本来であれば晴れやかな気持ちで迎えるはずのこの日を、朔はまるで楽しみだと思えなかった。朔たちの高校入学を祝ってくれるように咲いている桜の花も、家族と笑顔で初登校の日を迎える新しい同級生たちの姿も、朔の瞳には少しも映らず、心が動く気配もない。
隣を歩き、先に入学式の会場である体育館へ行った母親と別れ、朔は一人で校舎へと向かう。朔たち新入学の生徒を誘導するため、スーツ姿の教職員が各所に配置されており、中庭へ行けというアナウンスが聞こえた。
選んだ高校は当たり障りのない、よくある公立高校だった。野球部の成績もパッとしないと聞いているけれど、今の朔にとって、そんなことはどうでもよかった。
中庭に掲示板があり、自身のホームルームをそこで確認しろとのことだった。ベルトコンベアのようにぞろぞろと一定方向へ移動する新入生たちの波に乗り、朔も掲示板の前へと流され、貼り紙の中から自分の名前を探した。
全九クラスのうち、朔のかよう普通科は三組から九組に分かれていた。七組まで探してようやく見つかり、十六番という番号が与えられたことを確認した。
そのまま教室へ向かおうとして、自分ではないとある名前が目に入った。朔の一つ前、七組の十五番に、見覚えのある漢字四字が羅列されていた。
「えっ」
思わず声が漏れる。
才藤和成。見間違いを疑ったけれど、『才藤』なんて漢字を使ったサイトウさんは珍しい。自分も『縞田』と書く珍しいシマダさんである朔だけれど、それはさておき、才藤という苗字も、和成という名前も、小学校時代、試合のオーダー表で何度も見たそれに違いなかった。
そんなバカな。最初にいだいた感想はそれだった。
小学校の頃の記憶しかないけれど、あいつはテストでいつも満点を取っていた。朔も成績は悪くなかったけれど、毎回百点のテストを家に持ち帰ることはできなかった。
あの頃の成績を互いに維持し続けていたとすれば、あいつはこの高校よりもずっとレベルの高い学校へ入学できたはずだ。中学に入って落ちぶれたのか? いや、あいつはそういうタイプじゃない。勉強もスポーツもがんばるまじめなヤツだったはずだ。
我知らず、校舎内へ向かう足が急ぐ。よく清掃された昇降口で靴を履き替え、『一の七』という古風な札の掲げられた教室に入る。
窓際から若い番号の振られた席で、十六番は窓から三列目、前から二番目だった。左右はまだ誰も座っていなかったけれど、一つ前の席にはすでに男子生徒の姿があった。
その背中を見ただけでわかる。昔と比べて背はさらに伸びているようだが、ガタイのいいシルエットは変わっていない。
胸の鼓動の高鳴りを感じながら、朔は自分の席へと近づく。気配を察したのか、前の席に座る男は朔を振り返り、嬉しそうに目を大きくした。
「おぉ、やっぱり朔だった!」
「和成」
「久しぶり。元気にしてたか」
やはり、そうだった。
同じ小学校、同じ野球クラブに所属していた、幼馴染みの和成だ。中学入学のタイミングで向こうが引っ越してしまって以来、会うのは丸三年ぶりだった。
「うわぁ、マジで朔じゃん」
和成はリュックを肩から下ろす朔をまじまじと見つめ、心からの喜びをその笑みに映した。
「変わってないな、全然。相変わらずシュッとしてて」
「おまえもな。昔からデカいままで、うらやましいよ」
「ハハッ、いいだろ。一八六まで伸びたぜ、身長」
「いいね。頼れる主砲が入ってきてくれた、ってしっかり歓迎されそうだな、野球部の先輩たちからは」
「なに言ってんだよ、朔。左投げのピッチャーなんて、おれ以上に歓迎されるだろ」
朔の動きが一瞬止まる。脳裏に一人の男の笑顔が浮かび、吐き出す息がかすかに震えた。
自分の席へ静かに腰を落ちつけると、朔は和成の目も見ずに伝えた。
「俺は入らないから、野球部」
「え?」
顔を上げなくても、和成がどんな表情をしているか想像できた。
案の定、和成は納得できないという風で朔に問う。
