『一時間が経ちました。今回のカップルは小田佳祐くんと、内藤 南さんです。立会人となる皆さんは、教室にお集まりください』 アナウンスの声に安堵したのは、初めてだった。
翔と凛では、なかった。
それはつまり、別の同級生が選ばれたということなのに、俺はただ安心してしまった。
「密告してないだろな?」
危機的状況に内藤さんの口調は荒くなり、小春に手を伸ばしてくる。
その間に入ろうとすると俺は突き飛ばされて倒され、また別の方よりバタンと音がした。
顔を上げると、凛まで床に尻餅をついており、倒されたのだと分かる。
こんな時に限って翔の姿がなく、おそらく背中の火傷を冷やす為のタオル交換に行っているのだろう。
情けないことに俺では内藤さんを抑えることは出来ず、また振り払われ頭を硬い床に打ち付ける。
言い訳するつもりはないが、人間は死に直面すると、なりふり構わず暴挙に出るようで。こちらは相手を傷付けないようにと力加減をする理性が残っているが、内藤さんには残っていない。
ただ感情のまま叫び、静止する人間がどうなろうと構わないと言わんばかりに牙を向け、対象となる小春に詰め寄る。
このまま首でも締めてしまうのではないかという勢いで、目が血走っていて、女子の凛が抑えられるものではない。
そういう俺は頭を打ち付けたせいか、視力はハッキリしているが、体が思う通りに動かない。
誰か……。
そう思った時、それを止めれたのは意外な人だった。
「やめろって!」
小春の胸ぐらを掴んでいた手を掴み離したのは、彼氏の小田くん。初めて聞く怒鳴り声に、小春だけでなく、内藤さんまでもが体を震わせた。
一気に変わる、この空気。
あれほど荒れ狂っていた内藤さんが目を見開き、伏せ、言葉に詰まっていく。
「……佐伯さん、ごめんなさい。大丈夫?」
小田くんの声色がいつもの穏やかなものになるが、小春は一切の返答をしない。
ただ俯き、ガタガタと体を震わせていた。
「本当にごめんなさい」
囁くように声を出し、俯いたままの内藤さんの手を引き、小春の元より離れていく。
「ちょっと、慎吾。大丈夫?」
呆然としてしまった俺の体を揺すぶってくれたのは凛で、俺の意識はようやく鮮明になっていく。
「……あ、ごめん。小春は?」
「翔が側に居てくれるから……」
体をゆっくり起こすと、俯いている小春の前に、翔がただ寄り添っている姿が見えた。
今、起きていたことは、夢か現実か。思わず凛に聞いていた。
「あー、ゴンって大きい音がしたからね。かなり強く打ち付けたんじゃない?」
どうやら俺の記憶はどこか曖昧で、今起きたことが現実だと思えなかった。
しかし少しずつ冷静になると思い返す、一連の流れ。
あれほど怒鳴り散らしていた内藤さんが、小田くんの一言で黙り、落ち着いてしまったこと。
あれだけ穏やかで優しい小田くんが、気性の荒い内藤さんと付き合っている理由。
そして先程見せた、小春を見つめる眼差し。
まさか、あの嫌がらせの理由は。
その答えを知っているかのように、凛はただあの二人の背中をただ眺めていた。細めた目からは、憐れみや、同情はなく、悲しみに満ちているようだった。
何か思うことでも、あるのだろうか。
初めて目にする、凛の表情だった。
教室前方に立つ、小田くんと内藤さん。二人には一定の距離があり、とてもカップルだと思えない立ち位置。
それを傍観させられる、俺達。とうとう四人となり、もう何も発する言葉はなかった。
『人数が減ると、ゲームは盛り上がるものですが、このメンバーはダメですねー。これだから陰キャは。……失礼しました」
コホンとわざとらしく咳払いをした主催者は、話を戻していく。
そう、暴露の話へと。
『今回は一件、受けています。なかなか強烈なものを』
クックックと笑いを堪えられないような、張り上げた声。
まさか「あれ」が、証拠品として提出されたのか。
……いや、そんなはずはない。だってあれは、内藤さんか俺しか持っていない物。自分の不利になる証拠を、自分で出すわけ。
何度聞いても人の裏話なんて聞いても気分が良いものではないなと心で溜息を吐くと、その暴露は無機質な機械音によって行われた。
『内藤 南は一年生の時、佐伯小春に陰湿ないじめを行っていた』
ゾワっと立つ、鳥肌。一気に上昇する心拍数。
改めて言葉にされると沸き立つのは、怒りと嫌悪感。しかし今は、その感情だけではいられない。
……一体、誰だ? 誰が、密告したんだ?
