須賀渚(すが なぎさ)は煩悶していた。
 ロックオンされてる自覚が、ある。同じクラスの一人の男子生徒から。
 なんで?
 今までの人生で味わったことのない、この視線の密度の濃さは何だ?
 これが一年間続くんだろうか。
 初夏の陽射しが眩しく入りこむ教室で渚は机に頬杖をついて、左側の窓から見える青空をそっとみつめる。
 って、この島唯一の五樹(いつき)高校は全生徒が全員で99人だから、どの学年も一クラスだけなんだけど。
 これ…三年間も続くの?


「じゃけぇ、渚は島から出たら良かったんよ。いつまではぶてとるん?」
 幼馴染の(つかさ)が言う。
()ねてないってば!」
 昼休みにお弁当を食べながら、そう言って慌てて右人差し指を一本唇に当てて司を黙らせた。
 相手に聴こえるでしょうが、という牽制(けんせい)
 この会話を届けたくない相手が、固まって一緒に昼御飯を食べている他の四人の身体の隙間を縫って、また渚を見た。

 鳥羽太玖海(とば たくみ)

 地元から進学した生徒から都会組と呼ばれる島以外から来た生徒で、今は都会組の生徒が属する五樹寮(いつきりょう)の仲間で集まっている。
 陸上部に入った体育会系の生徒で、多分関東出身。綺麗な標準語だから。
 柔らかそうな栗色の髪。ウェーブは天然かも。
 都会組の中でも一番背が高くて目立つ。整った容姿と洗練された身のこなし。
 だけど軽い感じは全くなくて。逆に、重い。この視線が。
 渚によく注がれる視線。その一瞬に凝縮された、この重み。
 これはおそらく渚だけにしか分からない。あの爽やかな顔面に、文句の付けようもないくらいバランスよく収まった涼やかな目元。そこから自分にしか分からない超弩級のエネルギーが注がれているのを感じる。

 え、これ俺のヤバい妄想?


 渚は中学生になってから自分の性指向がマイノリティなのを自覚した。
 華奢で中性的だと言われる渚は、女子顔が好みの女子生徒からアプローチされることが小学生の頃から多々あったが全く心が揺さぶられなかった。島の女子にはかなりぐいぐい迫ってくる強気なタイプもいて、中学校ではその対応で消耗した。渚が逃げまわっていたのを友だちは「渚は理想が高いんじゃなぁ」と感心して見ていたけど、全く違う。
 渚が魂を揺さぶられるのは相手が男子とのやり取りの際だと気付いた時は、まずは気のせいだと思い込もうとした。
 これで相手が女子だったら恋なんだけどな。
 そういう風にいったん自分の気持ちをないことにする癖がついていた。
 それでも二枚目で憧れている幼馴染の兄から笑顔で渚の黒髪をガシガシ掻き回されたりした日には胸が震えたし、若くて誠実な男教師の綺麗な手をみつめてしまう自分がいたりした。女教師には感じない感情。
 そんな日々を重ねて、ようやく自分に正直に向き合えたのは15歳になった日。
 この小さな島では生きていけないんじゃないかな俺、と生まれて初めて切ない気持ちで海を眺めた夏。


 そんな渚が入学式の日に一目見て惹かれた同級生と視線を交わらせた途端、相手が渚の瞳の奥まで覗きこもうとするような優しい眼差しを向けてきたことに驚愕してしまった。
 まだ名前さえ知らなかった朝。
 渚は相手の顔を見て呼吸が浅くなるという体験に驚いて、心臓がある胸の中心あたりを右手で押さえて顔を逸らせてしまったくらいだ。
 島の外から来た生徒はクラスの半分以上いて、今年度は一年生は30人だから顔と名前はすぐにお互い覚えられる。渚はいちばんに鳥羽の名前を覚えたけれど、意識しすぎて自分から声をかけることはしなかった。結構人懐こい性分の渚にしては珍しいことだ。
 島以外から来た生徒は地方からであっても伝統的に都会組と呼ばれているのだが、鳥羽以外の都会組である富山から来た女子生徒、岐阜から来た男子生徒、その他に兵庫や鳥取から来た男子生徒たちとは四月中に会話を通して自己紹介もスムーズにできた。
 遅咲きの桜が散って五月になり、高校の前に惜しみなく広がる海に初夏の陽射しが射す渚の愛する季節になっても渚は鳥羽に声を掛けられないままでいた。
 鳥羽からも声を掛けられたことは今までない。
 それでも鳥羽は渚によく視線を向けてくる、ような気がする。
 気がする、だけなのか?

 これ、かなり愛が込められてるンじゃないか?

