「ようこそ、迷子のお嬢さん。壊れてしまった……あるいは崩れる刹那の狭間の世界へ。あまり歓迎は出来ませんが、追い返しもしませんよ。方法もわかりませんので」
その日わたしはいつものように、放課後の図書室で手当たり次第に本を読み漁っていたはずだった。
それがどうして、こんな訳のわからない場所にいるのだろう。
「……あなた、誰? ここはどこなの?」
目の前には、何かのコスプレのような、スーツや燕尾服に似ているけれど見たことのないデザインの衣装を身に纏った、やたら顔の良い男が一人。仕草や台詞が演技がかって仰々しいのに、やけに様になっている。
周囲は見渡す限り屋外。けれど地面や建物の所々が歪んでいたり、靄が掛かったりしていて、とても現実とは思えない見知らぬ世界だった。
しかし、どこからか美味しそうな、嗅ぎ慣れた珈琲の香りがする。
そんなミスマッチに思わず一歩後退れば、まるで透明の壁に阻まれているように、それ以上動けなかった。
「おや、失敬。申し遅れました、私のことは『アルノア』とお呼びください」
「アルノア? ……さっき読み始めた本の登場人物と、同じ名前……」
「私を御存知で……? ああ、成る程、あなたが読んでくださったのですね! このようにお会い出来るなんて、何と喜ばしいことでしょう! ですが申し訳ありません、この世界はもうじき消えてしまうのです」
「え、いや、ちょっと、訳がわからないわ。ちゃんと説明して」
続け様に紡がれる、相変わらず仰々しい物言いとその動作に、思わず眉を寄せる。これ以上こんな胡散臭い男の相手をするのもどうかと思うのだが、ここにはわたしと彼しか居ないのだから仕方ない。
わたしは唯一の情報源を観察するように、じっと見詰める。するとアルノアと名乗る男は、もったいぶったように顎に手を添えてわたしを見詰め返した。
「そうですねぇ……どこからお話しすれば良いのやら」
「わかるように。最初から。全部」
「あっはっは、わかりました。ふむ……では、お嬢さんは、本……物語はお好きですか?」
「……? それ、わたしの質問に関係ある? 本は好きよ。放課後は毎日下校時刻まで図書室で本を読んでるし、今だって……古い本を読んでいたはずなのに、気付いたらここに居たの」
わたしの話を聞いて、アルノアは納得したとばかりに指を鳴らす。やはり一々仕草が演技臭い。
「成る程! この本はトショシツという所にあったのですね。それをあなたが見付けたと」
「この本……?」
「ええ、ここは簡単に言うならば『物語の中』……つまりは、本の世界なのです」
「……はあ?」
その突拍子もない説明に、再び辺りを見回す。本が好きとはいえ、空想だって好きとはいえ、さすがに高校生にもなってそんな夢見がちな展開は俄には信じ難い。
良くて本を読みながらの転た寝による夢。悪くて頭がおかしくなったかの二択だ。取り敢えずわたしは夢から覚めようと、自らの頬をつねる。
「……痛い」
普通に痛かった。
現実だとすると、頭がおかしくなったのだろうか。地味にショックを受けていると、アルノアは不思議そうにわたしの様子を見た後、わたしの真似をして、あろうことかわたしの頬を思い切りつねる。
「痛い痛い!? っ、もう! 何でわたしをつねったの!?」
「……? お嬢さんの真似をしただけですよ。人間は不思議なことをするのだなぁと」
「何それ、まるで自分が人間じゃないような物言いね……」
「はは、私はこの物語の登場人物にして、崩れ行く世界の残り滓ですから」
「……?」
そう言ってアルノアは、近くにあった歪んで崩れかけた煉瓦造りの建物へと手を伸ばす。
危ないと注意しようとした途端、指先で触れた建物は倒壊するでもなく、その場所から脆く砂のように崩れて消えてしまった。
呆然とするわたしの隣で、アルノアは白い手袋に僅かに残ったその砂を、切なそうに見詰めた。
「……例えば音楽。素晴らしい曲があったとして、作曲者が自分だけで管理し、誰の耳にも入らず、存在すら知られず、作曲者が亡くなったとしたら。その曲はどんなに美しい旋律だとしても、初めから無かったものとして、この世から消えてしまうでしょう?」
「それは、そうね……だって知りようがないもの。そんな物があること自体、誰にも」
