「なぁ、朔はスマホゲームなにかやってる?」
誰よりも早く弁当を食べ終えた和成が、自分のスマートフォンを操作しながら朔に尋ねた。朔はもぐもぐと閉じた口を動かし、白飯を咀嚼している。
入学式の翌日、昼休みは近くの席の男子で固まって食事を摂った。なぜだか窓際の一番前の席の周りに集まり、朔たちは教室の隅っこで小さな輪を作っている。もう一つできている男子の塊も、対角線上、やはり教室の端のほうにできていた。
この数時間前にはすでに、朔はクラスの男子全員の顔と名前を覚えていた。もともと女子校だったこの学校が時代の変化とともに男女共学校へ切り替わったのは今から五年前のことだが、いまだに生徒の三分の二は女子で、残り三分の一、一年七組には十四人しかいない男子の結束が固くなるのは必然の流れだった。
朔は口いっぱいに入れていた白飯をようやくのみ込むと、和成の問いに答えた。
「あんまやってないけど、ドリパならそこそこ進めてる」
「マジ? おれもやってる、ドリパ。フレンドになろうぜ」
和成に言われるまま、朔はまだ食べている途中の箸を揃えて弁当箱の上に置き、左のポケットから引っ張り出したスマートフォンを操作した。ドリパとは、育成したモンスターで敵モンスターを討伐し、勝利すると自分の手持ちモンスターに加えて育成できるというよくあるバトルアクションもののアプリゲームの略称で、操作の手軽さと、無課金でも強いモンスターを入手できるゲーム性から、学生から大人まで、特に男性の心をくすぐり大きな人気を集めていた。
朔だけでなく、一緒に弁当を食べていた男子の全員が、程度の差はあれアプリをダウンロードして遊んだ経験があった。和成を中心に、ゲーム内でも友達の輪が広がっていく。
「うわっ。すげぇな、おまえのパーティ」
スマートフォンを放り出し、再び弁当を食べ始めた朔のそれを勝手に拾い上げた和成は、朔のゲーム画面を見て目を丸くした。
「バカ強いじゃん。課金した?」
「してない。一度も」
「マジか。無課金でこれは相当やり込んでんな。えぇっ、こいつも持ってんのか!」
「どれ」
朔は箸を握ったまま和成の手もとを覗き込む。和成は朔に画面を見せるようにスマートフォンを傾けるだけでなく、からだごと朔に近づいた。
「これ」
画面に映ったモンスターを指さす和成の顔が近い。少しでも動けば額が触れ合いそうな距離にいる和成を朔はにらみ、わざとらしく肩を引いて距離を取った。
顔を上げた和成が、キョトンとした顔で朔を見た。まっすぐ目が合うと、和成は小首を傾げて朔に言う。
「なに」
「近い」
「そう?」
朔に指摘されても和成は体勢を変えず、朔の顔をじっと覗き込んでくる。その目は朔の目を見ているのではなく、鼻か、口のあたりに照準が合っているようだ。
やがて彼の左の人差し指が、朔の右の口角を差した。
「ついてる」
「え?」
「カツのころも」
ドキッとして、朔は慌てて指先で指摘された箇所を拭う。確かにころもの感触があり、恥ずかしさがこみ上げた。
「変わってねぇなぁ、全然」
和成がクスクスと楽しげに笑った。
「昔っからそうだよな、おまえって。カレーとかさ、口の周りにいっぱいついててもまったく気にせず食べ進めんの」
「マジ? かわいいな、それ」
「意外。育ち良さそうなのにね、朔って」
一緒にいた他の男子にも話題は広がり、和成はさらに調子に乗って「だろー。かわいいんだよ、朔はさ。ちっちゃいし」とまで言っている。「うるさいな」と悪態をつきながら、あぁ、まただと朔は思う。
――かわいいね、朔は。
和成ではない、別の男の声が聞こえる。
クリスマスの五日前、日本列島を大きな寒波が襲った冷たい夜に、短い生涯を終えた男の声。
あいつもよく、朔が口もとを汚して食事をしていると、それを指先で拭ってくれた。
子どもっぽいなぁ、と笑顔の花を咲かせながら。
「なぁ、一回バトルしようぜ、朔」
なかなか箸の進まない朔の手に、和成は朔のスマートフォンを無理やり持たせた。自分は自分のスマートフォンを操作し、バトルの準備を勝手に始める。
まぁいいか、と朔は箸を置いた左手にスマートフォンを持ち替えた。昼休みが終わるまであと二十分はある。ギリギリにかき込めば食べきれそうだ。
