お互い一つずつクレープを食べ終え、腹は膨れた。四月の空はまだまだ明るい。
 ゴミをくずかごに捨て終えた和成は朔に尋ねた。

「次、どこ行く?」
「まだなんか食いたいの」
「いや、食いモンはもういいや。遊ぼう。この辺、あんまりおもしろいとこないけど」
「なんでもいいよ。おまえにまかせる」
「いいの? じゃあ」

 和成はなぜかパンパンに荷物の入った黒いリュックを地べたに降ろすと、中から野球のグラブを二つ取り出した。

「キャッチボールしようぜ」

 朔は目を大きくした。驚いたのは最初から朔をキャッチボールに誘うつもりで準備してきていたことだけではない。
 和成の手にするグラブの一つは、右利きである和成のもの。
 もう一つは、左利きの朔が右手にはめて使う、右利きの和成が買う必要のない左利き用のグラブだった。

「それ……」

 思わず声が出てしまう。

「なんで。おまえ、右利きだろ」
「買ったんだ、お年玉とかコツコツ貯めて。これがあれば、おまえといつでも練習できると思ってさ」
「お年玉って」

 いったいいつから、和成は朔のためにそんな準備をしていたのだろう。朔が野球から離れる未来を、中学時代の事情を知らない和成が想像できるはずもないのに。

「いつも思ってたんだ、おれ」

 戸惑う朔に、和成は照れたような顔をして語った。

「街を歩いてたら、偶然朔に会えねぇかなって。引っ越し先の家も遠くなかったし、もしどこかで会えた時、このグラブを持ってたらすぐにおまえとキャッチボールできるだろ」

 朔は軽く混乱した。そんな理由で、自分では絶対に使わないグラブを買ったのか。どれだけ低い確率に期待していたんだと呆れる反面、こんな自分にもう一度会いたいと思ってくれていたことは素直に嬉しいと感じた。朔だって、和成の引っ越しが決まった時には寂しくてたまらなかったのだ。
 和成は朔に一歩近づき、グラブを差し出してふわりと笑った。

「会いたかったぞ、朔」

 またおまえと野球がしたい。それが叶うなら、おれは嬉しい。
 まっすぐ重なる和成の瞳にそう告げられているような気がした。朔は少しだけためらって、和成から左利き用のグラブを受け取った。

「よっしゃ」

 和成は大きな笑みを浮かべ、意気揚々とリュックを背負い直した。

「行こう。すぐ近くに大きくていい感じの公園があるんだ」

 導くように、和成は朔の手を引く。一緒になって歩き出した朔だったけれど、すぐにその足を止めた。

「どうして」

 拭いきれない疑問を和成に投げかける。

「俺なんかのために、どうしてここまで」

 離れていた時間が寂しかったことは理解できる。野球じゃなくても、朔と一緒ならなんでもやると彼は言った。
 疑念は尽きない。たった一度の高校生活を楽しみたいと言っていたのに、大切なものを失い、絶望に打ちひしぐ今の朔に付き合っていたら、彼の夢見る高校生活はどうやっても明るくはならない。
 なのに、なぜ。そう問いかけるような目をして和成を見ていると、和成は朔の手を静かに離した。

「おまえのためじゃない。おれが、おまえと一緒にいたいの」

 和成の目は真剣だった。自分の意見を意地でも押し通すと決めたような、揺らぐことのない、強い意思を感じる目。
 朔と一緒にいたい。それが、和成が朔を遊びに誘った理由。
 小学校時代を懐かしんでいるのではない。離れていた時間を埋め、この先もずっと同じ時間を過ごしたいという彼の気持ちを肌で感じる。
 朔は小さく首を振った。わからない。和成がそこまで朔にこだわる理由(わけ)が。

「楽しくないだろ、俺といたって」

 ろくに笑えもしない自分に、和成の時間を奪わせたくない。そう本気で思っているのに、和成は「わかってねぇなぁ」と言った。

「楽しいに決まってんだろ。どんだけ待ったと思ってんだ、おまえとまた一緒に野球ができる日を」

 白い歯を見せ、本当に嬉しそうな顔で和成は笑う。何度見てもいい笑顔で、吸い込まれるように見つめてしまう。
 でも、朔は笑えない。和成と同じように、朔にも一緒に野球をやりたいと思える人が別にいた。

 行こうぜ、と和成が歩き出す。朔はその一歩後ろを、ごめん、と心で謝りながらついていく。
 どうしたらいいのだろう。和成とキャッチボールができたら、少しはなにかが変わるだろうか。

 これから大好きな野球をするというのに、心がまるで躍らないことが悲しくてたまらなかった。
 でも、和成の期待を裏切りたくない。傷つけたくない。その気持ちが確かに胸の奥にあることだけが、今は唯一の救いだった。