翌日、目覚ましの音がいつもより煩く感じた。ここまで起きたくない朝はないだろう。でも、起きたくないと思うことすらこの世界は許されないのだ。
「広奈ー、朝食の準備まだー?」
襖を一枚隔てただけの壁の奥から響くお母さんの声に私は飛び起きた。
「すぐ準備するね!」
布団しか敷けない広さの自室。それでも小さなアパートにシングルマザーの母と住む私にとって、自室が貰えるだけでも天国だった。母と同じ部屋でずっと息をしたら、私はきっともう壊れているだろう。
襖を開ければ、そこからはもう笑顔で明るくしなければいけない。お母さんの行動に文句など絶対に言えない。
「広奈、今日の朝ごはんは何?」
「ウインナーと目玉焼きだよ」
「やった」
母の食事のウインナーと卵を買うために激安スーパーへ自転車で一時間かけている。自分の朝ごはんはもちろん抜きで。母に高校に通うことを許可してもらっている代わりに、炊事洗濯は私が行うという約束だった。母は週五のパートで一日五時間ほど働いているが、もはや私のバイト時間の方が長いかもしれない。
それでも、母の許可なしに高校に通うことはどうせ出来ない。この家から逃げることも出来ないのだ。
「広奈、お母さん今日も昨日と同じブラウス着たいんだけど、乾いてる?」
「あ、流石にまだ……」
「は?」
その瞬間に私はビクッと身体が反射的に震えたのが分かった。
「はぁー、最悪。今日も働きに行ってあげてるのに。炊事洗濯を毎日欠かさないって約束だよね? 高校に行かせてあげているのは誰?」
母は学費を補助してくれている。一部奨学金も貰っている中で……私のバイト代でも払っている中で、足りない分を払ってくれている。それでも、その補助がなければ私は高校を休んでバイトに行かなければいけなくなる。自分の食費も稼がないといけないのに。家賃だって電気代だって母は決まった金額だけを補助する。あとは私のバイト代からだ。
「ごめん! すぐに洗濯機で乾燥かけるね!」
つまり、この乾燥機料金は結局私が払うのだ。もうそんな生活にも慣れた。
本当は、あんな教師がいる学校もう二度と行きたくない。それでも、家の方が居心地が悪いから……私は今日も玄関に向かって、ボロくなって少し汚れているローファに足を入れた。
「黒色で良かった。汚れ、目立たないし」
そう呟いた自分の滑稽さに嫌気が差したと同時に、昨日の立花先生の言葉が頭をよぎる。
「無駄に矜持だけあるなんて、最悪すぎる。反吐がでる……まぁ、とりあえず選んで下さい。お金を払うか、家庭に電話か」
無駄な矜持……思い出すだけでイライラするけど、今の一番の問題は修学旅行の積立金を払わなければいけないこと。バイトのシフトを増やさないと。今まで積み立ててこなかった分、払わなければいけない金額が溜まっている。
「出来るだけ17時から入って、平日休まず働けばなんとかなるはず……いける、大丈夫」
高校生は22時までしか働けない上に、稼げる時間も限られている。それでも、頑張ってやりくりしていた。
これは無駄な矜持なんかじゃない。私が毎日を生きるために頑張っていること。それが無駄であるはずがない。
そう思うと同時に一つの不安も頭をよぎった。
あの人が私のことを言いふらしていたらどうしよう?
