「え! ちょっとごま油は?」
家に帰ってから、しばらくして母親が帰宅した。呆れた顔で言われ、コンビニへ行った理由を思い出す。
同時に……コンビニを経て公園で起こった出来事も。
「ごめん、買い忘れた。い、今行ってくる」
だめだ。なんだか恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。明らかにおかしな挙動だったのか、母はぽかんとした顔で彰史を見てから、ちょっと、と手招いてきた。
「待ちなさいな。そこ、座って」
今いろいろ詰められたら全部白状してしまいそうだ。じりじりと玄関へと向かおうとする彰史を母は怪訝そうに眺めている。が、次の瞬間、母はぷっと吹き出した。
「やあねえ。そんなチーターに狙われた野兎みたいな顔して。可愛いなあ、我が息子」
「野兎ってなに!」
いやまあどちらかといえば捕食される側かもしれないけれど面白くない。顔をしかめると、まあまあ、と言いながら母は近づいてきた。
「学校でいいことあった?」
「は? え、なんで……」
「んー。なんか血色いいし。目がねえ、こう、きらきらしててねえ」
こちらを覗き込んでくる母は年齢で言ったら彰史よりも三十は上。でもなんだろう。わが母ながら少女みたいな仕草をするときがある。
そういえば父親も言っていた。母さんはいつまでも乙女でそこが魅力、と。
こういうことかなあ、と思っていると母が急にぱんと手を打った。
「わかった! ふみくん、好きな人ができたでしょう」
「は……っ?!」
ぎょっとして思わずその場で跳ねてしまった。たじたじとなる彰史を見上げ、母はふふふ、と笑う。
「だてに女を四十年以上やってないのよ。こう見えてその手のセンサーは現役」
「……現役じゃだめじゃないの。父さんが泣くよ」
「馬鹿ねえ。センサーが反応し続けてくれてるのは父さんがいてくれるからだってば」
きゃっ、言っちゃった、と母が顔を赤くする。勘弁してくれ、と肩をすくめながら彰史はそそくさと戸口へと移動する。
「ごま油いるんだろ。買ってくるから」
「ふみくん」
母に呼ばれ、なに、と仏頂面をする。見ると、母は先ほどとは打って変わって、落ち着いた穏やかな顔で微笑んでいた。
「学校、楽しいのね、今」
言われて……足が止まった。
小学校のとき、いじめのことを彰史は最初誰にも言えなかった。
いじめられる自分が恥ずかしいと思ったし、自分になにか悪いところがあるのかも、と悩み続けた。
でもそんな自分の異変に母は一番に気がついてくれた。
「ふみくんはなんにも悪くない。自分が悪いって思わないと生きていけない場所へ通う必要なんてありません。お母さんと一緒に出掛けましょ」
そう言って外へ連れ出してくれた。ボランティアもそのひとつだった。
あのころは……母の気遣いを、ありがたい、とまでは思えなかった。気を使わせる自分ってなんてだめな息子だろうと自分を嫌いにもなった。
でも、今は、違う。
母のその気遣いのおかげで、自分は読み聞かせのボランティアに出会い、そして紅にも会えた。
いじめられて、それがよかった、なんて絶対に言えない。
今だって心の奥に傷は変わらずにある。それでもあのことがあって、母に連れ出されなければ、彼には出会えなかったのだ。だから。
「母さん」
んー? と母がまた少女のように首を傾げる。
その母に向かって頭を下げた。丁寧にしっかりと。
「ありがとう。いつも気づいてくれて」
そうっと頭を上げると母は驚いたように目を見張っていた。ややあって浮かんだのは見慣れた母らしいあっけらかんとした笑顔だった。
「いやあねえ。改まっちゃって。恋話ならいつでも聞いてあげるから言ってきなさいな」
「……いや、恋話は多分、しない」
忘れていた顔の赤みを思い出しながら彰史は逃げるようにリビングを出る。靴をつっかけ、玄関のドアを押し開ける。背中から、気を付けて行ってくるのよ~と母ののどかな声が追いかけて来た。
自分は幸せだとすごく、思えた。
こんな気持ちをくれた彼は今、どうしているだろうか。もう家に帰っただろうか。
先ほど別れたばかりの彼の顔を思い浮かべながらスーパーまでの道を下る。
その自分のポケットでかすかにスマホが振動したのはそのときだった。
母から追加でなにかリクエストだろうか、と確かめてみて、思わず笑顔になってしまった。
紅だった。
――見て。帰りに見つけた。
言葉とともに送られてきたのは、白い釣鐘型の花の写真。
可憐なその花はとても愛らしかった。
――可愛い。
文字に笑顔を乗せて送ると、ね、と短い言葉が返ってきた後、ぽっと通知がともった。
――目立たないけど、一生懸命で。多賀みたいで、すごく、可愛いって思う。
多賀みたい。