 あまりに悩ましくて、今日は仲良しの司に「ひとクラスしかない今の現状が息苦しいと思っちゃう事態が起こっててさ」と打ち明けたばかりだった。
 六月になったばかりの昼休みに。


 入学式の時にいろんな方言が混じるのが面白いと伝統的に言われている五樹高校だけれど、令和の今は標準語か関西弁か島の言葉くらいだ。
 渚自身もこの島の祖父宅で暮らすようになったのが小学校からで言葉は方言に染まらなかったけれど、島の生活にはがっつり溶け込んでいる。

 海が好きだ。
 波の音を聴くと安心する。絶え間なくかたちを変える波を見ながら青色と碧色のグラデーションの美しさに胸が震える。
 渚は朝に夕に、登校前や休日に、一人で立ち止まって海を飽きもせず眺めることがよくある。もう海なしでは生きられない、とも思っている。


 今年の一年生で都会組は鳥羽を含めて17人。渚や司たちのような島の生徒は13人。
 渚たちは初めて都会組が地元の生徒を超えた学年として島では話題になってしまった。
 限界集落説。その裏付け。
 あまり刺激のない穏やかな島の生活の中では、こんな自虐的なニュースがシニアたちを活気づける。
「令和じゃなぁ」
「ぐつわるいのぅ」
「そげーにいたしく考えんでもえぇ」
 そう言ってアハハハと笑い合うおばあちゃんたちの表情はとても明るい。
 島の外から来た都会組の生徒たちは基本的に礼儀正しく、島の住人たちも五樹寮生たちを可愛がっていると言える。日本の北から南から、家族から離れて単身でこの島まで来た10代の少年少女が可愛くないわけがない。高校生の渚たちだって島に来てくれた都会組の同級生に対しては愛を感じるものだから。

 その愛について、考えなきゃだな。今は。 



 渚が今朝、朝日が登る頃に自宅の庭から見た海は凪いでいた。
 渚は誰よりも早く高校に登校する。
 音楽室のピアノを誰にも聴かれずに弾きたいから。


 祖父と同居している島の家にはピアノはない。電子ピアノが家にあるだけ今はマシかもしれない。以前は家になかった。
 渚が唯一習っている楽器が家にないのは可哀想だと祖父が言って、ようやく三年前に電子ピアノが渚の部屋に届いた。
 渚は自分の部屋の窓を開けて、海を額に感じながら電子ピアノを弾く。この時間で心を整える。
 ピアノの音がうるさいだなんて、この島で言う人は今のところいない。
 限界集落と呼ばれる島にも、良いところはたくさんある。



 渚は登校途中に都会組が集団生活をする五樹寮の前を通るが、いつも歩きながら四階建ての建物を見上げてしまう。
 今日も左側に広がる海の音を心地よく感じながら、右上の寮を見上げた。
 この五樹寮で暮らす男子と女子のほとんどと仲良くなってるんだけどな。一人を除いて。 
 俺はアイツといつ話するんだろう。意識しすぎだっつの。

 渚が一人で胸の中で自分に突っ込んだタイミングで、3階の一つの窓が開かれた。
 その途端、「わ」と自然と声が出た。
 鳥羽が顔を出したからだ。
 目がまた、合った。いつもは教室とかグラウンドとかなので、二人が視線を交わす時は周りに他の生徒が必ずいるけど今朝は違う。
 渚は歩きながら鳥羽に手を振っていた。無意識に咄嗟の判断で。

「おはよう」
「おはよう」

 あ、声が重なったじゃん。

 結構クールだと思っていた鳥羽が、その瞬間に目を細めて大きく笑ったからまたまたびっくりした。
 渚は朝の冷たい空気を纏ったまま立ち止まってしまった。

「やっと声掛けてくれた」
 鳥羽が可笑しそうに口元に手を当てて笑っている。
 綺麗な手だな、と渚は思う。
「え?それこっちのセリフ…」
 胸が熱くなるのを、目元が朱く染まるのを、気取られないように渚は畳み掛けるように言葉を放つしかない。
「やっとって、なんだよ!」
 そう言った自分が笑顔になっているのに気付いて渚はなんだか愉快になってしまう。
「うん。やっと話せたってのもある」
 そう鳥羽が返してきたので渚は拍子抜けした。
 なんだ、声掛けるのってこんなに簡単なことだったんだ。
 いや、あんなに鳥羽が執拗に見つめてくるから意識しちゃってたんだろ。
 この視線に関しては、どう扱えば?

「話をしたかったけど勇気が出なかったんだよ」
 鳥羽は窓辺で小さな声で言った。
 朝のこの時間帯は他の寮生も部屋にいるはずだから、会話は全方位に聞こえているはずだ。渚はそれに気付いて急に恥ずかしくなり、慌てて人差し指を立てて自分の口元に持っていく。
 あれ、俺、昨日もこの仕草をしたな。

「学校でまた話すから」
 渚が静かにそう言うと鳥羽が頷いた。
 もう一度手を振って渚は鳥羽から視線を外し、急いで五樹寮の前を通り過ぎて高校に向かう。
 背中に鳥羽の視線を感じる。
 鳥羽が渚に好感を持ってくれているのは分かったけれど、この視線が渚の片想い的な何かがこじれて妄想のように渚自身が作り上げているものだったら怖すぎる。
 アオハルって、こんなに暴走すんの?
 渚は鳥羽が自分を見ていることが妄想ではなくて事実だと確認しないといけない、と歩きながら思う。
 性指向がマイノリティの渚は、幼馴染の司にも恋愛話や自分の懊悩を打ち解けることができずにいた。
 だから、結局、こういう場合は相手にぶつかっていくしかない。
 渚は波のたてる柔らかい音に意識して耳を傾け、海の音に合わせて呼吸を深めて自分を鼓舞した。