「おい、ふざけんなっ! ほら見ろ! この女は、大林を友達だと思ってねーんだよ!」
内藤さんは握り締めていたスマホを小春に向けて投げつけ、教室中にバシンと乾いた音が響く。
幸いなことにそれは俺と小春の間をすり抜け、誰にも当たることもなく転がっていった。
これがもし、顔にでも直撃していたら。
そんなことも想定出来ないぐらい、内藤さんの心は壊れていた。
「わた……、わたしは……。しらな……い」
首を横に振り、ガタガタと震える小春は、今にも泣き出しそうで、ただ強く目を閉じていた。
俺も、正直怖かった。命の危機に遭っている人間は、何をするか分からない。自暴自棄になって道連れにしてくるなんて、あるだろう。
だけど俺は。いや、だからこそ俺は。小春と内藤さんの前に入った。
「こんな女に騙されて、お前らバカじゃねーの! 演技だって分かんないのかよ!」
胸ぐらを掴まれた俺は、体を前後に揺らされる。それを止めようと間に入ってくれる、翔に凛。
しかし翔は火傷を負っており、軽く振り払われただけで悲痛な声を出して、倒れ込み。凛は内藤さんの手を掴むが、やはり振り払われてしまい、翔の隣に倒れ込む。
全てを目の当たりにした小春は、「やめて」と言い、声を出して泣き出してしまう。
もう、全てがめちゃくちゃだった。
「もう、やめてくれ。頼むから……」
内藤さんの肩に手を置き、消えそうな声で呟く小田くん。揺すぶられた手が止まり、静止を促してくれた方に目をやると、その目には涙が光っていた。
「ごめんな。片桐くん……。本当に」
鼻をすすり、内藤さんの手を引いて、二人は教室の前方へと戻っていく。
まるで、俺達を巻き込まないように。
『さて。盛り上がってきたところで、聞いてもらいましょうか。これがいじめの、実際の音声です』
この場を狂わせた元凶のくせに、一切悪ぶれることもない声は、淡々とゲームを進行していく。死のゲームを。
『ゆるしてぇ……』
許しを蒙い、咽こむ声。その息遣いは荒く、嗚咽へと変わっていく。
『うわあ、きったねー。私なら生きていけないわー』
『近寄るな! 汚物が!』
パンっパンっと手を叩き、キャハハハハと甲高い声で笑う声。
……ある意味、この主催者より残虐な声がスマホより放たれる。
『ごめんなさい。ごめんなさい。……死ぬから。自殺するから。もう……、許してくださっ……』
声に詰まり、しゃくり上げている音声を拾い上げているのに。それを聞いている二人は「今、死ねよ」と煽る言葉を返す。
その後にも続く、人格を否定する暴言の数々。「うるせー声を上げたら、また沈めてやる」と脅された小春の声は消え、耳を塞ぎたくなるほどの言葉のみが録音されている。
音声と、会話の内容から。小春はトイレの便座に顔を突っ込まれ、許しを蒙っている場面だと、嫌でも察せられた。
いじめの中でも明らかな一線を越える行為に、浴びせられる人格否定の数々。
この残虐な仕打ちを受けた人間は、明日を生きていくことが出来るのだろうか?
自分がこれほどのいじめに遭っていたと身近な人達に知られてしまった人間は、これから先を生きていけるのだろうか?
俺には、分からなかった。
「どう……して……? どうして……、こんな物が……」
俯き、耳元を抑えていた小春は、「ああっー」と声を上げる。
忌まわしい過去を封じ込め、今を生きていた人間にとって。それをこじ開けられ公衆の場で暴露されるなんて、何よりも残酷なことだろう。
その音声を、聞かれるなんて。
「もう、いい! 分かったから! お願い、音声を止めて!」
凛がスマホに向かって声を張り上げ、さすがの主催者も途中で切り上げた。しかし悪趣味な視聴者という人種は、それすらも肴の餌にするらしい。
だから、この音声の流出は止められない。
「小春はされた側だから……。何も悪くないから……、悪く……」
小春の両手は耳元から机へと場所が変わっており、凛がそれを握り締め声を掛け続けている。
そこでようやく気付く。小春は衝動的に指輪を引き抜こうとしていると。
咄嗟に手を伸ばすが、凛により跳ね除けられ、首を横に振られる。
「……慎吾に、一番知られたくなかったことだろうから……」
引こうとしなかった俺の耳元で、凛はボソッと呟いた。
今、俺が関われば、より小春を刺激する。
だから、見守るしかない。自分の意思で、指輪から手を離してくれるのを。
小春は高校に入学して早々、いじめに遭った。違うクラスで気が付かなかったなんて、言い訳にもならない。
中学の頃より、俺達は休みの日に翔の家に集まってパーティゲームをしたり、気軽に街をブラブラと歩いていた。
部活も、趣味も、価値観も違うけど、それがまた面白くて。翔や凛が上手くまとめてくれるから、気を使わず楽しくいられた。
高校生になり、そんなムードメーカーの二人が付き合い始め、そんな関係も終わりかと思った。だけど二人は忙しい部活の合間に時間を作ってくれ、都会の街に出掛けようと計画してくれていた。
しかし小春はやんわりと断り、緩いゲーム大会すらも参加しなくなった。
付き合っている二人に気を使っているのかと思ったが、どうやら凛と二人で会うのも断っていたらしい。
俺と凛は一組、翔は二組、小春は五組と別々のクラスだった。
凛は、五組での友達付き合いもあるのだろうと思い、少し遠慮していたらしい。しかしそうしていく間に、小春は段々と学校を休むようになった。
凛は体調でも悪いのかと、小春にメッセージを送るが、返信がないどころか未読のままになっていった。
夏休み前。凛が不登校になった小春の家を訪ねて、話を聞いてくると言っていた。
そこでようやく、小春はクラスの女子二人からいじめに遭っていると打ち明けたようだ。
わざとぶつかってこられたことから始まり。机に卑猥な落書き。掃除当番を一人で押し付け。運動が苦手な小春が体育祭で足を引っ張っていると、クラスのみんなに吹き込んでいく。
