「やっば……めっちゃいい話だったあ」
 ぐすっと洟がすすられる。ぐいぐいと手で瞼を擦る彼に、暁史はハンカチを差し出して苦笑した。
「泣き過ぎだよ」
「いや、泣くだろ! なにあの話! さぼってて咲けなくなった桜がまた咲けた理由が、自分が立っている場所から見える病室に入院している女の子を元気づけたくなったから、だなんて。さぼりたくなった桜の木がだよ? しかも女の子の台詞がもう」
「これから先、あなたが咲けなくなっても、咲いてくれたあなたの姿を私は一生忘れない」
 ゆっくりと囁いた暁史に、こくん、と頷いて紅は涙を拭く。
「すごく、刺さった……」
 帰りのバスはまだ来ない。バス停でバスを待ちながら、暁史は紅の顔をそろそろと窺う。
 今日は……普段見ない顔ばかり見てしまう。
「なに?」
 鼻声と共にぎろりとハンカチ越しに睨まれる。彼の目は真っ赤だった。
「その……時任くんがそんな泣くの、初めて見たから」
「泣かせるような本読んだのはそっちだろ」
 ぷい、と顔が背けられる。泣き過ぎたせいなのか、泣き過ぎた自分が恥ずかしかったのか、耳が赤い。
 見ていたら……思わず口が滑ってしまった。
「時任くんのほうが可愛いよね」
「はあ?!」
 声が跳ね上がる。ベンチの上で身を引いた彼は赤い目でこちらを睨んでから、照れ隠しなのだろうか、ゆっくりとした仕草でハンカチを畳み始めた。そうして畳み終わったそれを暁史に差し出してくる。
 返す、ということらしい。受け取ろうと手を出したが、ハンカチは暁史の手を無視し……なぜか暁史の唇に当てられた。
「ちょ、あの、なに」
「可愛いは、禁止」
 唇に触れる少し毛羽立ったタオルハンカチを顔から遠ざけようと手を上げるが、その指もまたすり抜けてしまう。ちょっと、と言いかけた暁史の声を尻目に、ハンカチは押し付けられたときと同様の唐突さですっと引かれた。
 文句を言おうとした。けれどそれより早く彼の声が耳に落ちた。
「可愛いはさ、俺にとって、多賀の専売特許だから。……ああ、いや、でも、違うかな」
 薄い唇がくすっと笑みを刻む。目はまだ赤い。なのに、妙に……艶のある笑みだった。
「可愛いだけじゃないや。多賀は声が深くて、やっぱりすごく、かっこいいって思う」
 囁いて、彼は手にしたハンカチをそうっと自身の口許に当てる。 
 彼が唇を当てたその場所は……ついさっき、自分の唇が触れていた場所だった。
 ただそれだけの仕草なのに、かっと耳が熱くなった。
「あ、あの、っていうか、その、さっき……は、ありがとう」
 自分は一体、なにを考えているのだろう。ハンカチ経由で唇が触れたくらいでこんなに動揺するなんて。気持ちをなんとか別の方向へもっていかないと変なことをまた口走ってしまいそうだ。必死に口を動かした暁史の前で、紅が緩く首を傾げる。すっと手が下りて彼の口からハンカチが離れ、暁史はほっとした。
「俺が怒鳴られたとき、助けてくれて」
「ああ」
 ハンカチを膝の上に置き、紅は短く頷いてから車道へと目を向けた。西日によってアスファルトは黄に近い白へと染め変わっている。大きな目が眩しそうに眇められた。
「助けたっていうよりもあそこで言ったこと、本心だから。話の続き、聞きたかっただけ」
――なんで生きているのか、なんで生きていかなきゃいけないのか、とか。俺はわからなくなったことあったから。だから俺はこの物語の続きが知りたい。
「時任くんは……」
 過ったのは先ほど木村老人に紅が言ったあの言葉だった。
「もう……大丈夫なの?」
 そろそろと問うと、車道を見ていた紅がすうっと首を巡らせてこちらを見た。
 感情の読めないうっすら斜がかかって見える瞳が、陽光に揺らめきながら暁史をただ、映す。
 後から振り返ってもそのとき、どうしてそう思ったかわからない。けれど思った。
 この目の奥にあるものを見てみたい、と。
「なんか、悩みとか、あったら俺」
 だから身を乗り出してしまった。もっと見たくてその目の奥を覗き込んでしまった。
 覗き込めば、覗き込まれてしまうのに。
「ないよ」
 軽い声が返る。さっき唇に当てられたハンカチみたいな声だった。
「昔はあった。けど、今はない。悩みを消してくれた人がいる」
「そう、なの?」
「うん。多賀」
 へ、と奇妙な具合に声が出た。目を瞬くと、唐突に腕が掴まれ引かれる。隣り合っていた体と体が近づき、耳に柔らかい息がふわっとかかった。
「多賀が消してくれた」
 ゆっくりと告げられる。大事なものを差し出すように言葉が継がれる。
「だから、俺、お前のことがずっと好きだったんだ」
 耳がかっと熱くなる。その瞬間、腕が解かれた。あっさりと顔を離した紅は、膝に置いていたハンカチを細い指で掬い上げ、こちらに向かって軽く振った。
「これ、洗濯して返すから。ありがと」
 頭が完全にショートしている。そんな暁史を嘲笑うかのようにぷしゅーっと排気音が響いた。
 目の前にバスが滑り込んできていた。
「やっとだよ。ほんとこの辺、バス少なすぎない?」
 ついさっき耳元で聞いた声は幻かと思わせるくらい、あっけらかんと言いながら、彼がベンチから立ち上がる。
 けれど暁史は動けずにいた。
「多賀ってば」
 大輪の花を思わせる笑顔で紅が手を差し出す。それでも立ち上がれずにいると、諦めたように息を漏らした彼によって二の腕がくい、と掴まれ、ベンチから引き起こされた。
 彼に引きずられるようにしてバスステップに足をかける。乗って、と背中が押され、先にバス内へ押し込まれる。バスで二人きりでなにを話したらいいのだろう、とちらっと思った。隣同士で座るのは今は……恥ずかし過ぎる。
 けれど、聞こえてきたのは、バスステップを軽やかに下る、とんとん、という足音だった。
「え、あの、時任くん?」
 慌てて振り向くと、路上に立った彼が手を上げていた。
「俺は次ので帰る。そのほうがいいかなって思うから。……運転手さん、行ってください」
「いや、でも、バスないのに……」
「ドア、閉めます」
 無情な声と共にバスのドアが閉められる。ちょっと、と暁史はドアにすがるが、透明なドアの向こうにいる彼はただ淡く笑んでいた。
「時任くん」
 もう聞こえていないだろうに呼びかけてしまう。見つめる暁史の前で唇が動いた。
 さっき、読み聞かせのとき、後方の席からそっと暁史の背中を押したときのように。
「なに……」
 目を凝らす。
 唇は、
 す、き
 と、読めた。