和成に連れられてやって来た公園は確かに大きく、学校のグラウンドほどの広さがあった。野球やサッカーをするスペースが十分に確保され、遊具の設置されているエリアと区分けされているため、気兼ねなくスポーツを楽しめるつくりになっている。
 小学生のためのサッカー教室が開かれている片隅で、朔と和成は脱いだブレザーの上着を荷物の上にかけ、カッターシャツの袖を軽く捲った格好でそれぞれ利き手とは反対の手にグラブをはめた。ベストを着ているおかけで肌寒さは気にならず、五メートルほどの距離を取って向き合えば、すぐにでもキャッチボールを始められる体勢は整う。

「よし。やるか」

 白球を手にした和成が朔に声をかける。朔は黙ってうなずいた。こうして誰かとキャッチボールをするのも、グラブを右手にはめるのも年が明けてからははじめてのことだ。
 ずっと野球から目をそらしていた。野球のことを考えるたびに苦しくて、受験勉強に無理やり集中することでどうにか平静を保っていた。

 ラッキーなことに、今日に限って風の穏やかな日だった。和成が貸してくれたグラブは新品同様だったけれど、最初は硬くて使いにくいはずの革はすっかり柔らかく整えられていた。これがあればいつでも朔とキャッチボールができるという和成の言葉に嘘はなく、和成は朔のためのグラブに対しても日々手入れを怠らなかったようだ。これならすぐに練習ができる。

 朔はグラブをはめた右手を和成のほうへ向けてかまえる。それが合図となり、和成は朔のグラブをめがけて軽い調子でボールを投げた。
 パシンッ、という乾いた音が響き渡る。そうそう、この音。じんと右の手のひら全体に広がる捕球の感触も懐かしい。
 グラブの中の白球を左手につかみ、朔も和成に投げ返した。ピッチングの時ほど力は入れず、けれど基本に忠実な、しっかりと腕を振り抜く投球フォームを意識する。
 パァン、と和成のグラブが鳴る。和成は満足そうに「いいね」と口角を上げた。

「やっぱきれいだな、おまえの投げ方」

 和成が二球目を投げ込んでくる。キャッチしながら、朔はまた昔のことを思い出した。

 ――きれいだね、きみの投球フォーム。癖がなくて、美しい。

 キャッチャーミットの中でボールを転がしながら、そいつはいつも嬉しそうに朔の投球を褒めてくれた。試合で制球が乱れても、試合に負けても、そいつのかけてくれる言葉は決まっていた。

 ――きみは、いいピッチャーだよ。

「朔?」

 和成の声で我に返る。朔は顔を上げ、和成にボールを投げ返した。

 ゆっくりと肩を温めながら、和成と少しずつ距離を取っていく。久しぶり投げているけれど、調子は悪くない。指はきちんとボールにかかり、制球が定まっている感覚がある。こういう日はいつも「今日は勝てそうだ」と思う。そう口に出してあいつに伝えると、あいつはたいてい「いつもその調子で投げてくれなくちゃ困るんだけど」と肩をすくめた。
 お互いに一歩ずつ下がりながら何度かボールを投げ合うと、やがてその距離は十八.四四メートル、ピッチャーの立つマウンドからホームベースまでの長さになった。

「どうする、朔」

 投げたボールを朔がキャッチするのを見届けた和成が、声を張って尋ねてくる。

「投げるか」

 和成はその場のしゃがみ込み、「ほい」と朔に向けてグラブをかまえた。彼は外野手で、キャッチャーの経験はないはずだけれど、朔が投球練習をするなら捕球してくれるつもりらしい。
 朔はためらい、しかしゆっくりと和成にからだの右半分を見せるように立った。全身の力を抜き、ボールの収まる右手のグラブを腹の前に持ってくる。
 首を右へひねる。十八メートル先には、グラブをかまえる仲間の姿。
 そう、この距離感。久しぶりに見るマウンドからの景色は、朔に記憶の海を泳がせる。

 パシィン、とあいつが心地よく響かせてくれるキャッチャーミットの音。
 ナイスピッチ、と手放しに褒めてくれる声。キャッチャーマスクのフレーム越しに傾けてくれる笑顔。

 嬉しかった。喜びも、悔しさも、白球に乗せて投げ込めばあいつが全部受け止めてくれた。

 でも、今はそれが叶わない。
 優れたキャッチャーの証であるミットの音も、優しい声も、すべてを包み込んでくれるような微笑みも、なにもかもが思い出に変わってしまった。
 もう二度と、あいつに触れることはできない。星になってしまったあいつと、同じ時間を過ごすことも。

