海に来ていた。
 鳥羽と二人で互いに部活を休み、今日は放課後をまるごと海と言葉で充たすと決めていた。

「うちの親が俺の島行きのことに反対しようと思ってたことは後から知ったんだ」
 海岸堤防の上に並んで腰を降ろして、海の上にきっぱりとした存在感を示しながら広がる白い雲を眺める。
 夏の予感。
「未来のことを何も話さなかった俺が一日で高校を決めて突き進んでいくのが怖かったみたいだね。それまで自由にさせてくれた両親だけど、俺が親元を離れてやっていけないと思ってたみたい」
 渚は海を見ていたが、右手にあるアイスティーを飲んでから横を見た。左に座る鳥羽の横顔は、午後の光を受けている。

「俺は中学をすっ飛ばしてるから自分は小学生のまま止まってるんじゃないかって思うこともあったよ。リアルで同級生と会話しないまま三年目に入っていたから。一人称だって高校生になるまで『僕』だったしね。俺、喋り方たまにガキっぽくなってない?」
 鳥羽が渚と目を合わせて恥ずかしそうに笑った。それから勢いよく右肩を渚の左肩にぶつけて、ずるずるもたれかかってきた。
「やってることはたまに小学生」
 渚は早口で返事した。
 うぅ〜っと鳥羽はしばらく犬みたいに唸ってから含み笑いをする。

 二人きりになった途端にジャレすぎ。
 これ、後ろから見られてないよな?

 渚は鳥羽の体をぐいぐい押し返しながら後ろを振り向く。
 ここは後ろの山がせり出して曲がり角になっている場所だから大丈夫だ。
 もし砂浜の方に誰かが来たら・・・鳥羽を海に突き落とそう。ここ浅いし。
 
 渚は物騒な解決策しか浮かばない。

「父さんは塾講師をしてるから子どもの扱いには慣れていたけど一人息子のことになると過保護になっちゃうんだ。転んだ時に手をすぐ差し伸べられるように手元に置いておきたいって」
 鳥羽はやっと体を起こして、両手を後ろについて海と空を仰ぎながら言葉を続けた。
「全力で俺の島行きを反対しようとしていたのに、瀬戸内海の島への転入を夢見て元気になっていく息子を目の当たりにして苦悩したって」
 

 そういう流れで鳥羽の父は人生初の行動に出た。
 職場の同僚から電話相談を薦められ、実際に電話を掛けてみたのだという。
 その塾講師の女性は家族との軋轢で悩んでいたが、ここに電話を繋げたことで人生が展開したと語っていたから。
 そして、その相談電話で鳥羽の父が驚いたことが、ふたつ。
 出てきた相談員の声がまるで自分の担当している生徒のように若い男性の声だったこと。
 電話を切った時には、迷いなく息子を島に送り出してやろうと決意できていたこと。

―僕は今、『タフラブ』について学んでいたところなんです。
 思いきって手を離してみる愛についてです。

―勇気はとてもいりますけど。手放して見守ることの大切さってどういうことだろうなぁって考えていたんです。あなたは今、それをしようとしてるんじゃないんですか?

―あなたが決めたんじゃなくて息子さんが決めたことなんですね。じゃあ何が起こっても、全て彼が主体的に引き受けることができるかもしれませんね。



「相談員さんから受け取った言葉を父さんが教えてくれて嬉しかった。そう。俺が決めたことなんだ」
 そう言って鳥羽は断りなく渚の水筒を奪って、アイスティーを一口飲んだ。
 (つかさ)流。惜しみなく相手の物を奪う。
「俺は俺で、旅先で魅了された場所で学びたいんだという事実は伝えても、同性に心を奪われたから会いたいという本心は隠してたからキツいこともあって」
 鳥羽が遠くを見て言った。
 松の部屋で「話がまだ序盤だった」というのは誇張ではなかったみたいだ。
「だから俺も父さんの真似をして電話してみた。対面じゃなかったとしても俺にはリアルな言葉で家族以外とやりとりする経験に欠けていたから予行練習だと思ってさ」
 渚の母が用意したアイスティーには檸檬が必ず入っている。気にいったようで鳥羽が二口目を奪う。
「いろんな曜日と時間帯に電話を掛けて相談した。学校に行かない俺には、有り余る時間と悩みがあったし」
 鳥羽は話しながら傍らに置いたリュックに手を入れていたが、メロンパンを出してきて半分に割って片方を渚の口元に持ってきた。
 こんなとこまで司の流儀に染まっている。
「5回目を掛けた時に若い男性相談員さんが出てきて。あぁこの人だって。俺、この時に『同性が好きになって会いたくて一人で悩んでます』って相談したんだ。そうしたらさ」
 鳥羽は渚を見てにっこりと笑った。
「その相談員さん、しばらく黙ってから『僕もそうなんです』って言ったんだ。びっくりした。カウンセラーって自己開示しないもんじゃないの?って驚いた」
 メロンパンをかじっていた渚も予想外の話を聞いて驚いてむせてしまい、慌ててアイスティーを喉に流し込んだ。
「その時ね、もしかしたら電話口の向こうにいる人は自分と同じくらいの年齢なんじゃないか、今自分はどこか遠い所にいる友だちと喋ってるんじゃないかって不思議な気分になったんだ」
 鳥羽は渚の目を見たまま続ける。
「その相談員さん盛大に片想いしてたんだって。半年くらい近くに居て幸せだったけど、嫌われることの怖さに囚われて半年くらい遠ざけたって。恋をして悩んだり臆病になるのはどんな性指向の人でも同じだろうけど、マイノリティの僕らの恋愛にまつわる悩みはどうしたってマリアナ海溝なみに深くなっちゃう…だってさ。悩み相談してるのについ笑っちゃったら、向こうも一緒になって笑ってた。すごく心が繋がった感じがして。だから春に須賀に会えたら、こんなふうに心を繋げられるかもしれないって思えたんだ」

 渚はこの長い語りをしっかりと受け止めた。青空の下で銀色の波を見ながら聴けて良かった。そう感じた。



「その時に鳥羽がその人と繋がってほんと良かったって心から思う」
 渚は左頬に鳥羽の視線を感じながら水平線を見たまま言った。
「でもその顔も名前も知らない男性にすっごく嫉妬してる。今。話した言葉をずっと今も鳥羽に覚えてもらっていて。先に心繋げてズルいじゃんって」

 胸のあたりがざわついているのを一人だけで抱えてなんかやるもんか。

 渚は左に座る鳥羽の方を向いて、鳥羽の瞳の中に映る自分を見ながら尋ねた。

「こんな黒い俺。どう思う?」

 鳥羽がはぁっと息を吐きながら顔を伏せた。そのまま渚にもたれかかるように身体を預けてくる。鳥羽の前髪が渚の肌に触れた。

「好きすぎる」

 そう呟いて渚の左首筋に鼻先を寄せる。

「11秒11」

 鳥羽の息が肌にかかる。渚はまたあの日のように刹那、息を呑んだ。

「この時間以内だったら約束を守れる」

 そう言った鳥羽の唇が首筋に寄せられた時、渚は今度は目を開けて海を見た。
 16歳になったばかりの今日の海を。
 一年前に海を眺めていたのと同じ場所で。


 今は素足じゃない。
11秒後には靴を脱いで裸足になって、二人で波打ち際を歩くんだ。