わたしが知らないだけで、そんな曲はこの世に何千何万と存在していたのだろう。しかし、そのことが今の状況に何の関係があるのか。わたしの視線を受けて、アルノアは言葉を紡ぐ。
「それと同じです。本は、物語は、読み手が居なければ誰にも認知されず消えてしまう。せっかくこのように本という形となって確立した世界となれたのに、観測者が居なければ、その事象は存在しないも同じ……」
歌うように言葉を紡ぎながら、あちこちが崩れかけて消えそうな世界で、アルノアは臆することなく道化のように楽しげに踊る。
「そしてここは、もうすぐ世界に無かったものとして捨てられてしまう物語の中。お嬢さんも、よりによってそんな世界へ迷い込むとは、不運でしたねぇ」
「……ちょっと待って、世界に捨てられるって、どういうこと?」
「ふむ、世界とは、無数にあるように見えて実は狭いのですよ。今の外の世界には娯楽が、物語が、情報が増えていて、多様性があるのでしょう? 観測者である読み手の数よりも、彼等が有する時間よりも、うんとうんと……物語は増え過ぎたのです」
それはそうだ。先程の音楽の例えで言うのなら、サブスクで聴き放題の音楽ですら、選ばれた一部の曲だけが流されて、その一部ですら、出だしやサビ以外は飛ばされているかもしれない。そうなると、聴かれなかった部分は曲に携わった人の中にしか存在しない。
この世界には、誰の目にも触れない、存在しているのにしていない物が、きっと無限にあるのだろう。
「お嬢さん。この本、きっととても埃を被っていたでしょう?」
「え……ええ、本棚の隙間に落ちていたから、大分。拾った時にくしゃみが止まらなかったわ」
「成る程……ふふ。それをあなたが見付けて、埃まみれにも関わらず本を開いてくれたと」
「だって、どんな本なのか気になったんだもの。……まあ、冒頭の、あなたが出て来る辺りまでしか読めていないけれど」
「そうでしたか……。恐らくこの本は、父が……この物語を書いた男が自分で作ったものなのでしょう。生み出された数が少なく、そもそも人目に触れることも少なかった。だから、元より世界の強度は弱かったのです」
「そういえば、装丁がちょっとダサくて、バーコードとかもなかったかも……?」
「ふふ。大方父が亡くなって、この本を持て余した誰かがトショシツに寄贈したのでしょう」
自分の産みの親である著者を悼むように、アルノアは両手を合わせる。けれどその表情は笑顔のままだ。
「……ずっと前に、父以外にも少しだけ誰かに物語を届けた記憶はあるのです。父以外に読まれるのは初めてで、嬉しくて。けれど、それは、もう随分と昔のこと……そして世界が綻ぶ程に、その数少ない読み手からも、この物語は忘れられてしまったのでしょう」
アルノアは遠い昔を懐かしむように、タンザナイトのような青にも紫にも見える綺麗な色の瞳を細める。
「……」
確かに、あれだけの埃が積もるとなると、少なくとも数年、あるいは十数年は誰の目にも届かない場所に放置され、挙げ句誰にも紛失を気付かれなかったことになる。
本好きのわたしですら、何年も昔に読んだ本の物語を一字一句完全に覚えているかと問われると、否だ。
「……えっと、つまり、誰からも忘れられて、消えそうだったってことよね? なら、わたしがこうして認知した時点で、この本の世界は延命じゃないの……?」
「いいえ……実を言うと、この世界の大半は、今や珈琲の海なのです」
「……はい?」
確かに、最初に珈琲の匂いがするとは思ったけれど。
怪訝そうにするわたしの手を引いて、アルノアは崩れかけた石畳を器用に歩く。
そうして、少し歩くとその先には、確かに茶色い染みのように広がる珈琲の海が存在した。
「……、……。本に珈琲溢すとか、最悪じゃない?」
「ですねぇ……この香りは嫌いではないのですが。お陰で後半に出てくる登場人物や町の大半は、水没してしまいました」
「……人や町が、水没……」
「ですから、この物語は、もう誰にも続きが読まれない。もし本が誰かの目に触れたとしても、冒頭の私だけが認知されて、ただそれだけ。しかし物語がなくては、すぐに私のことなど忘れられてしまうでしょう? ここは、最早消えるのを待つだけの世界なのです」
アルノアはわたしの手を離してしゃがみ込み、海の底に沈んだ文字を掬い上げる。浸した白い手袋が茶に染まり、手の中に揺れる単語にすらならない文字が、溶けるように消えた。
