遠い遠い、時の果て。そこには、皆が等しく幸福を感じる世界がありました。
 しかし、その世界に住む人々は、〝しあわせ〟ですが、〝しあわせ〟ではありません。
 これは、——世界で(ただ)ひとり、〝しあわせ〟だった少女が、——ひとりの青年と、ふたりで——になる物語。
 

「知ってる? 毛桃子(もうとうし)更衣(こうい)様の噂」

 御簾(みす)の向こう側で聞こえた単語に、千草(ちぐさ)は足を止めた。身に纏う桃文様の衣が光に照らされた。持っていた籠を抱え直して、女房達の噂話に耳を傾ける。 

「毛桃子の更衣様って……あの桃源舎(とうげんしゃ)にお住いの?」

「それなら、わたくしも知っていますわ。いつも不吉な柄の衣に、珍妙な色の御髪と目をしてるっていう……」

 女房達は、扇で口許を隠し、楽しそうに笑っている。なにがそんなに面白いのか、千草には見当もつかなかった。

「なにをしているのです」と、奥の方から別の女性の声が聞こえてきた。その声の持ち主であるふっくらとした女性が、女房達を窘める。彼女は確か、蘆橘式部(ろきつしきぶ)という女房だ。

「お方々、変な噂話なぞに明け暮れてないで、早く持ち場にに戻りなさい」

 厳しい口調だった。女房達は白けたように息を吐いた。そろそろ行こうかと思った時、あわただしく誰かがまた奥から出て来た。若々しく、ぱっと明るい印象の女房だ。

「大変よ! これからここに撫子(なでしこ)親王(しんのう)様がお渡りになるそうよ!」

 その瞬間、女房達の気配が変わった。御簾越しでもそれはっきりと感じられた。
 撫子の親王。千草も風の噂で聞いたことがある。和歌、漢文に優れた才能あふれるお方で、帝もとりわけ大切にしているという親王である。

「撫子の親王と言えば、あの輝くような絶世の美貌をお持ちですわよね」

「それに、和歌も漢詩も素晴らしい出来栄えで、そのうえ書まで美しいのですよ!」

 それを聞いて、千草は内心驚いた。
 なるほど噂では聞いていたが、どうやら撫子の親王様は、本当に非の打ち所のないひとらしい。それどころか絶世の美男子とは。女房達の黄色い悲鳴が聞こえてくる。女房達にとって、撫子の親王様は一度は夜這いに来てほしい、憧れの存在なのかもしれない。

「ほら、早く行きましょう」

「そんなに慌てて、みっともないですよ」という蘆橘式部の注意もむなしく、女房達はさっさと出て行ってしまった。女房とは、思っているよりも浅薄(せんぱく)なのかもしれない、と思った。

 不意に、蘆橘式部の視線が、御簾の向こう側——廊下にいた千草の方に向けられた。目が合った。すぐに逸らせばよかったのだろうが、なぜか逸らせなかった。
 しばらく黙ったまま、御簾を挟んで見つめ合った後、蘆橘式部の方から視線をそらした。そのまま彼女は、そそくさと局を出て行った。その場に残された千草は、なにか、不思議な気分だった。

 ——もうっ、女房達ったら、噂話ばっかり!

 地団太を踏みたくなるのをぐっとこらえながら、千草は叫んだ。女房達の噂話と言えば、大抵が誰かへの悪評だとか、美しい貴公子の話ばかりだ。そんなことで盛り上がってばかりの彼女たちのことは、一生かかっても理解できそうにない。
 早く戻ろう、そう思い、足を速めた。その時だった。

「え、うわわっ!?」袴の裾を踏み、身体の重心が廊下の外側へと移り、そのまま横転した。派手に転がり落ち、持っていた籠に乗せていた果実も転がり落ちた。

「いてて……」おもむろに立ち上がり、顔を上げる。果実があらゆるところに散乱している。傷がついてないといいが。そう思いながら果実を拾い集めていると、先ほどまでいた廊下に、男性が通りかかる。おそらく、帝のお使いに来た蔵人(くろうど)だろう。蔵人は帝の秘書官なので、後宮にもときたま顔を出す。

