♦︎最上家について
すみません、取り乱してしまいましたね。遊亜についてお話するので、少し聞いてもらえますか。
私と遊亜は、十八年前に長崎の病院で産まれました。それから福岡、山形、高知、大阪、長野を経て、今は東京に住んでいます。お父さんがいわゆる転勤族だったので、引っ越しも転校も私たちにとっては珍しくありませんでした。
でも中学校への入学が近くなった頃、お母さんと愛優と遊亜は東京に住んでいいよ、とお父さんが言いました。お父さんはどうするの? と訊くと、単身赴任するというのです。家族揃って引っ越しするのが当たり前だった私にとってはかなりの衝撃で、驚いてお母さんの顔を見ました。少し寂しそうに、でも私と遊亜を不安にさせないように「お父さんとは離れて暮らすけど、お母さんとはこれからも一緒だから」と笑いました。きっと私たちが中学生になって、受験なども視野に入れ始める年齢になるので、両親で話し合ったのでしょう。そして子どもたちのためには腰を落ち着けた方がいいから、とお父さんだけが離れる選択をしたのです。
私は「そんなのやだよ」と言いました。その声が綺麗に重なったので隣を見ると、遊亜も私を見て目を丸くしていました。
真似しないでよ愛優ちゃん、と頰を膨らませる遊亜に、私は「またハモっちゃったね」と笑いかけます。それからお父さんとお母さんに、私たちの意見を伝えました。
お父さんの転勤に着いていこうよ。私と遊亜は転校なんて慣れっこだし、どうせいつかは私たち家を出ていくんだよ? それまで一緒にいればいいじゃん、と。
遊亜は首が取れてしまうのではないかと思うくらい何度も頷いていました。
私たち友達作るの得意だし、そもそも愛優ちゃんがいるから友達できなくても困らないし。という遊亜の言葉に、お父さんとお母さんは顔を見合わせて笑いました。
そうして私たち最上家は家族四人揃っての生活を選びました。しばらくは相変わらずの転勤族でしたが、そのうちにお父さんの出世が決まりました。これからは東京本社勤務、転勤もおそらくないだろうと分かったところで、私たちは東京に腰を落ち着けたのです。
東京の高校には、一年の途中から、通い始めました。転入生という扱いになりますが、さほど苦ではありませんでした。遊亜も同じ高校に入ったため、双子の転入生だと話題になり、周りから声をかけてもらえたのです。私と遊亜は高校ではそれぞれ別のグループで過ごしていましたが、仲が悪かったわけではありません。むしろ友達に、休みの日とかいつも一緒に出掛けてるよね、と感心されるほどでした。
そう、あの事件が起きるまでは。
♦︎最上遊亜、失踪
遊亜がいなくなったのは、高校一年がもうすぐ終わる、二月のことでした。
いつも通り別々に友達と帰宅して、一緒にテレビを見て、一緒にご飯を食べて。なかなか決着のつかないじゃんけんの末、先に遊亜がお風呂に入る。そこまでは日常の範疇でした。それなのに、遊亜がいつまで経ってもお風呂から出てこないのです。
元々遊亜は長風呂が好きなので、私も最初は全く気にしていませんでした。でも一時間経っても遊亜が出てくる気配はありません。少し気になった私は、ノックしてから脱衣所に入りました。遊亜はまだお風呂を楽しんでいるようで、脱衣所では遊亜のお気に入りのアイドルの曲が流れていました。スマートフォンをお風呂に持ち込まないのは、以前同じことをして水没させてしまった際に、しばらく買ってもらえなかったからでしょう。それから遊亜はお風呂に入るとき、脱衣所で音楽を流すようになりました。少し寒いけど扉に隙間作っておけばしっかり聴こえるんだよ、と得意気に遊亜が笑っていたのを、私は思い出しました。雑に脱ぎ捨てられた服を仕分けして洗濯機に入れ、私は小言をこぼしました。
「遊亜が適当に服を放っておくから、毎回私が片付けてるんだからね!」
隙間が空いているのだから聞こえているはずなのに、遊亜の返事はありません。
「こーら、聞いてる?」
私はお風呂のドアの向こうに呼びかけながら、違和感を覚えました。何故か、扉の向こう側が寒いのです。明かりのついたお風呂場から、寒い空気が脱衣所に流れ込んできている。そのことに気づき、私は「遊亜? 音楽切るよ?」と返事も待たずに遊亜のスマートフォンから流れる音楽を止めました。
しんーーーー。
脱衣所とお風呂場から、音が消えました。私の頭に一番に過ぎったのは、遊亜がのぼせて倒れてしまった可能性です。
「遊亜? 大丈夫? ごめん、開けていい?」
いくら姉妹、双子とはいえ、お風呂は互いに侵入禁止のスペースです。鏡に向かって笑顔の練習をしているかもしれません。よく幼い頃から、遊亜は鏡の前で笑顔の練習をしていましたから。そうでなくても無駄毛を丁寧に処理しているかもしれない。もっと言えないようなことをしている可能性だってあります。私たちも人間なのですから、見られたくないシーンというのは互いにあるのです。だから私は二回念押しをして、それでも返事がなかったのを確かめてから扉を開けました。
すう、と冷たい空気が私の身体を冷やしました。一番風呂の最中とは思えない肌寒さに、身震いと同時に私はゾッとしました。
確かに服を脱いだ形跡はあるのに、お風呂には遊亜の姿がなかったのです。慌ててお風呂の蓋を開けましたが、溺れているわけではありませんでした。
「遊亜? どこ行ったの?」
もしかしたらお手洗いかもしれない、と私は探しにいきました。お風呂に入る直前にお腹が痛くなってしまったのかも。
