渚が今朝、朝日が登る頃に自宅の庭から見た海は凪いでいた。
 渚は誰よりも早く高校に登校する。
 音楽室のピアノを誰にも聴かれずに弾きたいから。


 祖父と同居している島の家にはピアノはない。電子ピアノが家にあるだけ今はマシかもしれない。以前は家になかった。
 渚が唯一習っている楽器が家にないのは可哀想だと祖父が言って、ようやく三年前に電子ピアノが渚の部屋に届いた。
 渚は自分の部屋の窓を開けて、海を額に感じながら電子ピアノを弾く。この時間で心を整える。
 ピアノの音がうるさいだなんて、この島で言う人は今のところいない。
 限界集落と呼ばれる島にも、良いところはたくさんある。



 渚は登校途中に都会組が集団生活をする五樹寮の前を通るが、いつも歩きながら四階建ての建物を見上げてしまう。
 今日も左側に広がる海の音を心地よく感じながら、右上の寮を見上げた。
 この五樹寮で暮らす男子と女子のほとんどと仲良くなってるんだけどな。一人を除いて。 
 俺はアイツといつ話するんだろう。意識しすぎだっつの。

 渚が一人で胸の中で自分に突っ込んだタイミングで、3階の一つの窓が開かれた。
 その途端、「わ」と自然と声が出た。
 鳥羽が顔を出したからだ。
 目がまた、合った。いつもは教室とかグラウンドとかなので、二人が視線を交わす時は周りに他の生徒が必ずいるけど今朝は違う。
 渚は歩きながら鳥羽に手を振っていた。無意識に咄嗟の判断で。

「おはよう」
「おはよう」

 あ、声が重なったじゃん。

 結構クールだと思っていた鳥羽が、その瞬間に目を細めて大きく笑ったからまたまたびっくりした。
 渚は朝の冷たい空気を纏ったまま立ち止まってしまった。

「やっと声掛けてくれた」
 鳥羽が可笑しそうに口元に手を当てて笑っている。
 綺麗な手だな、と渚は思う。
「え?それこっちのセリフ…」
 胸が熱くなるのを、目元が朱く染まるのを、気取られないように渚は畳み掛けるように言葉を放つしかない。
「やっとって、なんだよ!」
 そう言った自分が笑顔になっているのに気付いて渚はなんだか愉快になってしまう。
「うん。やっと話せたってのもある」
 そう鳥羽が返してきたので渚は拍子抜けした。
 なんだ、声掛けるのってこんなに簡単なことだったんだ。
 いや、あんなに鳥羽が執拗に見つめてくるから意識しちゃってたんだろ。
 この視線に関しては、どう扱えば?

「話をしたかったけど勇気が出なかったんだよ」
 鳥羽は窓辺で小さな声で言った。
 朝のこの時間帯は他の寮生も部屋にいるはずだから、会話は全方位に聞こえているはずだ。渚はそれに気付いて急に恥ずかしくなり、慌てて人差し指を立てて自分の口元に持っていく。
 あれ、俺、昨日もこの仕草をしたな。

「学校でまた話すから」
 渚が静かにそう言うと鳥羽が頷いた。
 もう一度手を振って渚は鳥羽から視線を外し、急いで五樹寮の前を通り過ぎて高校に向かう。
 背中に鳥羽の視線を感じる。
 鳥羽が渚に好感を持ってくれているのは分かったけれど、この視線が渚の片想い的な何かがこじれて妄想のように渚自身が作り上げているものだったら怖すぎる。
 アオハルって、こんなに暴走すんの?
 渚は鳥羽が自分を見ていることが妄想ではなくて事実だと確認しないといけない、と歩きながら思う。
 性指向がマイノリティの渚は、幼馴染の司にも恋愛話や自分の懊悩を打ち解けることができずにいた。
 だから、結局、こういう場合は相手にぶつかっていくしかない。
 渚は波のたてる柔らかい音に意識して耳を傾け、海の音に合わせて呼吸を深めて自分を鼓舞した。