そんなの許されない。今までどれだけ頑張って隠してきたと思っているの。そんな不安が拭きれずに通学路を歩いていると、後ろからポンっと肩を軽く叩かれた。
「ひーろなっ! おはよー!」
その声が実里の声だと分かった瞬間に、安堵した。
「おはよう、実里」
「ねーねー、今日の体育さー」
実里が話を続けていくのを聞きながら、私は実里の反応でバレていないことを感じ取っていた。ドクドクと速なり始めていた心臓が、ゆっくりとスローペースに変わっていく。
教室に入っても、クラスメイトの反応はいつも通りでひどく安心する。それでも、朝のホームルームになれば、あの教師が教室に入って来るのだ。
「はーい、全員席につけー」
どれだけ顔を合わせたくなくても、私の席は教壇の前。そう思って、目でも合ったらどうしよう……なんて、考えた私が馬鹿だったようで。立花先生はあまりにもいつも通りだった。
それは本当に私のことに全く興味がないことの現れだろう。それは私にとっても好都合だし、後は修学旅行の積立金を払えば終わる話。私はまだ16歳で色んな制限もあるけれど、成人して18歳になればある程度自由も効くだろう。
そんなことを考えていると、立花先生のある一言が耳に届いた。
「それと、今日の放課後に花壇の植え替えがあるので誰か手伝ってくれませんか?」
どうやらクラスメイトたちはみんな面倒臭いようで、誰も手をあげない。すると、立花先生が今日の日付を確認する。
「9月9日か。じゃあ、出席番号9番の倉持さん、出来ませんか?」
っ! 今日は5時からバイトが入っているので無理に決まっている。
「すみません、今日は用事があって……」
「そうですか? では、出席番号6番の人は……」
話が別の人に回っていく。それなのに、何故か私の心臓は胸に手を当てなくてもバクバクと鳴り響いているのが分かった。あの先生に教室の中で話を振られることがここまで怖いなんて。
いつ言い振らされるか分からないことがこんなに怖いなんて。
『僕は教師を辞めても何も困らないから、貴方が僕の性格を言いふらしても何も問題ない。でも、貴方はお金がないのに人との関わりに依存しているから、僕が倉持さんにお金がないことを言いふらしたら困る。それが僕と倉持さんの差です』
立花先生は教師を辞めることに何の抵抗もないから、生徒の個人情報を守ってくれるとも思えない。ましてや、私がお金に困っていることを遠回しに誰かに伝えるかもしれない。
今、【お金がないことが私の弱みになっている】
そのことに手が小刻みに震えるのが分かった。その時、自分の中の薄暗い感情がまた何かを囁くのだ。
【何を言っているの? お金がないことは今までも私の弱みだったでしょう?】
呼吸が荒くなっていくのを何とか抑えるうちに一限目は始まり、思考を巡らせるうちにあっという間に昼休みになり、黒い感情が浮かんでくるのを必死に抑えるうちに放課後になっていた。
【なんで私だけがこんなに苦労しないといけないの?】
【あんなゴミのような先生になんで酷い言葉を言われないといけないの?】
【なんで私だけ放課後もバイトをしないといけないの?】
【他のみんなはアホみたいにお金を使っているのに】
だめ、だめ。落ちちゃだめ。お金がなくても、真っ当に生きて、いつか私を笑った人たちを見返して……それで、ちゃんと自立して……大丈夫。まだ全然大丈夫だから。
「広奈ー、今日こそ前に言ってたカフェに行かない?……って、今日は用事があるって朝のホームルームで言ってたね」
「うん、ごめんね」
優しく微笑んで謝りながら、心の中の悪魔が【お前は気楽で良いね】と実里を嘲笑った気がした。そんな自分の汚さが気持ち悪くて、私は逃げるように教室から飛び出してバイトに向かった。
バイトで22時まで働いて、家に帰っても母はいつも通りで。
「広奈、早く夕飯作ってよー。お腹空いたんだけど」