 朔は和成から顔を(そむ)ける。うつむくと、涙があふれて止まらなかった。

「……迅太(じんた)

 他のなににも代えがたい、最愛の相棒の名を口にする。返事をしてほしかったのに、朔の呼ぶ声は()いだ春の風にさらわれた。

 その場に膝からくずおれる。左手で顔を覆ってむせび泣く朔のもとへ、和成が飛ぶように駆け寄った。

「朔」

 和成が背中をさすってくれる。あたたかくて、優しくて、朔の嗚咽は加速する。
 和成は黙って朔を抱き寄せた。腕にぎゅっと力を込め、頭を静かになでてくれる。

 泣いていいのだと言ってもらえた気がした。朔は和成にすがりつき、声を上げて泣いた。

 中一の春に出会った迅太と、朔はすぐにバッテリーを組んだ。波長が合い、迅太にリードされて投げる球はいつだって軽快に走っていた。
 朔が悩むと、迅太はすぐに気づいてくれた。二人きりになれるところへ連れていってくれて、何時間も朔の話を聞いてくれた。

 気がつけば、迅太と過ごす時間が中学校生活の大半を占めるようになっていた。野球でつまずいて苦しくても、迅太がいたからがんばれた。
 キャッチャーのくせに線が細くて、そのくせ朔よりも食いしん坊で。くしゃっと笑うと目がなくなって、賢くて頼りになる反面、少し抜けているところもあって。

 いつからだろう。佐崎(ささき)迅太という男に惹かれ始めたのは。
 たぶん、最初からだった。野球部の体験入部で出会ったその日から、迅太に目を奪われていた。

 一緒に卒業できないなんて、その時は想像もしなかった。
 迅太が病気になるなんて。不治の病じゃなかったのに。絶対に元気になると信じていたのに。

 高校でも一緒に野球をしよう。そう約束したはずなのに。
 どうしてあいつは、病気なんかに負けてしまったんだ。
 どうして、俺の前からいなくなった――。

「ごめんな、朔」

 朔を抱きしめたまま、和成は朔に顔を寄せてつぶやいた。

「知らなかったんだ。こんなに泣いちまうくらい、野球をするのがつらかったなんて」

 朔は和成の腕の中で首を振る。和成が悪いんじゃない。なにも説明しなかった朔が悪いのだ。
 和成の胸から静かに離れる。手のひらで強引に涙を拭い、朔は和成に涙の理由(わけ)を話した。

「忘れられないんだ、中学時代にバッテリーを組んでたヤツのことが」

 和成がうなずいてくれる。あるいはすでに、話の結末まで察してしまったかのような顔で。

「今でも迅太が、俺を練習に誘いに来てくれる気がしてる。いつもどおり、キャッチャーミットを持って俺の家に来るんだ。あいつは(みなみ)小だったから、うちまで自転車で十五分はかかったのに」

 元気な男だった。バイタリティにあふれ、なにかをやろうと言い出すのはいつも迅太だった。

「病気がわかってからも、来られる時には野球部の練習に出て、俺の球を受けてくれた。最後の夏も、たった一試合、四回裏までしか体力が()たなかったけど、俺とバッテリーを組んでくれた。他の誰がキャッチャーでもしっくり来ない。俺の相棒は、あいつだけだったんだ。俺がどんなひどい球を投げても、あいつだけは全部受け止めてくれた。大丈夫だよ、次で抑えればいいんだから。きみはいいピッチャーだよ、って……そうやって、あいつはいつも……」

 話しながら、また泣いてしまう。どうしようもなく寂しくて、つらくて、三ヶ月が過ぎた今でも、毎日のように迅太を想う気持ちが涙になってあふれ出す。
 和成が濡れた朔の頬を拭う。さっきまで氷のように冷たかった指先は、今は優しいぬくもりを湛えていた。

「もういいよ。ありがとな、話してくれて」

 ふわりと頭を撫でられる。その手は朔の背を引き寄せ、きゅっと力を込めて朔を抱きしめた。

「わかるよ、お前の気持ち。そのキャッチャーくんに、今でも会いたくてたまらないんだ」

 そうだ。今すぐ迅太に会いたい。
 もう会えないのだとわかっていても、会いたいと願うことをやめられない。
 和成はそっと腕から力を抜き、朔の顔を覗き込むように尋ねた。

「好きだったんだろ、そいつのこと」

 好き。

 そう。好きだった。大好きだった。
 迅太がいたから、笑っていられた。キツい練習も乗り越えられた。毎日を心から楽しいと思えた。家に帰れば、次に迅太と話せる時間が待ち遠しくてたまらなかった。