結果、人見知りな小春が頑張って溶け込んだクラスの友達は離れていき。クラスのグループチャットは全員が脱退し別の場所を再結成され、クラスの情報が入ってこないことが続いた。体育祭の打ち明けも小春だけ呼ばれず、次の日にわざとらしく「昨日は盛り上がったね」と話をされたらしい。
何か気に障ったなら謝ると、いじめをする二人に何度も言ったらしいが。存在自体がウザいと返され、学校に来るなと告げられた。
だから、小春は不登校となった。
次の日。凛は小春のクラスに乗り込み、名前に出た内藤さんとその友人に問い詰めた。
凛は小春のことになると人一倍ムキになり、その後の人間関係や復讐されるリスクなど考えず、突き進む性格だった。
しかし捨て身の凛に返ってきたのは、小春の自作自演ではないかという言葉だった。
確かに、確定的ないじめの証拠はなく、クラスのグループメンバーに入らなかったのは小春の意思だと言われたら、それを証明出来ない。机の落書きは小春により消されているし、あっても内藤さん達が書いた証拠すらない。ぶつかられた、掃除当番の押し付けたも同様。
そして何より、クラスの誰に聞いても、全員口を開いてくれなかった。
皆、怖いのだろう。そこで告げ口したら、次は自分が標的になる。
それだけではない。理不尽ないじめに加担してしまった、その罪悪感から。
これ以上は水掛け論になると悟った凛は、もし本当にいじめているなら辞めて欲しいと頼み込んだ。
しかし、その約束は守られなかった。
凛に大丈夫だと宥められた小春は、二学期から学校に通い出した。出席日数がギリギリ足りるからと、小春は気持ちを奮い立たせて学校に通い、昼休みは凛が小春のクラスに遊びに行く。小春を安心させる為と、クラス内で牽制を張る為。
次何かしたら、クラスのいじめを公にする。クラス内には凛と同じ陸上部の部員もいて、その効果は絶大だった。
しかし、そこまでしても内藤さん達は、隙をついて小春に嫌がらせをしてきて。凛にチクったと、今までとは比にならないほどの陰湿ないじめを始めた。
……人に見られたくない写真を撮られ、それを学校中にバラまくと脅されたらしい。
だから、逃げられなくて。学校も休めなくて。凛にも相談出来なくて。
あの日。公園の多目的トイレに呼び出されても拒否出来なくて、いじめなんて言葉では済まされないことを受けた。
このまま脅され続けたら、小春は何をするか分からない。
だから俺は、人に言えない秘密を抱えた。
……だが、この暴露は俺じゃない──。
「佐伯さん、ごめんなさい!」
床に膝を付いて座り込み、頭を深々と下げたのは小田くんだった。
「南を、こうさせたのは俺だ! 中学から付き合ってたのに、俺が佐伯さんを……。佐伯さんのことを好きになったのが悪かったんだ!」
小田くんの全身は震え、息は途切れ途切れになる。掠れた声から泣いているのだと、分かり。それほどの想いだったと察せられる。
突然の告白に凛は驚く様子もなく、小田くんの方に一瞬顔を向け、目を伏せる。
翔も同様で、二人ともこのゲームが始まり、気付いたようだった。
……知らなかったのは好意を抱かれていた本人だけ。そうゆうことだったらしい。
だが、やっと打ち明けられた想いも、泣き喚く小春には届かなかったようだった。
「……だから、あんたはバカだって言ってるの! この女の本性が分からないの! この音声だってわざと学校に来て、私の神経逆撫でて、過激なことをさせて証拠を取ったんだから! 私は罠にかけられたのー!」
怒声を飛ばし、小春に詰め寄る内藤さんを俺は力ずくで止めるが。その力はやはり強く、振り払われて倒れてしまった。
内藤さんが、小春の手を握っていた凛の手を捻り退ける。無抵抗の小春は俯いたまま手をダランとさせ、死の指輪に手をかけられても抵抗しなかった。
打ち付けた腰に電気が走り、意思と反して動いてくれない体。
小田くんが、「もう止めてくれ」と叫び内藤さんの手首を掴むが、もう聞き入れず俺同様に突き飛ばす。
翔は、もう静止は不可能だと思ったようで、凛の手を掴み小春から離れさせようとする。このままでは確実に、凛も爆発に巻き込まれる状況だった。
しかし翔の手を振り払った凛は、危険を顧みず近付いていき手を振り上げたかと思えば、パシンと音が響いた。
凛が内藤さんの頬を思い切り叩き、怯んだ隙に小春の外れ掛けていた指輪を押し込んだ。
「やっぱり、あんた達がいじめていたんじゃない! 何が自作自演よ! 最低っ!」
そのまま凛は内藤さんに詰め寄り、容赦なく頭を叩く。
揉み合いになりながら、バシン、バシンと嫌な音が響く中。
「爆発に巻き込まれたら、どうすんだ!」と叫んだ翔により、凛は内藤さんより引き剥がされる。
「離して! こいつだけは、許せない! 私が……!」
殺してやる。
おそらく、その言葉を口にしようとしたのだろう。
しかし、それを止めたのは翔ではない。
腫れ上がった凛の手を掴んだのは、小春だった。
出てきた声は言葉にならず、しゃくり上げる声と共に消えていく。だからか、力強く首を横に振る。
お願いだから、やめて。
そう言いたげに。
「ごめん。……私も……、だね……。ごめん、小春……」
溜息と共に俯き、空いていた方の手の平で、自分の目をグッと抑え付けたかと思ったら、乱暴にそれを拭っていた。
初めて見る、凛の涙だった。
「……小田くん、指輪外してもらいな。こんな奴と、心中する必要ないから!」
小春に掴まれていた手をそっと離した凛は、小田くんの手を引き、立ち尽くす内藤さんの元へと連れて行く。
しかし生きることを諦めた小田くんは首を横に振り、掴まれていた凛の手から自分の手を引き抜く。
巻き込みたくない。その意思を強く感じ取った。
「内藤さん。あなたが小春にしたことは、許せない。取り返しもつかない。……だけど、最後に出来ることはあるんじゃないの?」
凛の穏やかで、諭すような声に、二人は顔を上げる。
……最後に出来ること。つまり、小田くんを助けることだが。【指輪が爆発するルール】の四つ目は、「過ちを許していない相手の指輪を外す」ことだ。
心変わりは仕方がないとはいえ、「恋人の裏切りを心から許せる人」は、どれぐらい居るのだろうか?