依存症ともいえるほどスマートフォンを常に持ち歩いている遊亜が、トイレにスマホを持っていかないなんてありえないのですが、そのときは縋るような気持ちだったのです。トイレも、遊亜の部屋も、私の部屋も、両親の部屋やリビング、キッチン。どこにも遊亜はいませんでした。
取り乱しながらもお母さんに報告して、お父さんが近所を見てくると言って外に飛び出しました。お母さんはすごく不安そうな顔をしていたのに、泣きそうな私を見て、声をかけてくれました。
「大丈夫。遊亜ちゃんは気まぐれさんだから。服を脱いでから、漫画の新刊買ってない! って思い出したのかもよ。適当な服を羽織って出て行って、お財布忘れて帰れなくなってるのかも」
お母さんの語る遊亜の行動は、確かにありえなくないものでした。自由奔放な遊亜は、周りが思い付かないようなことを平気でやってのけるのです。私はそういう遊亜の行動的なところが好きでした。憧れてすらいました。私は両親に怒られるのが嫌で、顔色を窺う癖があったのです。
「…………ねえ、お母さん」
「どうしたの。そんな泣きそうな顔して。大丈夫よ、遊亜ちゃんはああ見えて結構図太いんだから」
それは知ってる、と心の中で答えるほど、私に余裕はありませんでした。お母さんも私を宥めてはいるけれど、不安を隠しきれていなかったし、何より私には気になることがあったのです。
「今日ってお風呂掃除、した?」
「えっ? したわよ、お母さんが綺麗好きなの知ってるでしょ。排水溝もボトルの下も、壁に床に鏡まで毎日綺麗にしてるんだから」
「…………そう、だよね……」
じゃあ、『あれ』は一体なんだったのでしょう。
水滴一つない浴室。そして、お風呂場の鏡に不自然に残った一つの手型。
私の胸の奥に気味の悪さを残して、遊亜はいなくなったのですーーー。
♦︎遊亜はどこへ?
翌日、遊亜のことが心配で、私とお父さんは学校や会社を休もうとしました。結局お母さんに説得され、私は学校へ、お父さんは仕事に行きました。お母さんは交番に相談に行ったようです。
失踪として受理することはできるが、もしも気まぐれな家出だった場合、娘さんが家に帰りにくくなるかもしれない。
お巡りさんにそう言われて、お母さんはあと一晩だけ待ってみようと決めたそうです。
私は学校が終わるとすぐに帰宅しました。遊亜の行方を知らないか、友人たちに訊いて回りましたが誰も情報を持っていなかったのです。遊亜ちゃん家出でもしたの? と訊かれましたが、そのときの私には余裕がありませんでした。ごめん、後で説明する、とだけ言い残して走って家に帰ったのです。
でも私の期待も虚しく、家には不安そうな顔のお母さんがいるだけで、遊亜の姿はありませんでした。遊亜にそっくりな私を見て、お母さんは遊亜が帰ってきたと錯覚したのでしょう。一瞬固まって、数秒してから「おかえり愛優ちゃん」と笑顔を作ってくれました。
私に家で待っているように強く言い聞かせ、お母さんは遊亜を探しに行きました。待っている間、私は遊亜のスマートフォンをぎゅっと握りしめながら、祈るような気持ちでいたのを覚えています。
遊亜はどこに行ってしまったのだろう。服を脱いで、お風呂場の電気をつけて、中に足を踏み入れた形跡はある。鏡に残った手型はきっと遊亜のものなのです。それなのにシャワーを使うことなく、そのまま引き返したのでしょうか? 服を着ないまま出ていくことなんてありえますか。
お母さんが言ったように、脱衣所にあった服を適当に着て出ていくことはあるかもしれません。でも、下着は? 用意した替えのものか、元々身につけていたものを手に取るのではないでしょうか。いくら洗ってある家族のものでも、他の人の下着を身につけるのは抵抗があると思うのです。
私はずっと考えないようにしていた嫌な可能性に目を向けました。不審者がお風呂場に侵入し、裸の遊亜を連れ去った、というものです。
嫌だ、と心が叫びました。でもそうだとしたら説明がついてしまうのです。シャワーを浴びる前に遊亜がいなくなったことも、残された服と下着も、スマホ依存症気味の遊亜がスマートフォンを持っていかなかったことも、靴がなくなっていないことも、全部全部。
「やだ……嫌!! やめて!!!!」
私は誰もいないリビングで思わず大きな声をあげていました。顔の見えない男が遊亜の身体に無遠慮に触れようとしているところを、想像してしまったのです。
神様、お願いします。遊亜を守って。
溢れた大粒の涙が頰を伝いテーブルクロスを濡らしました。きれいだったスカイブルーのクロスが暗い青に染まっていくのは、まるで私の心を表しているようで、どうしようもない気持ちになり嗚咽をこぼしたそのときでした。
ざああああーーーー。
突然遠くから聞こえてきた水音に、私は涙でぐちゃぐちゃの顔を上げました。雨? いいえ、違います。もっと水の音が強くて、まるでシャワーを流し始めたようなーーー。
そこまで考えて、私は慌てて立ち上がりました。泣いていたせいか頭がふわふわしていて、よろけて廊下で転んでしまいましたが、痛みも無視して浴室へ向かいました。
消えていたはずの脱衣所の電気がついていて、私はおそるおそる声をかけました。
「…………遊亜? もしかして、遊亜? 帰ってきたの?」
「なーに、愛優ちゃん。入ったばかりだから私まだ出ないよ」
扉越しに聞こえてきたのは遊亜の声でした。まるで昨日いなくなってしまったことなんて、なかったかのように。遊亜は昨日のお風呂の続きを再開していたのです。考えのまとまらない頭で、それでも遊亜が帰ってきた事実をこの目でどうにか確認したくて、私は震える声で問いかけました。