「……」

 蔵人は、千草など視界にすら入っていないという様子で、空の向こうを見ている。目の前に、庭に倒れこんでいる女性がいるというのに、である。
 しばらくそうした後、蔵人はさっさとその場を後にして、どこかへ行ってしまった。
 ひとり残された千草は、唇を引き結び、落とした果実を惨めに拾い集めるのだった。

 桃源舎は後宮の中でも一番隅にある建物で、梅に似た木に、年中淡紅色の小さな花が咲き乱れている。『毛桃子の更衣』——千草は、そこで女房とふたりで暮らしていた。たったふたりしかいない殿舎は、ひどく静かで寂しいもので、使っていないところなんていくらでもあるし、掃除もいちいち大変だ。

 ——もっと狭くてもいいのに。

 千草はいつもそう思うのだ。それはきっと、千草の世話をしている女房も薄々思っていることだろう。

「更衣様、また外へ出ていたのですね」

 装束の手入れをしていた女性が、眉をひそめながら言った。すっと立ち上がり、こちらへ近づいて来る。宮仕えをする女性達の中でも、群を抜いて黒くて長い髪を後ろに垂らし、鋭い目つきでこちらを見てくる。唇に塗られた深紅の紅が、まるで動物の生き血をすすってきたかのように輝いている。一見不気味だが、上背のある、さっぱりとした美女である。不愛想な印象を受ける彼女が、千草の女房である御酒草(みきくさ)の君だ。

「うん! でも、女房は噂話ばっかりでつまらなかった。少しは御酒草の君を見習えばいいのに……」

 御酒草の君は噂話どころか、ひととの馴れ合いを好まない質なので、先ほどの女房達のように、ひとを小馬鹿にするような話などは好まない。まあ、色恋の気配がないのはある意味問題かもしれないが。

「その様子では、本来の目的では、成果はなかったという事ですね」

 痛いところを突かれた。

「また無駄なことをして。いい加減になさい、みっともないったらありゃしない」

「む、無駄なことじゃないよ! これはあたしの大事な役目で……」

「はいはい……」とおざなりに返事をし、ため息をついた。まるで、出来の悪い子を窘める母のようである。

「いいですか、更衣様。あなたがこの殿舎から出たところで、誰からも気にかけられることはありません。外でのあなたなんて、人々からすれば透明で、見えないものと大差ないのです」

 淡々と文書を読み上げるような声音だった。

「あなたはただ、ここでひとり、迷い込んできた魂を誘えばよいのです」

「っ、でも……」

「あなたを必要としているひとなんて、この世界にはいませんよ」

 ずばり、言い当てられ、千草は黙り込んだ。千草がなにをしようと、この世界のひとたちには届かないのだ。先ほどの蔵人が、千草を無視したのと同じように。

「今ここで、生きられることを幸せだと思いなさい。もう、これ以上余計なことはしないで頂戴」

 言うだけ言った御酒草の君は、部屋の奥へと下がって、装束の手入れを再開した。自分勝手な女房である。

「……はい、わかりました」

 謝罪の言葉こそ言ったが、千草はむすっとした表情をしている。そして小さく、「けちんぼ……」とつぶやいた。

「なにか言いましたか?」

「う、ううん! なにも言ってないよ!」

 とはいえ面倒になりそうだったので、誤魔化すことにしたのだった。


 千草が庭に立っていると、そのままなにかに攫われそうだ。かつて、御酒草の君は、皮肉交じりに言った。
 言われた当初は、どういう意味なのかよく分からなかったが、今ならなんとなくわかる気がする。それはきっと、自身の珍妙な色素のせいだろう。
 淡紅色の短い髪を左右に分け、耳の後ろで束ねた奇妙な髪形、同じ色をした大きな瞳は、純白の睫毛(まつげ)によって縁どられ、どこか儚い印象があった。幼い顔立ちだというのに、愛らしさよりも美麗さが目立つ、不可思議な少女。それが千草だった。
 千草の手にあるのは、先ほど籠に入れていた果実だった。千草の髪色と同じ、淡紅色のみずみずしい果実だ。それをためらいなくひと口(かじ)った。独特の芳香に、みずみずしい甘みが口いっぱいに広がる。しかし、それとは裏腹に、咀嚼すればするほど、心は影が差したように冷たくなる。誰からもわかってもらえず、必死の声すら届かず、まるで透明になってしまったかのようなあの感覚を、嫌というほど思い出してしまうからだ。
 不意に、目の前の木の枝に一羽の雀が止まった。桃源舎には、よく雀が遊びにやって来る。この世界では、雀は縁起が悪い鳥らしい。きっと肩身が狭い思いでもしているのだろう。

