「図書委員の仕事って結構いろいろあるんだな」
 返却棚に詰め込まれた本を抱えて書架を彷徨いながら、紅がぼやく。その声を背中で聞き、暁史は肩をすくめた。
「知らないで立候補したの?」
「知らないで立候補したの」
 暁史の言葉を繰り返し、紅は本を書架へすいっと差し入れる。だが、その本の定位置はそこじゃない。
 暁史はため息を噛み殺しつつ、紅が差し込んだ本を正しい位置に戻した。
 図書委員になって二か月。活動としては貸し出し、返却手続きを行ったり、本の補修をしたり、書架の本を整理したりが主だが、二か月経っても紅は役に立たない。
「だったらもっと楽な委員会にすればよかったのに」
「でも多賀は図書委員選ぶつもりだったんじゃないの?」
 細い首を傾げて紅がこちらを見上げてくる。態度が大きいから普段はそれほど感じないけれど、こうして見上げられると身長差に少し驚く。
「選ぶつもりだったけど、時任くんは別に本、好きじゃないよね」
「本は、ね」
 また出た。本は、が。
 本好きじゃないのに図書委員になりたい理由ってなんなのだ。さっぱり意味がわからない。首を捻りながら返却作業に戻る暁史を、紅はとことこと追いかけてくる。
 本当になにが楽しくて彼は図書委員に立候補したのだろう。
 意味不明だ、と呆れつつ本を片付けていると、そういえばさ、と背後を歩く紅が言った。
「今週土曜日って多賀、なにしてる?」
「別に。家でごろごろしてるよ」
 読みたい本も溜まっているし、と自室を思い浮かべている暁史の前に、紅がひょい、と回り込んできた。
「そしたら、一緒に出掛けない?」
「え、一緒に……って、時任くんと?」
「ほかに誰がいるんだよ」
 おかしそうに細い肩が震える。だが、暁史としては疑問がいっぱいだった。
 自分達はクラスメイトではある。委員会も同じだから共に過ごす時間はまあ長い。あの美術の時間の一件以来、紅は屈託なく声をかけてくるようになったし、教室移動も当然のような顔で一緒にしたがる。それゆえ、暁史も紅にはそれほど緊張せずに接することができるようになってきた。だからまあ、一般的には友達なのかもしれない。けれども、暁史からするとまだ、友達? と?がつく状態なのだ。その彼と一緒に出掛ける?
「ええと、なんで?」
 そう尋ねることに不自然さはなかったはずだ。だが、暁史の言葉を聞いたとたん、紅が真顔になった。
「理由いる?」
「いや……時任くんとそういうのなかったからびっくりして。なんで俺となのかと」
「そんなのひとつしかなくない?」
 押さえられた紅の声が本棚と本棚の間を滑り、暁史の胸に当たって落ちる。ええと、と言いかけたときだった。
 多賀くん、と呼ぶ声がカウンターから聞こえた。本棚の間から頭を出して覗くと、先輩の高階薫子(たかしなかおるこ)がこちらに手を振っていた。
 助かった、という気持ちがなかったといえば嘘になる。いまだこちらを見つめてくる紅に軽く手を合わせてから、カウンターへ向かうと、事務処理をしていた高階が身を乗り出してきた。
「この間の話、どう? お願いできそうかな」
 言われて思い出した。
 ここ菊塚高校の図書委員会では、数か月に一回、ボランティア部と合同で近隣の図書館や、養護施設、高齢者施設などで本の読み聞かせの活動を行っているという。
 大抵は希望者を募って行うらしいが、その活動に参加してくれないかと頼まれていたのだ。
「その、俺、そんなにうまくは……」
「そんなことないと思うよ。多賀くんの声、すごくいいと思う。それに多賀くん、経験者だったよね」
 それを言われると弱い。
「いや〜、母親に付き合わされてやっていただけなので……」
「それでも経験者は経験者。お願い。頼めるの多賀くんしかいないの」
 お願いお願い、と拝まれ、押されるように頷くと、ぱっと高階は表情を明るくした。
「助かる! 詳細RINEで送るね」
 それじゃね、と慌しく高階が出て行く。その背中を見送り、はあっと息をつくや否や、ぐいっと後ろから腕を掴まれた。振り返るとやはり紅だった。
「今の話、なに?」
 声が低い。笑顔も消えたままだ。数分前のやり取りを思い出し、わずかに緊張しつつ、暁史は高階が去った戸口を振り返った。