「開けていい……?」
遊亜の返事はなくて、代わりにシャワーの音が止みました。そしてカチャ、と軽い音と共に扉が開いて。顔を出したのはーーー。
「なーに、愛優ちゃん。なんで泣いてるの?」
「……………………遊亜?」
「うん、遊亜だよ?」
いなくなったときのままの姿で、妹がどうしたの? と私を見て微笑みました。目尻を少し下げ、口角を上げたきれいな笑顔。
その笑顔を私は知っていました。
愛嬌がありすぎて、いつも笑うと目を細めてしまう遊亜。歯を見せて楽しそうに笑う妹。本人はその笑い方があまり好きではなかったようで、もっと愛優ちゃんみたいにやわらかい感じで笑いたいんだよね、とよく言っていました。目を細めて楽しそうに笑う遊亜が好きでしたが、鏡の前で笑顔の練習をする妹のことを、同時に応援もしていました。ありのままの自分も、なりたい自分も、どちらも尊重すべきだと思ったからです。
どうしてそんなことを遊亜がいなくなって、帰ってきたこの瞬間に思い出したのか。当時は分かりませんでした。でも今ならはっきりと分かります。
帰ってきた遊亜が浮かべていたのは、私がいつも見ていた笑顔ではなく。鏡に向けて練習をしているときの表情そのものだったのですから。
♦︎抜け落ちた記憶
私は言いようのない気味の悪さを覚えながらも、とにかく涙を拭いました。自分が姉であることを思い出し、やるべきことをすぐに頭の中で並べ替えました。
ポケットに入れっぱなしになっていたスマートフォンで両親にメッセージを送ります。遊亜が家に帰ってきた、と。この文章で果たして合っているのか分かりませんが、伝われば何でもいいと思い送信しました。遊亜が寒いと訴えるのでシャワーの続きを浴びさせます。また目を離した隙に消えられては困るので、可哀想ですが扉は半分開けておいてもらいました。私は遊亜を見守りながら、メッセージに気づかない可能性を考え、母と父にそれぞれ電話をしました。
母が帰ってくる頃には、遊亜はいつもよりかなり短いお風呂を済ませていました。まだお風呂に入るような時間ではなかったので、お湯をためていなくて、お湯に浸かれなかったのです。遊亜は少し不満気でしたが、温かいココアをいれてあげればすぐに機嫌を取り戻しました。
帰ってきて遊亜の無事な姿を見た母は、泣きながら抱きしめた後、遊亜から詳しく事情を聞こうとしました。でも無駄でした。遊亜は自分がいなくなっていた間のことを、何も覚えていないというのです。それどころか、「えっ私いなくなってないよ? 普通にお風呂入ろうとしてただけだよね? それっていつの話?」と言い出す始末です。
その後父も仕事を早めに切り上げて帰ってきました。遊亜を見て安堵のため息をこぼした父は、心配していたことを遊亜に伝えました。お説教もするつもりでいたようです。でもやはり遊亜が何も覚えていなかったので……いなくなっていた自覚すらないのですから、怒りようがありません。
私たち家族は確かに体験したのです。一日だけですが、遊亜が忽然と消えてしまう、恐ろしい事件を。
家族全員で狐に化かされてしまったのでしょうか。それともおとぎ話の中に迷い込んでしまったーーー?
そんなはずはない、と言い切れないのが、また恐ろしいのです。だって唯一何が起きたのか知っているはずの妹は、本当に何も知らない、何も覚えてないの、と泣きじゃくっていて。嘘をついているようには見えませんでした。
それからしばらくして、最上家は近くのマンションに引っ越しました。転校しなくていい範囲でわざわざ引っ越しをするのは初めてでしたが、お父さんの気持ちも分かるので私は何も言いませんでした。
遊亜が一度いなくなってから、お母さんがひどくナーバスになってしまっていたのです。また遊亜ちゃんがいなくなってしまうかも。今度は愛優ちゃんがどこかにいってしまうかも、と。日に何度も私たちの姿を確認しにきました。
お父さんはきっとお母さんにこう言ったのです。
『あの家には何か悪いものが憑いていたに違いない。遊亜は運良く戻ってこられたけれど、次はどうなるか分からない。引っ越そう。違う家に移れば、もうこんな心配はしなくて済むよ』
どうして分かるかって? 私にこの言葉で説得してきたからです。特に断る理由もなかったですし、実際妹が一度消えた家なんて怖かったので、私も迷わず頷きました。
そうして引っ越した私たちは、少しずつ日常を取り戻し始めました。お母さんも新しい家に慣れてくると気持ちが落ち着いてきたのか、私たちの無事を確認するのは日に一度でよくなりました。同じ家に住んでいるのですからそれくらいは普通の範囲内でしょう。
遊亜の失踪事件について、家族内で話題に上がることはなくなりました。みんな忘れたいと思っているのです。悪い夢だったのだろうと思い込もうとしているのかもしれません。
でも、私はどうしてもあの日から、妹のことが遊亜本人だとは思えなくなってしまったのです。
言っても誰も相手にしてくれないような違和感です。見た目は遊亜に……私にそっくりで、どう見ても遊亜なのですから。
ーーーでも、違うんです。何かが違って……作り笑いを浮かべているからでしょうか。…………分かりません。分からないんです、ただなんていうか……本能的に、あの子じゃない、って思ってしまうんですーーー。
これって私がおかしいんだと思いますか?
