――着いてるよ。めっちゃいい天気!
ポケットで鳴いたスマホを引っ張り出すと、やっぱり紅からだった。
待たせてごめん、あと少しで着くから待ってて、と返事をしてからついでにさらっと彰史はトーク画面をスクロールする。
あの日、紅とRINEを交換して以来、紅は毎日なにがしかの言葉を送ってくるようになった。
たとえば。
――近所の総菜屋でさつまいもコロッケ買った! めっちゃうま! 多賀、今度帰り一緒に食べよ。
――今、テレビで直木賞作家の楠健司って人がテレビ出てる! この人、地底人の日常だかなんだかのSF書いてるんだって! 多賀読んだことある? 地底人! めっちゃ気になる。
緊急性はまったくない。雑談でしかない話題ばかりだ。それでもなんとなく伝わってくるのは、彼がとにかく楽しそうだということ。
――時任くんって結構話し好きだったんだね。
――ええ? 俺のどこが? 超寡黙だし。っていうか俺はね。
ただ困るのは。
――多賀と話すのが好きなだけ。
不意打ちみたいに反応に困る言葉が飛んでくることだ。
彼はどういう気持ちで言っているのだろう。まあでも友達は少なそうだから、会話に飢えているだけなのかもしれないが。
気にはなるけれど、正直言って紅との会話は少しも苦ではなかった。いや、もっとはっきり言うなら、楽しいと思い始めてさえいた。
紅はまっすぐで明るくて、相手を楽しませようという気遣いもできるタイプだと会話を重ねるうちにわかってきたから。
彼が着になると言っていた地底人の日常の物語、もとい、「地底インソムニア」を中に収めたリュックをひとゆすりし、彰史はスマホを閉じる。
今日は土曜日。紅がくっついてくると言い出した当日だ。
菊塚ひだまりの家はこの辺り最大のグループホームであり、菊塚の町を見下ろす麻生山の中腹に建てられている。バスで二十分はかかる場所にあるし、無理して付き合わなくていい、と紅には言ったが、約束の時間にバス停に着くと、RINEの言葉通り紅はすでに来ていて、ベンチに座ってスマホをいじっていた。
「結構待たせた?」
弾かれたようにぱっと顔が上がる。さらっと前髪が夏の香りを孕んだ風にそよいだ。
「そうでも。乗り遅れたらまずいだろ」
「そうだね」
ここいらはバスの本数が少ない。一本乗りそびれると次のバスまで二十分以上待たされてしまう。
「それにしても制服で行かないといけないものなんだ? ボランティアって」
「あー、うん。まあ、絶対ってわけじゃないけど、一応部活動だから」
えんじ色のネクタイを軽く緩める彼の横で、暁史も彼に倣って首元へ風を入れる。
六月も終わりになるともうほぼ夏だ。空も完全に夏の顔をしている。
「そういえばさ」
これから向かう麻生山の稜線が道路の先に見える。それを目でなぞっていると隣から声が聞こえ、暁史は視線を彼に戻した。
「お母さんがボランティア活動って言ってたけど、いつから?」
「ええと、俺が小さいころから。昔からそうなんだ。子ども食堂も手伝ってるし炊き出しとかも。だから結構そういうところに引っ張り出されること多くて。土日とか平日も時々」
「嫌だとか思わなかった?」
さらっと訊かれて少し驚いた。嫌だと思わなかった? なんて尋ねてきた人は今までいなかったから。
なんと答えようか。俯いて言葉を探す。彼は急かすでもなく、ベンチの背もたれに背中を預け、空を仰いでいる。
その気安い様子に……少しほっとした。
ボランティアに参加することになった経緯はあまり話したくない。自分の中で見ないようにしてきた過去とどうしても結びついてしまうから。
でも……ボランティアをしていて感じたもやもやは話してしまいたい気がした。
自分の中で蟠っていた気持ちを彼なら理解してくれるような、そんな気がしたから。
ボランティアを特別なものみたいに扱わず、こんなふうになんてことのない顔で訊いてくれる彼なら。
「まあ、嫌、だった。ボランティアしてるって言うといい人ぶっている感じに思われること、あるから」
中学のとき、一度、ボランティアのことを友人に話したことがある。クラスでまあまあ仲が良い相手だったから気構えなく話したのだが、話を聞き終えた友人は一言こう言った。
いい人アピール乙、と。
あれ以来、ボランティアの話をすることは暁史にとってちょっとした恐怖になった。
いい人アピールをしているつもりはまったくなかった。ただ、母親に言われて参加していた。それ以上の意味は彰史にはなかった。けれどそれを説明するのは難しかったし、嫌だった。むしろ、困っている人を助けたいって思うから、と言えたら、それが一番すっきりするのかもしれないけれど、残念ながら自分はそんなにいい人間じゃない。
