はじまりは高校に入学して最初の美術の授業だった。
「初めての授業だし、今日はクラスメイトのことを深く知れるような授業内容にしようと思います」
登場した瞬間、ヤバい、イケメン教師、などと女子生徒たちから早々に崇められるようになった美術教師、真山が朗らかに言う。それを遠目に眺めながら、嫌な予感しかしねえ、と暁史はどんよりしていた。
「テーマは『友達の顔』。自由にペアになって、相手の顔を描いてもらいます。その際、無言禁止。お互い話をして、相手のことを知りながら描いてください」
「えー! なにそれ」
「ってか、そういうの中学のときやんなかったっけ?」
「ねー」
ブーイングが一斉に巻き起こる。そうだ、もっと言ってやれ、と暁史も胸の前で拳を握る。が、真山は表情を崩さなかった。
「そう言うなって。意外と楽しいぞ。ってことで、はい、みんなペアになって」
ぱんぱん、と容赦なく手が叩かれ、ため息と、椅子が引かれる音が入り混じる。そんな中、暁史は体を固くしていた。
自慢ではないが、自分は地味男子の極みだ。中学のときもクラス替えのたび、友人と呼べる存在を作るのに四苦八苦した。そして高校入学を果たした現在、当然の如く、ぼっちに逆戻りしている。
口下手で自分から話しかけるのが苦手。その今の状況で真山からのこの難題。
こういう、自由にペアを組んで、が火種となっていじめに発展する場合もある。教師だったら少しは配慮しろや、と心中で罵ったものの、ぼんやりしているとあぶれてしまう。どうしよう、と教室内を見回したときだった。
「ねえ」
くんくん、と二の腕あたりの生地が引かれる。え、と振り向いた暁史に微笑みかけてきたのは、やたら造作が整った男子だった。
「多賀、組む人、いる?」
机に身を乗り出すようにして覗き込んでくる彼を、暁史はまじまじと見返す。入学式の後、自己紹介をさせられたから名前は知っている。時任紅だ。背は彰史より頭半分ほど小さい。足が長く頭が小さく、大きな目とさらさらの髪が印象的な人だ。くれない、なんて随分な名前をつけられたなあ、と同情した記憶もある。が、多賀と時任、同じタ行だし、前後の席ではあるものの、これまでほとんど口を利いたことはなかった。
「ええと、いないけど。時任くんは……」
「俺もいない。ってか俺と組んでくれる人、いないと思うんだよね」
「……は?」
どういう意味だろう。首を傾げると、紅はわずかに目を見張った後、自分の顔を指さして言った。
「ほら、俺、まあまあイケメンだし。描くのハードル高いって思われそうだろ?」
「そ、そうだね」
なんだこいつ。
確かに顔は良いけれど、性格はヤバそうだ。面倒なのに声をかけられちゃったなあ、と引き攣りそうになったが、紅と会話していた時間が祟り、周りではすでにペアが出来上がってしまっているようだった。
「あの、俺、絵、下手だけど。それでも問題、ない?」
「ないない。じゃ、始めよっか」
軽い口調と共に紅はデッサンの準備を整え始める。彼に倣い、暁史も椅子の向きを変えた。イーゼルを挟んで向かい合うと、にこっと微笑まれた。
「よろしくお願いします」
「お願い、します」
変なやつだと思ったが、人当たりは悪くない。決めつけて悪かったな、と暁史が反省していることなど当然知らぬ顔で、紅は暁史とキャンバスを交互に見ながら、多賀ってさ、と声をかけてきた。
「彰史っていうよね。名前」
「あ、うん。そう」
「いい名前だよね」
「え」
漫画やドラマ以外で、いい名前、なんて褒めてくるやつもいるのか。
驚いたけれど黙っているわけにもいかないので、とりあえず笑顔を作ってみることにした。
「あり、がとう。あの、時任くんはその、紅、だったよね。いい、名前だよね」
「あー、うん」
そのとたん微妙な表情が返された。失言だったろうか、と慌てる彰史の前で紅はすっと柔らかく伸びた眉をわずかに顰めた。
「ぶっちゃけさ、とんでもない名前だって思わない? 紅だよ? こう、って読ませるならまだしも、くれない。強そうな名前がいいって父親につけられたけど、紅はな~。だから嫌いでさ、自分の名前」
「あー、そか、ごめん。あの。でも」
確かにまあまあの名前をつけられたな、とは思った。でも彼には似合っているように思う。鮮やかで華がある彼には、紅、というインパクトのある名前が、とても。
「俺はいいなって思うよ。響きが綺麗で、時任くんの雰囲気にも合ってるっていうか」
たどたどしく言うと紅が大きく目を見開いた。そうされて少し慌てる。本人が嫌いだと言っているのに、合っている、はよくなかったかもしれない。
ごめん、と慌てて頭を下げようとしたときだった。
ふふ、と軽い笑い声が耳を掠めた。
「ありがと。うれしい」
鮮やかな笑顔で言われて……固まった。
綺麗な顔だとは思っていたけれど、笑うと破壊力が、すごい。
芸能人以外でこんなに笑顔が眩しい人もいるんだ……と呆然としている彰史をよそに、紅は手を動かしながら声をかけてくる。
「多賀の趣味はなに?」
名前からきて今度は趣味?