朔と和成がバトルステージを選択していると、他の男子たちも混ぜてくれと言い出した。このアプリゲームでは、最大六人でのバトルロイヤルが楽しめる。
対戦結果は朔の圧勝だった。高校受験を終えた日から、ほとんど毎日このアプリゲームで遊んでいたおかげかもしれない。
それまで野球に充てていた時間を、どうやって過ごせばいいのかわからなかった。誰にも会いたくなかったし、会っても楽しく遊べる自信がまるでなかった。
今もそうだ。ゲームに勝利しても、嬉しい、楽しいといった感情は生まれない。目の前のタスクを淡々とこなし、周りの阿鼻叫喚に耳を傾けていると、自然に時が過ぎていく。
そうして重ねていく物理的な時間の上に、朔はうまく乗ることができないでいた。
気づけば相棒のことを考えて、あの冬の夜に引き戻される。
吐息がかすかに震え出す。周りに悟られたくなくて、朔は静かに席を立った。
一人になりたいと思ったのに、和成はそれを許してくれなかった。
「どこ行くんだよ」
「トイレ」
たいして行きたいとは思っていなかったけれど、逃げ場所がそこしか思いつかなかった。弁当はいよいよ食べる気になれず、ごめん、あとで食べるからと作ってくれた母親に心の中で謝りながらそのままふたをして片づけた。
足早に向かった男子トイレの中で、朔は洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の顔と正対した。
目に力がないことが自分でもわかる。こんな顔をしてマウンドに立っていたら、朔とホームベースを挟んで座るあいつは、すぐに朔のもとへと飛んでくるだろう。
――大丈夫だよ、朔。
そいつは朔を叱ることなく、いつだって励ましの声をかけてくれた。
――いい球が来てる。流れはまだ完全に相手には行ってない。ここを抑えたら、きみがこの試合のヒーローだ。おもいっきり、自信を持って投げてきて。僕がきっちり受けるから。
そいつが背中を叩いてくれるから、目の前でどっしりとかまえていてくれるから、胸を張ってマウンドに立つことができた。
――僕を信じて、朔。僕も、きみの力を信じてる。
でも、その声はもう聞こえない。
朔の背中を優しく叩いてくれることもない。
消えてしまった。春を彩る桜のように、あまりにも儚く、あっけなく。
イヤなことは忘れてしまえばいいと和成は言った。けれどこれは朔にとって、絶対に忘れてはいけない記憶。
最期に笑ってくれたこと。名前を呼んでくれたこと。
――朔。きみは、最高のピッチャーだよ。
消え入りそうな声を振り絞り、そう言って褒めてくれた瞬間を、忘れていいはずがない。忘れられるはずもない。
あり得ない。
あの声を二度と聞くことができないなんて、いったいどうやって信じればいい?
「朔」
トイレの出入り口から声がした。顔を向けると、和成がそこに立っていた。
ひどく驚いた顔をしていて、和成はスリッパの踵を鳴らしながら朔にまっすぐ近づいてきた。
「おまえ、大丈夫か」
和成は朔の左頬を包み込むように右手を当て、親指の腹で朔の目もとをそっと拭った。自分でも気づかないうちに、こらえていたはずの涙がこぼれ落ちていたらしい。
朔はそそくさと和成に背を向け、左手で乱暴に自らの顔を拭いた。一、二度洟を啜り、深く呼吸をすると、気持ちはすぐに落ちついた。
「ごめん。なんでもない」
「バカかよ。なんでもないヤツは泣かないだろ」
「泣いてない」
和成を洗面台の前に残し、朔は廊下へ出ようとした。けれど和成に後ろから腕を掴まれ、立ち去ることは叶わなかった。
「もう少し落ちついてから戻れよ」
振り返った朔の目に、和成の優しい微笑みが映る。
「そのまま戻ったらみんなにバレるぞ、泣いてたの」
胸に熱いものを覚える。昔からそういうヤツだったことはわかっているけれど、和成はどこまでも優しかった。
なにがあったのか、無理やり聞き出そうとしてこない。朔に話す気がないことを悟り、黙って見守る選択をしてくれた。
ありがたかった。和成の言うとおり、もう少しだけこの場に留まろうと思った。今教室に戻っても、みんなの顔を暗くしてしまうだけだ。それは朔の望むところじゃない。
朔の足が完全に止まったことを確認すると、和成は朔の腕からそっと自らの手を離した。
