◆
頭の中に存在していた霧が少しずつ晴れていって、意識がはっきりとしていく。
そのうち聴覚が機能し始めて、パタパタと足音が聞こえて来た。お母さんが忙しなく動いているのかと思ったけど、すぐに僕は独り暮らしをしていることを思い出した。つまり、僕が生み出す音以外は聞こえないはず。
一気に恐怖心に襲われ、僕は目を開けた。
そこは、知らない場所だった。僕の部屋ではない。
僕の部屋よりもおしゃれな内装で、つい見渡してしまう。
たしかにここは知らないのに、そこに置かれているものたちを見ていると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。
「ここ……」
「俺の家」
そう言いながら現れたのは、カップを持った瀬凪だった。
「瀬凪!?」
なんで僕が、瀬凪の家にいるのか。
その状況も飲み込めないけど、瀬凪の雰囲気が変わっていることにも戸惑いが隠せなかった。
といっても、僕は高校時代の瀬凪がどんなふうに過ごしていたのかを知らないのだから、当たり前なのだけど。
ほんのりと香ってくる匂いは、コーヒーだろうか。昔は苦くて飲めないと言っていたのに。
唐突に、僕たちの間に空白の期間があったのだと思い知らされた気分だ。
そして、それにショックを受けている僕がいた。
「……透愛」
僕がなにも言えないでいると、瀬凪が僕の名前を呼んだ。
その瞬間、昨日の熱が一気に甦った気がした。飲み会で女の人が近くに来たあとの記憶は思い出せないのに。
「な、なに!?」
僕が過剰に反応してしまったから、瀬凪はほんの少し、目を丸くした。その目は、ただ名前を呼んだだけなんだけど?と語っているように見える。
僕だって、もっと平常心でいたかったけど、無理だったんだ。
「昨日のこと、どれくらい覚えてんの」
「えっと……」
天井を見上げて思い出そうとするけど、正確に思い出せない。
そこでなにがあったのかも、どうして僕が瀬凪の家にいるのかも。
「今度から他人と酒飲むの、禁止ね」
すると、怒りがこもった声が聞こえて来た。瀬凪のほうを見ると、瀬凪は僕を睨んでいる。
「え、なんで?」
あまりにも理不尽な命令に、僕は間抜けな返答をした。
でもすぐに理解した。僕が瀬凪に迷惑をかけたからに決まってる。
「なんでも」
瀬凪がここまで不機嫌になるようなことを、僕はやってしまったらしい。
なにがあったのか聞きたいところだけど、火に油を注いでしまいそうだ。
とりあえず、瀬凪の怒りを鎮めておきたい。
「で、でも僕、まだ十八だし、飲むことなんて」
「昨日飲んだんだろ、間違って」
飲むことなんてないからそんなに心配しないで、と言おうとしたのに、遮られた。
さっきよりも怒気を含んだ声で。
これはもうなにを言ってもダメだ。
僕は身体を小さくして「……はい」と返事をすることしかできなかった。
「透愛、朝ご飯は?」
そのままお通夜みたいな空気になるかと思えば、柔らかい声でそう聞かれた。
瀬凪の声だ。
ずっと瀬凪と話しているはずなのに、なんとなくそう思った。
「食べたい!」
僕の感覚は一気に中学時代に引き戻されて、お菓子を見せられた小さな子供みたいな反応になった。
それを見た瀬凪が、小さく笑う。
瀬凪が大人っぽくなっているのに対して、僕が子供のままだから、笑われた?