「なんで」
「別に。もう野球はいいかなって」
「嘘だろ。おまえ、野球は死ぬまで続けるって言ってたじゃんか」
死ぬまで。
死ぬ、まで。
朔の呼吸が大きく揺れる。耳の奥で、もう二度と聞こえないはずの声が聞こえた。
――きみは最高のピッチャーだよ、朔。
和成から隠すように、朔は顔をさらに下げる。目頭に熱いものを感じ、歯を食いしばってこらえた。
「もしかして」
朔の頭のてっぺんに向かって和成は尋ねた。
「怪我か?」
朔は首を横に振る。再起不能の怪我をした覚えはなく、利き手の調子も悪くない。
でも、野球はもうやれない。
朔の投げるどんな球も受け止めてくれる、最高の相棒を失ったから。
二人の間を流れる沈黙を割くように、和成の右隣の席にやってきた男子が「おはよー」と気さくに声をかけてきた。和成がそいつに「おーっす。よろしくなー」と挨拶をする声を聞いて、朔もようやく顔を上げることができ、新しいクラスメイトにこくりと小さく頭を下げた。
いつの間にか朔の隣の席も埋まり、それぞれにはじめましての挨拶をする時間がやってくる。中学の時にも同じ経験をした。別の小学校から来た生徒同士、名前と出身小学校を教え合う時間。
「とりあえず、わかったよ」
周りの席のクラスメイトにひととおり挨拶し終えると、和成はもう一度朔に部活の話をした。
「野球部には入らないんだな、おまえは」
「うん」
「じゃあ、おれも野球はいいや」
「は?」
朔は見開いた目で和成を見た。
「なんでそうなるんだよ。おまえだって野球は辞めないって言ってただろ」
「いいのいいの。おまえと一緒じゃなきゃ意味ないし」
「意味ないってなんだよ。それこそ意味わかんねぇだろ」
「まぁまぁ、そう言うなって」
和成は嫌味なほどにこやかな笑みを浮かべ、右手で朔の左肩を軽くたたいた。
「おれの話はいいんだよ。で、おまえは野球じゃないスポーツを新しく始めるわけ?」
「いや、おれは」
「何部にする? ハンドボールとかおもしろそうじゃね?」
「和成」
朔の声が大きくなる。いつの間にか、和成のことをにらむように見つめていた。
和成はかすかに息をつき、真剣な目をして言った。
「なんかあるんだろ、野球を辞めたくなった理由。小学生の頃はケラケラよく笑うヤツだったのに、おまえ、さっきから全然笑わねぇじゃん」
図星を突かれ、朔は和成から視線をそらす。あいつの笑顔が脳裏をちらつく。
いつから笑っていないだろう。最高の相棒を失って以来、笑い方を忘れてしまった。
心が動かない。なにをしても楽しいと感じない。
あいつに向かって、おもいきりボールを投げ込む瞬間。それ以外、望む時間はどこにもない。
事実が覆ることはない。
あいつのいなくなったこの世界じゃ、どうやったって、もう一度笑えるとは思えない。
「まぁいいや」
黙ったままでいる朔に痺れを切らし、和成は穏やかな笑みを湛えて言った。
「やめるか、部活の話は。おまえのやりたいことが見つかったら教えて。おれもそれを一緒にやるから」
「和成」
「元気出せよ、朔」
和成の笑顔が大きくなる。
「おれたち、高校生になったんだ。イヤなことは忘れて、楽しい思い出作ろうぜ」
朔の瞳がかすかに揺れる。そういうことじゃない、と言えなかったのは、和成の優しい心を知り、彼を傷つけたくなかったから。
イヤなことがあったわけじゃない。野球だって、嫌いになったから辞めるのではない。
あまりにも大きな悲しみを、心がいつまでも受け止めきれないでいるだけだ。
永遠に失ってしまったそれは、野球ではないなにかで置き換えられるものじゃない。
せっかく再会できたけれど、和成とは距離を置いたほうがいいかもしれないと朔は感じた。
笑うことのできない自分と一緒にいると、楽しみにしている和成の高校生活を灰色に濁らせ、台無しにしてしまいそうで怖かった。
和成にまで笑顔を失ってほしくない。
