一

 牛車(ぎっしゃ)が止まったとき、(しき)は思わず溜息を()いた。

 牛車というのはものすごく揺れる。
 物語に、初めて牛車に乗った男達が揺れる車の中で散々転げ回った挙げ句、気絶してしまったと言う話があるが誇張ではなく本当に激しく揺れるのだ。
 そのため牛車の中には手形(てがた)という身体を支えるために掴まる把手(とって)が付いていた。

 織は倒れないように掴まっていた手形からそっと手を離すと御簾(みす)の隙間から外を(うかが)った。
 人気(ひとけ)はない。

「少し外の空気を吸ってくる」
 織が同乗していた女房の三津(みつ)にそう言うと、
「ダメです、人に見られます」
 慌てた様子で三津が引き止めようとした。

 未婚の女性は夫以外の男性に顔を見られてはいけないのだが織はまだ裳着(もぎ)という成人の儀式がすんでいないので言い訳は立つ。
 もっとも三津はそういう理由で止めているのではないが。

「今は周りに誰もいないから大丈夫よ」
 織はそう言うと、
「牛車の側にいるから」
 三津に止められる前に牛車から降りた。

 牛車は人目に付かないところに止まっている。

 念のため辺りを見回すと樹々の間に動くものが見えた。
 目をこらすと人がいる。
 織は慌てて木の陰に隠れると、そっと様子を窺った。

「若様、こちらでございます」
 牛車に同乗していた女房の久美(くみ)はそう言って貴晴(たかなり)に降りるよう促した。
 久美は貴晴が小さい頃からうちに仕えてくれている女房である。

「今日は何かあるのか?」
 牛車から降りた貴晴は寺の前に何台もの牛車が止まっているのを見て久美に訊ねた。
 誰かが歌会でも開いているのだろうか。

「あら。聞いて参ります」
 久美はそう言ってすぐに寺の方に向かった。

 織が見ていると男が木から木へと姿を隠すようにして移動していったかと思うと刀を抜いた。

 織が息を飲む。
 男が刀を振りかぶる。
 その向こうに狩衣姿の男の人が見えた。
 と、男は向こうにいる狩衣の男性に斬り掛かった。

「あぶない!」
 織は思わず叫んだ。

 その声に貴晴が振り返ろうとした時、目の隅で何かが光った。
 反射的に()()る。

 目の前を太刀が(かす)めた。
 貴晴の前を通り過ぎた太刀が刃を返して横に払ってくる。
 咄嗟(とっさ)に男に扇を投げ付けた。

 顔に向かって飛んできた扇を男が反射的に()ける。

 その隙に太刀を抜きながら男に駆け寄った貴晴は刀を振り下ろした。
 男が倒れる。

 周囲に視線を走らせたとき、襲撃者の仲間らしき男が少女の方に駆け寄っていくのが見えた。
 貴晴が少女の方に駆け出す。

 男を斬る前に少女の前に割り込んで視界を遮るのは無理だが子供の前で人を斬り殺すのも躊躇(ためら)われる。
 しかし斬らなければ少女が殺されてしまう。

「目を閉じろ!」
 貴晴は走りながら少女に怒鳴ったが、少女は身体が(すく)んでいるらしい。
 男を見詰めたまま目を見張っている。

 貴晴は左手で狩衣の袖を引きちぎると少女に放った。
 少女の頭に狩衣の袖が被さる。

 織の頭に大きな布が被さり前が見えなくなる。
 視界が奪われるのと同時に懐かしい香りに包まれた。
 どこかで嗅いだことのある懐かしい香りだった。
 一瞬、脳裏に誰かの姿が浮かんだ。

 それが誰なのか思い出そうとしたとき、男の叫び声が響いて頭が真っ白になった。

 貴晴が男を斬る。
 男が絶叫を上げて倒れた。

 ほぼ同時に叫び声が聞こえてきた。
 振り返ると別の男が倒れるところだった。

 男の背後には十六、七歳くらいの貴族の青年が立っていた。手に太刀を持っている。
 その青年が助けてくれたらしい。

 周囲を見回したが他に仲間はいないようだ。

「助かった」
 貴晴は納刀(のうとう)すると見知らぬ青年に礼を言った。
 青年は貴晴と同い年くらいだろうか。
 この辺りにあるのはあそこの寺くらいだから寺に来たのだろう。
 見るからに上等な唐衣(からぎぬ)を着ているからやはり寺で上級貴族の集まりがあるに違いない。

