朝一番の教室で司がリュックから米袋を出し、渚の机にドシンと音を立てて置いた。
 黄色い果実が溢れている。渚の母が求めたものだ。
「ばぁちゃんの檸檬持ってきた。エミリーによろしくな」


 自分の母親はどうも変わり者らしいと渚が気付いたのは中学生になってから。
 世の中の母親のほとんどは出勤する前に我が子をハグして「愛してる」とは言わないのだということ。
 子どもの友だちに自分のことを「名前で呼んで」だなんてことも言わないってこと。
 
 渚が年長の時に父が亡くなった。
 職場で倒れてそのまま当日に逝ってしまったから、残された家族の日常の景色も心模様も急激に変化した。
 母が姉と渚を連れて島の家に戻ってきて数日経ち、渚たちが島の新しい友だちを作って家に連れてきた日に「絵美里さんって呼んで」と言う一連のやりとりが始まったのを今でも覚えている。


 「愛してる」
 母は今でも渚が早く登校する日は玄関先で、その日以外は自分が出勤する前に必ず渚を後ろから抱きしめて、言う。
 父に言い足りなかった分を言葉にしたいのかもしれないと、渚は最近そう思う。
 言葉を手渡したい相手がいて、手渡せる時間がこれからも確かにあるということは、すごくいい。
 波打ち際で風を浴びている時の幸せに重なる。
 
 
 昼休みの弁当を食べている最中に、司が鳥羽を引っ張るようにして渚たちが座っていた場所に連れてきた。
 窓から海が見える定位置。
 鳥羽の中学生時代のことも高校に入学した動機も渚が寮を訪問したことも、全て司には説明してある。
 甘夏味のくだりはもちろん省いてるけど。

「人とやりとりするのに疲れてもたん?」
 司はちりめんじゃこに覆われたごはんを頬張ってから鳥羽に尋ねた。
 鳥羽は寮生弁当を食べている箸を止めて「うんそうだと思う」と誠実に答える。
「当時は良くわからなかったんだ。体と心が動いてくれないのが。今になって思うのはきっちりしないと気が済まない性分だったのが自分を追い込んだのかもってこと」
「どういうことなん?」
 司が鳥羽を理解しようと真剣に思っているのが、その前かがみの姿勢から感じ取れる。
 良くも悪くも、昔から司は、心がダイレクトに表情と態度に反映される。
「人から言われたことは隅々まで理解したほうがいいとか、ノートは丁寧な字で書いたほうが心地よいとか。そんな風に最大限に力を注いで対処しているうちに周りの大人が言っている言葉が理解できなくなって怖くなったのかも。なんだか不安だった気持ちはしっかり覚えてる」
 鳥羽が司と渚を交互に見て、それから目を伏せて唐揚げを一つ口に入れた。
「言葉が分からなくなるってどんな感じなんじゃぁ」
 司が断りもなく鳥羽の弁当箱から唐揚げを一つ奪う。これは司が相手に愛を伝えたい時にするやり方だ。
 仲間だと思ってるよのサイン。図々しい。そして司らしい。
 顔を上げた鳥羽が真面目な顔で言う。
「えっと。例えば…社会学的分析における機能とは、行為者が主観的に考えている意図や見込みと別に行為によって客観的にもたらされた結果やはたらきのこと、っていうって話されたとして。これ頭に残る?」
「・・・・・・」
 渚が司の方を見ると、そこに司の檸檬顔があった。
「何かを言われたなということだけは分かっても自分を素通りしちゃって心には何も響いてこない」
 司はいつもの顔に戻り、自分の弁当箱からだし巻き卵を手で一つ掴んで鳥羽の口にぐいぐい押し込んだ。
「あんまり難しく考えんなよ〜」
 司が言った言葉に渚も激しく同意した。


 この日から司も鳥羽に絡んでいくようになり、渚たちは三人で過ごすことも増えた。
 鳥羽は相変わらず渚を視線で追って見つめているから、時々司から「見飽(みあ)きんの?」とこっそりからかわれている。
 司は思ったことを真っ直ぐに言うので鳥羽は面食らうこともあるようだ。
 それでも今は、逆に司との言葉の応酬を楽しんでいるようにも見える。
 鳥羽の強みは、賢さでもって悩みも憂いも明るい笑いに変えていけるところかもしれない。
「828㌔の距離を追いかけてきてさぁ、毎日見つめンのはフツウじゃぁねぇんじゃないかぁ?」
 司は遠慮なく鳥羽の執着気質に突っ込みを入れるが、平然とかわしている。
「執着なのかと悩んだりもしたんだけど、社会学の父とも言われているWeberによると目的合理的行為にこれがあたるらしいと知って安心した」
 鳥羽の言葉が終わるやいなや司が「いや執着やろ!」と突っ込んだ。



 渚はあの日から時々、夜中に目が覚めてしまう。
 触れられた感覚が蘇り、「うわぁ」と一人で声に出してベッドから出る。
 電子ピアノの後ろのカーテンを開けて海を見ると、半月が中空に明るく浮かんでいる。
 まだ夜中の2時だ。

 こんなことが数回あったので渚はあの時にリミットをかけておいて良かったと心底思った。
 あの日の自分に「ありがとう」と言って抱きつきたいくらいだ。
 鳥羽に何も言ってなかったら、今頃は毎日のように寝不足になっていたんじゃないか。


 あのリミットの範囲内。
 すれ違う時。朝一番や帰り際に。
 0.1秒だけ触れてくる。
 小指だけとか。首のうしろとか。

 今はそれだけでじゅうぶんすぎる。