「おまえ、女子のどこが好き?」
「は?」
唐突な問いに朔は戸惑う。和成はニヤリと男らしい笑みを浮かべた。
なんの話だ、と思いつつ、朔は和成を無視しなかった。
「どこと言われても」
「あるだろ。胸とか、足とか。デカパイの谷間に埋もれて寝るのが夢とかさ」
デカパイ。朔は怪訝な顔で和成を見る。
「それはおまえの願望?」
「いいや、全然」
和成は朔の頭に手を載せ、覗き込むように顔を近づけながら朔に告げた。
「おれは、おまえみたいな小さめでかわいい子が好き」
とくん、と心臓が大きく跳ねる。ともすれば鼻先が触れ合う距離にいる和成が、とろけるような甘い微笑を傾けてくる。
高鳴る鼓動を振り払うように、朔は自らの頭の上に載せられた和成の右手を剥ぎ取った。
「俺は小さくない」
自分でもそこかよとツッコんでしまうようなことしか言い返せなかった。和成との身長差は現時点で十八センチ。これから伸びる予定だから、少しは縮まるはずだ。
和成は声を立てて笑った。
「たまんねぇな。やっぱかわいいわ、おまえ」
「キモ」
朔に悪口を言われても、和成の笑顔は消えなかった。一緒になって笑えたらよかったのに、表情筋は動かない。
でも、少しだけ気持ちは上向いた。和成が様子を見に来てくれなかったら、この場で泣き崩れていたかもしれない。
予鈴が鳴る。午後の授業の開始まで、残り五分だ。
「よし、戻るか」
和成は朔の肩を抱き寄せ、自分勝手に歩き出した。もつれそうになる足を和成に合わせて忙しなく動かしながら、朔は「やめろ」と和成の腕を振り払った。
「歩けるから、自分で」
「なんだよ、つまんねぇな」
一瞬不服そうな顔をした和成だったけれど、すぐにさっきまでの笑顔を取り戻す。その顔はとても明るくて、嬉しそうで、夏を先取りして周りの景色を黄色に染めるひまわりのようだった。
そういえば、こいつってこんな感じだったっけ。
今のようにふさぎ込んでしまう数年前、和成とともに野球を心から楽しんでいた頃の記憶が蘇る。負けそうな試合展開でも、和成だけは最後まで落ち込むことなく、あきらめずに声を出し、懸命にバットを振り続けていた。
センターから飛んでくる彼の力強い声援に、マウンド上で何度助けられただろう。当時バッテリーを組んでいたキャッチャーよりも、和成の声に励まされた記憶のほうがずっと鮮明に思い出せる。
変わっていない。
離れていた時間のおかげで忘れてしまっていたけれど、和成もあいつと同じ、朔にたくさんの勇気と笑顔を与えてくれる存在だった。
「なぁ、朔」
教室に入る直前、和成は朔に声をかけた。
「おまえって、甘いもの好きだったっけか」
「なんだよ、急に」
「いや、今日おれんちの近くのクレープ屋が安い日だったことを思い出したんだ。けっこううまくておれは好きなんだけど、おまえも食うかなーって」
なぜ彼が恥じらうような目をしているのかはさっぱりわからなかったけれど、この誘いが断ってはならない類のそれだということはわかる。
借りを作るのは気が進まないが、それでも、和成の優しい心を踏みにじってはいけない。
「じゃあ、食う」
「よっしゃ」
朔がイエスと答えると、和成は白い歯を見せて笑った。放課後、学校帰りに友達と遊びに出かけるなんて、ようやく高校生になったのだという自覚が芽生える。
それに。
「和成」
教室の中へ吸い込まれていった和成の背中を呼び止める。
首をひねって朔を振り返った和成に、朔は言った。
「ありがとう」
和成と再会できてよかった。
そうでなければ、こうして自分の足で教室へ戻ってくることはできなかった。
こんなんじゃダメだとわかっていても、いつまでも消えない痛みを引きずってしまう。自分自身のふがいなさに辟易する毎日をもう何ヶ月過ごしただろう。
それが今、目の前に立つ幼馴染みのおかげで、少しだけ視線を上向けることができている。こんなにありがたいことはない。
和成は一瞬瞳を大きくして、すぐにピースサインを作って笑った。いい笑顔だった。男らしくて、カッコいい。
朔は廊下にたたずんだまま、静かに息を吐き出した。
俺も、和成みたいに笑えたらいいのに。
あの冬の日以来、はじめてそんな風に思えた。
すぐに叶えられないことが、悔しくてたまらなかった。