♦︎似たような事件
私は遊亜のことを調べ始めました。調べると言っても双子なので、大半のことは知っています。それでも遊亜自身が隠そうとしていることなどは私も知らないので、こっそり調べさせてもらうことにしたのです。
プライバシーの侵害ですね。真似しちゃダメですよ。
遊亜が無事で、私の頭がおかしくなっていたのだと分かれば、お詫び代わりに私のプライバシーも差し出します。今はとにかく、遊亜の見た目をしたあの子が、本当に遊亜自身なのか。間違いなく私の妹で、身体的にも精神的にも問題ないのか。そのことが知りたいのです。
結論から言えば、妹について私が知らなかったことは、ほとんど大した情報じゃありませんでした。たとえばクラスメイトの男の子に告白されたけど断った、とか。私を好きだという男子に牽制していた、とか。ブスと悪口を言ってきた他のクラスの女子を半泣きにさせた、とか。まあいろいろとツッコミどころはありましたが、この際気にしないことにします。
妹自身から情報が得られなかったので、私はお母さんにも探りを入れてみました。
もしかしたら私と遊亜は双子ではなく、三つ子だったのではないか、と思いついたのです。万が一、いえ、億が一くらいの可能性かもしれませんが、ありえないとも言い切れません。何か事情があって、三人のうち一人だけ他の家庭で育てられている、そんな可能性が。
何より私が抱いている違和感を説明するとしたら、私たちは本当は三つ子だったという説が一番しっくりくる気がしたのです。
でもお母さんは私の持ちかけた問いに目を丸くし、あっさり否定しました。
「愛優ちゃんったら、漫画みたいなことを思いつくのね。でも愛優ちゃんと遊亜ちゃんは二人きりの姉妹だから安心して」
そう言って笑いながらお母さんが見せてくれたのは、妊娠中のエコー写真でした。初めて妊娠が分かったときから、検診のたびに増えていくエコー写真を、お母さんは大事に取っておいたのです。
「ほら、お母さんのお腹の中にちゃんと二人いるでしょ?」
お母さんの言う通り、写真に映っているのは二人でした。初期の頃の写真なのか、まだはっきりと人の形をしているわけではありませんでしたが、それでも説明されながら見ているとだんだんそれが人に見えてくるのだから不思議な話です。
「ちなみにお母さんは、このエコー写真で私と遊亜の区別つく?」
「分からないわよ! まだ名前をつける前だもの」
くすくすと笑いをこぼし、お母さんは肩をすくめてみせました。自分と妹のことだから見分けられるかもしれないと思いましたが、まだ顔も分からないエコーの写真では、さすがに私も見分けられませんでした。
エコー写真から私たちが産まれたとき、そして成長していく過程の写真を見せてもらいましたが、何も収穫はありません。分かったことは一つ。私と遊亜はやはり双子で、私たちの間にもう一人誰かが存在する、という事実はなかったということです。
遊亜について調べようにも、そこで調査は難航してしまいました。まさか遊亜本人に『見た目は遊亜だけど、ずっと違和感があるんだよね。中身は誰なの?』なんて、訊けるはずもないからです。
調べたいのにどうやって調べればいいか分からない。それが私のもっぱらの悩みになりました。
図書館に通い詰め、医学の本棚を読み漁ったりもしました。突然誰かを別人のように感じてしまう病なんて、聞いたことがありません。でも私の抱く違和感の正体が病気なのだとしたら、脳由来のものか、精神疾患のどちらかだろうとあたりをつけました。少しでも関連しそうな本は読んでみましたが、似たような症例は見つけられませんでした。
次に私は、遊亜が何か心の病気を患っている可能性について考えました。私のそばにいる遊亜は、妹本人だと仮定します。たとえば精神疾患を抱えた患者は、病気により性格も少なからず変わってしまうことがあるそうなのです。それなら遊亜は間違いなく本人なのに、私が遊亜を今までの遊亜とは違う、別人だと思ってしまうのも説明ができる気がしました。
でもどんなに調べても、どんなに観察しても、遊亜にそれらしき変化は見当たりませんでした。昔から何一つ変わることなく、元気で明るくて健康な遊亜なのです。
妹が健康なのは喜ぶべきことなのに、私はついに違和感を辿る糸が途切れてしまったような気がして、肩を落としました。
♦︎検索結果
この頃、私のインターネットでの検索履歴はひどいものでした。もしも誰かに見られようものなら、かなり心配されることが予想できるような内容です。余計な詮索をされたくなかった私は、スマートフォンの扱いに注意していました。
見た目、一緒、中身、別人。
見た目は変わらない、別人みたい。
見た目はそのまま、別人みたい、違和感。
突然、知らない人みたい。
お風呂場、行方不明、帰ってきた。
行方不明、帰ってきた、記憶がない。
行方不明、帰ってきた、様子がおかしい。