「えへへ、こんにちは、雀さん」

 雀を首を傾げた。言葉がわかっているのだろうか。そっと、雀の近くに手を持っていくと、ちょいっとそこに乗った。

「……あたしの友達は、雀さんくらいだよ」

 顔を人差し指で撫でてやりながらつぶやく。雀だけは、みんなと違って千草を無視したりしないのだ。

「……また、鳥遊びですか?」

 御酒草の君だった。庭まで出てくるのは珍しい。

「え、っと……」

 どう返そうかと思っていると、御酒草の君の視線が、千草の持つ果実に落とされる。
 なにを思っているのか、千草には分からなかった。

「……まだ残ってますけど、食べますか?」

 まあ、一度落としたものだが。

「はあ、いらないわよ。わたくしには意味がないものだもの」

 取り付く島もない言い方で、千草は苦笑した。このひとは相変わらずである。

「その果実は、わたくしたちのためにあるものではなくってよ。〝しあわせ〟ではないひとに与えるものですから」

「……」

 〝しあわせ〟ではないひと。
 千草の手から、雀が飛び立った。

♢♢♢

 その果実は、人々からは『呪われた果実』と揶揄されている。
 後宮の片隅に、ひっそりと水を注ぐ『桃源(とうげん)の泉』のそばにしか自生していないため、実物を見たことがある者はほとんどいないだろうが、人々はそれを嫌うのだ。
 食べると、〝しあわせ〟を失うから、と……。 

 ——あたし……なんのためにこの世界にいるんだろう。

 千草は時たま、そんなことを考えるのだ。人々からはいないものとして扱われ、自身の使命も全うできない。それどころか、この幸福な世界の、唯一の憂いとなっているのだ。
 これからも、ずっとこの孤独感に耐え続けなければならないのか。そう考えただけで、腹の底が冷えていくような感覚になる。
 誰からも必要とされないのなら、いっそのこと、消えてしまえればどんなに楽なのだろうか。この世界の一部となり、人々の幸福の土台となる。そうすれば、少しでも誰かのためになるのではなかろうか……。
 そんなことを考えては、不可能なことだろうと自嘲気味に笑ってしまう。
 千草は今日も、無理に笑い続けるほかない。自分自身が、少しでも幸福でいられるように。

 廊下を水拭きが一段落した千草は、庭でひとり、雀と戯れていた。御酒草の君は今は外出している。なにか欲しいものがあるらしいが、詳しくは教えてもらえなかった。

「やっぱり、あたしの話し相手は雀さんだけだねえ……」

 その時、強風が千草の身を包み込んだ。あまりにも強いそれに、雀が攫われ飛んで行く。

「あっ! ま、待って……!」

 千草はたまらずその後を追いかける。しかし、敷地の端の方まで来てみたものの、途中で見逃したのか、見当たらなかった。
 たしかに強い風だったが、あそこまで遠くに飛んでしまうのは想定外だった。謹慎を食らっているので、殿舎の外には出れない。

「ど、どうしよう……」

 なすすべなく、千草はその場に座り込む。

 ——あたしの、大切な友達だったのに……。

 なにか心に、大きな穴が開いてしまったような気分だった。こんな辛気臭い顔を見られたら、きっとまた、御酒草の君に文句を言われてしまう。

「おや、どうかなさいましたか?」

 不意に、頭上から声が聞こえた。しっとりとした色気のある、青年の声だった。
 おもむろに顔を上げると、そこには声の持ち主たる青年が立っていた。その顔を見たとき、千草は思わず息を呑んだ。
 顔の左半分を妖しく隠す黒くつややかな髪。美しい鼻梁に、つり上がった目元と黒い瞳。それらを際立たせる撫子色の質の良い直衣(のうし)には、小葵の文様が入っている。どれをとっても圧巻の一言に尽きる青年が、そこにいた。
 確認しなくてもわかる。彼こそまさに、女房達が噂していた撫子の親王だ。