そのためにも笑っていなくちゃいけないとわかっているはずなのに、朔にはどうしても、うまく笑うことができなかった。
隣を歩き、先に入学式の会場である体育館へ行った母親と別れ、朔は一人で校舎へと向かう。朔たち新入学の生徒を誘導するため、スーツ姿の教職員が各所に配置されており、中庭へ行けというアナウンスが聞こえた。
選んだ高校は当たり障りのない、よくある公立高校だった。野球部の成績もパッとしないと聞いているけれど、今の朔にとって、そんなことはどうでもよかった。
中庭に掲示板があり、自身のホームルームをそこで確認しろとのことだった。ベルトコンベアのようにぞろぞろと一定方向へ移動する新入生たちの波に乗り、朔も掲示板の前へと流され、貼り紙の中から自分の名前を探した。
全九クラスのうち、朔のかよう普通科は三組から九組に分かれていた。七組まで探してようやく見つかり、十六番という番号が与えられたことを確認した。
そのまま教室へ向かおうとして、自分ではないとある名前が目に入った。朔の一つ前、七組の十五番に、見覚えのある漢字四字が羅列されていた。
「えっ」
思わず声が漏れる。
才藤和成。見間違いを疑ったけれど、『才藤』なんて漢字を使ったサイトウさんは珍しい。自分も『縞田』と書く珍しいシマダさんである朔だけれど、それはさておき、才藤という苗字も、和成という名前も、小学校時代、試合のオーダー表で何度も見たそれに違いなかった。
そんなバカな。最初にいだいた感想はそれだった。
小学校の頃の記憶しかないけれど、あいつはテストでいつも満点を取っていた。朔も成績は悪くなかったけれど、毎回百点のテストを家に持ち帰ることはできなかった。
あの頃の成績を互いに維持し続けていたとすれば、あいつはこの高校よりもずっとレベルの高い学校へ入学できたはずだ。中学に入って落ちぶれたのか? いや、あいつはそういうタイプじゃない。勉強もスポーツもがんばるまじめなヤツだったはずだ。
我知らず、校舎内へ向かう足が急ぐ。よく清掃された昇降口で靴を履き替え、『一の七』という古風な札の掲げられた教室に入る。
窓際から若い番号の振られた席で、十六番は窓から三列目、前から二番目だった。左右はまだ誰も座っていなかったけれど、一つ前の席にはすでに男子生徒の姿があった。
その背中を見ただけでわかる。昔と比べて背はさらに伸びているようだが、ガタイのいいシルエットは変わっていない。
胸の鼓動の高鳴りを感じながら、朔は自分の席へと近づく。気配を察したのか、前の席に座る男は朔を振り返り、嬉しそうに目を大きくした。
「おぉ、やっぱり朔だった!」
「和成」
「久しぶり。元気にしてたか」
やはり、そうだった。
同じ小学校、同じ野球クラブに所属していた、幼馴染みの和成だ。中学入学のタイミングで向こうが引っ越してしまって以来、会うのは丸三年ぶりだった。
「うわぁ、マジで朔じゃん」
和成はリュックを肩から下ろす朔をまじまじと見つめ、心からの喜びをその笑みに映した。
「変わってないな、全然。相変わらずシュッとしてて」
「おまえもな。昔からデカいままで、うらやましいよ」
「ハハッ、いいだろ。一八六まで伸びたぜ、身長」
「いいね。頼れる主砲が入ってきてくれた、ってしっかり歓迎されそうだな、野球部の先輩たちからは」
「なに言ってんだよ、朔。左投げのピッチャーなんて、おれ以上に歓迎されるだろ」
朔の動きが一瞬止まる。脳裏に一人の男の笑顔が浮かび、吐き出す息がかすかに震えた。
自分の席へ静かに腰を落ちつけると、朔は和成の目も見ずに伝えた。
「俺は入らないから、野球部」
「え?」
顔を上げなくても、和成がどんな表情をしているか想像できた。
案の定、和成は納得できないという風で朔に問う。
「なんで」
「別に。もう野球はいいかなって」
「嘘だろ。おまえ、野球は死ぬまで続けるって言ってたじゃんか」