……それはなんか、面白くないな。
「なに拗ねてんの」
「別に」
僕が引き続き頬を膨らませて言うから、瀬凪は「拗ねてんじゃん」と言いながら、重ねて笑った。
あの日見た、悲しそうな空気はそこにはない。
瀬凪がリラックスして笑ってくれているのなら、別にいいか、とも思えてくる。
まあ、面白くないって気持ちが完全に消えたわけではないけど。
「そうだ。昨日、風呂に入ってないし、先に入ってきたら? その間にご飯用意しておくから」
そういえば、僕が着ている服は昨日のままだ。
こんな状態なのに、僕をベッドに寝かせてくれていたことが驚きだ。いくら友達でも、許せない領域みたいなのがあるだろうに。
「あ、でも下着とかない……」
「新品のやつ、貸すよ」
瀬凪はクローゼットを開けると、棚から包装されたままの下着を渡してくれた。それだけでなく、服まで貸してくれて。
「ありがとう」
僕がそう言うと、瀬凪は微笑んで返してくれた。
そして風呂場に向かう。
そこには洗濯機だけでなく、洗面台まであった。僕が借りている部屋にはないから、ちょっと羨ましい。
最初はいらないと思ってたけど、狭いシンクで顔を洗うのは結構不便で、小さくてもいいからほしいと思い始めていたから。
そして洗面台の前に立って、僕はひとつのことに気付いてしまった。
「芸術点満点じゃん……」
強風に煽られたあとのように靡いた寝癖に。
こんな状態でさっき瀬凪と話してたのかと思うと、恥ずかしくてたまらない。
はやくお風呂に入ってしまおうと、シャツのボタンを上から外していたときだった。
「透愛ごめん、タオル……」
閉めていたはずのドアが開き、瀬凪が姿を見せた。
目が合い、僕も瀬凪も固まって無言の時間が流れる。
「……ごめん!」
それからすぐに、瀬凪がドアを閉めた。あまりにも派手に閉めるから、相当慌てていたんだと思う。僕たちの間柄で、そんな反応をするなんてちょっと予想外だ。
「タオル、適当に使っていいから」
ドアの向こうにいる瀬凪が、そう言ってから離れていくのがわかった。
一緒にお風呂に入ったこともあるのに、変な瀬凪。
それから瀬凪のシャンプーなどを借りて、僕はお風呂を済ませた。
「瀬凪、お風呂ありがとう」
髪を拭きながら瀬凪のもとに戻ると、瀬凪は目を見開いた。
なにか、変なところでもあるのかな。しいて言うなら、瀬凪の服が大きくて着こなせていないところかな。
でもこれは、僕は悪くないと思う。瀬凪が成長しすぎなだけで。
「あー……っと、ドライヤーなかった?」
瀬凪は驚いた顔を見せたことをなかったことにしたいのか、なんでもなかったかのように言った。
あれをなかったことにするのは無理だと思うけど、まあ触れないでおこう。僕が惨めになるだけな気もするし。
「あったけど、自然乾燥でいいよ」
「ダメ。風邪引いたら困るし、ちゃんと乾かしてきて」
「……わかった」
大人しくお風呂場に戻り、瀬凪の言う通りに髪を乾かしていく。ある程度乾いたところでドライヤーを止めると、様子を見に来ていた瀬凪が鏡越しに僕の髪を見つめた。どこか不満そうに見えるのは、きっと気のせいではない。
「貸して」
僕はもういいのに、瀬凪は納得できないらしく、僕からドライヤーを受け取ると、そのまま僕の髪を乾かし始めた。
暖かい風を浴びながら、瀬凪が僕の髪に指を入れて動かす。なんというか、犬になった気分だ。ちょっと気持ちがいい。
それからカチッと音がしたと思えば、冷風に変わった。急に冷たい空気になったので、肩がビクッと跳ねた。
「うん、これでオッケーかな」
冷風はすぐに終わり、瀬凪はドライヤーのスイッチを切った。
なんとなく髪に手を通すと、すごくふわふわになっていた。
「ありがとう、瀬凪」
「ん」
少し照れ臭そうに返すところは、変わっていないみたいだ。それもまた嬉しくて、僕の頬はますます緩んだ。
頭の中に存在していた霧が少しずつ晴れていって、意識がはっきりとしていく。