 
 渚が音楽室のグラウンドピアノで弾いているのは、ドビュッシーの『アラベスク第1番』。
 六月になったばかりの青葉が瑞々しい季節に優しい音色が溶け込んでいく。
 まだまだ指が引っかかるけれど、日々少しずつ滑らかになるメロディを聴くとそれだけで自分が癒やされる。春から練習しているこの曲を渚はまだ冒頭部分しか弾けない。サブドミナントの分散和音から始まるこの曲は、甘い音色だ。
 今朝の渚の心情に重なる。
 言葉を交わせただけで気持ちが高揚するなんて。甘すぎないか、俺。
 この曲の楽譜の最初に書かれてあるイタリア語は “Andantino Con moto”。つまり、“動きをもって” 始めろと指定されている。

「俺。動いていこう…」
 渚が音楽室のピアノに向かって一人言を呟いた時、背中側の扉から声が放たれた。
「自分へのエールいいね」
 鳥羽の声だと気付いて渚は「わ〜っ!」と叫びながら鍵盤を両手で叩きこみ、音楽室を不協和音で満たしてしまった。

「馬鹿野郎!忍びよるなっての!」

 渚は早まった鼓動で全身に送られた血液の熱を目元で感じながら鳥羽に身体を向けた。
 今日はサプライズが多すぎる。
 鳥羽が「ごめん」と心底困った顔をして胸の前で両手を合わせている。
 渚も思わず両手を胸に当てて振り向いたから互いに同じような体勢になっていた。それが滑稽で、結局どちらからともなく笑いだしてしまった。


「ねぇ。須賀だけ言葉が島の言葉じゃないのはどうして?」
 そろそろ他の生徒も登校してくる時間になり、ざわめきが聞こえてくるのを潮騒のように感じながら渚は鳥羽の問いかけに端的に応えた。
「生まれが千葉。6歳で島に来たから」
 渚がそう言うと鳥羽が目を大きくして叫んだ。
「え?ほんと?俺と同じ!」
 鳥羽がまた嬉しそうに歯を見せて無邪気に笑ったから、この顔もいいなと見惚れて渚はまたまた鼓動が早まってしまった。
「鳥羽も千葉県出身だったんだ」
「そう。須賀はチーバ君のどこ出身?」
 早口で鳥羽にそう尋ねられて渚は懐かしさに悶えてしまう。
「チーバ君…懐かしすぎ」
 渚は千葉県の形を模したキャラクターを脳裏に描いてひとしきり涙が少し滲むまで笑ってから尋ねられたことに正しく答えた。
「俺が生まれたのはチーバ君の上顎あたり」
 このやり取りをこの高校でできるのは俺たちだけだな。
 そう感じて幸せになったことで渚は相手への感情がまさしくガチな恋心だと気付かされて動揺もした。
「市川か!自転車ですぐ東京に行けるね」
 鳥羽がそう言って嬉しそうな顔をして右手を渚の左肩に置いたので渚は叫びそうになる。
「俺はチーバ君の胸元あたり。海のそばだ」
 鳥羽が目を細めて優しく言った。
「市原…かな」
「うん、そう。俺も海は身近にあったよ」

 朝の予鈴のチャイムが鳴る。SHRが始まる。
 鳥羽も渚と同じように、海を見て成長したのかと思うと温かい気持ちになった。
 朝いちばんに聴いた「勇気が出なかった」という鳥羽の意味深な言葉の意味は、また改めて尋ねよう。
 そう思ったら少し安心して、二人で慌てて同じ教室に向かいながら笑えてきた。
 朝から連続して揺さぶられた感情の揺り戻しだ。教室について自分の席に座ってからもずっと渚は右手を口に当てて笑い続けた。

 離れた右斜め後ろの席で鳥羽も笑い続けているのを、空気の揺れで感じながら。