 
 渚が音楽室のグラウンドピアノで弾いているのは、ドビュッシーの『アラベスク第1番』。
 六月になったばかりの青葉が瑞々しい季節に優しい音色が溶け込んでいく。
 まだまだ指が引っかかるけれど、日々少しずつ滑らかになるメロディを聴くとそれだけで自分が癒やされる。春から練習しているこの曲を渚はまだ冒頭部分しか弾けない。サブドミナントの分散和音から始まるこの曲は、甘い音色だ。
 今朝の渚の心情に重なる。
 言葉を交わせただけで気持ちが高揚するなんて。甘すぎないか、俺。
 この曲の楽譜の最初に書かれてあるイタリア語は “Andantino Con moto”。つまり、“動きをもって” 始めろと指定されている。

「俺。動いていこう…」
 渚が音楽室のピアノに向かって一人言を呟いた時、背中側の扉から声が放たれた。
「自分へのエールいいね」
 鳥羽の声だと気付いて渚は「わ〜っ!」と叫びながら鍵盤を両手で叩きこみ、音楽室を不協和音で満たしてしまった。

「馬鹿野郎!忍びよるなっての!」

 渚は早まった鼓動で全身に送られた血液の熱を目元で感じながら鳥羽に身体を向けた。
 今日はサプライズが多すぎる。
 鳥羽が「ごめん」と心底困った顔をして胸の前で両手を合わせている。
 渚も思わず両手を胸に当てて振り向いたから互いに同じような体勢になっていた。それが滑稽で、結局どちらからともなく笑いだしてしまった。


「ねぇ。須賀だけ言葉が島の言葉じゃないのはどうして?」
 そろそろ他の生徒も登校してくる時間になり、ざわめきが聞こえてくるのを潮騒のように感じながら渚は鳥羽の問いかけに端的に応えた。
「生まれが千葉。6歳で島に来たから」
 渚がそう言うと鳥羽が目を大きくして叫んだ。
「え?ほんと?俺と同じ!」
 鳥羽がまた嬉しそうに歯を見せて無邪気に笑ったから、この顔もいいなと見惚れて渚はまたまた鼓動が早まってしまった。
「鳥羽も千葉県出身だったんだ」
「そう。須賀はチーバ君のどこ出身?」
 早口で鳥羽にそう尋ねられて渚は懐かしさに悶えてしまう。
「チーバ君…懐かしすぎ」
 渚は千葉県の形を模したキャラクターを脳裏に描いてひとしきり涙が少し滲むまで笑ってから尋ねられたことに正しく答えた。
「俺が生まれたのはチーバ君の上顎あたり」
 このやり取りをこの高校でできるのは俺たちだけだな。
 そう感じて幸せになったことで渚は相手への感情がまさしくガチな恋心だと気付かされて動揺もした。
「市川か!自転車ですぐ東京に行けるね」
 鳥羽がそう言って嬉しそうな顔をして右手を渚の左肩に置いたので渚は叫びそうになる。
「俺はチーバ君の胸元あたり。海のそばだ」
 鳥羽が目を細めて優しく言った。
「市原…かな」
「うん、そう。俺も海は身近にあったよ」

 朝の予鈴のチャイムが鳴る。SHRが始まる。
 鳥羽も渚と同じように、海を見て成長したのかと思うと温かい気持ちになった。
 朝いちばんに聴いた「勇気が出なかった」という鳥羽の意味深な言葉の意味は、また改めて尋ねよう。
 そう思ったら少し安心して、二人で慌てて同じ教室に向かいながら笑えてきた。
 朝から連続して揺さぶられた感情の揺り戻しだ。教室について自分の席に座ってからもずっと渚は右手を口に当てて笑い続けた。

 離れた右斜め後ろの席で鳥羽も笑い続けているのを、空気の揺れで感じながら。


 1時間目が終わった後の休憩時間、前の席にいた司がすぐに窓側の渚の席にやってきた。
 檸檬(レモン)を口に入れたような顔をしてブスくれている。
 小学校の高学年の時に渚が女子から迫られて断りきれず、先に女子と一緒に帰った日の夕方に司がランドセルを背負ったまま渚の家まで来て玄関でこんな顔してたっけ。
 うわぁ。今日はなんだってこんなに懐かしいことが引きも切らずに脳内で再生されるんだろう。

 チーバ君と、この檸檬顔。

 そうそう。司のばあちゃん家の檸檬。またもらいにいかなきゃ。母さんに頼まれてた。


「ひっつきもっつきSHRに遅れて二人で来てさ、そのあと笑っとって何なん?渚ピアノ弾いとるんやと思っとったら鳥羽と話しとったんや」
 司が素直に思っていることを言ってくれるから渚は話をしやすかった。昔から司の表裏のなさには救われていた。たくさん島友だちはいるけれど、やはり長く一緒に居たいなと思うのは佐藤司という小柄で元気で檸檬の似合う、この幼馴染だ。
「それはええんよ。でも昨日はキラッキラ過ぎて話しかけられんって言っとったやろ」
 また司が声を大きくしたから渚は慌てて司の頭をガシッと抱え込み、引き摺るようにして廊下に連行した。
 キラッキラって言葉、恥ずかしいから耳元で小さな声で昨日話したのに。十倍大きな音量で声に出しましたね司さん。