「その、読み聞かせのボランティア、頼まれてて。希望者が最近集まらないんだって。だから」
「だからってなんで多賀に頼んでくるの?」
 掴まれたままの腕にきゅっと力が込められる。痛くはなかったけれど、低い声と相まって暁史はたじたじとなった。
「いや、でも困ってたから……」
「困ってたらなんでも引き受けるの」
「なんでもっていうか……まあ、俺の母親、地域ボランティアしてて、俺も手伝いさせられたことあって。高階先輩と俺、同じ中学出身で、先輩それ知ってたから」
「同中だから引き受けるの? ってか、俺にはもっと納得がいかないことがある」
「いや、同中は別に……納得がいかないことって?……わっ」
 唐突に腕がぐい、と引っ張られた。そのままずいずいと書架の間へと連れ込まれる。細いはずの彼の腕の力は強く、抗えない。あたふたしているうちに、薬学、生物学、といったまず生徒の来ない最奥の棚の前まで連れて来られた。
 そこでやっと解放され、やれやれと腕を擦っていると、くるっと彼がこちらを向いた。
「なぜに高階先輩とRINE交換してるの?」
「え」
 急に何の話だ、と首を傾げていると、つ、と彼の足が前に出た。慌てて後ろに下がるが、さらに一歩詰め寄られる。
 そうしてずいずいと迫ってきたが……かつん、と暁史の背中が書架に当たったところで、不意に足は止められた。
 背の低い彼が下からじいっと見上げてくる。とっさに息を止めたが、視線はすぐに解かれた。
 彼がくたり、と俯いたために。
「俺とはしてないのに、なんで」
「は……」
 わけがわからなかった。どうやら高階とRINEを交換したことが納得できなかったようだが、どうして彼がそんなにこだわるのか意味がわからない。
 ただそれをそのまま伝えるのは躊躇われた。普段の彼はまずこんな顔をしないのに、今の彼は随分しょぼくれて見える。それにはなにか理由があるのだろう。まずはちゃんと事情を話したほうがいい。
「高階先輩とは、この間、読み聞かせのボランティア頼まれたときにRINE交換したんだ。場所とか時間とか送りたいからって。だからそういうんじゃなくて」
 淡々と説明しているつもりだった。だが、そういうんじゃなくて、のところでふと我に返った。
 そういうんじゃなくて……?
 そういう、とはどういう意味だろう。
 そもそも、なんでこんな言い訳みたいなことを言っているのか。
 これじゃあまるで、彼女に浮気を咎められた彼氏みたいじゃないか?
 そこまで考えて暁史はふるっと頭を振った。
 あり得ない。第一、紅もそんなつもりで言ってはいないだろう。多分彼は、友達同士でよくある、あの子とは仲いいのに俺とは、みたいなちょっとした疎外感に悲しくなっただけなのだろうから。
 そうだ、それならすべて説明がつく、そうに違いない、と結論づけて彼の顔を覗き込んだ暁史は、そこで息を呑んだ。
「そ、か」
 すうっと彼が顔を上げた。滑らかな肌を少し染め、長い睫毛を下ろしてふわっと笑う。
 心の底からほっとした、と言いたげな笑顔だった。
「よかった」
「あ、うん」
 紅と接するようになってまだ二か月。これまで接してきた友達とは距離感が違っていて、戸惑うことも多い。けれどちょっとだけ思っていたことはあった。
 美形だからというのももちろんあるけれど、彼の笑った顔は、悪くない。
 感情変化が大きくて驚くことはあるけれど、それでも思う。
 彼の笑顔は見る者を明るい気持ちにしてくれる。
 まあ、今の笑顔はちょっといつもと違って、意味なくどきっとしてしまったけれど、これだけ安心してくれたなら、話してみてよかったのだろう。と、胸を撫で下ろしていた暁史だったが、突然目の前にスマホを突き出され、ぎょっとした。
「なに?」
「俺も要求する」
「なに、を?」
「RINEの交換」
 なんで? と言いかけて暁史は口を噤む。一緒に出掛けないかと誘われたとき、なんで? と問い返してしまい、鬼も全身鳥肌になるほどの表情で睨まれたことを思いだした。
 にっこりと笑った彼は、警察手帳を出す刑事さながらにスマホをかざし続けている。
「いいよね?」
 いいよね、ってなんだ。拒否権はなしか?