「うん、今すぐ作るね」
「ていうか、今日バイト代が入った日よね? 早く頂戴」
【なんで私がこんなことまでしないといけないの?】
【なんで娘の私が炊事洗濯を全部やらないといけないの?】
【バイト代を家に入れなきゃいけないの?】
【お前みたいな母親なんか⚪︎ねよ】
その言葉が流れた瞬間、私は自分の気持ち悪さが限度に達した。今すぐに家を飛び出したいのに、それは出来ない。お母さんの機嫌が悪くなる。そう思う自分の自制心すら気持ち悪く感じる。
私はお母さんに夕飯を作って、バイト代からお金を渡して、洗濯をして、お母さんが眠りについてから家を飛び出した。
「はぁ……! はぁ……!」
アパートの前で呼吸が止まるのではないかと思うほどの息苦しさを感じながら、何とかアパートから離れる。今は出来るだけあの母親と物理的な距離を置きたかった。
それでも、携帯も何もかも置いてきた私はテキトーに道を歩くことが出来なくて、いつもの通学路を歩いていく。結局私は知らない道を歩いて迷って、あの最低なアパートに帰れなくなることすら怖いのだ。
真っ暗な中で高校にたどり着いても、流石にどの窓からも光は漏れていなかった。その時……
「倉持さん?」
後ろからあの教師の声で名前を呼ばれ、私はすぐに振り向くことが出来なかった。それでも、やっとの思いで後ろを振り向く。
「倉持さん、こんな時間にどうしたんですか?」
「立花先生こそ何で……」
「明日使う教材の準備で必要な資料を忘れたので取りに来たんです」
あんなにゴミのような性格なのに、何故そこだけ真面目なのか分からない。そう思った私の疑問が立花先生に伝わったようだった。
「前に言ったでしょう? 暇つぶしだって。お金も時間もある中でする教師って最高なんです。一生懸命に未来に希望を持っている馬鹿な生徒やそんな生徒に入れ込んでいる教師が見れる。その逆に、お金が無くて希望を一切持っていない馬鹿な倉持さんのような生徒も見られるんですよ?」
「私はちゃんと希望を持って……!」
「どこがですか? 倉持さん自身が一番未来に絶望しているじゃないですか」
その時、立花先生が私のポケットから見えていた封筒をパッと奪った。
「これはバイト代ですか?」
「返して!」
家を飛び出してきたくせに、この封筒だけは持ってきていた。お母さんにいつもの金額を渡して、残ったバイト代。家に置いておいて、さらにお母さんにお金を取られることが怖かった。そこから修学旅行の積立代金も払う予定だった。
そんな大事な封筒を立花先生は無遠慮に真っ逆さまに裏返した。一万円札と一千円札、小銭がバラバラと落ちていく。あの時と同じ光景のはずなのに、一つ違うことは……この場所は外で丁度風が吹いている。
大事な一万円札と一千円札が飛んでいきそうになる。
「なにして……!」
私は慌ててお金を拾った。
地べたに這いつくばって。
そんな光景を立花先生は、上から見下ろしていた。
「ねぇ、倉持さん。貴方が一番分かっているんじゃないですか? お金が一番大事だって。今の貴方に矜持はあるんですか?」
その立花先生の言葉でお金を拾っていた私の手が止まった。それでも、もう殆ど拾い終わっていたから止まったのだ。もしまだ一枚も拾っていない時に同じことを言われていたとしたら、私の手は止まっていた? 止まれていた?
私はぐしゃぐしゃになったバイト代を握りしめた。そんな私の反応など無視して、立花先生は続けるのだ。
「私だったら、落ちたお金を無視することだって出来る。お金があるから。まぁ実際、私は矜持なんて微塵も要らないので、比べるまでもなくお金を拾うと思いますけど」
「っ!! お前なんか! どれだけ苦労して稼いだと思って……!」
「倉持さんがどれだけ苦労して稼ごうと、先ほどの封筒に入っていたお金はいい所一万五千円でしょう」
「何が言いたいの……!」