……俺には、無理だ。
「内藤さん。小田くんに、いつもこうやってキツく接していたんじゃないの? それじゃ、心変わりされても仕方ないよ。全て、小田くんが悪かったって言える?」
淡々と、冷静に、凛は内藤さんを諭していく。確かに内藤さんの関わり方は、酷かった。だから、小田くんは……。
「勝手なこと、言うなっ! 私だって。私だって、好きでこんなクズな人間になったんじゃないし!」
はぁー、と大きく息を切らした内藤さんはその場にしゃがみ込み、俯いてしまう。小春以上に大声を出し、子供みたいに泣き喚く姿は、先程までの邪悪さは一切なかった。
「……あんたに分かる? 彼氏が。ずっと一緒に居るって信じていた彼氏が、他の女を好きになった気持ちが! ずっと、ずっと、私を可愛いと言っていたのに、話だって聞いてくれたのに、パタッとなくなって、顔すら見てくれなくなった気持ちがっ!」
はぁはぁはぁ、と息を切らし、床に拳を叩きつける。悲しみと悔しさが、言動へと変わっていく。
……その相手が、小春だったのか。
「こんな地味で、メイクとかしなくて、髪も伸ばしっぱなしで、目も小さくて、存在感ゼロの女、どこがいいの! こんなの、ちょっと小さくて可愛いぐらいじゃない! 笑う時に口を隠すのが、良いとか? 出しゃばらない性格が良いとか? ……そんなの、私と正反対じゃないっ!」
「うわぁぁ」と喚く声は、あまりにも痛くて、悲しくて。小春の魅力を否定しているはずが、内藤さんは段々と自分には持ち合わせていないであろう良さを、声に出していた。
好きの反対は無関心というが、それだけじゃないのかもしれない。
好きの反対は、嫌悪だ。相手が恨めしくて、憎くて、視界にも入れたくないのに、関わりたくないのに、それでも気になってしまう。
自分と相手を比較し、勝ったと誇り、負けたと悔やみ、敗北を確信した時に、相手を蹴落とすことを実行する。
人間とは、なんて弱い生き物なのだろうか。
ピッ、ピッ、ピッ。
二人の指輪が規則的な音を鳴らす。
顔を上げた内藤さんは、小田くんの指輪に手を伸ばそうとするが、指を曲げ引っ込めてしまった。
目を閉じ、深く溜息を吐き、長い髪を手でグシャグシャにしてしまう。
相手の過ちを許さないと、死の指輪は外せない。だから、出来ないのだろう。
「っ……! あんたが悪いんでしょう! 私を好きでいてくれたら! そしたら私だって、こんな嫌な人間にならなくて良かったのに! あんたを助けられたのにぃ!」
「うん。分かってる。俺が悪かった。南は悪くない。だから、もう、やめてくれ」
拳を作り、床に何度も打ち付ける内藤さんの手を、小田くんは庇うようにそっと受け止めた。
「ほら。ほら、ほら! また、それっ! 私、知ってんだからね! 佐伯小春が好きなくせに、私とまだ付き合ってたのは、あの女の為なんでしょう! 別れたら、何するか分かんないもんね? 好きな女守る為に、付き合ったままにして、私のこと見張っていたんでしょう!」
「ち、違うよ……」
「嘘を吐くなぁー! 分かるんだよ! 分かってたんだよ! あえて、あの女から目を逸らしてただろっ! 学年集会も、二年の体育祭も、今この状況でも。あんたは、佐伯小春から目を逸らしてる! ……私から、守る為に!」
うっ……と、言葉に詰まり、小田くんが伸ばした手を避けて、床を叩き続ける。
「……ごめん」
内藤さんから目を逸らした小田くんは、力無い視線を小春に向けてくる。
涙を拭い、真っ直ぐに見つめる瞳には抑えられない恋心、相手を想う愛、許されない気持ちが宿っている。
それらの感情が、また涙として流れてきたようだった。
そこまで小春を……。
小田くんとは二年で同じクラスになって、たまに話すことがあった。
二年になって付き合い始めた俺達は、クラス内で公認の関係だったし、小田くんも普通に知っていただろう。
だけどそのことに触れず、俺達の付き合いも一切聞いてこず、ただ軽く日常会話を楽しんでいた。
きっと、俺を通して、小春を見ていたのだろう。
今、穏やかに過ごせているのか、笑っているのか、俺に大事にされているのか。
不意に見せる無理に作った笑顔は、そうゆうことだったのか。
六月末。せっかく仲良くなれたと思っていた小田くんが、内藤さんと付き合っているとクラスの男子から聞いた。軽く話していていた成り行きで、確か中学の時から付き合っていたなーって。
別のクラスだったことに加え、交友関係とかに疎い俺は全く知らなかった。
なんでよりによって、あんな人と? そんな思いが溢れてきた。
小田くんは悪くない。いじめに加担していない。
そう分かっていたが、俺は小田くんと距離を取った。向こうも理由を察したようで、「ごめん」と言って離れていった。
……今まで、どんな気持ちで高校生活を送ってきたのだろう? どんな気持ちで、幸せボケしていた俺と接していたのだろう?
「南は、本当は優しい性格だもんな。中学の時に、クラスに馴染めず困っていた転校生とかにも、積極的に声かけてたもんな。……でも、本当は繊細で。相手がどう思っているとか、いつも心配してて。無理して笑って。影で泣いて。だから、そんな南だったから、俺は側に居たいって思って」
「うん……」
引き寄せられた小田くんに、体を預けた内藤さんは、しゃくり上げて涙を流している。
当たり前だけど、二人にも出会った時があり、小田くんが内藤さんを守りたいと思った時もあった。
俺は冷酷な姿しか知らないが、以前は優しくて、困っている子に手を差し伸べて、余計なお世話をしているかと悩んで。そんな、普通の女子だったんだ。いじめとか、無縁な人だったんだ。
なのに、恋人の心変わりによって、彼女をここまで狂わせてしまった。
「ごめん。俺は南を許せない……。俺のせいだと分かってるけど、あれは……ダメだ」
「分かってるよぉ。そんなの、わかって」
「そうさせた、俺が悪い。だから……一緒に……」
「……うん」
力無く呟く声は、指輪より鳴る大きな警告音により消えていく。
「みんな、離れてくれ!」
小田くんの叫び声に、ようやく爆風に巻き込まれると気付いた俺は、力無く机に俯く小春の体を全力で突き飛ばす。
共に倒れ、それでもまだ爆風を浴びる範囲に居た俺達は、倒れたまま動かない小春の手を全力で引く。
倒れた人間を引っ張るのは、これほどに大変なのか?
何故か引き寄せることが出来ず、駆け寄ってきた凛と力を合わせて教室の端に寄せることが出来た。
息を切らせ、四人で身を寄せ、避けられない時を待っていると、無情にもその音は響いた。
ピッ、ピッ、ピーー。
相手の過ちを許せなかった罰。
それにより、二人の体はバラバラになってしまった。
どうして小田くんが、小春に心変わりしたのかは、もう分からない。
しかしそれを感じ取った内藤さんは、友達を巻き込んで小春をいじめるようになった。最終的には、あれほどのことをしてしまった。
人間とは、どれほど残虐になれる生き物なのだろうか?