 言い返そうかと思ったけれど、暁史は黙ってスマホを取り出した。まだ付き合いは長くないものの、ごねると厄介な相手であることを理解するには充分なくらいには一緒にいる。面倒なことになるくらいなら交換してしまったほうがましだ。
 とはいえ、そもそもあまり友達が多いほうではないので、ID交換は苦手だ。
 どこ押すんだっけ、と悩んでいる手から、ちょっと貸して、とスマホが奪われた。
「多賀って想像通りのアナログ人間」
「う」
 まるで自分のスマホのようなスピードで操作されるのを横目で見つつ、暁史は身をすぼめる。
 同い年なのにこの差はなんだろう。
 手間かけてごめん、と詫びると、いいよ、と彼は緩く首を振った後、さらりと続けた。
「そういうところが多賀らしくて可愛いなって思うから」
 可愛い。
 するすると画面を滑る紅の細い指先。スマホから漏れる光を反射する大きな瞳。
 可愛い、と言われるのは、彼のようなタイプであるべきなのに、なぜ彼はそんなことを言うのだろう。
 自分など、きっかけがないと人と話ができないし、髪だって紅のようにさらさらじゃない。後ろ頭には寝癖がいつもついている。背は高いかもしれないけれど筋肉があまりなくて、猫背だから貧相に見える。
 その自分が可愛いだなんて、信じられるはずがない。
 彼は何目的でこれを言うのだろう。
「はい、できた」
 気になって後ろ頭の寝癖を直す暁史の手に、ぽい、とスマホが戻される。
 ほんのりと手の温もりが残ったままのスマホを握りしめたとき、ぴろん、と通知音を立て、スマホが受信を知らせてきた。
 送り主は、時任紅。
 ポップアップに表示されている言葉は、あのさ。
「あ、送ってくれたんだね。ちゃんと通知来てるよ」
「そう」
 そう頷く間も、彼の指は手にしたスマホの画面上を滑っている。
 彼の指捌きは俊敏だ。俺もあれくらいできないとな、と落ち込みながらトーク画面を開いた暁史は目を見開いた。
――あのさ
――可愛いって、嘘じゃないから。
 え、と思わず声が漏れる。顔を上げたとたん、どきっとした。
 じいっとこちらを見据える紅の大きな目と目が合った。
「可愛いよ」
 ゆっくりと彼の唇が動いた。
「アナログなところも、寝癖も」
 可愛いなんて、言われたいわけではない。うれしいわけでもないはずなのに。
 なぜか頬が熱を持った。
 冗談は、と言おうとした。その声をせき止めるように、ぴろん、と音がする。慌てて画面を確認したが、メッセージを寄越したのは目の前の彼ではなかった。
 高階薫子。
 そろそろとメッセージを開く。そこには紅とは打って変わって、事務的な文言が連なっていた。
――さっきの読み聞かせの時間、6月25日(土)14時。菊塚ひだまりの家にて。あと……。
 連絡はまだ続いていたが、記された日時に目が吸い寄せられた。
 6月25日(土)。今週の土曜日だ。
「時任くん、ごめん。今週土曜日は都合、悪いかも……」
「はあ?」
 大声と共に画面が覗き込まれる。そのまますい、とスマホが手から奪われ、暁史は慌てた。
「ちょ、駄目だよ。俺行かないと穴開いちゃうし」
「約束、こっちが先だったのに? ってか話の最中でスマホ見るとか、失礼極まりないと思わない?」
 彼の言い分ももっともだ。ごめん、と体を縮めてうなだれている間にも彼の指は動く。
 まさか、本気で断りのメッセージを入力しているのだろうか。
 それは困る、と制止しようとしたが、一瞬早く送信ボタンが押された。
 ああ、と絶望感に濡れた声を出す暁史の手にスマホが戻ってくる。画面を見て、暁史は目を剥いた。
――了解です。当日、時任くんも一緒に連れて行きます。よろしくお願いいたします。
「まあ、一緒に出掛けることに変わりはないし。付き合うよ」
 文字と彼の顔を見比べる暁史に紅はそう言って笑う。
 なぜそうなる、と反論したくもなった。その彰史の気持ちとは裏腹に紅の表情は晴れやかだ。
「土曜晴れるといいね」
 にこっと笑いかけてきたその顔を見たとたん、胸がきゅっとしたのは気のせいだろうか。
「そ、そうだね」
 なんだかそわそわする気持ちを隠すように、彰史はスマホカバーをぱたん、と閉じる。
……土曜日、ほんと晴れるといいな。
 心の内でそっと呟きながら。