立花先生があの時と同じようにもう一度財布から一万円札を五枚取り出した。そして、私がお札を掴んでいる手の横で、五万円札をグシャっと握りしめた。
「これで倉持さんの持っている一万五千円と私の五万円は同じ状況です。どちらに価値があると思いますか?」
立花先生が言い方を変える。
「他の誰かにどちらかをあげると言ったら、どちらを選ぶと思いますか? 倉持さんが汗水流して必死に稼いだバイト代が選ばれると思いますか?」
息が止まるかと思うほどの静寂が流れた気がした。
「誰に聞いても僕の五万円を選ぶと思いますよ」
そのたった一言で、私の息は止まったのかもしれない。ただただ静かにポトっと涙がコンクリに落ちた。
「僕だって楽をして稼いだわけじゃない。株だって勉強が必要です。それでも、言い換えれば僕の稼いだ一万五千円も、倉持さんの稼いだ一万五千円も同じです。僕の性格が終わっていようと、倉持さんが聖女のような性格であろうと、僕と倉持さんの持っている一万五千円は同じ価値です。残念ながら」
ポトッ、ポトッ、とさらに涙がコンクリに落ちていき、涙のシミが大きくなっていく。声すら出なかった。
「倉持さん、『貴方の矜持』ってなんですか? 無様にお金を拾わないことですか? 嘘をついてでもお金がないことを隠すことですか? 私には正直、意味がわかりません」
プツッと私の中の何かが切れた気がした。
「お金がないことを隠して何が悪いの!? 恥ずかしいと思って何が悪い!? 周りがメイクや洋服、くっだらない流行りや娯楽のためにお金を簡単に使っている中で、何で私だけと思って何が悪いの……!!」
「悪いです。お金がないことが悪い。私にとってお金は世界の全てですから。もっと言えば、お金がないのに醜く取り繕って、人との関わりに依存していることが悪い」
「人との繋がりを求めている人なんてどれだけいると思っているの!」
その時、立花先生が私に合わせてじゃがみこんで、五万円を握っていた手を私に差し出した。
「じゃあ、五万円……いや百万円で友達が一人いなくなるとしたら、倉持さんはどうしますか? きっと余裕があったら友達を選んで、生活できないほどお金に困っていたら百万円を取るでしょう。それって悪いことですか?」
立花先生が手をパッと開き、五万円を地面に落とす。もう風は吹いていなくて、一万円札が五枚広がって落ちただけだった。
「もしまた風が吹いたら、僕は飛んでいく前に迷わず拾います。百万円も同じです。無駄に見栄を張って、プライドなんでいう無意味なものを持っているから、動くのが遅れる。大事なものが飛んでいくんです」
立花先生が地面に落ちた五万円を一枚一枚ゆっくりと拾っていく。
「倉持さん。お金がないくせに大丈夫だと見栄を張って……お金が一番大事だと思っているのに、それを恥ずかしいと思っている方がよっぽど滑稽だと思いませんか? 生活出来ないほどお金に苦しんでいるのに、見栄だけは一丁前にあることが滑稽だと言っているんです」
もう私は叫ぶ元気も無くなっていた。か細い声で……消え入りそうな声で、言葉を紡いでいく。
「……お金がないのは……私のせいですか……私だって…こんな、家に……生まれたかったわけじゃない……!」
私のその言葉に立花先生は「そうですか」と簡単に返した。
「確かに可哀想ですね。修学旅行に周りが苦労せずに行っている中、倉持さんだけがこんなにも苦労している」
「だったら……!」
「だったら何ですか? 僕が憐れめば、気分が晴れますか? お金が増えて、生活が楽になりますか?」
「っ!」
立花先生が立ち上がって、膝についた汚れをパッパッと落としている。
「倉持さんの修学旅行のお金を私は補填することは出来ません。行かないにしても、倉持さんの母の許可がいるのが現実です。そして、バイトを増やして修学旅行のお金を作るのも自由です。身体を壊すほど働いて、逆にお金がかかることになったとしても」