翔と凛では、なかった。
それはつまり、別の同級生が選ばれたということなのに、俺はただ安心してしまった。
「密告してないだろな?」
危機的状況に内藤さんの口調は荒くなり、小春に手を伸ばしてくる。
その間に入ろうとすると俺は突き飛ばされて倒され、また別の方よりバタンと音がした。
顔を上げると、凛まで床に尻餅をついており、倒されたのだと分かる。
こんな時に限って翔の姿がなく、おそらく背中の火傷を冷やす為のタオル交換に行っているのだろう。
情けないことに俺では内藤さんを抑えることは出来ず、また振り払われ頭を硬い床に打ち付ける。
言い訳するつもりはないが、人間は死に直面すると、なりふり構わず暴挙に出るようで。こちらは相手を傷付けないようにと力加減をする理性が残っているが、内藤さんには残っていない。
ただ感情のまま叫び、静止する人間がどうなろうと構わないと言わんばかりに牙を向け、対象となる小春に詰め寄る。
このまま首でも締めてしまうのではないかという勢いで、目が血走っていて、女子の凛が抑えられるものではない。
そういう俺は頭を打ち付けたせいか、視力はハッキリしているが、体が思う通りに動かない。
誰か……。
そう思った時、それを止めれたのは意外な人だった。
「やめろって!」
小春の胸ぐらを掴んでいた手を掴み離したのは、彼氏の小田くん。初めて聞く怒鳴り声に、小春だけでなく、内藤さんまでもが体を震わせた。
一気に変わる、この空気。
あれほど荒れ狂っていた内藤さんが目を見開き、伏せ、言葉に詰まっていく。
「……佐伯さん、ごめんなさい。大丈夫?」
小田くんの声色がいつもの穏やかなものになるが、小春は一切の返答をしない。
ただ俯き、ガタガタと体を震わせていた。
「本当にごめんなさい」
囁くように声を出し、俯いたままの内藤さんの手を引き、小春の元より離れていく。
「ちょっと、慎吾。大丈夫?」
呆然としてしまった俺の体を揺すぶってくれたのは凛で、俺の意識はようやく鮮明になっていく。
「……あ、ごめん。小春は?」
「翔が側に居てくれるから……」
体をゆっくり起こすと、俯いている小春の前に、翔がただ寄り添っている姿が見えた。
今、起きていたことは、夢か現実か。思わず凛に聞いていた。
「あー、ゴンって大きい音がしたからね。かなり強く打ち付けたんじゃない?」
どうやら俺の記憶はどこか曖昧で、今起きたことが現実だと思えなかった。
しかし少しずつ冷静になると思い返す、一連の流れ。
あれほど怒鳴り散らしていた内藤さんが、小田くんの一言で黙り、落ち着いてしまったこと。
あれだけ穏やかで優しい小田くんが、気性の荒い内藤さんと付き合っている理由。
そして先程見せた、小春を見つめる眼差し。
まさか、あの嫌がらせの理由は。
その答えを知っているかのように、凛はただあの二人の背中をただ眺めていた。細めた目からは、憐れみや、同情はなく、悲しみに満ちているようだった。
何か思うことでも、あるのだろうか。
初めて目にする、凛の表情だった。
教室前方に立つ、小田くんと内藤さん。二人には一定の距離があり、とてもカップルだと思えない立ち位置。
それを傍観させられる、俺達。とうとう四人となり、もう何も発する言葉はなかった。
『人数が減ると、ゲームは盛り上がるものですが、このメンバーはダメですねー。これだから陰キャは。……失礼しました」
コホンとわざとらしく咳払いをした主催者は、話を戻していく。
そう、暴露の話へと。
『今回は一件、受けています。なかなか強烈なものを』
クックックと笑いを堪えられないような、張り上げた声。
まさか「あれ」が、証拠品として提出されたのか。
……いや、そんなはずはない。だってあれは、内藤さんか俺しか持っていない物。自分の不利になる証拠を、自分で出すわけ。
何度聞いても人の裏話なんて聞いても気分が良いものではないなと心で溜息を吐くと、その暴露は無機質な機械音によって行われた。
『内藤 南は一年生の時、佐伯小春に陰湿ないじめを行っていた』
ゾワっと立つ、鳥肌。一気に上昇する心拍数。
改めて言葉にされると沸き立つのは、怒りと嫌悪感。しかし今は、その感情だけではいられない。
……一体、誰だ? 誰が、密告したんだ?