誰よりも早く弁当を食べ終えた和成が、自分のスマートフォンを操作しながら朔に尋ねた。朔はもぐもぐと閉じた口を動かし、白飯を咀嚼している。
入学式の翌日、昼休みは近くの席の男子で固まって食事を摂った。なぜだか窓際の一番前の席の周りに集まり、朔たちは教室の隅っこで小さな輪を作っている。もう一つできている男子の塊も、対角線上、やはり教室の端のほうにできていた。
この数時間前にはすでに、朔はクラスの男子全員の顔と名前を覚えていた。もともと女子校だったこの学校が時代の変化とともに男女共学校へ切り替わったのは今から五年前のことだが、いまだに生徒の三分の二は女子で、残り三分の一、一年七組には十四人しかいない男子の結束が固くなるのは必然の流れだった。
朔は口いっぱいに入れていた白飯をようやくのみ込むと、和成の問いに答えた。
「あんまやってないけど、ドリパならそこそこ進めてる」
「マジ? おれもやってる、ドリパ。フレンドになろうぜ」
和成に言われるまま、朔はまだ食べている途中の箸を揃えて弁当箱の上に置き、左のポケットから引っ張り出したスマートフォンを操作した。ドリパとは、育成したモンスターで敵モンスターを討伐し、勝利すると自分の手持ちモンスターに加えて育成できるというよくあるバトルアクションもののアプリゲームの略称で、操作の手軽さと、無課金でも強いモンスターを入手できるゲーム性から、学生から大人まで、特に男性の心をくすぐり大きな人気を集めていた。
朔だけでなく、一緒に弁当を食べていた男子の全員が、程度の差はあれアプリをダウンロードして遊んだ経験があった。和成を中心に、ゲーム内でも友達の輪が広がっていく。
「うわっ。すげぇな、おまえのパーティ」
スマートフォンを放り出し、再び弁当を食べ始めた朔のそれを勝手に拾い上げた和成は、朔のゲーム画面を見て目を丸くした。
「バカ強いじゃん。課金した?」
「してない。一度も」
「マジか。無課金でこれは相当やり込んでんな。えぇっ、こいつも持ってんのか!」
「どれ」
朔は箸を握ったまま和成の手もとを覗き込む。和成は朔に画面を見せるようにスマートフォンを傾けるだけでなく、からだごと朔に近づいた。
「これ」
画面に映ったモンスターを指さす和成の顔が近い。少しでも動けば額が触れ合いそうな距離にいる和成を朔はにらみ、わざとらしく肩を引いて距離を取った。
顔を上げた和成が、キョトンとした顔で朔を見た。まっすぐ目が合うと、和成は小首を傾げて朔に言う。
「なに」
「近い」
「そう?」
朔に指摘されても和成は体勢を変えず、朔の顔をじっと覗き込んでくる。その目は朔の目を見ているのではなく、鼻か、口のあたりに照準が合っているようだ。
やがて彼の左の人差し指が、朔の右の口角を差した。
「ついてる」
「え?」
「カツのころも」
ドキッとして、朔は慌てて指先で指摘された箇所を拭う。確かにころもの感触があり、恥ずかしさがこみ上げた。
「変わってねぇなぁ、全然」
和成がクスクスと楽しげに笑った。
「昔っからそうだよな、おまえって。カレーとかさ、口の周りにいっぱいついててもまったく気にせず食べ進めんの」
「マジ? かわいいな、それ」
「意外。育ち良さそうなのにね、朔って」
一緒にいた他の男子にも話題は広がり、和成はさらに調子に乗って「だろー。かわいいんだよ、朔はさ。ちっちゃいし」とまで言っている。「うるさいな」と悪態をつきながら、あぁ、まただと朔は思う。
――かわいいね、朔は。
和成ではない、別の男の声が聞こえる。
クリスマスの五日前、日本列島を大きな寒波が襲った冷たい夜に、短い生涯を終えた男の声。
あいつもよく、朔が口もとを汚して食事をしていると、それを指先で拭ってくれた。
子どもっぽいなぁ、と笑顔の花を咲かせながら。
「なぁ、一回バトルしようぜ、朔」
なかなか箸の進まない朔の手に、和成は朔のスマートフォンを無理やり持たせた。自分は自分のスマートフォンを操作し、バトルの準備を勝手に始める。
まぁいいか、と朔は箸を置いた左手にスマートフォンを持ち替えた。昼休みが終わるまであと二十分はある。ギリギリにかき込めば食べきれそうだ。