「……じゃあ、どうしろっていうんですか」
「さぁ? どの選択をしても最悪でしょうね。僕にはその苦労は分かりませんし。ただ一つ言えることは、見栄を張っても、矜持を持っていても、今の状況は何も変わらないというだけです」
それだけ言って、立花先生が校内に入って行こうとする。私は、何とか足に力を入れて立ち上がった。
「待って下さい!」
「……何ですか?」
「『悔しい』と思った今の私の感情は間違っていますか……?」
「合っていると思いますよ。それが原動力になるのならば」
先生が校内に入っていく。先ほどまで真っ暗だった校舎の窓から光が漏れ始める。私は何故かその光景をぼーっと眺めてながら、「月すら見えない日だったな」とどうでも良いことを考えていた。
「広奈ー、朝食の準備まだー?」
襖を一枚隔てただけの壁の奥から響くお母さんの声に私は飛び起きた。
「すぐ準備するね!」
布団しか敷けない広さの自室。それでも小さなアパートにシングルマザーの母と住む私にとって、自室が貰えるだけでも天国だった。母と同じ部屋でずっと息をしたら、私はきっともう壊れているだろう。
襖を開ければ、そこからはもう笑顔で明るくしなければいけない。お母さんの行動に文句など絶対に言えない。
「広奈、今日の朝ごはんは何?」
「ウインナーと目玉焼きだよ」
「やった」
母の食事のウインナーと卵を買うために激安スーパーへ自転車で一時間かけている。自分の朝ごはんはもちろん抜きで。母に高校に通うことを許可してもらっている代わりに、炊事洗濯は私が行うという約束だった。母は週五のパートで一日五時間ほど働いているが、もはや私のバイト時間の方が長いかもしれない。
それでも、母の許可なしに高校に通うことはどうせ出来ない。この家から逃げることも出来ないのだ。
「広奈、お母さん今日も昨日と同じブラウス着たいんだけど、乾いてる?」
「あ、流石にまだ……」
「は?」
その瞬間に私はビクッと身体が反射的に震えたのが分かった。
「はぁー、最悪。今日も働きに行ってあげてるのに。炊事洗濯を毎日欠かさないって約束だよね? 高校に行かせてあげているのは誰?」
母は学費を補助してくれている。一部奨学金も貰っている中で……私のバイト代でも払っている中で、足りない分を払ってくれている。それでも、その補助がなければ私は高校を休んでバイトに行かなければいけなくなる。自分の食費も稼がないといけないのに。家賃だって電気代だって母は決まった金額だけを補助する。あとは私のバイト代からだ。
「ごめん! すぐに洗濯機で乾燥かけるね!」
つまり、この乾燥機料金は結局私が払うのだ。もうそんな生活にも慣れた。
本当は、あんな教師がいる学校もう二度と行きたくない。それでも、家の方が居心地が悪いから……私は今日も玄関に向かって、ボロくなって少し汚れているローファに足を入れた。
「黒色で良かった。汚れ、目立たないし」
そう呟いた自分の滑稽さに嫌気が差したと同時に、昨日の立花先生の言葉が頭をよぎる。
「無駄に矜持だけあるなんて、最悪すぎる。反吐がでる……まぁ、とりあえず選んで下さい。お金を払うか、家庭に電話か」
無駄な矜持……思い出すだけでイライラするけど、今の一番の問題は修学旅行の積立金を払わなければいけないこと。バイトのシフトを増やさないと。今まで積み立ててこなかった分、払わなければいけない金額が溜まっている。
「出来るだけ17時から入って、平日休まず働けばなんとかなるはず……いける、大丈夫」
高校生は22時までしか働けない上に、稼げる時間も限られている。それでも、頑張ってやりくりしていた。
これは無駄な矜持なんかじゃない。私が毎日を生きるために頑張っていること。それが無駄であるはずがない。
そう思うと同時に一つの不安も頭をよぎった。
あの人が私のことを言いふらしていたらどうしよう?