「ごめん。司をないがしろにしたわけじゃないよ」
 渚は廊下に立って10㌢下にある司の目をしっかりと見て謝った。
「朝に寮の前通った時にたまたま窓開けた鳥羽と挨拶したんだ。音楽室で話して俺と同じ関東出身だってわかって。いろいろ話したいけど休み時間じゃ足りないよ。今日は蜜柑部の活動する?そこで話せる?」
 渚が一気にそこまで言うと、司の表情がみるみる柔らかくなった。
「あぁ同郷やったん?それは嬉しいよな」
 司はウンウンと頷きながら機嫌を直す。

 確かに渚が逆の立場でも司のように不審に思うかもしれない。 
 同じクラスに話しかけられない都会組がまだ一人いて何故か少し息苦しい。格好良すぎる男子と話せない自分が不甲斐なくて…と渚なりに話せる範囲で昼休みに悩みをゴニョゴニョ話していたから、翌日になって渚が当のキラッキラ男子と二人で肩を寄せるように笑いながら教室に滑り込んできたのを見たら。
 は?ってなるよな。


「蜜柑部の活動やるよ。甘夏の山に行くンよ。ほいじゃ渚も来いよ」
 司がそう言ったので渚は「うん」と返事して向かい合った司の右腕を取り、素早く腕十字固をして(ひね)り上げた。
「ぎゃ〜!何すんじゃぁ渚!」
 司が悲壮な声で叫んだ。
 渚は司に顔を寄せて、小さな声で言う。
「司さん。教室ではお静かに」
 廊下から裏山が見えて緑とオレンジ色のコントラストが今日も美しかった。
 司が泣きそうな声で「はい…スンマセン」と言ったのと同じタイミングで、2時間目の始まりのチャイムが鳴った。



 朝に鳥羽と会話をしてからは、離れていても視線が合うとお互い口角を上げるようになった。
 だいたいお互い目の前で喋っている相手がいるけれど、それでも距離のある鳥羽とも言葉を介さずにコミュニケーションを取れている感じがする。
 二ヶ月近く目で会話して下地を作っていたんだろうか。無意識に。

 蜜柑部に行く前、帰り支度を皆がしている放課後の教室で渚は鳥羽に近付いて尋ねた。
「鳥羽は陸上部だよね。ゆっくり話そうと思ったら何曜日が空いてる?」
 鳥羽は笑顔になって「今日!」と即座に言い放つ。
「喋りたいことがたくさんあってどこから手をつけていいか分からないんだ」
 椅子から立ち上がり、リュックを背負いながら渚を見下ろす。
 渚が司を見下ろす角度と全く同角度で今見上げてるってことは183㌢だろうかと渚は素早く計算した。
「部活は5時に終わる。寮に来ない?個室も客間もある。夜の7時までは来客対応してくれるんだ」
 渚は鳥羽と並んで教室を出ながら頭の中で自分のスケジュールを確認した。
 今日は火曜日。自分の音楽部は月水金。木曜日は(ひがし)先生ん家でピアノレッスンだから。
 うん、やっぱり今日がいいな。

「行く。今から蜜柑部の手伝いするから甘夏の匂い俺すっごくするかもだけど」
「えぇ?」
 階段を降りていたタイミングで鳥羽が足を停めたので渚も慌てて振り向いた。三段上にいる鳥羽が眩しそうに目を細めているのが逆光の中でも分かった。
「えぇって、え?柑橘系、苦手だった?」
 蜜柑部の手伝いをする時は収穫をしながら甘夏をその場で()いて盛大に食べるので、終わった時はあたかも柑橘系のオーデコロンを身に(まと)っているような状態になる。
「いやそうじゃなくて…」
 鳥羽が自分の髪をわしわし掴んで鳥の巣みたいにしているのを渚は呆気にとられて見上げていた。
「近付いて甘夏のかおり嗅いでしまいそうだから」
「は?」
「いや、しそうじゃなくて絶対しちゃうから今から謝っておく。ごめん!」

 渚は五樹高校の階段で思いきり叫んだ。
「ごめんって?ええ〜っ!?」
 何言ってるんだ、このイケメンは?
 チーバ君の蝶ネクタイ地域出身のこの男子は、どうしてこんなことを俺に言うんだろう。
 今朝やっと動きはじめたばかりの、この俺に。




