家から出られなくなって三年目の六月、鳥羽太玖海は父から誘われた瀬戸内海への自転車旅にあっさり承諾した。その時、父が一瞬唖然としたのを見逃さなかった。
 絶対断ると思いながら誘ったんだよな。
 太玖海は笑って愉快な気持ちで成り行きを見守った。父がみるみるうちに破顔して「ロードバイク新しく買うか?父さんのを貸してもいいけどこれもいいぞ」とコーダブルームのパンフレットを太玖海の鼻先に突きつけてきた。
 親孝行だと思って、ここは甘えて新しい自転車を買ってもらおうか。
 太玖海が外に出て風を浴びたいと願ったのは、その朝方に不思議な夢を見たからかもしれなかった。

 夢の中で太玖海は小さな男の子で、なぜか海辺のコンクリートの上を歩いていて海の中に落ちてしまう。
 それでも泡立つ海水の中を落ちていきながら、太玖海は助けてくれる男の存在を知っているから安心している。

 目が覚めると詳細はすっかり忘れてしまっていて、結局子ども時代の自分が助け出されたのかどうかは記憶にないのに何故か繰り返し海に沈んでいった感触だけが残っていた。
 カーテンの隙間から入ってくる陽射しを憎く思わない心持ちで眺めて、あんなに何度も海に落ちたんだから僕は生まれ変わったんじゃないかと妙に清々しい気持ちになったことを覚えている。



 父は自分のために仕事を3日休み、土日祝と合わせて6日間を太玖海と一緒の旅に充てた。父がロードバイクを車に積んで千葉から広島まで運転した。
 目まぐるしく変わる車窓の景色。
 ずっと家の壁ばかり見ていた長い日々からの急展開。このあと自分はどうなるかは全く分からないけれど、なるようになれ、と思えた。
 小学校の時は普通に登校して勉強も熱心にして友だちとも一緒に過ごせていた。
 急にエネルギー切れみたいになったのは中学校に5日間ほど登校した後。
 そこからほとんど家を出なくなった。
 自分で自分が分からなかった。幸いなことにいじめを受けて魂を損なったという出来事はなく友だちもいたから、大学付属の小学校中学校と受験をしたことに力を注ぎ込み過ぎたのかもしれないと両親は言った。無理に登校させようとしなかったのがひたすら救いだった。
 だからこそ太玖海自身が自分の意志で動き始めた時は家族が最大限に応援してくれる、ということも分かっていて、それが太玖海の一番の強みだったと今なら理解できる。

 
 瀬戸内海での旅では、体力も体重もすっかり落ちていてロードバイクを停めて何度も休憩を入れた。
 背だけ父を抜いて大きくなっていた太玖海は、呼吸を整えている間は自転車用のサングラス越しに海ばかり眺めた。
 6月末の柔らかな陽射しを反射した海が綺麗だと思える自分がいてホッとした。


 T島の浜沿いにロードバイクを走らせていた時、自分と同じくらいの年代と思われる少年たち六人が海で遊んでいたのを横目で見た。太玖海は父に頼んでしばらくロードバイクを停め、そっと少年たちの海遊びを眺めた。
 一人の華奢な少年がコンクリートの海岸堤防に登って歩き、黒いTシャツとハーフパンツの姿のまま海に飛び込んだので太玖海は息を呑む。
 あの朝に見た夢を思い出してしまったから。
 海面から顔を出して砂浜まで泳いでくる少年を見て太玖海は胸が震えた。
 何故か分からないけれど、子どもだった自分を海から救いあげてくれたのは彼だと思った。黒髪から雫が落ちている顔を無造作に手のひらで拭って、また背中を向けてコンクリートの上を歩いて行く。
 他の少年たちが砂浜で喋ったりボール遊びをしている横で何度も何度も繰り返し海に落ちていく少年を見て、太玖海は自分自身をまるごと彼に鷲掴みにされてしまった。
「なぎさ〜、おまえ島の高校に進学するんじゃろ。いつき高校には水泳部ないで?進学先俺らと同じとこに変えるかぁ」
 誰かが叫ぶ。
 太玖海と彼らが同級生だと気付いて、涙が出そうになる。
 なぎさと呼ばれた少年が泳ぎながら仲間に手を振った。海から出てきた時、まるで碧色の波打ち際から生まれてきたように見えた。
「俺は島がいい。窓から海が見える高校がいい!」
 大声で叫んだなぎさがふと歩みを止めて凪いだ海のそばで立ちすくす。
 太玖海は30メートルほど離れた木の陰に立っていたが、サングラス越しになぎさと視線が交わったのが分かった。
 その刹那。
 太玖海は決意した。魂をまるごとぶつけてなぎさと呼ばれたこの少年と言葉を交わそう。
 この島に来たい。
 なんにもしたいことがなかった自分だけど、今はただただ生きていたい。この人の側に居てみたい。
 何もしてこなかった自分が何かをしたいと思えたら、それは実現するに決まっている。  
 太玖海は目の前で立ち止まって自分を見ている、涙を流しているように海の雫を滴らせている少年にこの時、照準を絞った。
 
 どうか春には、この島がいいと叫んだなぎささんの横に、僕がいますように。




「ね。だからロックオンしたってのは本当なんだ」

 太玖海は柑橘の香りがする少年の首筋に、長い長い語りを終えて深い溜息をついた。
 目の前の肌に熱が帯びるのが分かる。
 今まで触れずにいた自分を心で誉めながら、来寮者受け入れの門限が狭っていることを知って太玖海はそっと唇を近付け、その首筋に触れた。

 この時の二人の体の中にある海は、ちっとも凪いでなんか、なかった。