そんなの許されない。今までどれだけ頑張って隠してきたと思っているの。そんな不安が拭きれずに通学路を歩いていると、後ろからポンっと肩を軽く叩かれた。
「ひーろなっ! おはよー!」
その声が実里の声だと分かった瞬間に、安堵した。
「おはよう、実里」
「ねーねー、今日の体育さー」
実里が話を続けていくのを聞きながら、私は実里の反応でバレていないことを感じ取っていた。ドクドクと速なり始めていた心臓が、ゆっくりとスローペースに変わっていく。
教室に入っても、クラスメイトの反応はいつも通りでひどく安心する。それでも、朝のホームルームになれば、あの教師が教室に入って来るのだ。
「はーい、全員席につけー」
どれだけ顔を合わせたくなくても、私の席は教壇の前。そう思って、目でも合ったらどうしよう……なんて、考えた私が馬鹿だったようで。立花先生はあまりにもいつも通りだった。
それは本当に私のことに全く興味がないことの現れだろう。それは私にとっても好都合だし、後は修学旅行の積立金を払えば終わる話。私はまだ16歳で色んな制限もあるけれど、成人して18歳になればある程度自由も効くだろう。
そんなことを考えていると、立花先生のある一言が耳に届いた。
「それと、今日の放課後に花壇の植え替えがあるので誰か手伝ってくれませんか?」
どうやらクラスメイトたちはみんな面倒臭いようで、誰も手をあげない。すると、立花先生が今日の日付を確認する。
「9月9日か。じゃあ、出席番号9番の倉持さん、出来ませんか?」
っ! 今日は5時からバイトが入っているので無理に決まっている。
「すみません、今日は用事があって……」
「そうですか? では、出席番号6番の人は……」
話が別の人に回っていく。それなのに、何故か私の心臓は胸に手を当てなくてもバクバクと鳴り響いているのが分かった。あの先生に教室の中で話を振られることがここまで怖いなんて。
いつ言い振らされるか分からないことがこんなに怖いなんて。
『僕は教師を辞めても何も困らないから、貴方が僕の性格を言いふらしても何も問題ない。でも、貴方はお金がないのに人との関わりに依存しているから、僕が倉持さんにお金がないことを言いふらしたら困る。それが僕と倉持さんの差です』
立花先生は教師を辞めることに何の抵抗もないから、生徒の個人情報を守ってくれるとも思えない。ましてや、私がお金に困っていることを遠回しに誰かに伝えるかもしれない。
今、【お金がないことが私の弱みになっている】
そのことに手が小刻みに震えるのが分かった。その時、自分の中の薄暗い感情がまた何かを囁くのだ。
【何を言っているの? お金がないことは今までも私の弱みだったでしょう?】
呼吸が荒くなっていくのを何とか抑えるうちに一限目は始まり、思考を巡らせるうちにあっという間に昼休みになり、黒い感情が浮かんでくるのを必死に抑えるうちに放課後になっていた。
【なんで私だけがこんなに苦労しないといけないの?】
【あんなゴミのような先生になんで酷い言葉を言われないといけないの?】
【なんで私だけ放課後もバイトをしないといけないの?】
【他のみんなはアホみたいにお金を使っているのに】
だめ、だめ。落ちちゃだめ。お金がなくても、真っ当に生きて、いつか私を笑った人たちを見返して……それで、ちゃんと自立して……大丈夫。まだ全然大丈夫だから。
「広奈ー、今日こそ前に言ってたカフェに行かない?……って、今日は用事があるって朝のホームルームで言ってたね」
「うん、ごめんね」
優しく微笑んで謝りながら、心の中の悪魔が【お前は気楽で良いね】と実里を嘲笑った気がした。そんな自分の汚さが気持ち悪くて、私は逃げるように教室から飛び出してバイトに向かった。
バイトで22時まで働いて、家に帰っても母はいつも通りで。
「広奈、早く夕飯作ってよー。お腹空いたんだけど」
「うん、今すぐ作るね」
「ていうか、今日バイト代が入った日よね? 早く頂戴」
【なんで私がこんなことまでしないといけないの?】
【なんで娘の私が炊事洗濯を全部やらないといけないの?】
【バイト代を家に入れなきゃいけないの?】