行方不明、どこに行っていたか分からない。
整形、全く同じ顔。
整形、時間、どのくらい。
特殊メイク、時間、どのくらい。
他人のふり、どうやって。
人の真似、どうやって。
妹、気味が悪い、突然。
並んだ検索履歴は私の葛藤の証ですが、さすがに最後の『妹、気味が悪い、突然』という履歴だけは罪悪感に耐えかねて消しました。遊亜に言い知れぬ恐怖を抱いているのは確かです。でも気味が悪いとはっきり文字にしてしまうと、本当に妹が私の知らない『なにか』になってしまったみたいで、恐ろしくなってしまったのです。
検索の結果は、オカルト、都市伝説、作り話を取り扱っているインターネットサイトが多くヒットしました。できる限り目を通して見ましたが、どれも私の求めている情報とは違いました。遊亜に似た事例がないのだとしたら、やはり見た目だけそのままに中身が入れ替わっているかもしれない、というのは私の勘違いなのかもしれません。
遊亜に異常はなかった。おかしくなってしまったのは妹ではなく、私なのだ。そう諦めて病院を検討し始めた頃でした。
検索によってヒットした、どこかの誰かのブログ。流れ作業のように眺めていたページで、私は手を止めました。
『いなくなったCちゃんが帰ってきた。本物なのかな……どう見てもCちゃんにしか見えないけど……。いなくなる瞬間を見てたから、なんだか信じられない。絶対に戻ってこれないと思ってた。どうやって帰ってきたんだろう……。みんなの言う通り、私の幻覚だったのかな……私の頭がおかしくなっちゃってるの?』
三回ほど読み返して、私はそのブログをブックマークに登録しました。それから念のためスクリーンショットにも残します。
ブログを書いたのは、どうやら女子中学生のようでした。日付を見ると二十年以上前の投稿で、私が生まれる前のものでした。さすがに昔すぎるし、ただのブログに信憑性があるかと言われれば疑問は残りますが、私は藁にも縋るような気持ちでブログを読み漁りました。
『Cちゃんがいなくなっちゃった。鏡の中に消えてったの。目にゴミが入ったって言って、鏡を覗き込んでて。そのまま、ずるり、って。何かに引きずり込まれるみたいに顔から鏡の中に飲み込まれていった。何が起きてるのか分からなくて、Cちゃんのことは嫌いだけど嫌な予感しかしなくて、必死にCちゃんの腕をつかんだ。でも私なんかよりもっと強い力に引っ張られて、鏡に引きずり込まれていった』
『Cちゃんがいなくなったことは本当なのに、誰も信じてくれない。本当に鏡の中に引きずり込まれたのに。Cちゃんは鏡の世界にいったのに。嘘をつくな、ってCちゃんのパパに怒鳴られちゃった。うちのパパとママは、私が嘘をついてるとは思ってないみたいだけど、事件のショックで頭が変になったって思ってるみたい。病院に連れていくべきか話し合ってるのが聞こえちゃった、最悪。やっぱり私にはSちゃんしかいない……』
『Cちゃんは誘拐されたんじゃないかって噂になってる。Cちゃんはかわいいから連れて行かれたんだって。それだけじゃないの。一緒にいた私が誘拐されなかったのは、私がデブでブスだからって……。ひどすぎるよ、私が何したっていうの……』
『テレビでも大ニュースになってたけど、Cちゃんが帰ってきた。どうやって帰ってきたんだろう。顔から飲み込まれてたから怪我とかしなかったの? ってきいたら、Cちゃんは何も覚えてないんだって。一年もいなくなってたのに、その間の記憶がないなんてこと、あるのかな』
『Cちゃんが鏡の中にさらわれたって話、半分くらい信じてなかったSちゃんが、今のCちゃんは別人。偽物だよって言い出した。なんだかSちゃんはCちゃんを避けてるみたいで、おかげでSちゃんは私のそばにいてくれる。Cちゃんが偽物ってどういうことだろう? 私には本人にしか見えないけどなぁ』
ブログをそこまで読んで、私は思わず呟きました。
「これ、遊亜がいなくなった話に似てる……」
Cちゃんという女の子が突然いなくなり、そして一年後に帰ってきたというのが本当ならば、遊亜の事件と共通点があるのです。遊亜の場合はいなくなった期間は一日でしたが、それ以外はかなり似通っているように思えました。
本人は姿を消していた間の記憶がないこと。帰ってきたのは本人にしか見えないけれど、周りにその子が偽物だと思っている人がいること。
ただ気になるのは、このブログにたびたび書かれている、Cちゃんは鏡の中に引きずり込まれた、という話です。鏡に飲み込まれてしまうなんてこと、あるのでしょうか。
信じがたい話ではありますが、胸の奥がざわざわと騒いでやまないのは、きっと遊亜がいなくなったお風呂場にも大きな鏡があったせいです。それに、鏡にはぺったりと残った手型がありました。まるで、遊亜がそこに手をついて鏡を覗き込んだような。
鏡を覗き込んで、そのまま鏡の中に引きずり込まれてしまったーーー?