 朔は黙って目を閉じる。それを答えと受け取った和成の口から、かすかな吐息がこぼれ落ちた。

「だよな。わかるよ。おれもおまえのことが好きだから」

 朔が顔を上げる。和成の真剣な眼差しがそこにはあって、今の言葉が本気なのだということが嫌と言うほど伝わってくる。
 おまえのことが好き。和成は、朔のことが。
 我知らず瞳を揺らした朔に、和成は思いの丈を語った。

「引っ越して、おまえと別の中学にかよい出してから気づいたんだ。おれには朔がいなくちゃダメなんだって。野球してると、ずっとおまえのことを考えちまってさ。朔に会いたい。また一緒に野球がしたい。中学の三年間、そればっかり考えてた」

 ドキッとする。鏡に映った自分を見ているようだと朔は感じた。
 朔もそうだ。気づけば迅太のことばかり考えていた。自分の今や未来より、迅太のことが大事だった。迅太がいてくれなければすべてがうまくいかなかった。
 和成と同じだ。朔にも和成の気持ちがわかる。
 見ている景色は違うけれど、二人はともに、大切な人のことを常に想い続けてきた。
 だからこそ、朔には気づけたことがある。

「おまえ、わざと俺と同じ高校を……?」

 入学式の日に覚えた違和感の理由に、今ようやく手が届いた。
 絶対にもっとレベルの高い高校へ行けたはずの和成は、意図して朔と同じ高校を受験したのだ。もう一度、朔と一緒に野球をやるために。
 和成は「そうだよ」とさも当たり前のように答えた。

「野球部の伝手(つて)で、おまえの志望校がここだって突き止めてさ。ギリギリになって受験する高校を変えて、しかも偏差値まで下げたから親にめちゃくちゃ嫌な顔されたけど、そんなことはおれには関係なかった。おまえと一緒になれなかったらあきらめる。でも、もしこれで同じ高校にかよえることになったら、おまえのこと、おまえとの時間を、絶対大切にしようって思ってた」

 朔は自分でも気づかないうちに首を横に振っていた。信じられない。この先の人生を大きく左右する高校選びを、朔を基準に考えてしまったなんて。

「バカだろ、おまえ」
「かもな。でも、仕方ないだろ。おまえのこと、本気で好きになっちまったんだから」

 地べたに座り込んだまま、和成は朔の手に自らの右手を静かに重ねた。

「おれじゃダメか、朔」

 包み込まれた手を握られる。

「こんなタイミングで、傷心したおまえに(コク)るなんて、どう考えたってズルいよ。それはおれもわかってる。でも、このままじゃ絶対ダメだと思うんだ。そうやっていつまでも泣いてたんじゃあ、おまえの心とからだに悪い。いつかどこかでケリつけて、前に進み始めなきゃいけない。その手伝いを、おれにさせてほしい」

 一言一句に気持ちを込めて、和成は言葉を紡いでいく。

「亡くなったキャッチャーくんのことを忘れろとは言わない。ずっと想い続けたままでいい。それでいいから、少しずつ立ち直っていこう。また笑えるようにがんばろう。おれはキャッチャーじゃないけど、おまえのこと、全力で支える。苦しくなったら、おれのところへ来い。おれ、おまえの笑った顔が大好きなんだ。だから」

 なによりも伝えたい大切な一言を、和成は朔めがけて一直線に投げ込んだ。

「おれを、おまえの新しい居場所にさせてくれ」

 重なった視線を、朔はしばらくそらすことができなかった。
 じん、と胸にあたたかいものを感じる。賢いくせにバカな和成のド真ん中ストレートは、とても打ち返せないほど重くて、速い。
 嬉しかった。迅太はいなくなってしまったけれど、ひとりじゃないんだと思えた。
 和成がいる。朔の隣にいてくれようとしている。
 でも和成の言うとおり、今はまだ、百パーセント和成だけを想うことはできない。

「和成」

 朔は和成に包み込まれた左手を握る。

「おまえは、つらくないのか」
「なにが」
「だって」

 朔が別の誰かに想いを寄せていることを和成は知っている。それでいてなお朔を好きでいることの苦しさは、朔でなくてもたやすく想像できることだ。

「なに言ってんだよ」

 けれど和成は、朔の思った以上にケロッとした声と顔で言った。

「つらいわけないだろ。大好きなおまえと一緒にいられるのに」
「でも、俺は」
「なめんなよ、朔」

 和成の瞳がキラリと光った。

「おれは、おまえのために自分じゃ使えないグラブを買った男だぞ? そう簡単に折れてなんかやんねぇっての」

 朔は言葉を失った。口を半開きにしたまま、和成をまじまじと見つめる。

 そっか。

 そういうことなのだ。心配して損をした。
 朔は右手をすっぽりと覆う黒革のそれに目を落とす。和成の本気は、言葉にして聞かされるよりもずっと前から、朔の手もとにちゃんと届けられていた。