【お前みたいな母親なんか⚪︎ねよ】
その言葉が流れた瞬間、私は自分の気持ち悪さが限度に達した。今すぐに家を飛び出したいのに、それは出来ない。お母さんの機嫌が悪くなる。そう思う自分の自制心すら気持ち悪く感じる。
私はお母さんに夕飯を作って、バイト代からお金を渡して、洗濯をして、お母さんが眠りについてから家を飛び出した。
「はぁ……! はぁ……!」
アパートの前で呼吸が止まるのではないかと思うほどの息苦しさを感じながら、何とかアパートから離れる。今は出来るだけあの母親と物理的な距離を置きたかった。
それでも、携帯も何もかも置いてきた私はテキトーに道を歩くことが出来なくて、いつもの通学路を歩いていく。結局私は知らない道を歩いて迷って、あの最低なアパートに帰れなくなることすら怖いのだ。
真っ暗な中で高校にたどり着いても、流石にどの窓からも光は漏れていなかった。その時……
「倉持さん?」
後ろからあの教師の声で名前を呼ばれ、私はすぐに振り向くことが出来なかった。それでも、やっとの思いで後ろを振り向く。
「倉持さん、こんな時間にどうしたんですか?」
「立花先生こそ何で……」
「明日使う教材の準備で必要な資料を忘れたので取りに来たんです」
あんなにゴミのような性格なのに、何故そこだけ真面目なのか分からない。そう思った私の疑問が立花先生に伝わったようだった。
「前に言ったでしょう? 暇つぶしだって。お金も時間もある中でする教師って最高なんです。一生懸命に未来に希望を持っている馬鹿な生徒やそんな生徒に入れ込んでいる教師が見れる。その逆に、お金が無くて希望を一切持っていない馬鹿な倉持さんのような生徒も見られるんですよ?」
「私はちゃんと希望を持って……!」
「どこがですか? 倉持さん自身が一番未来に絶望しているじゃないですか」
その時、立花先生が私のポケットから見えていた封筒をパッと奪った。
「これはバイト代ですか?」
「返して!」
家を飛び出してきたくせに、この封筒だけは持ってきていた。お母さんにいつもの金額を渡して、残ったバイト代。家に置いておいて、さらにお母さんにお金を取られることが怖かった。そこから修学旅行の積立代金も払う予定だった。
そんな大事な封筒を立花先生は無遠慮に真っ逆さまに裏返した。一万円札と一千円札、小銭がバラバラと落ちていく。あの時と同じ光景のはずなのに、一つ違うことは……この場所は外で丁度風が吹いている。
大事な一万円札と一千円札が飛んでいきそうになる。
「なにして……!」
私は慌ててお金を拾った。
地べたに這いつくばって。
そんな光景を立花先生は、上から見下ろしていた。
「ねぇ、倉持さん。貴方が一番分かっているんじゃないですか? お金が一番大事だって。今の貴方に矜持はあるんですか?」
その立花先生の言葉でお金を拾っていた私の手が止まった。それでも、もう殆ど拾い終わっていたから止まったのだ。もしまだ一枚も拾っていない時に同じことを言われていたとしたら、私の手は止まっていた? 止まれていた?
私はぐしゃぐしゃになったバイト代を握りしめた。そんな私の反応など無視して、立花先生は続けるのだ。
「私だったら、落ちたお金を無視することだって出来る。お金があるから。まぁ実際、私は矜持なんて微塵も要らないので、比べるまでもなくお金を拾うと思いますけど」
「っ!! お前なんか! どれだけ苦労して稼いだと思って……!」
「倉持さんがどれだけ苦労して稼ごうと、先ほどの封筒に入っていたお金はいい所一万五千円でしょう」
「何が言いたいの……!」
立花先生があの時と同じようにもう一度財布から一万円札を五枚取り出した。そして、私がお札を掴んでいる手の横で、五万円札をグシャっと握りしめた。
「これで倉持さんの持っている一万五千円と私の五万円は同じ状況です。どちらに価値があると思いますか?」
立花先生が言い方を変える。
「他の誰かにどちらかをあげると言ったら、どちらを選ぶと思いますか? 倉持さんが汗水流して必死に稼いだバイト代が選ばれると思いますか?」
息が止まるかと思うほどの静寂が流れた気がした。