私は気味の悪い考えを振り払うように、頭をぶんぶんと横に振りました。
♦︎ブログの主
私は勇気を振り絞り、ダメ元でブログの管理人にメールを送りました。二十年以上前のブログなので、すでにメールアドレスを変更している可能性の方が高いでしょう。分かっていても、どうしてもこのブログを書いた張本人から話が聞きたかったのです。
同時にブログのコメント欄にも、コメントを残しました。本名は書きませんでしたが、似たような事件が近くで起きて困っていることと、話を聞かせてほしいということを書きました。もしもブログにコメントが届いた際に通知が来るように設定していたとしたら、その人に通知がいくかもしれないと思ったのです。
私がそのブログを見つけてから、二週間が経ちました。二回メールを送りましたが返信はなく、コメントも見てもらえたのか判断のしようがありません。やはり二十年も前のブログなので、管理者の手から離れてしまっているのだろう、と私が諦めかけていた頃でした。
ブログのコメントに返信がありました! という通知が私の元に届いたのです。慌てて確認すると、『昔のことなので忘れていることもありますができる限りお話します』と書かれていました。
早速フリーメールのアドレスを取得し、私はその人にアドレスを伝えました。何度かやりとりをするうちに、彼女ーーー矢沢優花さんは、私を信用してくれたようでした。電話で詳しく話してもいいし、会って話すのでもいいよ、と言ってくれたのです。こちらから声をかけたとはいえ、インターネットで知り合った人といきなり会うのはさすがに躊躇われました。私の不安を察したのか、優花さんは一度電話してみようかと提案してくれました。
通話をしたのは短い時間でしたが、それでも十分でした。優花さんが実在する人物で、女性であることがはっきりしたからです。私は親に内緒で、優花さんに会いに行くことに決めました。
♦︎一人旅
初めて乗った夜行バスは、とても乗り心地がいいとは言えませんでした。女性と男性が隣り合うことのないよう配慮はしてくれましたが、たとえ同性であっても知らない人が隣にいると落ち着かないのです。結局私は東京から愛知県までの長い道のりを、ほとんど眠ることなく過ごしました。
目的地に着く頃には、私はへとへとになっていました。それでも優花さんに約束の時間を変更してもらうのは躊躇われたので、朝ごはんを食べてなんとか気合いを入れ直しました。
優花さんと電話をしたときに、私はある提案をされました。
『千代ちゃんに連絡をとってみようか? あと、静子ちゃんも』
千代さんというのは、二十年前の事件でいなくなり、記憶をなくした状態で帰ってきたCちゃんのことです。そして静子さんは、千代さんが失踪した日、千代さんと優花さんと一緒に遊んでいた友達だそうです。
二人とも全く知らない人なので、話を聞かせてもらうのはなんだか不安でした。でも遊亜のいなくなった事件と、その後の違和感の正体を、私はどうしても突き止めたかったのです。
相手に断られる可能性もありますが、私は優花さんにお願いして、千代さんと静子さんに連絡を取ってもらいました。しばらくして優花さんから来た返事は、千代さんも静子さんも私に会ってくれるというものでした。
私が優花さんに会うために愛知に来る予定に合わせて、二人も時間を作ってくれるそうです。
三人分の手土産と交通費は、高校生の私にはかなり大きい出費でしたが、仕方がありません。実際に会って三人と話せば、何か分かることがあるかもしれないのですから、迷うことはありませんでした。
三人のうち、最初に待ち合わせをしたのは優花さんです。ブログを書いた張本人なので、一番に話を聞けるのはありがたいことでした。何しろ私は千代さんが失踪した事件について、あまり詳しく知らないのです。まずは優花さんから事件について聞かせてもらい、次の待ち合わせの時間までにインターネットで少し調べる予定です。
私は駅のロッカーに荷物を預け、事前に聞いていた住所に向かいました。優花さんの自宅です。駅から少し離れていたので、バスに乗っていきました。教えてもらったバス停で降りた後は、地図アプリに案内してもらいながら進みます。少しだけ迷いましたが、何とか約束の時間より前に到着することができました。
インターホンを鳴らすよりも先に、私は優花さんと顔を合わせることになりました。道に迷ってしまうかもしれないから、と優花さんが家の前で待っていてくれたのです。
きょろきょろと辺りを見回しながら歩く私に、「もしかして愛優ちゃん?」と声をかけ、優花さんは人懐っこい笑顔を浮かべました。
「は、はい。最上愛優です。……矢沢優花さん、ですか?」
「そうだよ。遠いところからありがとね」
にこにこと笑う優花さんは、聞いていた年齢よりも若く見えました。二十代前半と言われてもきっと信じてしまうだろうな、と思うのは、年上の女性にありがちな刺々しいところがないからでしょうか。
優花さんが優しくて話しやすそうなタイプであることにホッとしながら、私は優花さんの家にお邪魔しました。
◆矢沢優花へのインタビュー
動画撮られてるとなんだか緊張しちゃうね。……あ、違うよ? もちろん、愛優ちゃんが動画を悪いことに使ったりしないって分かってるし、撮られることはいいんだけど。
ごめんね、私あんまりお化粧してないし……太ってるから見栄えが悪いでしょ? えっそんなことない? 優しいね、愛優ちゃんは。それにすっごくかわいい! お人形さんみたいな顔してるよね。学校でモテるんじゃない? 彼氏はいるの? えっ、いない!? 嘘ぉ、絶対いるでしょ。だってかわいいし、性格よさそうなのも伝わってくるもん。
私は昔からこんな感じだから、男の子からもいじめられててね。全然恋とかもできなくて。……あ、好きな人はいたんだよ? でもその男の子……雄大くんっていうんだけど、雄大くんは、千代ちゃんのことが好きだったらしいんだよね。まあ千代ちゃんは顔もかわいいし、背も小さめで痩せてて。お父さんもお母さんも背が高かったから、今はきっと背も伸びてきれいになってるだろうなぁ。千代ちゃんはなんていうんだろう……愛嬌がある? みたいな。男の子にモテるのも分かるなぁってタイプ?