「おい、ふざけんなっ! ほら見ろ! この女は、大林を友達だと思ってねーんだよ!」
内藤さんは握り締めていたスマホを小春に向けて投げつけ、教室中にバシンと乾いた音が響く。
幸いなことにそれは俺と小春の間をすり抜け、誰にも当たることもなく転がっていった。
これがもし、顔にでも直撃していたら。
そんなことも想定出来ないぐらい、内藤さんの心は壊れていた。
「わた……、わたしは……。しらな……い」
首を横に振り、ガタガタと震える小春は、今にも泣き出しそうで、ただ強く目を閉じていた。
俺も、正直怖かった。命の危機に遭っている人間は、何をするか分からない。自暴自棄になって道連れにしてくるなんて、あるだろう。
だけど俺は。いや、だからこそ俺は。小春と内藤さんの前に入った。
「こんな女に騙されて、お前らバカじゃねーの! 演技だって分かんないのかよ!」
胸ぐらを掴まれた俺は、体を前後に揺らされる。それを止めようと間に入ってくれる、翔に凛。
しかし翔は火傷を負っており、軽く振り払われただけで悲痛な声を出して、倒れ込み。凛は内藤さんの手を掴むが、やはり振り払われてしまい、翔の隣に倒れ込む。
全てを目の当たりにした小春は、「やめて」と言い、声を出して泣き出してしまう。
もう、全てがめちゃくちゃだった。
「もう、やめてくれ。頼むから……」
内藤さんの肩に手を置き、消えそうな声で呟く小田くん。揺すぶられた手が止まり、静止を促してくれた方に目をやると、その目には涙が光っていた。
「ごめんな。片桐くん……。本当に」
鼻をすすり、内藤さんの手を引いて、二人は教室の前方へと戻っていく。
まるで、俺達を巻き込まないように。
『さて。盛り上がってきたところで、聞いてもらいましょうか。これがいじめの、実際の音声です』
この場を狂わせた元凶のくせに、一切悪ぶれることもない声は、淡々とゲームを進行していく。死のゲームを。
『ゆるしてぇ……』
許しを蒙い、咽こむ声。その息遣いは荒く、嗚咽へと変わっていく。
『うわあ、きったねー。私なら生きていけないわー』
『近寄るな! 汚物が!』
パンっパンっと手を叩き、キャハハハハと甲高い声で笑う声。
……ある意味、この主催者より残虐な声がスマホより放たれる。
『ごめんなさい。ごめんなさい。……死ぬから。自殺するから。もう……、許してくださっ……』
声に詰まり、しゃくり上げている音声を拾い上げているのに。それを聞いている二人は「今、死ねよ」と煽る言葉を返す。
その後にも続く、人格を否定する暴言の数々。「うるせー声を上げたら、また沈めてやる」と脅された小春の声は消え、耳を塞ぎたくなるほどの言葉のみが録音されている。
音声と、会話の内容から。小春はトイレの便座に顔を突っ込まれ、許しを蒙っている場面だと、嫌でも察せられた。
いじめの中でも明らかな一線を越える行為に、浴びせられる人格否定の数々。
この残虐な仕打ちを受けた人間は、明日を生きていくことが出来るのだろうか?
自分がこれほどのいじめに遭っていたと身近な人達に知られてしまった人間は、これから先を生きていけるのだろうか?
俺には、分からなかった。
「どう……して……? どうして……、こんな物が……」
俯き、耳元を抑えていた小春は、「ああっー」と声を上げる。
忌まわしい過去を封じ込め、今を生きていた人間にとって。それをこじ開けられ公衆の場で暴露されるなんて、何よりも残酷なことだろう。
その音声を、聞かれるなんて。
「もう、いい! 分かったから! お願い、音声を止めて!」
凛がスマホに向かって声を張り上げ、さすがの主催者も途中で切り上げた。しかし悪趣味な視聴者という人種は、それすらも肴の餌にするらしい。
だから、この音声の流出は止められない。
「小春はされた側だから……。何も悪くないから……、悪く……」
小春の両手は耳元から机へと場所が変わっており、凛がそれを握り締め声を掛け続けている。
そこでようやく気付く。小春は衝動的に指輪を引き抜こうとしていると。
咄嗟に手を伸ばすが、凛により跳ね除けられ、首を横に振られる。
「……慎吾に、一番知られたくなかったことだろうから……」
引こうとしなかった俺の耳元で、凛はボソッと呟いた。
今、俺が関われば、より小春を刺激する。
だから、見守るしかない。自分の意思で、指輪から手を離してくれるのを。
小春は高校に入学して早々、いじめに遭った。違うクラスで気が付かなかったなんて、言い訳にもならない。
中学の頃より、俺達は休みの日に翔の家に集まってパーティゲームをしたり、気軽に街をブラブラと歩いていた。
部活も、趣味も、価値観も違うけど、それがまた面白くて。翔や凛が上手くまとめてくれるから、気を使わず楽しくいられた。
高校生になり、そんなムードメーカーの二人が付き合い始め、そんな関係も終わりかと思った。だけど二人は忙しい部活の合間に時間を作ってくれ、都会の街に出掛けようと計画してくれていた。
しかし小春はやんわりと断り、緩いゲーム大会すらも参加しなくなった。
付き合っている二人に気を使っているのかと思ったが、どうやら凛と二人で会うのも断っていたらしい。
俺と凛は一組、翔は二組、小春は五組と別々のクラスだった。
凛は、五組での友達付き合いもあるのだろうと思い、少し遠慮していたらしい。しかしそうしていく間に、小春は段々と学校を休むようになった。
凛は体調でも悪いのかと、小春にメッセージを送るが、返信がないどころか未読のままになっていった。
夏休み前。凛が不登校になった小春の家を訪ねて、話を聞いてくると言っていた。
そこでようやく、小春はクラスの女子二人からいじめに遭っていると打ち明けたようだ。
わざとぶつかってこられたことから始まり。机に卑猥な落書き。掃除当番を一人で押し付け。運動が苦手な小春が体育祭で足を引っ張っていると、クラスのみんなに吹き込んでいく。