「……雀の子が風に飛ばされてしまったの」

 正直に話すと、撫子の親王は目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「そうだったのですね」そして、優しく微笑む。「大丈夫ですよ。小鳥は、あなたが思っているよりもずっと強い存在ですから。きっと、どこかでまた、元気に飛んでいるはずです」

「……」

 撫子の親王は、まるで幼子にでも語り掛けるかのように千草を諭してきた。それに正直面食らってしまった。千草の世界を形成していたのは、すべて御酒草の君の不愛想な言葉だけだったからだ。

「……あなた、お名前は?」

 名前を訊かれ、千草は内心焦った。さすがに今、良くないうわさが流れている『毛桃子の更衣』と名乗る勇気はない。悩んだ末、「こ、更衣様でいいよ」と答えた。

「では、更衣様。私は撫子の親王、と呼ばれているものでございます。呼びにくいので、親王で結構ですよ」

 やはり、そうだったのか。千草は頷いた。

「……ここは不思議な場所ですね」撫子の親王はつぶやいた。「どう不思議かと問われると難しいですけれど」
「そ、そうだね……」

 曖昧に返事をする。確かに、ここはこの世界の中でも異質な空間だ。

「私は気にいりましたよ、ここ」

「えっ?」千草はぽかんとした。「本当に?」

「ええ。更衣様さえよければ、明日も来てよろしいですか?」

 その言葉に、千草は分かりやすく顔をぱっと明るくした。それを見て、撫子の親王はくすりと微笑んだ。
 それを返事だと認識したのか、「……では、また明日」と言い残して、名残惜しそうに帰っていった。
 千草はまだ、夢を見ているような感覚だった。

「今こそ、あなたの出番だったというのに」

 びくりと体を震わせる。御酒草の君だった。いつの間に帰ってきたのだろうか。

「……また明日も来るから」

 その時に使命を果たせばいいだけだ。

「はあ、本当にわからない子」

 御酒草の君はそう吐き捨てて、奥へと引っ込んでいった。


 翌日、撫子の親王は、約束通り、桃源舎にやってきた。
「いらっしゃい」と、千草は笑顔で迎えた。親王に対する態度ではないと、咎められそうな口の利き方だったが、当の本人は気にしていないようだった。
 昨日同様、撫子色の直衣(のうし)を身に纏った撫子の親王は、

「昨日はあまり気にならなかったのですが、結構遠いのですね」

 と、苦笑していた。そんな彼を、千草は庭の見える場所へと案内する。淡紅色の花が咲き乱れる庭に、いくらか心を奪われている様子だったので、千草はしばしの沈黙を贈った。
 それを十分に受け取った後、撫子の親王は、

「……なにか遊ぶものがあればよいと思って、(へん)つぎを持ってきました」

 と、懐から箱を取り出して、中に入っている札を見せてきた。偏つぎは、漢字の(つくり)と偏を使う、いわば漢字を学ぶ遊戯のことだ。出題者が提示した偏に合う旁を、広げられた札から探し出すのだ。

「これで勝負でもしましょうか」と、意気揚々と言う。

「でも、出題者がいないから、勝負にはならないよ。どうしよう……」

「女房にでも頼めばいいでしょう。札を出すぐらいできるはずです」

 なんの気なしに言った言葉なのだろうが、千草は内心焦った。今なら御酒草の君もいるだろうが、あの不愛想な彼女に頼んだとして、唯々諾々(いいだくだく)と従ってくれるとも思えない。むしろあの態度で彼の機嫌を損ねたら、もう二度とここには来てくれないかもしれない。そう思うと、なかなか口には出せなかった。
 黙り込む千草を見て、まずいことを言ったのかと思ったのか、「もしかして、今は不在なのですか?」と()いてきた。その気遣いに、逆に罪悪感を覚えた。