朔と和成がバトルステージを選択していると、他の男子たちも混ぜてくれと言い出した。このアプリゲームでは、最大六人でのバトルロイヤルが楽しめる。
対戦結果は朔の圧勝だった。高校受験を終えた日から、ほとんど毎日このアプリゲームで遊んでいたおかげかもしれない。
それまで野球に充てていた時間を、どうやって過ごせばいいのかわからなかった。誰にも会いたくなかったし、会っても楽しく遊べる自信がまるでなかった。
今もそうだ。ゲームに勝利しても、嬉しい、楽しいといった感情は生まれない。目の前のタスクを淡々とこなし、周りの阿鼻叫喚に耳を傾けていると、自然に時が過ぎていく。
そうして重ねていく物理的な時間の上に、朔はうまく乗ることができないでいた。
気づけば相棒のことを考えて、あの冬の夜に引き戻される。
吐息がかすかに震え出す。周りに悟られたくなくて、朔は静かに席を立った。
一人になりたいと思ったのに、和成はそれを許してくれなかった。
「どこ行くんだよ」
「トイレ」
たいして行きたいとは思っていなかったけれど、逃げ場所がそこしか思いつかなかった。弁当はいよいよ食べる気になれず、ごめん、あとで食べるからと作ってくれた母親に心の中で謝りながらそのままふたをして片づけた。
足早に向かった男子トイレの中で、朔は洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の顔と正対した。
目に力がないことが自分でもわかる。こんな顔をしてマウンドに立っていたら、朔とホームベースを挟んで座るあいつは、すぐに朔のもとへと飛んでくるだろう。
――大丈夫だよ、朔。
そいつは朔を叱ることなく、いつだって励ましの声をかけてくれた。
――いい球が来てる。流れはまだ完全に相手には行ってない。ここを抑えたら、きみがこの試合のヒーローだ。おもいっきり、自信を持って投げてきて。僕がきっちり受けるから。
そいつが背中を叩いてくれるから、目の前でどっしりとかまえていてくれるから、胸を張ってマウンドに立つことができた。
――僕を信じて、朔。僕も、きみの力を信じてる。
でも、その声はもう聞こえない。
朔の背中を優しく叩いてくれることもない。
消えてしまった。春を彩る桜のように、あまりにも儚く、あっけなく。
イヤなことは忘れてしまえばいいと和成は言った。けれどこれは朔にとって、絶対に忘れてはいけない記憶。
最期に笑ってくれたこと。名前を呼んでくれたこと。
――朔。きみは、最高のピッチャーだよ。
消え入りそうな声を振り絞り、そう言って褒めてくれた瞬間を、忘れていいはずがない。忘れられるはずもない。
あり得ない。
あの声を二度と聞くことができないなんて、いったいどうやって信じればいい?
「朔」
トイレの出入り口から声がした。顔を向けると、和成がそこに立っていた。
ひどく驚いた顔をしていて、和成はスリッパの踵を鳴らしながら朔にまっすぐ近づいてきた。
「おまえ、大丈夫か」
和成は朔の左頬を包み込むように右手を当て、親指の腹で朔の目もとをそっと拭った。自分でも気づかないうちに、こらえていたはずの涙がこぼれ落ちていたらしい。
朔はそそくさと和成に背を向け、左手で乱暴に自らの顔を拭いた。一、二度洟を啜り、深く呼吸をすると、気持ちはすぐに落ちついた。
「ごめん。なんでもない」
「バカかよ。なんでもないヤツは泣かないだろ」
「泣いてない」
和成を洗面台の前に残し、朔は廊下へ出ようとした。けれど和成に後ろから腕を掴まれ、立ち去ることは叶わなかった。
「もう少し落ちついてから戻れよ」
振り返った朔の目に、和成の優しい微笑みが映る。
「そのまま戻ったらみんなにバレるぞ、泣いてたの」
胸に熱いものを覚える。昔からそういうヤツだったことはわかっているけれど、和成はどこまでも優しかった。
なにがあったのか、無理やり聞き出そうとしてこない。朔に話す気がないことを悟り、黙って見守る選択をしてくれた。
ありがたかった。和成の言うとおり、もう少しだけこの場に留まろうと思った。今教室に戻っても、みんなの顔を暗くしてしまうだけだ。それは朔の望むところじゃない。
朔の足が完全に止まったことを確認すると、和成は朔の腕からそっと自らの手を離した。