 風さそう花よりもなお我はまた
 春の名残をいかにとかせん


 五樹寮のラウンジで他の一年生に挨拶をしてから鳥羽の部屋に入る時、扉の上にある文字を読んで渚は自然に和歌を呟いていた。
 小さな声で。

「なんで今、浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)の辞世の句が出てきたの?」

 先に部屋に入っていた鳥羽が、上を見上げたまま入り口で立っている渚に近付いて声を掛けた。
 祖父と一緒に暮らしている渚は同年代の核家族の島仲間に比べて時代物に触れる機会が多く、友だちと普段の交流を図る時には1ミリも役に立たない様々な雑学を授かっている。
 逆になんで鳥羽がこの和歌を知っていたのかと少し驚いた。
「いや…部屋の名前がこれだから。つい松の廊下を連想しただけ」
 渚が指差すプレートには、手書きの墨で「松」と書かれていた。ここは旅館か?
 学生寮だよな。

「部屋の中に松と千鳥の絵が飾られてたりするの?」
 渚が冗談を言うと鳥羽は「だから松の廊下じゃないし」と笑って、ふと真顔になった。
「この寮の部屋、全部に松竹梅とか名前がつけられてるんだよね」
 鳥羽が手招きしたので渚はようやく部屋に入った。
 6畳の部屋にベッドと机。ローテーブルと小さなクローゼットもあって快適そうな個室だった。
「え。部屋って成績順?松ってことはいちばん鳥羽が賢いとか?」
 渚は素朴な疑問から始める。
 今日は聞かなきゃいけない大切なことがあるのだけども。
「なわけないよ。部屋は籤引(くじび)きだった。他にも雪月花とかまぁいろいろ」
 そう言って鳥羽はローテーブルの横のラグを指して座るように仕草で促した。
 とりあえず今のところは鳥羽からごめんと言われて予告された事態は、起こってない。
 まだ。

「どこから伝えればいいのか」
 鳥羽がベッドの端に座って前かがみになり、膝の上に長い腕を置いて左手で頬杖をつく。
 あまり見かけない鳥羽の放心したような無防備な表情を見て、渚は逆に自然に言葉が口から出ていた。
「春から俺のこと見てた?」
 渚の妄想かもしれない可能性を加味して、「結構」という副詞だけ意図して省く。
「見てた。かなり」
 鳥羽がきちんと副詞も加えて答えた。
「そっか。良かった。俺の気のせいだったらどうしようって…」
 渚もまた無防備に胸のうちを曝け出す。
「いい男だなぁって初日に見惚れたからさ、そんな好意が妄想を生み出してるのかもしんないって柄にもなく緊張した。俺、狙い定められてるような気がして。ロックオンされてる妄想っていうか…。でもってそれが自分の深層心理なのかと煩悶してた」
 渚は正直に自分の気持ちを言葉にしていった。

 ここにくるまでの2時間で幼馴染の司に秘密を打ち明けてきた大きな出来事の後では、今のほうが気楽に思える。
 それくらい10年仲良くしてきた友だちとの関係には重みがある。
 甘夏を手にして青い空を見ながら語った渚の言葉を、静かに受け止めてくれた司。渚のSOGI と今の恋心。
 今日だと思った。
 あの檸檬顔を久しぶりに見た今日の流れで、波が打ち寄せるような心のうねりがあるうちに言わないと俺は大人になっても大切な司にも隠し続けて生きるかもしれない。
 そう感じて、自分から動いて、言葉にしてみて良かった、と思う。


「うん。狙い定めてたんだよね一年前から。入学式の日にやっと同級生になれて幸せすぎて。そこからは動けなかったなぁ」
 鳥羽が頬杖をついたまま渚の目を見て溜息をついた。さらりと言われたので渚は言葉の意味がうまく呑み込めない。
 ポカンと口を空けて渚は馬鹿みたいに鳥羽を見上げたまま静止していた。

 一年前…って言った?

「わぁその顔もいいな」
 鳥羽がそう言って渚の方にするりと身体を寄せた。膝立ちをして渚にぎりぎり触れないまま顔だけを傾けて渚の左首筋に鳥羽自身の鼻先を近づける。
「柑橘のかおりがする。すごく好き」
 渚の心臓の鼓動が高まって、その自分の体温の上昇でさらに甘夏の香りが広がって部屋を満たしたんじゃないかと渚は頭の片隅で思う。
 渚は小さく震えはじめた身体を動かして、そっと顔を窓に向けた。
 海に向かった窓は閉められていたけれど、しばらく言葉を必要としない今の時間だけはそっと窓を開けて潮風を浴びたい。
 優しい気持ちで渚は海を求めていた。

 家から出られなくなって三年目の六月、鳥羽太玖海は父から誘われた瀬戸内海への自転車旅にあっさり承諾した。その時、父が一瞬唖然としたのを見逃さなかった。
 絶対断ると思いながら誘ったんだよな。
 太玖海は笑って愉快な気持ちで成り行きを見守った。父がみるみるうちに破顔して「ロードバイク新しく買うか?父さんのを貸してもいいけどこれもいいぞ」とコーダブルームのパンフレットを太玖海の鼻先に突きつけてきた。
 親孝行だと思って、ここは甘えて新しい自転車を買ってもらおうか。
 太玖海が外に出て風を浴びたいと願ったのは、その朝方に不思議な夢を見たからかもしれなかった。