「更衣様」

 噂をすればなんとやら、柱の向こうから、御酒草の君が顔を出した。慣れている千草はともかく、やはり少し怖い。撫子の親王も驚いたような顔をして目を見開いている。

「……親王様」御酒草の君は、親王を前に、(うやうや)しく礼をする。口の利き方は女房らしくないが、礼儀作法は完璧である。 

 ——もういっそのこと、人形のように喋らなければいいのに……。

 と、千草は思ってしまった。

「ちょうどいいところに。あなた、偏つぎの出題をしてもらってもよろしいですか?」

「わたくしが……?」

 千草は内心ひやりとした。御酒草の君は、嫌がっている、というより、困惑している、と言った方が正しい顔をしている。まさか、そんなことを頼まれるとは、夢にも思わなかったのだろう。

「はい、ふたりでは勝負になりませんので」

 千草の胸中を知って知らずか、撫子の親王は続ける。千草はその場から逃げたくなった。
 御酒草の君は大きな息を吐き、一瞬明後日の方を向いた。明らかに億劫そうである。

「……まあ、わたくし以外に、ここに女房はおりませんし……少しだけなら」

 千草は目を見開いた。まさか、本当にやってくれるとは思わなかったのだ。

「あらあら、素直じゃありませんね」と、揶揄うように撫子の親王は言うが、御酒草の君の億劫そうな顔が見えていないのだろうか。こういったところに、身分の高い人間特有の世間知らずさが垣間見える。

「では、早速始めましょうか」

 札を広げて、早速始める。最初に出した偏は、「彳」だった。それを見て、千草は床に広がる札の中から偏に合う旁を探す。しかし、千草が見つける前に、撫子の親王が一枚の札を取った。
 出来上がったのは、「後」という漢字だった。
 その後、何回か勝負をしたが、千草は結局、一勝もできなかった。

「ふふっ、今回は私の圧勝でしたね」

 にこやかに微笑む撫子の親王を、千草はきっと睨みつけた。「親王様は手加減を知らないの!?」

 怒りをぶつけられ、とりあえず、といったように、

「すみません、いつもは〝手加減される側〟ですので……」と言うが、絶対にわざとだろうと思う。彼はきっと、見た目——実際の年齢等は定かではないが——よりもずっと老獪(ろうかい)な人物だろうと、千草は直観的に感じた。

「だからってひどいよ! 大人げない!」

 苛立ちに任せて立ち上がり、撫子の親王を睨みつけるが、彼は少し驚いた顔をするばかりで、なにも言わない。

「そうやって醜く吠える更衣様の方が情けないですよ」
 それを見兼ねた御酒草の君が窘める。「慎みなさい」と言われ、やっと頭が冷えた千草は座り込んだ。

 それを見届けた後、自身の役目は終わったと言わんばかりに、御酒草の君は立ち上がり、

「では、わたくしはこれで。あちらに控えておりますので、なにかあればお申し付けくださいませ」

 と不愛想に言ってさっさと奥へと引っ込んでいった。

「……ごめんなさい」

 思わず謝罪する。

「あらら? なぜ謝るのでしょうか?」

 不思議そうに首をかしげる撫子の親王の問いに、千草は唇を引き結び、うつむいて答えなかった。
 あの謝罪は、御酒草の君の女房らしからぬ態度に対するものだが、それにより、自らが尋常な存在ではないと思われるのが怖かったから、つい口に出た言葉でもあった。
 場所といい、仕える女房といい、千草の奇異な見た目といい……尋常ではないのは明らかだった。