 なんだよ、それ。

 口の筋肉が弛緩する。口角が上がるのを自分でも感じる。
 中学時代の三年間、絶えずあたためられ続けてきた彼の想いは今、朔の右手を大切に守ってくれている。重すぎるほどの愛情だけれど、深く傷ついた朔の心には、それくらいがちょうどいいのかもしれない。

 自然とこぼれ出た朔の笑い声が、二人の間を流れる空気の色を変える。悲しみに濁った藍から、明るい未来を照らす鮮やかなオレンジへ。

「そりゃそうだ」

 朔は笑顔で、和成に言った。

「バカだもんな、おまえは」

 アハハ、と数ヶ月ぶりに声を立てて笑う。柔らかく吹き抜ける春の風が心地よくて、ずっとかかり続けていた(もや)が一気に晴れていくのを感じた。
 軽妙に笑う朔を見て、和成はようやく肩の力が抜けるといった風に息をついた。

「やっと笑ったな」

 朔と改めて目を合わせると、和成は困ったように微笑んだ。

「入学式の日、死んだ魚みたいな顔してるおまえを見た時にはどうしようかと思ったけど、よかった、あきらめなくて。おれ、やっぱおまえのその顔が好きだわ」

 はにかんでいるくせに、言葉だけはバカ正直なド直球というところがいかにもまじめな和成らしい。朔は改めて、和成に笑みを傾けた。

「ありがとう。嬉しいよ、おまえの気持ち」
「ほんとか!」
「うん。おまえがバカで助かった」
「なんだよそれ。褒めてんのか?」
「褒めてるって。感謝もしてる」
「そうか。なら、ご褒美くれ」
「いいよ。なにがいい?」
「決まってんだろ、そんなの」

 和成の顔が朔に近づく。やがてその距離はゼロになり、二つの唇が重なった。
 朔は一瞬目を大きくして、やがてまぶたを静かに閉じた。確かな熱と、ほんのり甘いホイップクリームの残り香が、甘美な時間を連れてくる。
 はじめての交わりは少し長く、離れていた三年分の恋心を和成は全部届けてくれた。朔を離したくない気持ちが、彼の右手を朔の頭の後ろへ添えさせた。

 たっぷりと時間をかけたキスを終え、和成から口を離す。唇にかすかな痺れが残るのを感じながら顔を上げた朔の視線の先で、和成が真っ赤な頬と口もとを右手で覆い隠しながらつぶやいた。

「やば。最高すぎ」
「キショ」
「なんとでも言え。あぁ、最高に幸せだ、おれ」

 もう一回、とキスをせがんでくる和成に、「やだ」と朔は見向きもせずに立ち上がった。日の入りが近づき、風が冷たくなってきた。和成のせいでからだは火照っているけれど、このまま座り続けていたら冷えてしまう。

「なぁ、朔」

 和成も立ち上がり、朔の背中を呼び止める。無言で振り返った朔に、和成はややためらいながら尋ねた。

「ジンタ、だっけ。付き合ってたのか、そいつとは」

 不意に迅太の名前が出てきて、ふさがりかけた心の傷にまた少し痛みを覚えた。
 でも、もううつむかない。泣いたりしない。
 和成が一緒にいてくれれば、強く、前を向いていられるから。

「いや」

 今度は朔があっけらかんと答える番だった。

「俺が勝手に好きだっただけ」
「ふぅん。そっか。そうなのか」

 和成の顔に笑みが戻る。笑みというよりニヤニヤと薄気味悪く口角が上がっていて、朔は眉間にしわを寄せて和成をにらんだ。

「なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「いや、別に」
「うざ」
「おまえ、元気になったらなんか急に当たり強くね?」

 知るか、と和成に背を向けてふんぞり返った朔の口もとに笑みが浮かぶ。自然な会話の中で笑えて、ようやく止まっていた時間が動き出したのを肌で感じる。
 和成のおかげだ。この数日、彼のファインプレーにいったい何度救われただろう。