「誰に聞いても僕の五万円を選ぶと思いますよ」
そのたった一言で、私の息は止まったのかもしれない。ただただ静かにポトっと涙がコンクリに落ちた。
「僕だって楽をして稼いだわけじゃない。株だって勉強が必要です。それでも、言い換えれば僕の稼いだ一万五千円も、倉持さんの稼いだ一万五千円も同じです。僕の性格が終わっていようと、倉持さんが聖女のような性格であろうと、僕と倉持さんの持っている一万五千円は同じ価値です。残念ながら」
ポトッ、ポトッ、とさらに涙がコンクリに落ちていき、涙のシミが大きくなっていく。声すら出なかった。
「倉持さん、『貴方の矜持』ってなんですか? 無様にお金を拾わないことですか? 嘘をついてでもお金がないことを隠すことですか? 私には正直、意味がわかりません」
プツッと私の中の何かが切れた気がした。
「お金がないことを隠して何が悪いの!? 恥ずかしいと思って何が悪い!? 周りがメイクや洋服、くっだらない流行りや娯楽のためにお金を簡単に使っている中で、何で私だけと思って何が悪いの……!!」
「悪いです。お金がないことが悪い。私にとってお金は世界の全てですから。もっと言えば、お金がないのに醜く取り繕って、人との関わりに依存していることが悪い」
「人との繋がりを求めている人なんてどれだけいると思っているの!」
その時、立花先生が私に合わせてじゃがみこんで、五万円を握っていた手を私に差し出した。
「じゃあ、五万円……いや百万円で友達が一人いなくなるとしたら、倉持さんはどうしますか? きっと余裕があったら友達を選んで、生活できないほどお金に困っていたら百万円を取るでしょう。それって悪いことですか?」
立花先生が手をパッと開き、五万円を地面に落とす。もう風は吹いていなくて、一万円札が五枚広がって落ちただけだった。
「もしまた風が吹いたら、僕は飛んでいく前に迷わず拾います。百万円も同じです。無駄に見栄を張って、プライドなんでいう無意味なものを持っているから、動くのが遅れる。大事なものが飛んでいくんです」
立花先生が地面に落ちた五万円を一枚一枚ゆっくりと拾っていく。
「倉持さん。お金がないくせに大丈夫だと見栄を張って……お金が一番大事だと思っているのに、それを恥ずかしいと思っている方がよっぽど滑稽だと思いませんか? 生活出来ないほどお金に苦しんでいるのに、見栄だけは一丁前にあることが滑稽だと言っているんです」
もう私は叫ぶ元気も無くなっていた。か細い声で……消え入りそうな声で、言葉を紡いでいく。
「……お金がないのは……私のせいですか……私だって…こんな、家に……生まれたかったわけじゃない……!」
私のその言葉に立花先生は「そうですか」と簡単に返した。
「確かに可哀想ですね。修学旅行に周りが苦労せずに行っている中、倉持さんだけがこんなにも苦労している」
「だったら……!」
「だったら何ですか? 僕が憐れめば、気分が晴れますか? お金が増えて、生活が楽になりますか?」
「っ!」
立花先生が立ち上がって、膝についた汚れをパッパッと落としている。
「倉持さんの修学旅行のお金を私は補填することは出来ません。行かないにしても、倉持さんの母の許可がいるのが現実です。そして、バイトを増やして修学旅行のお金を作るのも自由です。身体を壊すほど働いて、逆にお金がかかることになったとしても」
「……じゃあ、どうしろっていうんですか」
「さぁ? どの選択をしても最悪でしょうね。僕にはその苦労は分かりませんし。ただ一つ言えることは、見栄を張っても、矜持を持っていても、今の状況は何も変わらないというだけです」
それだけ言って、立花先生が校内に入って行こうとする。私は、何とか足に力を入れて立ち上がった。
「待って下さい!」
「……何ですか?」
「『悔しい』と思った今の私の感情は間違っていますか……?」
「合っていると思いますよ。それが原動力になるのならば」
先生が校内に入っていく。先ほどまで真っ暗だった校舎の窓から光が漏れ始める。私は何故かその光景をぼーっと眺めてながら、「月すら見えない日だったな」とどうでも良いことを考えていた。