瀬戸内海の季節は穏やかに巡る。
 海のそばで生きていると、潮が満ちたり引いたりするように人間もゆっくり変化していくのが自然の一部だと思える。
 
 渚は『アラベスク第1番』を弾けるようになり、鳥羽は100㍍走の自己ベストを更新した。
 鳥羽が「やっと伝えたい話が中盤を迎えた」と言ったのは一年生の冬休み。
 渚が「15歳になった日に見掛けた鳥羽を大学生だと思い込んでた」と話したのは渚が17歳を迎えた日の昼休み。
 司が「くみちゃんと付き合うことになりましたッ!!」と二人の前で絶叫したのが、三年生になったばかりの放課後。


 渚は卒業後の進路として12年ぶりに関東に戻って大学進学することを決め、無事合格した。
 父方の伯父二人もいろいろと世話をしたいと言ってくれたけど、千葉県市川市で一人で生活している父方祖母宅で生活させてもらうことにした。
 大学では地域デザイン科学部で地域再生について学んでいく予定だ。
 限界集落と呼ばれる島を活性化させて島の仲間たちと楽しいことがやりたい。島に戻るか戻らないか未来のことは分からない。令和の時代、離れていてもできることはある。
 
 大学は実家に戻る鳥羽と同じ。
 一緒のところに進学すると決意して大学を絞り込んだのは渚だった。
 渚がそのことを考え始めたのは二年生の春だ。
 鳥羽が「ようやく終盤」と言った日。
 父との自転車旅の帰りに兵庫の赤穂温泉に寄って神社で義士みくじを引いたら自分は“片岡源右衛門”と出てきた。何も知らなかった赤穂浪士の話を読んでみると彼が浅野長矩公と同年齢で幼い頃から長矩の側に居たとか長矩が切腹する日に目を合わせたけど言葉を交わせなかったとか分かって自分を源右衛門に重ねてしまってもうたまんなくて涙出ちゃって。
 鳥羽が息継ぎを忘れたように喋り続けるから、校舎横の桜の下で一瞬鳥羽が壊れてしまったのかと渚は心配した。鳥羽の背中を慌ててさすってしまったりしたくらい。
 「松の部屋ってだけで渚が浅野内匠頭に話を繋げたから目の前にいるのは誰なの?浅野長矩なの?運命の相手なの?って目眩しそうだった」
「・・・こっちが目眩しそうじゃん」
 その瞬間に相手と長い付き合いにはなりそうだと確信した。今度は渚がロックオンする番だった。
 確かに悩みもマリアナ海溝並みに深くなるけど、愛だってそれくらい深くなるんだと知った。

 三年も同じクラスで過ごしている中でお互いが交換したデータ。
 渚はメンタルが落ちると部屋が散らかる。
 いつもより海を眺める時間が増える。
 体重が落ちる。

 鳥羽の場合は一部が真逆。
 分厚い本を読み始める。
 部屋が綺麗になる。
 部屋にこもりがちになる。


 
 快晴。
 早咲きの桜が校庭に一本。かなり満開。
 朝の教室に到着した渚は、司がまだ来ていないのを見て鳥羽を手招きした。
 窓側の空いている席で鳥羽だけに聞こえる声で、それでもきっぱりと言う。
「おばあちゃんちで自炊がんばってみようと思って。四年後にお互い社会人になれそうだったら一緒に住もう。どんな仕事するのか想像全くできてないけど」
 鳥羽の目が大きく見開かれた。
 渚の予想どおりの顔。
「その時、鳥羽の親から反対されたら…」
 渚がそこまで言った時、鳥羽が右手で渚の左腕を掴む。渚は笑って言葉を続けた。
「また、相談電話をしてみてくれる?」
 鳥羽が言葉を失ったような顔をして、渚の両腕を両手で強く掴んできた。
 11秒後に大げさに手を広げて体を離した鳥羽の前で、渚はいつまでも喉の奥で笑ってしまった。
 今日ばかりは教室で涙目になられても、誰も不思議に思わない。

 卒業式だから。


 交換した他のデータ。
 渚は気持ちが高揚すると…。
 小沢健二の『愛し愛されて生きるのさ』を歌う。
 浜辺を裸足で歩きたがる。
 姉のようなマシンガントークをする。

 鳥羽は涙目になる。
 グラウンドを走りたがる。
 息継ぎをせずに愛を語る。



 校庭の裏山には卒業式につきものの桜は無く、柑橘系のオレンジ色が溢れている。
 講堂に向かっている時、渚はぐるりと周囲を見渡して渡り廊下から見える風景を心に刻み込んだ。
 左横を歩く司に「すぐ戻る」と断ってから右横の鳥羽の制服を掴み、上靴のままグラウンドの隅まで連行して集団から10㍍離れた。

「鳥羽」
 渚は自分の背中を集団に向け、目の前に鳥羽を立たせた。
 今から言う言葉は鳥羽以外、誰にも聞かせない。

「愛してる」

 この言葉を自然に口に出せた。
 毎日のように家族から言われている言葉は、いつの間にか渚の血肉になっていた。
 取ってつけたようなセリフの言葉みたいな響きなんかじゃない。日常の延長で使う等身大の言葉の響き。
 
 渡り廊下で山のオレンジと海の青を見て、この言葉を伝える時が満ちたのが分かった。

「取り急ぎ!」

 そう素早く言って、渚は瞬時に駆け出す。講堂の入り口に消えていく同級生たちを追いかけて全速力で走った。

 背中に感じる視線は気のせいなんかじゃない。
 愛が充ちた視線は特別なフォネティックコードに変換され、心に直接響く音声エネルギーを生み出しているんだ。たぶん。
 24歳だったあの日の父さんだって、無意識に背中で感じていたかもしれない。


 理屈抜きで魂に刻み込まれる愛を。
 愛してるって言葉を。
 今、この瞬間の自分みたいに。