死ぬまで。
死ぬ、まで。
朔の呼吸が大きく揺れる。耳の奥で、もう二度と聞こえないはずの声が聞こえた。
――きみは最高のピッチャーだよ、朔。
和成から隠すように、朔は顔をさらに下げる。目頭に熱いものを感じ、歯を食いしばってこらえた。
「もしかして」
朔の頭のてっぺんに向かって和成は尋ねた。
「怪我か?」
朔は首を横に振る。再起不能の怪我をした覚えはなく、利き手の調子も悪くない。
でも、野球はもうやれない。
朔の投げるどんな球も受け止めてくれる、最高の相棒を失ったから。
二人の間を流れる沈黙を割くように、和成の右隣の席にやってきた男子が「おはよー」と気さくに声をかけてきた。和成がそいつに「おーっす。よろしくなー」と挨拶をする声を聞いて、朔もようやく顔を上げることができ、新しいクラスメイトにこくりと小さく頭を下げた。
いつの間にか朔の隣の席も埋まり、それぞれにはじめましての挨拶をする時間がやってくる。中学の時にも同じ経験をした。別の小学校から来た生徒同士、名前と出身小学校を教え合う時間。
「とりあえず、わかったよ」
周りの席のクラスメイトにひととおり挨拶し終えると、和成はもう一度朔に部活の話をした。
「野球部には入らないんだな、おまえは」
「うん」
「じゃあ、おれも野球はいいや」
「は?」
朔は見開いた目で和成を見た。
「なんでそうなるんだよ。おまえだって野球は辞めないって言ってただろ」
「いいのいいの。おまえと一緒じゃなきゃ意味ないし」
「意味ないってなんだよ。それこそ意味わかんねぇだろ」
「まぁまぁ、そう言うなって」
和成は嫌味なほどにこやかな笑みを浮かべ、右手で朔の左肩を軽くたたいた。
「おれの話はいいんだよ。で、おまえは野球じゃないスポーツを新しく始めるわけ?」
「いや、おれは」
「何部にする? ハンドボールとかおもしろそうじゃね?」
「和成」
朔の声が大きくなる。いつの間にか、和成のことをにらむように見つめていた。
和成はかすかに息をつき、真剣な目をして言った。
「なんかあるんだろ、野球を辞めたくなった理由。小学生の頃はケラケラよく笑うヤツだったのに、おまえ、さっきから全然笑わねぇじゃん」
図星を突かれ、朔は和成から視線をそらす。あいつの笑顔が脳裏をちらつく。
いつから笑っていないだろう。最高の相棒を失って以来、笑い方を忘れてしまった。
心が動かない。なにをしても楽しいと感じない。
あいつに向かって、おもいきりボールを投げ込む瞬間。それ以外、望む時間はどこにもない。
事実が覆ることはない。
あいつのいなくなったこの世界じゃ、どうやったって、もう一度笑えるとは思えない。
「まぁいいや」
黙ったままでいる朔に痺れを切らし、和成は穏やかな笑みを湛えて言った。
「やめるか、部活の話は。おまえのやりたいことが見つかったら教えて。おれもそれを一緒にやるから」
「和成」
「元気出せよ、朔」
和成の笑顔が大きくなる。
「おれたち、高校生になったんだ。イヤなことは忘れて、楽しい思い出作ろうぜ」
朔の瞳がかすかに揺れる。そういうことじゃない、と言えなかったのは、和成の優しい心を知り、彼を傷つけたくなかったから。
イヤなことがあったわけじゃない。野球だって、嫌いになったから辞めるのではない。
あまりにも大きな悲しみを、心がいつまでも受け止めきれないでいるだけだ。
永遠に失ってしまったそれは、野球ではないなにかで置き換えられるものじゃない。
せっかく再会できたけれど、和成とは距離を置いたほうがいいかもしれないと朔は感じた。
笑うことのできない自分と一緒にいると、楽しみにしている和成の高校生活を灰色に濁らせ、台無しにしてしまいそうで怖かった。
和成にまで笑顔を失ってほしくない。
そのためにも笑っていなくちゃいけないとわかっているはずなのに、朔にはどうしても、うまく笑うことができなかった。