むしろ真逆の人間だから。
「息子が言うのもなんだけど、母親は本当にいい人だと思うんだ。でも俺は違う。誰かを助けたいとか、笑ってほしいとか、思ってはなくて。そんな俺がああいう場に行くのってなんか……違うかなとも感じてた。ずっと。だから最近はね、母さんの手伝いも断ってて。やっぱり俺みたいなのが行くのはどうかなって」
「でも今日、行くよね。それはなんで?」
「朗読は……嫌いじゃないから。物語にこう、色とか形を与えることが音声にするとできるような、そんな気がして。少し、面白いかもって」
そこまで言ったとたん、なんだか恥ずかしくなってきた。なにを自分は調子に乗って語っているのだろう。しかもやっぱりボランティアの精神とはかけ離れた動機しか出てこない。
「ごめん、変な話しちゃって。時任くんにも付き合ってもらったけど、高尚じゃない理由で、駄目だよね」
「それって駄目なの?」
いい人間だったらよかったなあ、自分、とため息をつきつつ手をひらひらとさせたが、その手を止めさせたのは強めの口調での問いだった。え、と目を瞬いた暁史を紅はまっすぐに見つめている。
大きなその目には蒼穹が映り込んでいた。
「別にいいじゃん。多賀が楽しいならどんな目的で活動したって。結果、それで誰かが救われるなら、それのなにが悪いの? なにもしてない俺なんかより数倍かっこいいって俺は思うけど」
「そう、かな」
「そうだよ」
くっきりと頷く。その彼の目の中で青空が揺れる。それを暁史は呆然と見返した。
あまりにも直球で褒められて、くすぐったくもある。
けれど……それ以上に胸が熱くてたまらなかった。
こんなふうに言ってもらったことなんて、これまでなかったから。
ちゃんとお礼を言うべきかもしれない。でもなんと言おう、と首筋を掻きながら言葉を探している間に、彼の表情がくるっと変わった。
「ますます楽しみになってきた。多賀の朗読」
言われて顔が赤くなる。うう、と呻いた暁史の耳に、ふぁん、とバスの軽いクラクションが聞こえてきた。来たね、と笑って彼がベンチから身軽に立ち上がる。
「行こ。多賀」
プレッシャーだあ、と呟いている目の前にひょい、と細い手が差し出される。
数秒見つめてから、暁史はその手をそろそろと握った。
心なしか……鼓動が緩やかになった気がした。
ポケットで鳴いたスマホを引っ張り出すと、やっぱり紅からだった。
待たせてごめん、あと少しで着くから待ってて、と返事をしてからついでにさらっと彰史はトーク画面をスクロールする。
あの日、紅とRINEを交換して以来、紅は毎日なにがしかの言葉を送ってくるようになった。
たとえば。
――近所の総菜屋でさつまいもコロッケ買った! めっちゃうま! 多賀、今度帰り一緒に食べよ。
――今、テレビで直木賞作家の楠健司って人がテレビ出てる! この人、地底人の日常だかなんだかのSF書いてるんだって! 多賀読んだことある? 地底人! めっちゃ気になる。
緊急性はまったくない。雑談でしかない話題ばかりだ。それでもなんとなく伝わってくるのは、彼がとにかく楽しそうだということ。
――時任くんって結構話し好きだったんだね。
――ええ? 俺のどこが? 超寡黙だし。っていうか俺はね。
ただ困るのは。
――多賀と話すのが好きなだけ。
不意打ちみたいに反応に困る言葉が飛んでくることだ。
彼はどういう気持ちで言っているのだろう。まあでも友達は少なそうだから、会話に飢えているだけなのかもしれないが。
気にはなるけれど、正直言って紅との会話は少しも苦ではなかった。いや、もっとはっきり言うなら、楽しいと思い始めてさえいた。
紅はまっすぐで明るくて、相手を楽しませようという気遣いもできるタイプだと会話を重ねるうちにわかってきたから。
彼が着になると言っていた地底人の日常の物語、もとい、「地底インソムニア」を中に収めたリュックをひとゆすりし、彰史はスマホを閉じる。
今日は土曜日。紅がくっついてくると言い出した当日だ。
菊塚ひだまりの家はこの辺り最大のグループホームであり、菊塚の町を見下ろす麻生山の中腹に建てられている。バスで二十分はかかる場所にあるし、無理して付き合わなくていい、と紅には言ったが、約束の時間にバス停に着くと、RINEの言葉通り紅はすでに来ていて、ベンチに座ってスマホをいじっていた。
「結構待たせた?」
弾かれたようにぱっと顔が上がる。さらっと前髪が夏の香りを孕んだ風にそよいだ。
「そうでも。乗り遅れたらまずいだろ」
「そうだね」
ここいらはバスの本数が少ない。一本乗りそびれると次のバスまで二十分以上待たされてしまう。