結果、人見知りな小春が頑張って溶け込んだクラスの友達は離れていき。クラスのグループチャットは全員が脱退し別の場所を再結成され、クラスの情報が入ってこないことが続いた。体育祭の打ち明けも小春だけ呼ばれず、次の日にわざとらしく「昨日は盛り上がったね」と話をされたらしい。
何か気に障ったなら謝ると、いじめをする二人に何度も言ったらしいが。存在自体がウザいと返され、学校に来るなと告げられた。
だから、小春は不登校となった。
次の日。凛は小春のクラスに乗り込み、名前に出た内藤さんとその友人に問い詰めた。
凛は小春のことになると人一倍ムキになり、その後の人間関係や復讐されるリスクなど考えず、突き進む性格だった。
しかし捨て身の凛に返ってきたのは、小春の自作自演ではないかという言葉だった。
確かに、確定的ないじめの証拠はなく、クラスのグループメンバーに入らなかったのは小春の意思だと言われたら、それを証明出来ない。机の落書きは小春により消されているし、あっても内藤さん達が書いた証拠すらない。ぶつかられた、掃除当番の押し付けたも同様。
そして何より、クラスの誰に聞いても、全員口を開いてくれなかった。
皆、怖いのだろう。そこで告げ口したら、次は自分が標的になる。
それだけではない。理不尽ないじめに加担してしまった、その罪悪感から。
これ以上は水掛け論になると悟った凛は、もし本当にいじめているなら辞めて欲しいと頼み込んだ。
しかし、その約束は守られなかった。
凛に大丈夫だと宥められた小春は、二学期から学校に通い出した。出席日数がギリギリ足りるからと、小春は気持ちを奮い立たせて学校に通い、昼休みは凛が小春のクラスに遊びに行く。小春を安心させる為と、クラス内で牽制を張る為。
次何かしたら、クラスのいじめを公にする。クラス内には凛と同じ陸上部の部員もいて、その効果は絶大だった。
しかし、そこまでしても内藤さん達は、隙をついて小春に嫌がらせをしてきて。凛にチクったと、今までとは比にならないほどの陰湿ないじめを始めた。
……人に見られたくない写真を撮られ、それを学校中にバラまくと脅されたらしい。
だから、逃げられなくて。学校も休めなくて。凛にも相談出来なくて。
あの日。公園の多目的トイレに呼び出されても拒否出来なくて、いじめなんて言葉では済まされないことを受けた。
このまま脅され続けたら、小春は何をするか分からない。
だから俺は、人に言えない秘密を抱えた。
……だが、この暴露は俺じゃない──。
「佐伯さん、ごめんなさい!」
床に膝を付いて座り込み、頭を深々と下げたのは小田くんだった。
「南を、こうさせたのは俺だ! 中学から付き合ってたのに、俺が佐伯さんを……。佐伯さんのことを好きになったのが悪かったんだ!」
小田くんの全身は震え、息は途切れ途切れになる。掠れた声から泣いているのだと、分かり。それほどの想いだったと察せられる。
突然の告白に凛は驚く様子もなく、小田くんの方に一瞬顔を向け、目を伏せる。
翔も同様で、二人ともこのゲームが始まり、気付いたようだった。
……知らなかったのは好意を抱かれていた本人だけ。そうゆうことだったらしい。
だが、やっと打ち明けられた想いも、泣き喚く小春には届かなかったようだった。
「……だから、あんたはバカだって言ってるの! この女の本性が分からないの! この音声だってわざと学校に来て、私の神経逆撫でて、過激なことをさせて証拠を取ったんだから! 私は罠にかけられたのー!」
怒声を飛ばし、小春に詰め寄る内藤さんを俺は力ずくで止めるが。その力はやはり強く、振り払われて倒れてしまった。
内藤さんが、小春の手を握っていた凛の手を捻り退ける。無抵抗の小春は俯いたまま手をダランとさせ、死の指輪に手をかけられても抵抗しなかった。
打ち付けた腰に電気が走り、意思と反して動いてくれない体。
小田くんが、「もう止めてくれ」と叫び内藤さんの手首を掴むが、もう聞き入れず俺同様に突き飛ばす。
翔は、もう静止は不可能だと思ったようで、凛の手を掴み小春から離れさせようとする。このままでは確実に、凛も爆発に巻き込まれる状況だった。
しかし翔の手を振り払った凛は、危険を顧みず近付いていき手を振り上げたかと思えば、パシンと音が響いた。
凛が内藤さんの頬を思い切り叩き、怯んだ隙に小春の外れ掛けていた指輪を押し込んだ。
「やっぱり、あんた達がいじめていたんじゃない! 何が自作自演よ! 最低っ!」
そのまま凛は内藤さんに詰め寄り、容赦なく頭を叩く。
揉み合いになりながら、バシン、バシンと嫌な音が響く中。
「爆発に巻き込まれたら、どうすんだ!」と叫んだ翔により、凛は内藤さんより引き剥がされる。
「離して! こいつだけは、許せない! 私が……!」
殺してやる。
おそらく、その言葉を口にしようとしたのだろう。
しかし、それを止めたのは翔ではない。
腫れ上がった凛の手を掴んだのは、小春だった。
出てきた声は言葉にならず、しゃくり上げる声と共に消えていく。だからか、力強く首を横に振る。
お願いだから、やめて。
そう言いたげに。
「ごめん。……私も……、だね……。ごめん、小春……」
溜息と共に俯き、空いていた方の手の平で、自分の目をグッと抑え付けたかと思ったら、乱暴にそれを拭っていた。
初めて見る、凛の涙だった。
「……小田くん、指輪外してもらいな。こんな奴と、心中する必要ないから!」
小春に掴まれていた手をそっと離した凛は、小田くんの手を引き、立ち尽くす内藤さんの元へと連れて行く。
しかし生きることを諦めた小田くんは首を横に振り、掴まれていた凛の手から自分の手を引き抜く。
巻き込みたくない。その意思を強く感じ取った。
「内藤さん。あなたが小春にしたことは、許せない。取り返しもつかない。……だけど、最後に出来ることはあるんじゃないの?」
凛の穏やかで、諭すような声に、二人は顔を上げる。
……最後に出来ること。つまり、小田くんを助けることだが。【指輪が爆発するルール】の四つ目は、「過ちを許していない相手の指輪を外す」ことだ。
心変わりは仕方がないとはいえ、「恋人の裏切りを心から許せる人」は、どれぐらい居るのだろうか?