 夢の中で太玖海は小さな男の子で、なぜか海辺のコンクリートの上を歩いていて海の中に落ちてしまう。
 それでも泡立つ海水の中を落ちていきながら、太玖海は助けてくれる男の存在を知っているから安心している。

 目が覚めると詳細はすっかり忘れてしまっていて、結局子ども時代の自分が助け出されたのかどうかは記憶にないのに何故か繰り返し海に沈んでいった感触だけが残っていた。
 カーテンの隙間から入ってくる陽射しを憎く思わない心持ちで眺めて、あんなに何度も海に落ちたんだから僕は生まれ変わったんじゃないかと妙に清々しい気持ちになったことを覚えている。



 父は自分のために仕事を3日休み、土日祝と合わせて6日間を太玖海と一緒の旅に充てた。父がロードバイクを車に積んで千葉から広島まで運転した。
 目まぐるしく変わる車窓の景色。
 ずっと家の壁ばかり見ていた長い日々からの急展開。このあと自分はどうなるかは全く分からないけれど、なるようになれ、と思えた。
 小学校の時は普通に登校して勉強も熱心にして友だちとも一緒に過ごせていた。
 急にエネルギー切れみたいになったのは中学校に5日間ほど登校した後。
 そこからほとんど家を出なくなった。
 自分で自分が分からなかった。幸いなことにいじめを受けて魂を損なったという出来事はなく友だちもいたから、大学付属の小学校中学校と受験をしたことに力を注ぎ込み過ぎたのかもしれないと両親は言った。無理に登校させようとしなかったのがひたすら救いだった。
 だからこそ太玖海自身が自分の意志で動き始めた時は家族が最大限に応援してくれる、ということも分かっていて、それが太玖海の一番の強みだったと今なら理解できる。

 
 瀬戸内海での旅では、体力も体重もすっかり落ちていてロードバイクを停めて何度も休憩を入れた。
 背だけ父を抜いて大きくなっていた太玖海は、呼吸を整えている間は自転車用のサングラス越しに海ばかり眺めた。
 6月末の柔らかな陽射しを反射した海が綺麗だと思える自分がいてホッとした。


 T島の浜沿いにロードバイクを走らせていた時、自分と同じくらいの年代と思われる少年たち六人が海で遊んでいたのを横目で見た。太玖海は父に頼んでしばらくロードバイクを停め、そっと少年たちの海遊びを眺めた。
 一人の華奢な少年がコンクリートの海岸堤防に登って歩き、黒いTシャツとハーフパンツの姿のまま海に飛び込んだので太玖海は息を呑む。
 あの朝に見た夢を思い出してしまったから。
 海面から顔を出して砂浜まで泳いでくる少年を見て太玖海は胸が震えた。
 何故か分からないけれど、子どもだった自分を海から救いあげてくれたのは彼だと思った。黒髪から雫が落ちている顔を無造作に手のひらで拭って、また背中を向けてコンクリートの上を歩いて行く。
 他の少年たちが砂浜で喋ったりボール遊びをしている横で何度も何度も繰り返し海に落ちていく少年を見て、太玖海は自分自身をまるごと彼に鷲掴みにされてしまった。
「なぎさ〜、おまえ島の高校に進学するんじゃろ。いつき高校には水泳部ないで?進学先俺らと同じとこに変えるかぁ」
 誰かが叫ぶ。
 太玖海と彼らが同級生だと気付いて、涙が出そうになる。
 なぎさと呼ばれた少年が泳ぎながら仲間に手を振った。海から出てきた時、まるで碧色の波打ち際から生まれてきたように見えた。
「俺は島がいい。窓から海が見える高校がいい!」
 大声で叫んだなぎさがふと歩みを止めて凪いだ海のそばで立ちすくす。
 太玖海は30メートルほど離れた木の陰に立っていたが、サングラス越しになぎさと視線が交わったのが分かった。
 その刹那。
 太玖海は決意した。魂をまるごとぶつけてなぎさと呼ばれたこの少年と言葉を交わそう。
 この島に来たい。
 なんにもしたいことがなかった自分だけど、今はただただ生きていたい。この人の側に居てみたい。
 何もしてこなかった自分が何かをしたいと思えたら、それは実現するに決まっている。  
 太玖海は目の前で立ち止まって自分を見ている、涙を流しているように海の雫を滴らせている少年にこの時、照準を絞った。
 
 どうか春には、この島がいいと叫んだなぎささんの横に、僕がいますように。




「ね。だからロックオンしたってのは本当なんだ」

 太玖海は柑橘の香りがする少年の首筋に、長い長い語りを終えて深い溜息をついた。
 目の前の肌に熱が帯びるのが分かる。
 今まで触れずにいた自分を心で誉めながら、来寮者受け入れの門限が狭っていることを知って太玖海はそっと唇を近付け、その首筋に触れた。

