読み聞かせと言うと、幼稚園児や小学生を対象に行うものという印象を持たれることが多い。しかし実のところ、シニア世代と呼ばれる方たちへの読み聞かせも子ども向け同様かそれ以上に需要がある。
 ここに来るとそれを感じる。
 広間に集まったのは、車椅子に乗った男性、女性、その車椅子を押すケアスタッフ、杖を突きながらやってきて知り合いらしき者同士で長椅子に並んで腰かけ談笑する人々。
 彼らの視線の先には、ぽつんと置かれた椅子。
 正直、この瞬間だけはいつも怖い。もともと人付き合いだって得意ではないし、できるだけ目立たずに生きていきたいと思ってもいるのだから。
 本を持つ手が、紙芝居をめくる指が、じっとりと汗に湿っているのが毎回不快だし、面倒と思ったこともある。
 それでも所定の位置について深呼吸をすると、気持ちが切り替わる。
「咲くことを忘れた僕は」
 どの本を読むかは行先で決められることもあるし、こちらが決めてよいこともある。ここは自由に選ばせてもらえる場所だったため、一番読み慣れていて、一番好きな作品を選んだ。
 今日読むのは四千字程度の短編だ。花をテーマにして集められた作品集の中の一編であり、心温まるラストが印象的な物語だ。
 主人公は一本の桜の木。何年も何年も休まず咲き続けてきたが、ある年、春眠暁を覚えずなどというのに、自分はなぜ春に咲かねばならないのかと疑問を持ち始めてしまう。悩んだ結果、桜はその春、咲くことを休むことにした。
「たった一度の休みのつもりだった。しかし翌年も、そのまた次の年も、僕は咲くことができなかった。わかっていたはずの咲き方が完全にわからなくなってしまっていたのだ」
 皆、息を殺すようにして耳を傾けてくれているのがわかる。
 ふうっと息継ぎをして、暁史はページをめくる。
「咲けなくなった僕を取り囲み、囁き交わす人々の中で、ひとりの男が声を上げた。『この木はもう終わったのだろう。咲かない桜に意味などあるか?』」
 正直、このシーンは読んでいても苦しくなる。けれどこの先を思えばこそ、このシーンはなければならないものなのだ。そう思いながら次のページへと指をかけたときだった。
 がたん、とけたたましい音を立てて椅子が倒れた。
 もしや誰か気分でも悪くなったのか、と焦って視線を彷徨わせた暁史の目に映ったのは、顔を真っ赤にした男性の姿だった。
「お前は、わしらを馬鹿にしているのか?」
 上ずった声で男性は叫びながら歩み寄ってくる。え、と声を漏らし、腰を浮かせた暁史へ男性は杖を振り上げる。
「わしら年寄りはもう花も咲かせられん。無意味だとでも言いたいのだろうが! この若造が!」
「ちょっと、木村さん。落ち着いて」
 男性スタッフが駆け寄ってくる。男性を押さえようとするが、怒りが収まらないのか、男性は地団太を踏みながらなおも叫んだ。
「そもそも! お前たち若者どもが今も呑気な顔で跋扈できるのは誰のおかげだと思ってる! わしら世代が汗水たらして働いたおかげだろうが! それをなんだ! 枯れただの、終わりだの! 馬鹿にするな!」
「そういう、つもりでは……」
 そんなつもりはなかったが、本の選択を間違えてしまったのかもしれない。人が数多いれば感想だってそれぞれに違う。目の前の男性のように不快に思う人だっていないわけではなかったのに。
「すみ、ません……あの、でも……」
 でも違うのだ。この話が伝えたいことは、男性が言うような内容じゃない。最後まで聞いてもらえればわかるのだ。
 そう言いたいのに、言葉がつっかえて出てこない。おろおろと本を握りしめて立ち尽くす暁史の耳に不意に、あのー、と間延びした声が飛び込んできた。
「俺、この話、最後まで聞いてみたいんですけどー」
 ざっとその場の全員の目が声の方を向く。手を挙げていたのは、一番後ろの席に座っていた紅だった。
「今って、ちょっとさぼっちゃった桜が咲き方を忘れちゃって、それを周りの人が勘違いして、枯れちゃったんじゃね? と大騒ぎしてるシーンですよね」
「だからどうした! 若造!」
 木村と呼ばれた彼が吠える。紅はぽりぽりと左頬を指先で掻きながら続けた。
「つまり今の段階だと、枯れてるかどうか、わかんないんですよね。桜的にはちょっとさぼっちゃっただけ。さぼるって感覚、どっちかって言うと俺たち若者にこそ似合っちゃいそうな印象を俺は受けて」
 穏やかな彼の声に木村も開いていた口を閉じた。紅は周囲をゆったりと見回してから、にっこりと笑った。
「俺的にはだから、このさぼっちゃった桜の行く末がめちゃくちゃ気になるんです。そもそもなぜ咲くのかって、俺たちにも当てはまるから。なんで生きているのか、なんで生きていかなきゃいけないのか、とか。俺はわからなくなったことあったから。だから俺はこの物語の続きが知りたい」
 笑顔なのに重みが感じられる声だった。気圧されたように彼を見つめる人々に向かい、彼は問いかける。
「聞かせて、もらえないですか?」
 その声が合図となったように、男性スタッフが木村の肩をそっと押す。木村はまだ苦い顔をしていたが、ふん、と鼻から息を吐くと、元の席へと戻り、どすん、と音を立てて椅子に座った。くい、とこちらに向かって顎がしゃくられる。続けろということらしい。
 木村に向かい、一度頭を下げてから、暁史は椅子に注意深く腰掛け直した。
 始まりと同様に手にはびっしょりと汗をかいている。本を開く手も震えている。なんとか気を落ち着けようと息を吸って吐く。それでもまだ、汗は引っ込まない。手汗を膝で拭いつつ読みかけのページを開いたところで、一番後ろの席に座ってこちらを見つめる紅が目に入った。
 あ、と思わず声が漏れた。その暁史に向かって、ひらひらっと手が振られる。満面の笑みと共に、小さく口が動くのが見えた。
 なに、と目を凝らして、唇を読む。
 は、や、く、よ、め
 送られてきたメッセージに唖然とする。なんて横柄な言い方だと思ったけれど、笑顔の彼を見ていたら不思議と笑えてしまった。というより……心から思っていた。
 ……そばにいてくれてよかったな。
 早くしろよ、と彼が握った拳を顔の横で軽く振って急かすのが見える。
 わかったよ、と彼に頷き返し、暁史はページに目を落とす。
 知らず顔が微笑んでしまった。
 ……いつの間にか、手汗も止まっていた。