思い出せなかったからじゃ、ない。
覚えていた。読み聞かせのボランティアを始めたばかりのころで、がちがちに緊張もしていた。
好きな本読んでいいよ、と母親に丸投げされて……なんの気なしにあの本、『白鳥の声』を選んだ。
そうなのだ。思い入れなど、なかったのだ。なのに、彼はそのことを今も忘れずにいる。
「あの話を伝えてくれた多賀の声が忘れられなかった。だから……多賀のこと、俺、図書館で張ってた。ここの高校、受験するっての、図書館で勉強してるとき話してるの聞いて知って、俺もここ、受けた。ごめん、ストーキングして」
まさかの告白に絶句する。ええと、と口ごもると、ごめん、と彼はもう一度詫びてから目を細めた。
「多賀はさ、わかってないだろうけど、あの話を朗読してくれたことで、俺をずっと支えてくれてる。しっかり立っていれば、信じてくれる人もいるって思わせてくれている。だから今、俺が笑っていられるのは、多賀のおかげなんだよ」
「ちが、違うよ。俺はただ読んだだけだ。時任くんを支えたのは俺じゃ……」
「でも、多賀もあの話、好きだろ。だから選んだんじゃないの?」
違う。
確かにあの本は好きだった。でも、彼が言うような優しい思いで選んだわけじゃない。
「多賀?」
彼が顔を覗き込んでくる。その彼の顔を見ていられず、暁史は顔を背けた。
「俺があの本を選んだのは読みやすかったからだ。すごいのは本で……俺じゃ、ない」
過ったのはあのときの彼の顔だ。
バスのドアが閉まった向こう、好き、と囁いてくれた彼の。
柔らかい笑みと潤んだ目は迷いなくこちらを見てくれた。
暁史だけを。
じゃあ、自分は?
その彼の心を受け止めていいほど、自分は彼になにかをしてあげたのか?
いや、なにもしてない。
それどころか、卑怯すぎる自分は彼にふさわしくない。
脳裏に過ぎったのは、ずっと自分の中に沈めていた感情。
思い出すまいと鍵をかけていた過去。
はやし立てる子どもたちの中心で泣く自分。
そして……ひとりを取り囲んで大声を上げる集団を遠くから眺め、なにもしない、自分。
他人に踏みつけにされてきた彼とはもしかしたら通じ合う部分もあるかもしれない。でも、だからこそ自分の過去を知られたら彼は絶対に幻滅する。
好きだなんてもう、言ってくれなくなる。
「俺なんかにそんなこと、言っちゃだめ、だよ」
掠れた声が自分の口から零れた。廊下に穿たれた窓から初夏の風が流れ込んでくる。
見ていないのに、その風に彼の前髪がさらり、と揺れた気がした。
「それって、やっぱり、俺とは一緒にいられないって意味?」
痛みは滲んではいなかった。淡々とした声音だった。
声同様の凪いだ顔をしているのだろうか、と確かめてみたくなった。でも……できなかった。
ただ、こくり、と頷いた。
「そっか。わかった」
すっと風が左頬をなぞる。衣擦れの音がする。けれどまだ気配がある。恐る恐る目を上げると、こちらを見下ろす彼の顔が見えた。
時任くん、と名を呼ぼうとしてぎりぎりでこらえる。その暁史に向かって目を細めてみせてから、彼はポケットに手を入れた。
差し出されたのは、土曜日に彼に貸したハンカチだった。
「これ、ありがと」
穏やかな手つきでハンカチがつい、と顔の前に押し出される。そろそろと受け取ると、彼は微笑んだ。感情の読み取れない淡い笑みだった。そのまま、とんとんとん、と軽い足音と共に彼が階段を下っていく。彼の足音が完全に絶えたところで暁史は細く、細く、息を吐いた。
もう聞こえない、彼の足音。
それを探しながら、暁史は彼から返されたハンカチに目を落とす。
そろそろとそれを顔に当てると、自分の家の柔軟剤とは違う、カモミールの香りがした。
彼の顔が瞼に張り付いて離れない。いくら瞼を擦っても。
――す、き
透明なドア越し贈られた言葉が思い出され、胸がずくり、と痛んだ。
好かれる要素なんてもともとないし、彼の好意を受け止めていいほど、自分は優しくもない。
でも気づいてしまった。
……受け止めていいわけないくせに、好きなんだ。
……時任くんが、好きになってたんだ。
気づいたけれどもう、遅い。
じわりと瞼が熱を持つ。頭上でチャイムが鳴り響く。遠く人声が引き潮のように遠ざかっていく。
それでも動けなかった。空気が完全に静寂に支配されても、暁史は膝を抱えたままそこに蹲り続けた。