「あなたが、この人知れず消え行く運命だった本を、埃の中から掬い上げてくれた。登場人物である私、アルノアを知ってくれた。それが今この世界を辛うじて構築する、唯一の奇跡なのです」
「わたしが、あなたを知ったから……?」
「ええ……けれど私も、もうすぐ消えてしまうでしょう……物語にすらならない、僅かなページでだけ存在する私ですから」
「そんな……」
「……あなたが何故ここに迷い込んで来たのかはわかりませんが、最後にこうして、あなたに会えて良かったです」
良かったなんて微笑みながら、そんな悲しい目をしないで欲しい。
消えていく世界の中でただ一人残されて、これから関わる登場人物全員海の底や砂のように消えてしまって、それでも道化のように笑顔を崩さないアルノア。
それは物語の冒頭で、彼がこの町で、幸せに包まれた笑顔で居たからだろう。
彼が最後まで笑顔でいられる物語が、あるいは彼が悲しい時には泣けるような物語が、その先にあったかも知れないのに。このまま消えてしまうなんてあんまりだ。
「……それならわたしが、この世界の観測者になればいいわ……わたしが、この物語を知れば、あなたは消えずに済む?」
「え……いえ、ですから、この物語の先はもう読む術がないのですよ? 知るも何も……」
「読めないのなら、教えてよ! この先どうなるのか、あなたは知ってるはずよ。あなたの物語でしょう?」
しゃがんだままのアルノアは、驚いたように目を見開いて、わたしを見上げる。
「もしも珈琲の海に溶けて忘れてしまったなら、一緒に考えてよ! どうやったら、あなたが幸せになれるのか!」
どうしてこんなに必死になるのだろう。彼はわたしを見上げたまま、そんな顔をしている。
表向きには笑顔のままのアルノアだったけれど、彼の思っていることが、言葉にしなくても、顔に出なくても、何と無くわかった。
「今こうして目の前に居るのに、知ってしまったのに、消えるのを見過ごせるわけないでしょう……、わたしが……あなたの物語を紡ぐから!」
わたしの言葉に対し驚いたように、あるいは信じられないと疑うように、アルノアはその綺麗な瞳でじっとわたしを見詰めた後、今度は本心から喜ぶように微笑む。
「……こんな埃まみれの本を拾ってみたり、読んでみたり、あまつさえ冒頭の登場人物しか知らない物語に、続きを……? 本当に、物好きなお嬢さんだ。……後悔しても知りませんよ?」
そう言って立ち上がるアルノアは、わたしをただの迷子から、僅かな希望として捉えてくれたようだ。
この終わり行くだけだった世界で、わたしを信じて、諦めることを諦めてくれた。そのことが、嬉しくて堪らない。
何故この本の世界に迷い込んだのか、帰る方法があるのか、本当に救う方法があるのかも、今は何もわからない。
それでも、何としてもこの物語を、アルノアを救おう。それは紛れもなく、この世界を知った、今ここに居るわたしにしか出来ないことだった。
「取り敢えず……物語の冒頭らしく、自己紹介から始めましょうか。……わたしは潮折唯子、宜しくね」
「私はアルノア。フルネームは……珈琲の海の底に。改めてよろしくお願いしますね、ユイコ」
互いに微笑み合い、握手を交わす。改めて握った彼の掌は、人間と変わらず温かい。アルノアは、ただの登場人物なんかじゃない。確かにここに生きているのだ。
「アルノア。あなたに、とびっきりの素敵な物語を届けるわ」
「……ええ、楽しみにしていますよ。全ては、あなたの思うままに」
手を離すと、珈琲の染みた手袋のせいでわたしにも匂いが移ってしまった。濡れもべたつきもしないのは、とっくの昔に溢された本物の珈琲は乾いているからだろうか。
本に珈琲を溢すなんて、本好きとしては言語道断だ。けれど不思議と、嫌な感じはしない。この香りも、既にこの本の一部なのだろう。
読み手で、書き手、そして登場人物。これからやることは盛り沢山だ。不安も、心配も、それはもちろんあるけれど、今はこれまで読んだどんな本よりも、ドキドキわくわくしている自分が居た。
こうして崩れ行く世界での、誰にも知られることのないわたし達の新たな物語は、珈琲の海と噎せ返りそうな砂埃の中で、ひっそりと始まったのだった。