自分はとてもちっぽけで。自分のことばかりに必死で。
でも見ていてくれる人もいる。彼みたいに。
それがすごく、うれしい。
じわっと温もる胸を押さえ、彰史はスマホをきゅっと握る。
どう言おう。どう言ったらこの気持ちが伝わるだろう。
あふれる想いの中を探っていて見えたのは、彼の顔。
多賀。
そう名を呼んで彰史にだけ笑ってくれる、彼の顔だった。
瞬間、胸がきゅうっとねじれるように痛んだ。
その痛みに押されるように指が勝手に動く。
――会いたい
「わ、俺、なんで……」
慌てたけれどもう遅い。
たったの四文字。でも誰にも言ったことのない四文字が彼の元へと飛んでいく。
彼はどう思っただろう。いきなりで驚かせただろうか。そわそわしていると、ややあってスマホが震えた。メッセージではなく音声通話だった。初めてで緊張する。どきどきしながら出ると、電話口で彼が小さく息を吸うのがわかった。
『多賀、もう家?』
「あ、いや、今……ごま油買いに」
『そうなんだ』
柔らかい声。でもリアルで耳にするのとは少し違う。
電波を介して聞く声は普段より少し、大人っぽい。それに気づいたら、胸が大きく跳ねてしまった。
こんなこともまだ、自分達はなにも知らないのだ。
『多賀?』
「あ、うん、ごめん。変なこと、送っちゃって。あの、びっくり、した、よね」
あたふたと言う。自分で送った、会いたい、を思い出してぱっと頬に朱が散る。俯くと、ふふ、と電話の向こうで紅が笑った。
『変じゃないよ。すごく、うれしかった』
うれしかった。
その言葉がこちらこそうれしくて胸がぎゅうっとなる。
「うれ、しい。俺も」
『え?』
紅が電話の向こうで首を傾げるのが見える気がする。
その紅に向かって必死に口を動かす。
「声、聞けて、なんか、すごく」
ふっと電話口で紅が黙る。時任くん? と呼びかけると、今どこ? と声が続いた。
『顔見に行く。教えて』
「え、でもさっき別れたばっかりなのに」
『だって俺も会いたいから』
どこ? と声が甘く急かす。その優しい要求に彰史は逆らえなかった。
「三丁目のスーパーナミマルの前」
『わかった。すぐ行く』
待ってて、と軽やかな声ととともに通話は途切れた。
彼が来る。来てくれる。
それがうれしくて彰史は足を早める。
ごま油を買って帰るのはちょっと遅くなりそうだ、と母に心の内で詫びながら。
家に帰ってから、しばらくして母親が帰宅した。呆れた顔で言われ、コンビニへ行った理由を思い出す。
同時に……コンビニを経て公園で起こった出来事も。
「ごめん、買い忘れた。い、今行ってくる」
だめだ。なんだか恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。明らかにおかしな挙動だったのか、母はぽかんとした顔で彰史を見てから、ちょっと、と手招いてきた。
「待ちなさいな。そこ、座って」
今いろいろ詰められたら全部白状してしまいそうだ。じりじりと玄関へと向かおうとする彰史を母は怪訝そうに眺めている。が、次の瞬間、母はぷっと吹き出した。
「やあねえ。そんなチーターに狙われた野兎みたいな顔して。可愛いなあ、我が息子」
「野兎ってなに!」
いやまあどちらかといえば捕食される側かもしれないけれど面白くない。顔をしかめると、まあまあ、と言いながら母は近づいてきた。
「学校でいいことあった?」
「は? え、なんで……」
「んー。なんか血色いいし。目がねえ、こう、きらきらしててねえ」
こちらを覗き込んでくる母は年齢で言ったら彰史よりも三十は上。でもなんだろう。わが母ながら少女みたいな仕草をするときがある。
そういえば父親も言っていた。母さんはいつまでも乙女でそこが魅力、と。
こういうことかなあ、と思っていると母が急にぱんと手を打った。
「わかった! ふみくん、好きな人ができたでしょう」
「は……っ?!」
ぎょっとして思わずその場で跳ねてしまった。たじたじとなる彰史を見上げ、母はふふふ、と笑う。
「だてに女を四十年以上やってないのよ。こう見えてその手のセンサーは現役」
「……現役じゃだめじゃないの。父さんが泣くよ」
「馬鹿ねえ。センサーが反応し続けてくれてるのは父さんがいてくれるからだってば」
きゃっ、言っちゃった、と母が顔を赤くする。勘弁してくれ、と肩をすくめながら彰史はそそくさと戸口へと移動する。
「ごま油いるんだろ。買ってくるから」
「ふみくん」
母に呼ばれ、なに、と仏頂面をする。見ると、母は先ほどとは打って変わって、落ち着いた穏やかな顔で微笑んでいた。
「学校、楽しいのね、今」
言われて……足が止まった。
小学校のとき、いじめのことを彰史は最初誰にも言えなかった。