「彼女、女房らしくないから……」

 なんとかひと言、そう言う。

「……女房らしい女房が、良い女房とは限りませんよ」

 千草は顔を上げた。

「ある意味、毎日のよう他人の悪評や貴公子の噂をささやき合って楽しんでいる方々は、いかにも女房らしいです」

 なるほど、と思った。確かに彼の言うとおりだ。
 御酒草の君は女房だが、ひとと関わるのは苦手なひとだ。

「なので、私は気にしていませんよ。まあ、不愛想だとは思いますけどね」

「……うん、確かにそうだね」

 御酒草の君の気難しい性格は、女房には不向きだろう。しかし、出来ないわけではない。現に彼女は、千草を今の千草に育てた、立派な女房だ。

「さて……これからは勝負ではなく、漢字を覚える特訓ですよ」

「うんっ! 次は絶対に勝つよ!」

 再び札を広げ、ふたりは偏次を再開させた。その様子を、柱の影から御酒草の君が見守っていた。

♢♢♢

「ねえ、聞いた? あの噂」

 夜の静寂な後宮の空気を、ひとりの女房の声が揺らす。

「聞いたわ。撫子の親王様の噂でしょう?」

「あのお方、最近は桃源舎に頻繁にお渡りになっているのでしょう?」

「うそ、毛桃子(もうとうし)の更衣が住んでるっていう、あの?」

 女房達の噂話は続く。

「あんな呪われた妃がすんでる所に、いったいなんの用があるというの?」 

「そうよ! 大した身分もないくせに……!」

「身の程を知ってもらわないといけないわ!」

 口々に『毛桃子の更衣』への妬みや嫉みを吐き出す中、ひとりの女房がつぶやく。

「……そういえば、桃源舎ってどこにあるのかしら」

 一瞬、時が止まる。
 そういえば、いったい誰が、いつ、彼女の容姿などの噂を聞き、他人に話したのだろう?

「そもそも、最初に『毛桃子の更衣』を見た女房は誰だったかしら? それに、誰から聞いた話だったのかしら?」

 女房達は顔を見合わせる。
 誰ひとりとして、そのことを覚えている人物はいなかった。

「お方々、こんな夜更けに集まって、なにをしているのです?」

 蘆橘式部(ろきつしきぶ)だった。女房達は慌てて、ある者は謝罪を口にしながら、自身の局へと戻っていった。
 空気の乱れが無くなった後宮には、再び静寂が戻った。

♢♢♢

「わたくしがなにを言いたいのか、もうおわかりでしょう」

 二更(午後九時—午後十一時)を過ぎたころ、白色の満月の下で、御酒草の君は言った。責め立てるような口調だった。彼女の表情もまた、口調に見合った険しいものだった。
 今は、彼女に付き合ってもらって、偏つぎの特訓中だ。特訓を始めて早半月、段々と慣れてきたのか、取れる札も多くなった。

「……」

 千草は黙り込む。
 最初は、すぐにでもそうするつもりだった。だが、彼といればいるほど、彼を慕わしく思う情がわいてきて、自身の使命を放棄してしまうのだ。
 その使命が、千草を——『毛桃子の更衣』を『毛桃子の更衣』たらしめるものだというのに。

「あなたが使命を放棄して、お叱りを受けるのはわたくしなのですから、しっかりなさってください」

 その言葉を最後に、ふたりの間に沈黙の帳が下ろされた。
 千草の使命。それは、ここに迷い込んだ人々に果実を与え、呪いを解くこと。そして、選択を迫ること。
 しかし、ここに迷い込んできた魂の末路は、大概がろくなものではない。ある者は罵詈雑言を吐き、ある者は気を失い、ある者は千草に石を投げた。
 千草は、怖かったのだ。彼もまた、あの者たちのようになってしまうことが、自身を蔑むようになるのが。
 ふと、月の光が、一枚の札を照らした。

「……わかりましたか? 次はもう……」

「わか……ってる」

 この世界は、誰もが幸福に暮らせる世界。そう、ここは、ある意味全ての人々にとって、理想郷である。

 ——でも、そんなの所詮、まがいもの。

「……」御酒草の君が、一枚の札を見せる。それを見た千草は、床に広がる札を見渡し、一枚手に取る。
 そして、御酒草の君が持つ偏と繋げる。
 完成したのは、「現」という漢字だ。


『桃源の泉』は、不思議な泉だった。そこに注がれる水は、いつでもぬるい。そして、触れても濡れている感覚がないのだ。
 どこの水よりも透明なその水は、その辺の鏡よりもずっと姿をよく映すし、綺麗に思えた。
 この先に、千草は行くことができない。ここを通れるのは、呪いを解かれた魂だけなのだから。