 この時の二人の体の中にある海は、ちっとも凪いでなんか、なかった。
 
 砂浜の砂の色は多様だ。素足についた砂は一粒一粒、色が違う。
 そのことを思い出しながら渚は目を閉じて、眉間の奥にそっと一年前の映像を浮かべた。

 15歳の誕生日の昼下がり。
 何度か海に潜った後、初夏の陽射しで熱くなったコンクリートの上に座って眺めた自分の素足。
 決定的に己のSOGIを思い知って、未来を少し憂いながら海を見た。それから顔を下げて素足にまばらについた砂を見た。
 白色。黒色。チャコールグレー。赤色。ベージュ。それと。これアイボリー?
 いろんな色があって美しいんだから、みんなが違ってていいはずだよな。
 気持ちがくるりと切り替わる。
 渚は砂の存在に、こんなに勇気づけられたことはかつてなかった。


 鳥羽が渚の首筋からそっと顔を上げた。
 渚がゆるゆる目を開けると、鳥羽が難しい顔をしていたので「え」と固まってしまう。

「俺は甘い顔になってんのに…その顔は何」

 これ、司の檸檬顔に準ずる、甘夏顔?

「甘夏の匂い…本当は苦手だった?」
 鳥羽がまだ至近距離から動かないので渚が囁くように尋ねると、鳥羽は子どもっぽい表情になった。
「違う。この香りも須賀のことも甘夏味の須賀も好き。話がたくさんあるのに時間切れになったことが残念すぎた。もうすぐ七時になるから寮母さんに挨拶しなきゃ」
 そう早口で言った鳥羽の頭を「甘夏味って言うな」と盛大に照れながら条件反射的に右手ではたき、同時に渚は驚いていた。
「…長い話を今聴かせてくれたじゃん」

 胸が震えて、切なく、甘くなる話を。

「まだ。これは序盤」
「え?」
 鳥羽が立ち上がって渚の腕を掴み、そっと立ち上がるのを支えてくれる。
 ヤバい。
 一時間近く同じ体勢で座っていたから身体がおかしなことになってる。
 身動き取れないくらい、陶酔していたのですが。
 
「家まで送りたいところだけど寮食の時間が始まるんだ。だから玄関まで」
 渚がリュックを背負って松の部屋を出ていきかけると鳥羽が横に並んだ。
 五樹寮の3階ぶんの階段を降りながら、周りに他の寮生がいなかったので渚は鳥羽の耳元に顔を寄せて小声で言った。

「さっきされたこと、あれ限界」

 言葉をまとめる時間がなくて極端な物言いになってしまったことに、渚自身も少し混乱する。
 限界集落と言われることに反発する祖父のおかげで限界という言葉が我が家でタブーだったことを咄嗟に思い出して、渚は頭をフル回転させた。隣を歩く鳥羽が激しく傷付いた顔をしていたのでさらに焦った。

「ちょお持って待って、訂正!えぇっと。さっきので充分あと三年は生きていけるから。卒業するまでこれ以上はしないで。ごめん!」

 渚は自分の本心をやっと適切に表現できた。
 だって三年間、同じクラスだ。
 今朝まで会話も出来なかった。視線を感じるだけで、息苦しいほどに煩悶していた。
 今日一日で、奇跡みたいに心も体も痺れる言葉を手渡してもらった。
 ゆっくりいかないと。

 少し間を置いてから鳥羽が「えぇ~ッ!?」と叫んだので渚は慌てて立ち止まり、鳥羽の口元を右手で押さえて再度小声で言った。
 「また明日。俺たちはお互い伝えないといけないことがたくさんありすぎ。だよな?」
 鳥羽が大きく頷いたので、渚は手を降ろす。
 二人で玄関まで辿り着いた時、寮内に柔らかく音楽が流れ出した。
 渚は聴いたことがない曲だったけれど、なんだか胸が締め付けられる。
「この曲、何て曲か鳥羽は知ってる?」
 尋ねながら渚は来客用のスリッパを脱ぎ、スニーカーを履いて天井を見上げた。

「シルクロード」

 鳥羽はすぐに教えてくれた。
「寮母さんに初日に教えてもらった。家に帰らなきゃって気持ちになるような曲だよね」
 鳥羽も渚の視線を追って、上を見ながら言う。
 渚はリュックをそっと揺らして、小さな声で呟いた。
「うん。帰らなきゃ…」
 シルクロード砂漠ってタクラマカン砂漠だったっけ。
 渚の左頬に一筋涙が流れた。渚を見下ろした鳥羽が「え?」とまた絶句する。
 お互い何回驚いたら気が済むんだ俺たちは。
 そう思ったら可笑しくて、渚は涙を拭って笑った。
 自分を鼓舞してくれた砂のことに想いを寄せたあと、とどめの『シルクロード』。
 

 なんだか今日の怒涛の一日を締めくくる、俺だけのドラマのエンディングみたいだ。

 
 
 朝一番の教室で司がリュックから米袋を出し、渚の机にドシンと音を立てて置いた。
 黄色い果実が溢れている。渚の母が求めたものだ。
「ばぁちゃんの檸檬持ってきた。エミリーによろしくな」


 自分の母親はどうも変わり者らしいと渚が気付いたのは中学生になってから。
 世の中の母親のほとんどは出勤する前に我が子をハグして「愛してる」とは言わないのだということ。
 子どもの友だちに自分のことを「名前で呼んで」だなんてことも言わないってこと。
 