いじめられる自分が恥ずかしいと思ったし、自分になにか悪いところがあるのかも、と悩み続けた。
でもそんな自分の異変に母は一番に気がついてくれた。
「ふみくんはなんにも悪くない。自分が悪いって思わないと生きていけない場所へ通う必要なんてありません。お母さんと一緒に出掛けましょ」
そう言って外へ連れ出してくれた。ボランティアもそのひとつだった。
あのころは……母の気遣いを、ありがたい、とまでは思えなかった。気を使わせる自分ってなんてだめな息子だろうと自分を嫌いにもなった。
でも、今は、違う。
母のその気遣いのおかげで、自分は読み聞かせのボランティアに出会い、そして紅にも会えた。
いじめられて、それがよかった、なんて絶対に言えない。
今だって心の奥に傷は変わらずにある。それでもあのことがあって、母に連れ出されなければ、彼には出会えなかったのだ。だから。
「母さん」
んー? と母がまた少女のように首を傾げる。
その母に向かって頭を下げた。丁寧にしっかりと。
「ありがとう。いつも気づいてくれて」
そうっと頭を上げると母は驚いたように目を見張っていた。ややあって浮かんだのは見慣れた母らしいあっけらかんとした笑顔だった。
「いやあねえ。改まっちゃって。恋話ならいつでも聞いてあげるから言ってきなさいな」
「……いや、恋話は多分、しない」
忘れていた顔の赤みを思い出しながら彰史は逃げるようにリビングを出る。靴をつっかけ、玄関のドアを押し開ける。背中から、気を付けて行ってくるのよ~と母ののどかな声が追いかけて来た。
自分は幸せだとすごく、思えた。
こんな気持ちをくれた彼は今、どうしているだろうか。もう家に帰っただろうか。
先ほど別れたばかりの彼の顔を思い浮かべながらスーパーまでの道を下る。
その自分のポケットでかすかにスマホが振動したのはそのときだった。
母から追加でなにかリクエストだろうか、と確かめてみて、思わず笑顔になってしまった。
紅だった。
――見て。帰りに見つけた。
言葉とともに送られてきたのは、白い釣鐘型の花の写真。
可憐なその花はとても愛らしかった。
――可愛い。
文字に笑顔を乗せて送ると、ね、と短い言葉が返ってきた後、ぽっと通知がともった。
――目立たないけど、一生懸命で。多賀みたいで、すごく、可愛いって思う。
多賀みたい。
自分はとてもちっぽけで。自分のことばかりに必死で。
でも見ていてくれる人もいる。彼みたいに。
それがすごく、うれしい。
じわっと温もる胸を押さえ、彰史はスマホをきゅっと握る。
どう言おう。どう言ったらこの気持ちが伝わるだろう。
あふれる想いの中を探っていて見えたのは、彼の顔。
多賀。
そう名を呼んで彰史にだけ笑ってくれる、彼の顔だった。
瞬間、胸がきゅうっとねじれるように痛んだ。
その痛みに押されるように指が勝手に動く。
――会いたい
「わ、俺、なんで……」
慌てたけれどもう遅い。
たったの四文字。でも誰にも言ったことのない四文字が彼の元へと飛んでいく。
彼はどう思っただろう。いきなりで驚かせただろうか。そわそわしていると、ややあってスマホが震えた。メッセージではなく音声通話だった。初めてで緊張する。どきどきしながら出ると、電話口で彼が小さく息を吸うのがわかった。
『多賀、もう家?』
「あ、いや、今……ごま油買いに」
『そうなんだ』
柔らかい声。でもリアルで耳にするのとは少し違う。
電波を介して聞く声は普段より少し、大人っぽい。それに気づいたら、胸が大きく跳ねてしまった。
こんなこともまだ、自分達はなにも知らないのだ。
『多賀?』
「あ、うん、ごめん。変なこと、送っちゃって。あの、びっくり、した、よね」
あたふたと言う。自分で送った、会いたい、を思い出してぱっと頬に朱が散る。俯くと、ふふ、と電話の向こうで紅が笑った。
『変じゃないよ。すごく、うれしかった』
うれしかった。
その言葉がこちらこそうれしくて胸がぎゅうっとなる。
「うれ、しい。俺も」
『え?』
紅が電話の向こうで首を傾げるのが見える気がする。
その紅に向かって必死に口を動かす。
「声、聞けて、なんか、すごく」
ふっと電話口で紅が黙る。時任くん? と呼びかけると、今どこ? と声が続いた。
『顔見に行く。教えて』
「え、でもさっき別れたばっかりなのに」
『だって俺も会いたいから』
どこ? と声が甘く急かす。その優しい要求に彰史は逆らえなかった。
「三丁目のスーパーナミマルの前」
『わかった。すぐ行く』
待ってて、と軽やかな声ととともに通話は途切れた。
彼が来る。来てくれる。
それがうれしくて彰史は足を早める。
ごま油を買って帰るのはちょっと遅くなりそうだ、と母に心の内で詫びながら。