 朔は静かに目を閉じる。そう、この爽快な感覚を野球でたとえるなら。

 ワンアウト、ランナー二、三塁。逆転のランナーを背負っているにもかかわらずホームラン級の特大フライを許してしまった朔は、祈るような気持ちでセンター方向を振り返る。
 けれどそこには和成がいた。彼がボールの落下点できっちりフライをキャッチし、ツーアウト。その瞬間、タッチアップから三塁ランナーがホームベースを目指して走り出す。
 和成は大きく振りかぶった右腕で、仲間のキャッチャーの胸もとめがけて剛速球を投げ込んだ。弾丸のように球場を駆けた白球は、三塁ランナーよりも先にキャッチャーミットへたどり着く。
 捕球と同時に、キャッチャーはからだを張ってホームベースを守りながら、スライディングで飛び込んでくる三塁ランナーを捕まえた。ボールをつかむミットでランナーの足にタッチすると、審判(アンパイア)が大胆なジェスチャーでアウトを宣言した。
 スリーアウト。朔が作った劇的な逆転負けの危機を、仲間たちが寸前で食い止めてくれた。
 キャッチャーマスクをはずし、弾ける笑顔を見せたのは、小学校時代の仲間ではない。
 朔が今でも愛している、大切な、大切な相棒。

 迅太のもとへ駆け寄ろうとして、その幻は美しくきらめいて消える。
 けれどすぐに、背中に大きな熱を感じた。朔のピンチを救ってくれた、ひまわりのように明るい笑顔が朔をぎゅっと抱きしめてくれる。
 あたたかい。朔は回された腕をそっとつかむ。

 大切な人を失った。でも、新しく見つけられた。
 大切にしたいと思える人を。
 消えてしまった最愛の相棒と、同じくらい愛せるかもしれない人を。

 朔はゆっくりと歩き出す。すぐ後ろにいるその人に声をかけることも忘れない。

「行くぞ、和成」
「行くって、どこに」

 朔は足を止め、和成を振り返る。右手にはめたグラブの中の白球を左手につかみ、縫い目に指をかけて和成のほうへと突き出した。

「受けてくれるんだろ」

 もう二度と、マウンドで迅太を想って泣くことはない。
 和成がいてくれるから。そして心には、いつも迅太の笑顔がある。

 和成が白い歯を見せて笑う。「しゃーねぇな」と彼は走り、朔の十八.四四メートル先でしゃがみ込んだ。

 胸を張ってマウンドに立つ。全身の力を抜き、和成のかまえるグラブの中心だけを見つめる。

 なぁ、迅太。
 俺、行くよ。前に進む。

 右のグラブの中でボールをつかむ。余計な変化はかけない。ひたすらにまっすぐ、速く、和成のもとへ投げ込むだけ。
 迅太が出してくれるサイン。いつも決まって、初球はド真ん中ストレートだ。

 見ててくれよ、天国から。
 この先もずっと、おまえと一緒に野球をするから。

 振りかぶり、迅太と和成が褒めてくれた美しいフォームで投げる。
 迅太ほどの快音は鳴らしてくれなかったけれど、和成は朔のボールをしっかりと受け止めてくれた。

「ナイスピッチ!」

 和成が笑顔でボールを投げ返してくれる。朔も笑ってそれを受け取る。

「ヘタクソ。もっといい音鳴らして()れよ」
「無茶言うな! おれはキャッチャーじゃねぇんだぞ」

 二人の笑い声が、薄暮の公園に溶けていく。
 朔の投球はどこまでも走る。和成が一緒なら、球速が落ちることはない。

 何球か投げ込むと、胸の奥で眠っていた熱い気持ちが目を覚ました。
 もう一度、野球がしたい。大切な人たちと一緒に。

 暗闇にボールが見えなくなるまで、二人は投球練習を続けた。「そろそろ帰るか」と言った和成に「やだ」と言って、朔は和成を笑わせた。
 駅まで送るよ、と言ってくれた和成と公園を出る。整備された歩道をゆっくりと歩いていると、朔の右手に、和成の左の指先が不意に触れた。

 手をつながれる。黙って握り返したら、和成が指を絡ませてきた。
 朔は受け入れ、ほんの少しだけ和成との距離をつめる。肩を寄せ合って歩くと、夜風の冷たさは気にならない。

 言葉にはしない。つないだ手のぬくもりが、和成に全部伝えてくれる。
 これからたっぷりと時間をかけて、和成に恩返しをしようと朔は誓った。
 心の中で確かに生まれた愛情を、彼だけに傾けて。


【きみのファインプレーに、僕は何度でも救われる/了】