 渚が年長の時に父が亡くなった。
 職場で倒れてそのまま当日に逝ってしまったから、残された家族の日常の景色も心模様も急激に変化した。
 母が姉と渚を連れて島の家に戻ってきて数日経ち、渚たちが島の新しい友だちを作って家に連れてきた日に「絵美里さんって呼んで」と言う一連のやりとりが始まったのを今でも覚えている。


 「愛してる」
 母は今でも渚が早く登校する日は玄関先で、その日以外は自分が出勤する前に必ず渚を後ろから抱きしめて、言う。
 父に言い足りなかった分を言葉にしたいのかもしれないと、渚は最近そう思う。
 言葉を手渡したい相手がいて、手渡せる時間がこれからも確かにあるということは、すごくいい。
 波打ち際で風を浴びている時の幸せに重なる。
 
 
 昼休みの弁当を食べている最中に、司が鳥羽を引っ張るようにして渚たちが座っていた場所に連れてきた。
 窓から海が見える定位置。
 鳥羽の中学生時代のことも高校に入学した動機も渚が寮を訪問したことも、全て司には説明してある。
 甘夏味のくだりはもちろん省いてるけど。

「人とやりとりするのに疲れてもたん?」
 司はちりめんじゃこに覆われたごはんを頬張ってから鳥羽に尋ねた。
 鳥羽は寮生弁当を食べている箸を止めて「うんそうだと思う」と誠実に答える。
「当時は良くわからなかったんだ。体と心が動いてくれないのが。今になって思うのはきっちりしないと気が済まない性分だったのが自分を追い込んだのかもってこと」
「どういうことなん?」
 司が鳥羽を理解しようと真剣に思っているのが、その前かがみの姿勢から感じ取れる。
 良くも悪くも、昔から司は、心がダイレクトに表情と態度に反映される。
「人から言われたことは隅々まで理解したほうがいいとか、ノートは丁寧な字で書いたほうが心地よいとか。そんな風に最大限に力を注いで対処しているうちに周りの大人が言っている言葉が理解できなくなって怖くなったのかも。なんだか不安だった気持ちはしっかり覚えてる」
 鳥羽が司と渚を交互に見て、それから目を伏せて唐揚げを一つ口に入れた。
「言葉が分からなくなるってどんな感じなんじゃぁ」
 司が断りもなく鳥羽の弁当箱から唐揚げを一つ奪う。これは司が相手に愛を伝えたい時にするやり方だ。
 仲間だと思ってるよのサイン。図々しい。そして司らしい。
 顔を上げた鳥羽が真面目な顔で言う。
「えっと。例えば…社会学的分析における機能とは、行為者が主観的に考えている意図や見込みと別に行為によって客観的にもたらされた結果やはたらきのこと、っていうって話されたとして。これ頭に残る?」
「・・・・・・」
 渚が司の方を見ると、そこに司の檸檬顔があった。
「何かを言われたなということだけは分かっても自分を素通りしちゃって心には何も響いてこない」
 司はいつもの顔に戻り、自分の弁当箱からだし巻き卵を手で一つ掴んで鳥羽の口にぐいぐい押し込んだ。
「あんまり難しく考えんなよ〜」
 司が言った言葉に渚も激しく同意した。


 この日から司も鳥羽に絡んでいくようになり、渚たちは三人で過ごすことも増えた。
 鳥羽は相変わらず渚を視線で追って見つめているから、時々司から「見飽(みあ)きんの?」とこっそりからかわれている。
 司は思ったことを真っ直ぐに言うので鳥羽は面食らうこともあるようだ。
 それでも今は、逆に司との言葉の応酬を楽しんでいるようにも見える。
 鳥羽の強みは、賢さでもって悩みも憂いも明るい笑いに変えていけるところかもしれない。
「828㌔の距離を追いかけてきてさぁ、毎日見つめンのはフツウじゃぁねぇんじゃないかぁ?」
 司は遠慮なく鳥羽の執着気質に突っ込みを入れるが、平然とかわしている。
「執着なのかと悩んだりもしたんだけど、社会学の父とも言われているWeberによると目的合理的行為にこれがあたるらしいと知って安心した」
 鳥羽の言葉が終わるやいなや司が「いや執着やろ!」と突っ込んだ。



 渚はあの日から時々、夜中に目が覚めてしまう。
 触れられた感覚が蘇り、「うわぁ」と一人で声に出してベッドから出る。
 電子ピアノの後ろのカーテンを開けて海を見ると、半月が中空に明るく浮かんでいる。
 まだ夜中の2時だ。

 こんなことが数回あったので渚はあの時にリミットをかけておいて良かったと心底思った。
 あの日の自分に「ありがとう」と言って抱きつきたいくらいだ。
 鳥羽に何も言ってなかったら、今頃は毎日のように寝不足になっていたんじゃないか。


 あのリミットの範囲内。
 すれ違う時。朝一番や帰り際に。
 0.1秒だけ触れてくる。
 小指だけとか。首のうしろとか。

 今はそれだけでじゅうぶんすぎる。