「それにしても制服で行かないといけないものなんだ? ボランティアって」
「あー、うん。まあ、絶対ってわけじゃないけど、一応部活動だから」
えんじ色のネクタイを軽く緩める彼の横で、暁史も彼に倣って首元へ風を入れる。
六月も終わりになるともうほぼ夏だ。空も完全に夏の顔をしている。
「そういえばさ」
これから向かう麻生山の稜線が道路の先に見える。それを目でなぞっていると隣から声が聞こえ、暁史は視線を彼に戻した。
「お母さんがボランティア活動って言ってたけど、いつから?」
「ええと、俺が小さいころから。昔からそうなんだ。子ども食堂も手伝ってるし炊き出しとかも。だから結構そういうところに引っ張り出されること多くて。土日とか平日も時々」
「嫌だとか思わなかった?」
さらっと訊かれて少し驚いた。嫌だと思わなかった? なんて尋ねてきた人は今までいなかったから。
なんと答えようか。俯いて言葉を探す。彼は急かすでもなく、ベンチの背もたれに背中を預け、空を仰いでいる。
その気安い様子に……少しほっとした。
ボランティアに参加することになった経緯はあまり話したくない。自分の中で見ないようにしてきた過去とどうしても結びついてしまうから。
でも……ボランティアをしていて感じたもやもやは話してしまいたい気がした。
自分の中で蟠っていた気持ちを彼なら理解してくれるような、そんな気がしたから。
ボランティアを特別なものみたいに扱わず、こんなふうになんてことのない顔で訊いてくれる彼なら。
「まあ、嫌、だった。ボランティアしてるって言うといい人ぶっている感じに思われること、あるから」
中学のとき、一度、ボランティアのことを友人に話したことがある。クラスでまあまあ仲が良い相手だったから気構えなく話したのだが、話を聞き終えた友人は一言こう言った。
いい人アピール乙、と。
あれ以来、ボランティアの話をすることは暁史にとってちょっとした恐怖になった。
いい人アピールをしているつもりはまったくなかった。ただ、母親に言われて参加していた。それ以上の意味は彰史にはなかった。けれどそれを説明するのは難しかったし、嫌だった。むしろ、困っている人を助けたいって思うから、と言えたら、それが一番すっきりするのかもしれないけれど、残念ながら自分はそんなにいい人間じゃない。
むしろ真逆の人間だから。
「息子が言うのもなんだけど、母親は本当にいい人だと思うんだ。でも俺は違う。誰かを助けたいとか、笑ってほしいとか、思ってはなくて。そんな俺がああいう場に行くのってなんか……違うかなとも感じてた。ずっと。だから最近はね、母さんの手伝いも断ってて。やっぱり俺みたいなのが行くのはどうかなって」
「でも今日、行くよね。それはなんで?」
「朗読は……嫌いじゃないから。物語にこう、色とか形を与えることが音声にするとできるような、そんな気がして。少し、面白いかもって」
そこまで言ったとたん、なんだか恥ずかしくなってきた。なにを自分は調子に乗って語っているのだろう。しかもやっぱりボランティアの精神とはかけ離れた動機しか出てこない。
「ごめん、変な話しちゃって。時任くんにも付き合ってもらったけど、高尚じゃない理由で、駄目だよね」
「それって駄目なの?」
いい人間だったらよかったなあ、自分、とため息をつきつつ手をひらひらとさせたが、その手を止めさせたのは強めの口調での問いだった。え、と目を瞬いた暁史を紅はまっすぐに見つめている。
大きなその目には蒼穹が映り込んでいた。
「別にいいじゃん。多賀が楽しいならどんな目的で活動したって。結果、それで誰かが救われるなら、それのなにが悪いの? なにもしてない俺なんかより数倍かっこいいって俺は思うけど」
「そう、かな」
「そうだよ」
くっきりと頷く。その彼の目の中で青空が揺れる。それを暁史は呆然と見返した。
あまりにも直球で褒められて、くすぐったくもある。
けれど……それ以上に胸が熱くてたまらなかった。
こんなふうに言ってもらったことなんて、これまでなかったから。
ちゃんとお礼を言うべきかもしれない。でもなんと言おう、と首筋を掻きながら言葉を探している間に、彼の表情がくるっと変わった。
「ますます楽しみになってきた。多賀の朗読」
言われて顔が赤くなる。うう、と呻いた暁史の耳に、ふぁん、とバスの軽いクラクションが聞こえてきた。来たね、と笑って彼がベンチから身軽に立ち上がる。
「行こ。多賀」
プレッシャーだあ、と呟いている目の前にひょい、と細い手が差し出される。
数秒見つめてから、暁史はその手をそろそろと握った。
心なしか……鼓動が緩やかになった気がした。