「早く、戻らなきゃ……」

 そろそろ、撫子の親王が来る時間だ。早く戻らなければ、彼を待たせてしまう。
 千草は食べごろの果実をいくつかもぎ取って、急いで桃源舎に戻った。
 急いで帰ってきたからか、まだ撫子の親王は来ていなかった。御酒草の君は、今は出かけていて不在だ。速まる鼓動を抑えつつ、千草は段に座り込む。そして、今採ってきたばかりの果実に目を向ける。これから、この果実を、撫子の親王に与えるのだ。
 怖い。怖くて怖くてたまらない。だが、それ以上に、彼ならばこの運命を受け入れてくれるのではないか、という微かな思いもまた、千草の中に芽吹いていた。
 だが、それはどちらも、千草との別れを意味しているのだ。
 ふと、強い風が吹いた。「うわっ!」と声を上げ、髪が乱れないように押さえた。風が収まり、千草はゆっくりと顔を上げる。

 ——驚いた。 

 先ほどまで誰もいなかったそこに、ひとりの女性が立っていた。ふっくらとした、女房装束の女性。いつか、御簾越しに出会った蘆橘式部だった。この空間の異質さに驚いているのか、はたまた目の前の千草に驚いているのかは分からないが、彼女はなにも言わず、口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしている。
 千草は、ゆっくりと立ち上がる。先ほど採ってきた果実を手に、蘆橘式部に歩み寄った。

「……『迷い込んだ哀れな魂。さあ、この果実を食らうがよい』」

 これは、ここに迷い込んできた魂にかける常套句(じょうとうく)だった。蘆橘式部は一瞬の迷いを見せた後、その果実を受け取り、口にした。
 しかし、食べたのはひと口だけ。ひと口果実をほおばった後、蘆橘式部はその場に座り込んでしまった。絶望に満ちた顔だった。

「あ、あ、あああ……」

 千草は、総身が冷える思いがした。その表情が、まるで物の怪に取りつかれたかのような、険しいものへと変わっていたからだ。
 次の瞬間だった。
 蘆橘式部は走り出し、まだ残っていた果実を踏みつぶし始めた。ぎょっとして、千草はそれを止めようと、彼女にしがみつく。しかし、そんなものは効かないといわんばかりに、果実を踏み続け、ついには原型も分からない程無残な姿となってしまった。

「そ、そんな……」

 千草は茫然とそれを見つめる。こんなことは、この世界に生まれて初めてだったからだ。

「なんて、ことを……!」蘆橘式部は顔を見にくく歪めて、千草を睨みつけた。蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだ。彼女の憤怒の感情を一身に受け、千草は動けなくなった。

「あなたは、なんて恐ろしい存在なの……! 無理やり呪われた果実を食べさせて、わたしから〝しあわせ〟を奪って、わたしを呪い殺そうとしたのでしょう! この化け物」

「……」

 ——違う、あたしは化け物じゃない。

 そう言いたかったのに、声が出なかった。こんなの、慣れているはずなのに、いつも通りのはずなのに。なぜかいつもよりも、心が苦しい。

「……最近、撫子の親王様が、よくここへお渡りにっているそうだけど」蘆橘式部は、千草の肩を強くつかむ。「まさか、彼にもこんなものを食べさせたの?」

 どちらとも答えられなかった。今まさに、彼女が言う『呪われた果実』を彼に与えようとしていたのだから。
「本当に見境がないのね! あなたが彼をどう思っているのかなんて知らないけれど、あなたといれば、間違いなく不幸になるわ!」

 そんなこと、わかっている。人々は皆、千草が言う〝しあわせ〟を望まないのだから。

「もうっ、どうすればいいの……! ああ、あああ……!」

 獣のような叫びをあげて、蘆橘式部は千草の方を突き飛ばした。そして、半狂乱のまま走り去っていった。彼女がどうなるのか、そんなこと、千草にとっては知ったことではない。
 千草は、その場に座り込んだ。目の前には、ひと口だけ(かじ)られた果実が残っている。その果実が、今の千草の心のような気がして、急に虚しくなった。泣きそうだった。袴を強く握る。
 なぜ、こんな思いをしなければならないのだ。
 ここの外では、いないものとして知らぬふりをされ、使命を果たせば罵詈雑言を浴びせられ、「不幸になった」と喚かれる。もう、千草の心はぼろぼろだった。