「なんで、そんなこと、訊くの?」
おそるおそる尋ねる彰史に向かって紅がキャンバス越しに肩をすくめた。
「なんでって。さっき先生言ってただろ、お互いをよく知りながら描きなさいって。だから訊いてるだけ」
そういえばそうだった。赤くなりながら暁史も鉛筆を取る。じいっとこちらを見つめてくる彼となるべく目を合わせないようにしつつ、そうっと輪郭をキャンバスへ刻む。
イケメンを描くのは……確かにまあまあハードルが高い。
「趣味っていうほどのものは……。強いて言うなら読書、かな」
「なるほど」
なるほど、の後に間が空く。つまらなすぎる回答をしてしまった、と暁史は後悔したが、鉛筆を揮う彼の唇はほんのり綻んでいる。
「その、あの、時任くんの趣味は……」
「んー」
間を埋めたい一心で彼に水を向けると、紅は軽く眉を顰めて考える顔をした後、ふっと目を上げた。
「人間観察」
「人間、観察? あの、駅とかで、この人、どんな職業なのかな、とか想像する……感じ?」
「まあそう。ってか、多賀、読書好きなんだよね。好きな作家いる?」
話が飛びまくる。目を白黒させつつ、暁史は頷いた。
「いる、けど」
「じゃあ、この人の作風、自分に合うな〜ってなったら全作品読破するタイプ?」
「するね」
この話の着地点はどこなのだ? 首を捻りつつ、キャンバスから彼の顔に目を戻した暁史は思わず手を止めた。
「俺も、そう」
やけに目力を感じる目がこちらに向けられていた。
「たとえば……声が好きだなって思ったら、全部知りたくなる。だから、めっちゃ観察する。俺の人間観察ってそういう感じ」
「そう、なんだ」
やっぱりちょっと……いや、かなり、変わったタイプかもしれない。
相手をよく知りながら描きなさいと言われたが、この相手は知ったらとんでもないものが出てきてしまいそうな、と困惑している暁史の耳に、そういえばさ、と軽やかな声が滑り込んできた。
「この後、委員会決めあるだろ。俺ね、図書委員に立候補しようと思うんだけど。多賀もやらない?」
「は……あの、時任くんも、本、好きなの?」
「んー」
またも眉が寄せられる。その顔のまま、ざくざくと鉛筆がキャンバスを縦断する。どんな顔に描かれているのか若干気になったが、彼とは似ても似つかぬ顔を描き出してしまっている自分が尋ねるのも憚られた。数秒沈黙が続く。ややあって鉛筆が止まった。
「本、は、別に」
「そう、なの? じゃあ、なんで……」
「なんでだろうねえ」
くすくすと笑って紅は鉛筆をかたん、と置く。描き終わったのだろうか。早い。
「俺、結構いい感じに描けたけど、多賀は?」
「あ、ええと、まだ輪郭だけ……」
「ちょっと見せて」
ぎい、と椅子を引き、紅が立ち上がる。キャンバスを回り込み、暁史の手元を覗き込んでくる。その顔から笑みが消え、唖然としたように唇が僅かに開かれた。
大きな目がすうっと絵から暁史の顔へと向けられる。
「多賀の目から俺ってこう見えてるの?」
「あ、いや、その」
慌てふためきつつ、暁史はキャンバスを裏返す。目の前の彼とは似ても似つかない、唇のとんがったあひる似の顔は隠れたが、紅の表情は変わらなかった。
「ごめん。その、俺、絵、得意じゃなくて。別にこう見えてるってわけじゃなかったんだ。その……なんとか修正しようと試みたんだけど、どうしてもその」
「ふうん」
低い声で呟き、紅は暁史が裏返したキャンバスを取り上げる。しげしげと眺めてから元通り裏返して置く。
ヤバいやつを怒らせてしまったのだろうか。だから嫌だったんだ、こういう面倒な相手と組むのは、と数十分前の自分を呪っていると、ふっと彼が息を吐く音が聞こえた。
「まあ、いいか。許してあげよう。その代わり」
その代わり。
こういう単語の後に続く言葉は大体ろくなものじゃない。数多の物語を読み漁っている自分にはそれがわかる。ふるふるしていると、ぷっと唐突に紅が吹き出した。そのまま、おかしくてたまらないというように暁史の肩をぽくぽくと叩く。
