風さそう花よりもなお我はまた
春の名残をいかにとかせん
五樹寮のラウンジで他の一年生に挨拶をしてから鳥羽の部屋に入る時、扉の上にある文字を読んで渚は自然に和歌を呟いていた。
小さな声で。
「なんで今、浅野内匠頭の辞世の句が出てきたの?」
先に部屋に入っていた鳥羽が、上を見上げたまま入り口で立っている渚に近付いて声を掛けた。
祖父と一緒に暮らしている渚は同年代の核家族の島仲間に比べて時代物に触れる機会が多く、友だちと普段の交流を図る時には1ミリも役に立たない様々な雑学を授かっている。
逆になんで鳥羽がこの和歌を知っていたのかと少し驚いた。
「いや…部屋の名前がこれだから。つい松の廊下を連想しただけ」
渚が指差すプレートには、手書きの墨で「松」と書かれていた。ここは旅館か?
学生寮だよな。
「部屋の中に松と千鳥の絵が飾られてたりするの?」
渚が冗談を言うと鳥羽は「だから松の廊下じゃないし」と笑って、ふと真顔になった。
「この寮の部屋、全部に松竹梅とか名前がつけられてるんだよね」
鳥羽が手招きしたので渚はようやく部屋に入った。
6畳の部屋にベッドと机。ローテーブルと小さなクローゼットもあって快適そうな個室だった。
「え。部屋って成績順?松ってことはいちばん鳥羽が賢いとか?」
渚は素朴な疑問から始める。
今日は聞かなきゃいけない大切なことがあるのだけども。
「なわけないよ。部屋は籤引きだった。他にも雪月花とかまぁいろいろ」
そう言って鳥羽はローテーブルの横のラグを指して座るように仕草で促した。
とりあえず今のところは鳥羽からごめんと言われて予告された事態は、起こってない。
まだ。
「どこから伝えればいいのか」
鳥羽がベッドの端に座って前かがみになり、膝の上に長い腕を置いて左手で頬杖をつく。
あまり見かけない鳥羽の放心したような無防備な表情を見て、渚は逆に自然に言葉が口から出ていた。
「春から俺のこと見てた?」
渚の妄想かもしれない可能性を加味して、「結構」という副詞だけ意図して省く。
「見てた。かなり」
鳥羽がきちんと副詞も加えて答えた。
「そっか。良かった。俺の気のせいだったらどうしようって…」
渚もまた無防備に胸のうちを曝け出す。
「いい男だなぁって初日に見惚れたからさ、そんな好意が妄想を生み出してるのかもしんないって柄にもなく緊張した。俺、狙い定められてるような気がして。ロックオンされてる妄想っていうか…。でもってそれが自分の深層心理なのかと煩悶してた」
渚は正直に自分の気持ちを言葉にしていった。
ここにくるまでの2時間で幼馴染の司に秘密を打ち明けてきた大きな出来事の後では、今のほうが気楽に思える。
それくらい10年仲良くしてきた友だちとの関係には重みがある。
甘夏を手にして青い空を見ながら語った渚の言葉を、静かに受け止めてくれた司。渚のSOGI と今の恋心。
今日だと思った。
あの檸檬顔を久しぶりに見た今日の流れで、波が打ち寄せるような心のうねりがあるうちに言わないと俺は大人になっても大切な司にも隠し続けて生きるかもしれない。
そう感じて、自分から動いて、言葉にしてみて良かった、と思う。
「うん。狙い定めてたんだよね一年前から。入学式の日にやっと同級生になれて幸せすぎて。そこからは動けなかったなぁ」
鳥羽が頬杖をついたまま渚の目を見て溜息をついた。さらりと言われたので渚は言葉の意味がうまく呑み込めない。
ポカンと口を空けて渚は馬鹿みたいに鳥羽を見上げたまま静止していた。
一年前…って言った?
「わぁその顔もいいな」
鳥羽がそう言って渚の方にするりと身体を寄せた。膝立ちをして渚にぎりぎり触れないまま顔だけを傾けて渚の左首筋に鳥羽自身の鼻先を近づける。
「柑橘のかおりがする。すごく好き」
渚の心臓の鼓動が高まって、その自分の体温の上昇でさらに甘夏の香りが広がって部屋を満たしたんじゃないかと渚は頭の片隅で思う。
渚は小さく震えはじめた身体を動かして、そっと顔を窓に向けた。
海に向かった窓は閉められていたけれど、しばらく言葉を必要としない今の時間だけはそっと窓を開けて潮風を浴びたい。
優しい気持ちで渚は海を求めていた。