「おまえ、女子のどこが好き?」
「は?」
唐突な問いに朔は戸惑う。和成はニヤリと男らしい笑みを浮かべた。
なんの話だ、と思いつつ、朔は和成を無視しなかった。
「どこと言われても」
「あるだろ。胸とか、足とか。デカパイの谷間に埋もれて寝るのが夢とかさ」
デカパイ。朔は怪訝な顔で和成を見る。
「それはおまえの願望?」
「いいや、全然」
和成は朔の頭に手を載せ、覗き込むように顔を近づけながら朔に告げた。
「おれは、おまえみたいな小さめでかわいい子が好き」
とくん、と心臓が大きく跳ねる。ともすれば鼻先が触れ合う距離にいる和成が、とろけるような甘い微笑を傾けてくる。
高鳴る鼓動を振り払うように、朔は自らの頭の上に載せられた和成の右手を剥ぎ取った。
「俺は小さくない」
自分でもそこかよとツッコんでしまうようなことしか言い返せなかった。和成との身長差は現時点で十八センチ。これから伸びる予定だから、少しは縮まるはずだ。
和成は声を立てて笑った。
「たまんねぇな。やっぱかわいいわ、おまえ」
「キモ」
朔に悪口を言われても、和成の笑顔は消えなかった。一緒になって笑えたらよかったのに、表情筋は動かない。
でも、少しだけ気持ちは上向いた。和成が様子を見に来てくれなかったら、この場で泣き崩れていたかもしれない。
予鈴が鳴る。午後の授業の開始まで、残り五分だ。
「よし、戻るか」
和成は朔の肩を抱き寄せ、自分勝手に歩き出した。もつれそうになる足を和成に合わせて忙しなく動かしながら、朔は「やめろ」と和成の腕を振り払った。
「歩けるから、自分で」
「なんだよ、つまんねぇな」
一瞬不服そうな顔をした和成だったけれど、すぐにさっきまでの笑顔を取り戻す。その顔はとても明るくて、嬉しそうで、夏を先取りして周りの景色を黄色に染めるひまわりのようだった。
そういえば、こいつってこんな感じだったっけ。
今のようにふさぎ込んでしまう数年前、和成とともに野球を心から楽しんでいた頃の記憶が蘇る。負けそうな試合展開でも、和成だけは最後まで落ち込むことなく、あきらめずに声を出し、懸命にバットを振り続けていた。
センターから飛んでくる彼の力強い声援に、マウンド上で何度助けられただろう。当時バッテリーを組んでいたキャッチャーよりも、和成の声に励まされた記憶のほうがずっと鮮明に思い出せる。
変わっていない。
離れていた時間のおかげで忘れてしまっていたけれど、和成もあいつと同じ、朔にたくさんの勇気と笑顔を与えてくれる存在だった。
「なぁ、朔」
教室に入る直前、和成は朔に声をかけた。
「おまえって、甘いもの好きだったっけか」
「なんだよ、急に」
「いや、今日おれんちの近くのクレープ屋が安い日だったことを思い出したんだ。けっこううまくておれは好きなんだけど、おまえも食うかなーって」
なぜ彼が恥じらうような目をしているのかはさっぱりわからなかったけれど、この誘いが断ってはならない類のそれだということはわかる。
借りを作るのは気が進まないが、それでも、和成の優しい心を踏みにじってはいけない。
「じゃあ、食う」
「よっしゃ」
朔がイエスと答えると、和成は白い歯を見せて笑った。放課後、学校帰りに友達と遊びに出かけるなんて、ようやく高校生になったのだという自覚が芽生える。
それに。
「和成」
教室の中へ吸い込まれていった和成の背中を呼び止める。
首をひねって朔を振り返った和成に、朔は言った。
「ありがとう」
和成と再会できてよかった。
そうでなければ、こうして自分の足で教室へ戻ってくることはできなかった。
こんなんじゃダメだとわかっていても、いつまでも消えない痛みを引きずってしまう。自分自身のふがいなさに辟易する毎日をもう何ヶ月過ごしただろう。
それが今、目の前に立つ幼馴染みのおかげで、少しだけ視線を上向けることができている。こんなにありがたいことはない。
和成は一瞬瞳を大きくして、すぐにピースサインを作って笑った。いい笑顔だった。男らしくて、カッコいい。
朔は廊下にたたずんだまま、静かに息を吐き出した。
俺も、和成みたいに笑えたらいいのに。
あの冬の日以来、はじめてそんな風に思えた。
すぐに叶えられないことが、悔しくてたまらなかった。