「もう……面白すぎ。絵くらいで激怒するわけないだろ」
「は、え? でも、あの」
「ごめん。悪ノリし過ぎた」
ああ、今年一笑った、と呟いてから、紅は笑い過ぎて浮かんだ涙を指の腹で拭いつつ言った。
「俺のこと楽しい顔に描いた罰。図書委員、一緒にやって」
「え……そんなにやりたいの?」
「そだね。やりたい」
にこっと笑って小首を傾げる。やけに透明度の高い笑顔に意味なくどぎまぎしてしまった。
顔が綺麗なやつが急にこんな顔をすると心臓に悪い。
しかし、この雰囲気なら言ってもいいだろうか。
「俺も少し、気になってることあって」
「なに? いいよ、どんどん話して」
軽い声が返る。その彼に恐る恐る暁史は問いかけた。
「時任くんが描いた俺の顔、見せてもらえたり、する?」
「あー」
そうだ。こちらは恥をさらしたのだ。どんなふうに描かれているのか、見る権利はあるのではないか。
そう思って思い切ってした問いに紅は納得したように頷いてから、自身のキャンバスのほうへと戻っていく。見せてくれるようだ。わくわくして待ったが、彼はしげしげと自身の絵を見た後、なにを思ったのか、キャンバス越しに小さく片手で拝んできた。
「え、なに?」
「ごめん。やっぱ、恥ずかしいや。見せるのは勘弁して」
「……」
そっちは見せないんかい!
突っ込みたかったが、そっか、と頷くに止めた。
元が自分の顔だし、期待することもないか、と思いながら。
「初めての授業だし、今日はクラスメイトのことを深く知れるような授業内容にしようと思います」
登場した瞬間、ヤバい、イケメン教師、などと女子生徒たちから早々に崇められるようになった美術教師、真山が朗らかに言う。それを遠目に眺めながら、嫌な予感しかしねえ、と暁史はどんよりしていた。
「テーマは『友達の顔』。自由にペアになって、相手の顔を描いてもらいます。その際、無言禁止。お互い話をして、相手のことを知りながら描いてください」
「えー! なにそれ」
「ってか、そういうの中学のときやんなかったっけ?」
「ねー」
ブーイングが一斉に巻き起こる。そうだ、もっと言ってやれ、と暁史も胸の前で拳を握る。が、真山は表情を崩さなかった。
「そう言うなって。意外と楽しいぞ。ってことで、はい、みんなペアになって」
ぱんぱん、と容赦なく手が叩かれ、ため息と、椅子が引かれる音が入り混じる。そんな中、暁史は体を固くしていた。
自慢ではないが、自分は地味男子の極みだ。中学のときもクラス替えのたび、友人と呼べる存在を作るのに四苦八苦した。そして高校入学を果たした現在、当然の如く、ぼっちに逆戻りしている。
口下手で自分から話しかけるのが苦手。その今の状況で真山からのこの難題。
こういう、自由にペアを組んで、が火種となっていじめに発展する場合もある。教師だったら少しは配慮しろや、と心中で罵ったものの、ぼんやりしているとあぶれてしまう。どうしよう、と教室内を見回したときだった。
「ねえ」
くんくん、と二の腕あたりの生地が引かれる。え、と振り向いた暁史に微笑みかけてきたのは、やたら造作が整った男子だった。
「多賀、組む人、いる?」
机に身を乗り出すようにして覗き込んでくる彼を、暁史はまじまじと見返す。入学式の後、自己紹介をさせられたから名前は知っている。時任紅だ。背は彰史より頭半分ほど小さい。足が長く頭が小さく、大きな目とさらさらの髪が印象的な人だ。くれない、なんて随分な名前をつけられたなあ、と同情した記憶もある。が、多賀と時任、同じタ行だし、前後の席ではあるものの、これまでほとんど口を利いたことはなかった。
「ええと、いないけど。時任くんは……」
「俺もいない。ってか俺と組んでくれる人、いないと思うんだよね」
「……は?」
どういう意味だろう。首を傾げると、紅はわずかに目を見張った後、自分の顔を指さして言った。
「ほら、俺、まあまあイケメンだし。描くのハードル高いって思われそうだろ?」