……俺には、無理だ。
「内藤さん。小田くんに、いつもこうやってキツく接していたんじゃないの? それじゃ、心変わりされても仕方ないよ。全て、小田くんが悪かったって言える?」
淡々と、冷静に、凛は内藤さんを諭していく。確かに内藤さんの関わり方は、酷かった。だから、小田くんは……。
「勝手なこと、言うなっ! 私だって。私だって、好きでこんなクズな人間になったんじゃないし!」
はぁー、と大きく息を切らした内藤さんはその場にしゃがみ込み、俯いてしまう。小春以上に大声を出し、子供みたいに泣き喚く姿は、先程までの邪悪さは一切なかった。
「……あんたに分かる? 彼氏が。ずっと一緒に居るって信じていた彼氏が、他の女を好きになった気持ちが! ずっと、ずっと、私を可愛いと言っていたのに、話だって聞いてくれたのに、パタッとなくなって、顔すら見てくれなくなった気持ちがっ!」
はぁはぁはぁ、と息を切らし、床に拳を叩きつける。悲しみと悔しさが、言動へと変わっていく。
……その相手が、小春だったのか。
「こんな地味で、メイクとかしなくて、髪も伸ばしっぱなしで、目も小さくて、存在感ゼロの女、どこがいいの! こんなの、ちょっと小さくて可愛いぐらいじゃない! 笑う時に口を隠すのが、良いとか? 出しゃばらない性格が良いとか? ……そんなの、私と正反対じゃないっ!」
「うわぁぁ」と喚く声は、あまりにも痛くて、悲しくて。小春の魅力を否定しているはずが、内藤さんは段々と自分には持ち合わせていないであろう良さを、声に出していた。
好きの反対は無関心というが、それだけじゃないのかもしれない。
好きの反対は、嫌悪だ。相手が恨めしくて、憎くて、視界にも入れたくないのに、関わりたくないのに、それでも気になってしまう。
自分と相手を比較し、勝ったと誇り、負けたと悔やみ、敗北を確信した時に、相手を蹴落とすことを実行する。
人間とは、なんて弱い生き物なのだろうか。
ピッ、ピッ、ピッ。
二人の指輪が規則的な音を鳴らす。
顔を上げた内藤さんは、小田くんの指輪に手を伸ばそうとするが、指を曲げ引っ込めてしまった。
目を閉じ、深く溜息を吐き、長い髪を手でグシャグシャにしてしまう。
相手の過ちを許さないと、死の指輪は外せない。だから、出来ないのだろう。
「っ……! あんたが悪いんでしょう! 私を好きでいてくれたら! そしたら私だって、こんな嫌な人間にならなくて良かったのに! あんたを助けられたのにぃ!」
「うん。分かってる。俺が悪かった。南は悪くない。だから、もう、やめてくれ」
拳を作り、床に何度も打ち付ける内藤さんの手を、小田くんは庇うようにそっと受け止めた。
「ほら。ほら、ほら! また、それっ! 私、知ってんだからね! 佐伯小春が好きなくせに、私とまだ付き合ってたのは、あの女の為なんでしょう! 別れたら、何するか分かんないもんね? 好きな女守る為に、付き合ったままにして、私のこと見張っていたんでしょう!」
「ち、違うよ……」
「嘘を吐くなぁー! 分かるんだよ! 分かってたんだよ! あえて、あの女から目を逸らしてただろっ! 学年集会も、二年の体育祭も、今この状況でも。あんたは、佐伯小春から目を逸らしてる! ……私から、守る為に!」
うっ……と、言葉に詰まり、小田くんが伸ばした手を避けて、床を叩き続ける。
「……ごめん」
内藤さんから目を逸らした小田くんは、力無い視線を小春に向けてくる。
涙を拭い、真っ直ぐに見つめる瞳には抑えられない恋心、相手を想う愛、許されない気持ちが宿っている。
それらの感情が、また涙として流れてきたようだった。
そこまで小春を……。
小田くんとは二年で同じクラスになって、たまに話すことがあった。
二年になって付き合い始めた俺達は、クラス内で公認の関係だったし、小田くんも普通に知っていただろう。
だけどそのことに触れず、俺達の付き合いも一切聞いてこず、ただ軽く日常会話を楽しんでいた。
きっと、俺を通して、小春を見ていたのだろう。
今、穏やかに過ごせているのか、笑っているのか、俺に大事にされているのか。
不意に見せる無理に作った笑顔は、そうゆうことだったのか。
六月末。せっかく仲良くなれたと思っていた小田くんが、内藤さんと付き合っているとクラスの男子から聞いた。軽く話していていた成り行きで、確か中学の時から付き合っていたなーって。
別のクラスだったことに加え、交友関係とかに疎い俺は全く知らなかった。
なんでよりによって、あんな人と? そんな思いが溢れてきた。
小田くんは悪くない。いじめに加担していない。
そう分かっていたが、俺は小田くんと距離を取った。向こうも理由を察したようで、「ごめん」と言って離れていった。
……今まで、どんな気持ちで高校生活を送ってきたのだろう? どんな気持ちで、幸せボケしていた俺と接していたのだろう?
「南は、本当は優しい性格だもんな。中学の時に、クラスに馴染めず困っていた転校生とかにも、積極的に声かけてたもんな。……でも、本当は繊細で。相手がどう思っているとか、いつも心配してて。無理して笑って。影で泣いて。だから、そんな南だったから、俺は側に居たいって思って」
「うん……」
引き寄せられた小田くんに、体を預けた内藤さんは、しゃくり上げて涙を流している。
当たり前だけど、二人にも出会った時があり、小田くんが内藤さんを守りたいと思った時もあった。
俺は冷酷な姿しか知らないが、以前は優しくて、困っている子に手を差し伸べて、余計なお世話をしているかと悩んで。そんな、普通の女子だったんだ。いじめとか、無縁な人だったんだ。
なのに、恋人の心変わりによって、彼女をここまで狂わせてしまった。
「ごめん。俺は南を許せない……。俺のせいだと分かってるけど、あれは……ダメだ」
「分かってるよぉ。そんなの、わかって」
「そうさせた、俺が悪い。だから……一緒に……」
「……うん」
力無く呟く声は、指輪より鳴る大きな警告音により消えていく。
「みんな、離れてくれ!」
小田くんの叫び声に、ようやく爆風に巻き込まれると気付いた俺は、力無く机に俯く小春の体を全力で突き飛ばす。
共に倒れ、それでもまだ爆風を浴びる範囲に居た俺達は、倒れたまま動かない小春の手を全力で引く。
倒れた人間を引っ張るのは、これほどに大変なのか?
何故か引き寄せることが出来ず、駆け寄ってきた凛と力を合わせて教室の端に寄せることが出来た。
息を切らせ、四人で身を寄せ、避けられない時を待っていると、無情にもその音は響いた。
ピッ、ピッ、ピーー。
相手の過ちを許せなかった罰。
それにより、二人の体はバラバラになってしまった。
どうして小田くんが、小春に心変わりしたのかは、もう分からない。
しかしそれを感じ取った内藤さんは、友達を巻き込んで小春をいじめるようになった。最終的には、あれほどのことをしてしまった。
人間とは、どれほど残虐になれる生き物なのだろうか?