 貴晴は少女の方に目を向けた。

 少女が狩衣の袖を被ったまま身体を震わせている。
 泣いているのだろうか。

 無理もない。
 いきなり盗賊に襲われたのだから怖かっただろう。

 なんとか安心させてやりたいが貴晴は一人っ子だ。
 弟妹はいないから子供の相手をしたことがない。
 どうすればいいのか分からず助けを求めるように青年を見た。
 だが青年も困ったような顔をしている。

「お小さいようですし、歌でも歌って差し上げては」
 青年の従者が言った。
「歌ねぇ……」
 青年が腕組みをする。

 歌か……。

 貴晴はちょっと考えてから、

藤袴(ふじばかま) 鹿ぞな鳴きそ 妻を恋ふ 涙の露で 枝が折れなむ」

(泣かないで、藤袴の枝が折れてしまうから)

 貴晴が歌を()むと、
「違うだろ!」
 青年が速攻で突っ込んできた。

「え……?」
「こういうときに歌って言ったら子守唄とかだろうが!」
「そこまで小さくないだろ」
「歌のやりとりするような年でもないだろ!」
 貴晴と青年は同時に少女に目を向けたが少女は頭から狩衣を被っていて年は全く見当が付かない。

 な泣きそ……。

(泣かないで……)

 織の脳裏にさっき浮かんだ人が再び蘇る。

「どうか、泣かないでおくれ」
 その人はそう言うと、こちらに身を乗り出して頭を撫でながら歌を詠んだ。

「雨雲に 織姫(おりひめ)な泣きそ かささぎの 橋ぞ流るる (あふ)る涙に」

(泣かないで、かささぎが()けた橋が流れてしまうよ)

 あれは……。

()……様……」
 織の身体の震えが止まった。

「わ……忘れえぬ 香を匂はせる 藤袴 (おぼ)ゆる人に 会はらましかば」

(懐かしいあの人に会えたら良いのに)

 織は思わず口にしていた。

「…………」
 貴晴は驚いて狩衣を被っている少女に目を向けた。
 まさか返歌が返ってくるとは思わなかったのだ。

 それもこんなにすぐに……。

 もしかして子供じゃないのか?

 しかし着ている物は子供の物だ。

「と、とにかくこちらへ……」
 青年の従者が少女を敵の死体が見えないところに誘導していく。

 十分に離れたところへいくと従者は青年の方を振り返った。

「若様、そろそろ……」
 青年の従者が青年を促す。

 あ、これ、返さなきゃ……。

 男性の声を聞いた織は布を取ろうとした。

「……き殿」
 布に手を掛けた織は誰かの声を聞いて手を止めた。
 誰か人の足音が近付いてくる。
 布を外したら彼らに顔を見られてしまう。

「家は近くか? それとも誰かと一緒か?」
 助けてくれた人の声に織は布を被ったまま頷いた。

「そうか、それじゃ気を付けて」
 助けてくれた人はそう言って立ち去っていった。
 顔を見られたくないというのを察してくれたのだろう。
 足音が遠ざかっていく。

 織が見られたくないのとは違う理由ではあるが女性が顔を見られないようにしなければならないことに代わりはない。

「姫様!」
 三津の声に織は慌てて狩衣を取った。

「姫様、近くにいらっしゃるはずでは……」
 三津の責めるような声に、
「ごめんなさい」
 織は素直に謝った。

「それは……」
 三津が織が持っている布に目を向けた。
「あ、これは……」
 織が口籠(くちご)もる。

 あの人にお礼、言ってなかった……。

 助けてくれた人を見た時は離れていたし、襲ってきた男を見て立ち竦んでいたときは目を向ける余裕がないまま狩衣で視界が(ふさ)がれてしまったからどんな人だったのか全く分からないままだった。

「とにかく早くお戻り下さい」
 三津にそう言われて織は牛車に戻った。

「珍しい香りですね」
 三津が言った。
「え?」
「そのお香です」
 三津がそう言って織が持っている布に目を向ける。

「そうなの?」
「ええ、そういう香りは初めてです」
 三津は宮中(きゅうちゅう)に仕えていた女官(にょかん)だったから(こう)には詳しい。
 その三津が言うのだから相当珍しいのだろう。

 懐かしいと思ったんだけど気のせいだったのかしら……。

 織は袖を見下ろしながら首を傾げた。