あっ、おんなじモテそうでも、愛優ちゃんとはタイプ違うから、愛優ちゃんのことを悪く言ってるわけじゃないよ?
私は正直、千代ちゃんよりも静子ちゃんみたいなタイプの方が素敵だと思うんだ。昔から静子ちゃんは私の憧れなの。そう、小島静子ちゃん! 今は結婚して苗字が変わってるかな……。この間連絡したときにきけばよかった。千代ちゃんはかわいい系だけど、静子ちゃんはきれいで美人! って感じなんだよ。静子ちゃんのおうちはケーキ屋さんだったんだけど、全然太ってなくてね。背は高いけどすらっとしてて、クールな美人。しかも、なんていうか、品があるんだよね。仕草? とか言葉づかいとか。
あ、待って待って。私ったら、お茶出してなかったね! 紅茶は飲める? うんうん、じゃあミルクもつけるね。お砂糖も用意して……。お菓子は……あ、愛優ちゃんが持ってきてくれたもの開けていい? ありがとう。…………わ、美味しそうなマドレーヌ! 有名なところのなの? そうなんだ、いいなぁ、東京。私、昔から甘いものが大好きでね、静子ちゃんと千代ちゃんと、よく出かけたときに食べてたなぁ。
あ、そうだ。あの事件の日もクレープを食べてたんだよ。ちょっと奮発していちごカスタードに、アイスもトッピングしたんじゃなかったかな。そうそう、たしか千代ちゃんは大人ぶってサラダクレープ頼んでて。しかも食べきれないからって、静子ちゃんと半分こしてたの。本当は私が静子ちゃんと半分こしたかったのに…………。
お待たせしました。じゃあ事件の日のこと、話そうか。ネットでちょっと調べたの? じゃあなんとなく事件の流れは分かってるのかな?
あれは、私が中学一年生のとき……。学校が終わって、いつもなら部活があるんだけど、ちょうどテスト期間で部活はお休みだったの。えっ? 美術部だよ。私はあんまり上手くなかったけど。静子ちゃんはすごく上手でね、たまに入賞もしてたんだよ。静子ちゃんの描いた絵は今にも動き出しそうで……リアルすぎてちょっと怖いくらい。ふふ、冗談冗談。でも静子ちゃんの絵が上手いのは本当なの。
………ああ、そうそう! 千代ちゃんの似顔絵を描いたのも静子ちゃん。当時はそこら中に貼ってあったんだよね……。張り紙をコピーするのと文字を書くのは私がやって。でも文章とかは全部静子ちゃんが考えてくれて。静子ちゃんと一緒にたくさんお店を回って、ここに貼らせてもらえませんかって頼んだなぁ。あのイラスト見たの? えっ、ネットにアップされてた? すごい時代になっちゃったなぁ……。あの頃は私がブログやってても、全然誰も見に来たりしなかったけど、今やってたら静子ちゃんとかも見に来てくれたんだろうね。
えーっと何の話だったっけ。ああそう! 事件の話! 部活が休みで、一度家に帰った後、私と千代ちゃんと静子ちゃんの三人で遊びに行ったんだよね。テスト期間なのに勉強しないの? って質問はなしだよ。千代ちゃんは頭がいいし、静子ちゃんは普段からコツコツ勉強してて、テスト前の勉強なんて必要なかったから……。えっ、私? 私はテストの点数が悪くても親に怒られたりしなかったから。あまりにも成績が悪かったから、お父さんもお母さんも諦めてたんだと思う。私もテストなんてどうでもいいやって思ってたし。
遊びに行ったのは、近くに新しくできたショッピングモール。あれからもう二十年近く経つ? そっか、だからこの間改修工事をしてたんだ。……ああ、ごめんごめん。すぐ脱線しちゃう。ショッピングモールの中でお店を見て回って。私は何も買わなかったけど、千代ちゃんと静子ちゃんは確かお揃いのボールペンを買ってたなぁ。
どうして私は買わなかったのか気になる? 一緒にいたけど私だけ誘われなかったの。学校とかでもそうだった。千代ちゃんと静子ちゃんと私。いつも三人でいるけど、私だけ除け者にされちゃって。たぶん、私がブスでデブだから……。
ここだけの話、千代ちゃんってすっごく意地悪なんだ。陰で私のことたくさん悪口言ってたみたいで。たまに無視とかされたりもして、私は千代ちゃんの機嫌悪くないかなって顔色をうかがってた。…………静子ちゃん? 静子ちゃんはそんなことしないよ! すっごく優しいんだから! ボールペンを二人でお揃いにしようって言ったのもきっと千代ちゃんなの。静子ちゃんは私も誘おうとしてくれたんじゃないかな……。でも千代ちゃんが意地悪して、私を仲間外れにしたんだ、絶対そうだと思う。
…………そうだね、正直あんまり好きじゃなかった。今もできれば会いたくないかな。だって千代ちゃんも私のこと好きじゃなかったし。
本当は私、学校でも静子ちゃんと二人でいたかったんだけど……。でも千代ちゃんは静子ちゃんのことを気に入ってて。静子ちゃんは優しいから、千代ちゃんのことも仲間はずれにしたりせずに、いつも三人で過ごしてたんだ。千代ちゃんが、いなくなるまでは…………。