「そ、そうだね」
なんだこいつ。
確かに顔は良いけれど、性格はヤバそうだ。面倒なのに声をかけられちゃったなあ、と引き攣りそうになったが、紅と会話していた時間が祟り、周りではすでにペアが出来上がってしまっているようだった。
「あの、俺、絵、下手だけど。それでも問題、ない?」
「ないない。じゃ、始めよっか」
軽い口調と共に紅はデッサンの準備を整え始める。彼に倣い、暁史も椅子の向きを変えた。イーゼルを挟んで向かい合うと、にこっと微笑まれた。
「よろしくお願いします」
「お願い、します」
変なやつだと思ったが、人当たりは悪くない。決めつけて悪かったな、と暁史が反省していることなど当然知らぬ顔で、紅は暁史とキャンバスを交互に見ながら、多賀ってさ、と声をかけてきた。
「彰史っていうよね。名前」
「あ、うん。そう」
「いい名前だよね」
「え」
漫画やドラマ以外で、いい名前、なんて褒めてくるやつもいるのか。
驚いたけれど黙っているわけにもいかないので、とりあえず笑顔を作ってみることにした。
「あり、がとう。あの、時任くんはその、紅、だったよね。いい、名前だよね」
「あー、うん」
そのとたん微妙な表情が返された。失言だったろうか、と慌てる彰史の前で紅はすっと柔らかく伸びた眉をわずかに顰めた。
「ぶっちゃけさ、とんでもない名前だって思わない? 紅だよ? こう、って読ませるならまだしも、くれない。強そうな名前がいいって父親につけられたけど、紅はな~。だから嫌いでさ、自分の名前」
「あー、そか、ごめん。あの。でも」
確かにまあまあの名前をつけられたな、とは思った。でも彼には似合っているように思う。鮮やかで華がある彼には、紅、というインパクトのある名前が、とても。
「俺はいいなって思うよ。響きが綺麗で、時任くんの雰囲気にも合ってるっていうか」
たどたどしく言うと紅が大きく目を見開いた。そうされて少し慌てる。本人が嫌いだと言っているのに、合っている、はよくなかったかもしれない。
ごめん、と慌てて頭を下げようとしたときだった。
ふふ、と軽い笑い声が耳を掠めた。
「ありがと。うれしい」
鮮やかな笑顔で言われて……固まった。
綺麗な顔だとは思っていたけれど、笑うと破壊力が、すごい。
芸能人以外でこんなに笑顔が眩しい人もいるんだ……と呆然としている彰史をよそに、紅は手を動かしながら声をかけてくる。
「多賀の趣味はなに?」
名前からきて今度は趣味?
「なんで、そんなこと、訊くの?」
おそるおそる尋ねる彰史に向かって紅がキャンバス越しに肩をすくめた。
「なんでって。さっき先生言ってただろ、お互いをよく知りながら描きなさいって。だから訊いてるだけ」
そういえばそうだった。赤くなりながら暁史も鉛筆を取る。じいっとこちらを見つめてくる彼となるべく目を合わせないようにしつつ、そうっと輪郭をキャンバスへ刻む。
イケメンを描くのは……確かにまあまあハードルが高い。
「趣味っていうほどのものは……。強いて言うなら読書、かな」
「なるほど」
なるほど、の後に間が空く。つまらなすぎる回答をしてしまった、と暁史は後悔したが、鉛筆を揮う彼の唇はほんのり綻んでいる。
「その、あの、時任くんの趣味は……」
「んー」
間を埋めたい一心で彼に水を向けると、紅は軽く眉を顰めて考える顔をした後、ふっと目を上げた。
「人間観察」
「人間、観察? あの、駅とかで、この人、どんな職業なのかな、とか想像する……感じ?」
「まあそう。ってか、多賀、読書好きなんだよね。好きな作家いる?」
話が飛びまくる。目を白黒させつつ、暁史は頷いた。
「いる、けど」
「じゃあ、この人の作風、自分に合うな〜ってなったら全作品読破するタイプ?」
「するね」
この話の着地点はどこなのだ? 首を捻りつつ、キャンバスから彼の顔に目を戻した暁史は思わず手を止めた。
「俺も、そう」
やけに目力を感じる目がこちらに向けられていた。