 ——消えたい、消えてしまいたい。

 すべての使命を放棄し、この死んだ世界から……。
 不意に、ざっ、ざっ、と、玉砂利を踏みしめる音がした。その音はどんどん近づき、千草の前で止まった。

「やはり、あなたが『毛桃子の更衣』だったのですね」

 しっとりとした色気のある声だった。顔を見なくても、誰だかわかる。
 千草は、おもむろに顔を上げる。

「しん、のうさま……?」

 撫子の親王は、優しくふっと微笑むと、落ちていた食べかけの果実を拾い上げた。

「あっ、だ、だめ……! そ、それを食べたら……」

 ——それを食べたら、親王様も……。

 自身を制止しようとする千草に、撫子の親王は「大丈夫、大丈夫ですよ、更衣様」と優しく語りかけた。
 そして、齧られた方を逆にして、撫子の親王は果実を口にした。
 千草の口から、悲鳴にも似た声が漏れる。

「……っ?」

 ひと口齧った瞬間、撫子の親王はその身をびくりと震わせた。そして、ふた口目、三口目と、どんどん食べ進めていく。口の端から、果実の甘い汁が垂れる。

「こ、れは……?」

 ふたりの間に強い風が吹き、淡紅色の花弁が舞い散る。
 それに乗って、千草の耳に、彼の声が届く。

「……とっても、おいしいですね」

 その瞬間、これまでの苦しみを全て吐き出すように、人々から無視され続けて透明になっていた千草の輪郭を作るように涙が頬を流れ落ちた。

♢♢♢

 この世界は、矛盾だらけだ。
 この世界に生まれてこの方、御酒草の君はそう思っていた。
 すべての人間が幸福でいられる。その言葉自体が、すべて詭弁(きべん)なのだ。そもそも、幸福という価値観は、ひとによって千差万別である。裕福な暮らしさえできればよい者、愛されて生きたいと願う者、そのふたつをもってしてもなお、幸福を感じない者もいる。そんな人間たちすべてが幸せ? 馬鹿にするのも大概にしてほしい。
 だからこそ、天帝(てんてい)はあの果実を作り出したのだと思う。
 あの果実は、魂の奥底に封印された記憶を思い出させるものだ。あれを食べれば、〝生前の〟記憶が、すべて戻ってくるのだ。
 そして、それらを取り戻したものだけが、また生れ落ちることができるのだという。

 ——そんなものを作るくらいなら、こんな詭弁まみれの世界なんて作らなければいいのに……。

 と、御酒草の君は思う。
 人々は、この世界に固執している。だからこそ、自身の不幸に繋がる千草を認識しない、否、出来ないのだ。
 なぜならこの世界は、すべての人々が幸福でなければならないのだから。
 そのせいで千草は、この死んだ世界で(ただ)ひとり、苦しみながら生き続けなければならないのだから。彼女の女房である御酒草の君も、文句ぐらい言わせてもらいたいものだ。
 だが、それも少しづつ変わりつつあるのだと、天帝は言うのだ。
 この世界の存在が、これから徐々に変わってゆくと。
『毛桃子の更衣』——千草が、撫子の親王と出会って、新たな感情を思い出したように……。
 しかし、変わろうが、変わるまいが、御酒草の君がやることは変わらない。

 ——天帝の命に従い、『毛桃子の更衣』である千草を養育し、守ること……。

 御酒草の君は、神に仕えるためにこの世界に転生したのだから。神への生贄となるべく、かつて命を落としたのだから……。

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 これは、死んだ世界で唯ひとりだけ〝しあわせ〟だった少女が、呪いの果実を口にしたひとりの青年と、ふたりで〝幸せ〟で、〝死合わせ〟になる物語。