あの日、クレープを食べて、プリクラを撮って、映画でも見に行こうかって話になったんだよね。チケットは買った後だったかな……。当時人気のあったアイドルの、主演の映画。私も彼のファンだったけど、恥ずかしくて言い出せなかった。だから千代ちゃんがその映画を見ようって言ってくれたとき、嬉しかったのを覚えてる。
でも映画の前にみんなでトイレに行って、結局映画は見られなかったなぁ。そのトイレで、あの事件が起きたから……。
トイレを済ませて手を洗っていたら、千代ちゃんも後から出てきて。静子ちゃんは私より先に外に出ちゃってたから、私も急いで手を洗って外に出ようとしたの。ただ手を洗ってるだけだけど、千代ちゃんと二人きりなんてなんとなく気まずかったし、早く外に出ればちょっとでも静子ちゃんと二人きりになれるから。
先に出てるね、って私は千代ちゃんに声をかけた……と思う。その辺の記憶はちょっと曖昧なんだ、ごめんね。二十年も前の話だし…………えっ、こんなに細かく覚えてると思わなかった? そっか、普通はそうだよね。うーん、あの頃いろんな人に事情を聞かれて、何回も説明したからかな。さすがにバカな私でも、大雑把なところは覚えてるみたい。
ああ、そうだ。思い出した。千代ちゃんに、主演のアイドルがかっこいいから楽しみだねって言われたの。私、驚いちゃって。だってそのアイドルが好きなこと、静子ちゃんにも言ってなかったのに。まさか千代ちゃんにバレちゃったのかなって、慌てちゃった。千代ちゃんみたいにかわいい子に知られたら、ブスのくせに、とか言われそうでしょ?
でも違ったみたい。私のことをファンでしょって指摘したかったんじゃなくて、千代ちゃんもそのアイドルに興味があったんだと思う。
静子ちゃんのところに早く行きたい気持ちと、好きなアイドルの話をしたい気持ちを比べて、私は千代ちゃんと少しだけ話してみようかなって思ったんだ。ほら、共通の趣味があれば、もしかしたら千代ちゃんも私のこと好きになってくれるかもしれないし。仲良くなれるかもなぁって思ったから。
でも、あのとき残らなきゃよかったってずっと後悔してる。二人でアイドルの話をしながら……千代ちゃんはリップを塗り直してた。かわいくていいなぁって鏡に映る千代ちゃんを見てたら、突然千代ちゃんが痛いって声をあげたの。目にゴミが入った、って。またまつげが入っちゃったのかなぁ、なんて言って……そう、そのとき私、思ったんだ。そうやってさりげなく自分の目が大きいことと、まつげが長いことを自慢するの、千代ちゃんらしいなぁって。アイドルの話題で一緒に盛り上がれるかもって少し期待をしたけど、やっぱり千代ちゃんのそういうところが苦手だから。
私は黙って千代ちゃんの横顔を見てた。鏡を覗き込んで、目の中にゴミが入ってないか確認する千代ちゃんに対して、ちょっとだけ意地悪なことも考えた。…………そのままゴミがなかなか取れずに、目が腫れちゃえばいいのに、って。そしたら千代ちゃんも、いつもブスだってバカにされてる私の気持ち、少しは分かるでしょ? そんなこと、考える必要なかったけどね。だって千代ちゃん、そのまま鏡に飲み込まれていっちゃったんだもん。
ーーー嘘だって思う? 信じられない? 私も目の前の光景を信じられなかったし、今でもあれは夢か何かだったのかなって思うことあるよ。だけど、あれは絶対に夢じゃなかった。だってあのときのこと、私は今でもはっきりと覚えてるから。
顔がね、半分鏡の中に埋まってたの。鏡を覗き込んでたから、ちょうど顔の前半分。ほんの一瞬だよ? 私が少し目を離した隙に、顔の半分が飲み込まれちゃって。私が見たときには、もう耳のあたりまで引きずり込まれてて、千代ちゃんは声もあげられないみたいだった。……もしかしたらあげてたのかな。鏡の中の世界がどうなってるのか分からないけど、そっちには悲鳴が聞こえてたのかもね。とにかく私には千代ちゃんの声も、何も聞こえなくて、大パニックだったんだ。そりゃあそうだよ。三十年ちょっと生きてきたけど、いまだにあれ以上にヤバい経験なんて、したことないもん。
私は千代ちゃんのこと、そんなに好きじゃなかったし、いなくなっちゃえばいいって思ったことも正直何回かあったけど……。それでも無意識に体が動いてた。鏡に飲み込まれていく千代ちゃんの腕を、必死に掴んで、どうにかして引っ張り出そうとして……、でもダメだった。どんどん飲み込まれていくの。鏡の中から誰かが千代ちゃんを引っ張っているみたいに、強い力でずるずる吸い込まれていって、そのまま千代ちゃんはいなくなっちゃった。ーーーー鏡の中に、消えちゃったんだよ。