「たとえば……声が好きだなって思ったら、全部知りたくなる。だから、めっちゃ観察する。俺の人間観察ってそういう感じ」
「そう、なんだ」
やっぱりちょっと……いや、かなり、変わったタイプかもしれない。
相手をよく知りながら描きなさいと言われたが、この相手は知ったらとんでもないものが出てきてしまいそうな、と困惑している暁史の耳に、そういえばさ、と軽やかな声が滑り込んできた。
「この後、委員会決めあるだろ。俺ね、図書委員に立候補しようと思うんだけど。多賀もやらない?」
「は……あの、時任くんも、本、好きなの?」
「んー」
またも眉が寄せられる。その顔のまま、ざくざくと鉛筆がキャンバスを縦断する。どんな顔に描かれているのか若干気になったが、彼とは似ても似つかぬ顔を描き出してしまっている自分が尋ねるのも憚られた。数秒沈黙が続く。ややあって鉛筆が止まった。
「本、は、別に」
「そう、なの? じゃあ、なんで……」
「なんでだろうねえ」
くすくすと笑って紅は鉛筆をかたん、と置く。描き終わったのだろうか。早い。
「俺、結構いい感じに描けたけど、多賀は?」
「あ、ええと、まだ輪郭だけ……」
「ちょっと見せて」
ぎい、と椅子を引き、紅が立ち上がる。キャンバスを回り込み、暁史の手元を覗き込んでくる。その顔から笑みが消え、唖然としたように唇が僅かに開かれた。
大きな目がすうっと絵から暁史の顔へと向けられる。
「多賀の目から俺ってこう見えてるの?」
「あ、いや、その」
慌てふためきつつ、暁史はキャンバスを裏返す。目の前の彼とは似ても似つかない、唇のとんがったあひる似の顔は隠れたが、紅の表情は変わらなかった。
「ごめん。その、俺、絵、得意じゃなくて。別にこう見えてるってわけじゃなかったんだ。その……なんとか修正しようと試みたんだけど、どうしてもその」
「ふうん」
低い声で呟き、紅は暁史が裏返したキャンバスを取り上げる。しげしげと眺めてから元通り裏返して置く。
ヤバいやつを怒らせてしまったのだろうか。だから嫌だったんだ、こういう面倒な相手と組むのは、と数十分前の自分を呪っていると、ふっと彼が息を吐く音が聞こえた。
「まあ、いいか。許してあげよう。その代わり」
その代わり。
こういう単語の後に続く言葉は大体ろくなものじゃない。数多の物語を読み漁っている自分にはそれがわかる。ふるふるしていると、ぷっと唐突に紅が吹き出した。そのまま、おかしくてたまらないというように暁史の肩をぽくぽくと叩く。
「もう……面白すぎ。絵くらいで激怒するわけないだろ」
「は、え? でも、あの」
「ごめん。悪ノリし過ぎた」
ああ、今年一笑った、と呟いてから、紅は笑い過ぎて浮かんだ涙を指の腹で拭いつつ言った。
「俺のこと楽しい顔に描いた罰。図書委員、一緒にやって」
「え……そんなにやりたいの?」
「そだね。やりたい」
にこっと笑って小首を傾げる。やけに透明度の高い笑顔に意味なくどぎまぎしてしまった。
顔が綺麗なやつが急にこんな顔をすると心臓に悪い。
しかし、この雰囲気なら言ってもいいだろうか。
「俺も少し、気になってることあって」
「なに? いいよ、どんどん話して」
軽い声が返る。その彼に恐る恐る暁史は問いかけた。
「時任くんが描いた俺の顔、見せてもらえたり、する?」
「あー」
そうだ。こちらは恥をさらしたのだ。どんなふうに描かれているのか、見る権利はあるのではないか。
そう思って思い切ってした問いに紅は納得したように頷いてから、自身のキャンバスのほうへと戻っていく。見せてくれるようだ。わくわくして待ったが、彼はしげしげと自身の絵を見た後、なにを思ったのか、キャンバス越しに小さく片手で拝んできた。
「え、なに?」
「ごめん。やっぱ、恥ずかしいや。見せるのは勘弁して」
「……」
そっちは見せないんかい!
突っ込みたかったが、そっか、と頷くに止めた。
元が自分の顔だし、期待することもないか、と思いながら。