そのうち聴覚が機能し始めて、パタパタと足音が聞こえて来た。お母さんが忙しなく動いているのかと思ったけど、すぐに僕は独り暮らしをしていることを思い出した。つまり、僕が生み出す音以外は聞こえないはず。
一気に恐怖心に襲われ、僕は目を開けた。
そこは、知らない場所だった。僕の部屋ではない。
僕の部屋よりもおしゃれな内装で、つい見渡してしまう。
たしかにここは知らないのに、そこに置かれているものたちを見ていると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。
「ここ……」
「俺の家」
そう言いながら現れたのは、カップを持った瀬凪だった。
「瀬凪!?」
なんで僕が、瀬凪の家にいるのか。
その状況も飲み込めないけど、瀬凪の雰囲気が変わっていることにも戸惑いが隠せなかった。
といっても、僕は高校時代の瀬凪がどんなふうに過ごしていたのかを知らないのだから、当たり前なのだけど。
ほんのりと香ってくる匂いは、コーヒーだろうか。昔は苦くて飲めないと言っていたのに。
唐突に、僕たちの間に空白の期間があったのだと思い知らされた気分だ。
そして、それにショックを受けている僕がいた。
「……透愛」
僕がなにも言えないでいると、瀬凪が僕の名前を呼んだ。
その瞬間、昨日の熱が一気に甦った気がした。飲み会で女の人が近くに来たあとの記憶は思い出せないのに。
「な、なに!?」
僕が過剰に反応してしまったから、瀬凪はほんの少し、目を丸くした。その目は、ただ名前を呼んだだけなんだけど?と語っているように見える。
僕だって、もっと平常心でいたかったけど、無理だったんだ。
「昨日のこと、どれくらい覚えてんの」
「えっと……」
天井を見上げて思い出そうとするけど、正確に思い出せない。
そこでなにがあったのかも、どうして僕が瀬凪の家にいるのかも。
「今度から他人と酒飲むの、禁止ね」
すると、怒りがこもった声が聞こえて来た。瀬凪のほうを見ると、瀬凪は僕を睨んでいる。
「え、なんで?」
あまりにも理不尽な命令に、僕は間抜けな返答をした。
でもすぐに理解した。僕が瀬凪に迷惑をかけたからに決まってる。
「なんでも」
瀬凪がここまで不機嫌になるようなことを、僕はやってしまったらしい。
なにがあったのか聞きたいところだけど、火に油を注いでしまいそうだ。
とりあえず、瀬凪の怒りを鎮めておきたい。
「で、でも僕、まだ十八だし、飲むことなんて」
「昨日飲んだんだろ、間違って」
飲むことなんてないからそんなに心配しないで、と言おうとしたのに、遮られた。
さっきよりも怒気を含んだ声で。
これはもうなにを言ってもダメだ。
僕は身体を小さくして「……はい」と返事をすることしかできなかった。
「透愛、朝ご飯は?」
そのままお通夜みたいな空気になるかと思えば、柔らかい声でそう聞かれた。
瀬凪の声だ。
ずっと瀬凪と話しているはずなのに、なんとなくそう思った。
「食べたい!」
僕の感覚は一気に中学時代に引き戻されて、お菓子を見せられた小さな子供みたいな反応になった。
それを見た瀬凪が、小さく笑う。
瀬凪が大人っぽくなっているのに対して、僕が子供のままだから、笑われた?
……それはなんか、面白くないな。
「なに拗ねてんの」
「別に」
僕が引き続き頬を膨らませて言うから、瀬凪は「拗ねてんじゃん」と言いながら、重ねて笑った。
あの日見た、悲しそうな空気はそこにはない。
瀬凪がリラックスして笑ってくれているのなら、別にいいか、とも思えてくる。
まあ、面白くないって気持ちが完全に消えたわけではないけど。
「そうだ。昨日、風呂に入ってないし、先に入ってきたら? その間にご飯用意しておくから」
そういえば、僕が着ている服は昨日のままだ。
こんな状態なのに、僕をベッドに寝かせてくれていたことが驚きだ。いくら友達でも、許せない領域みたいなのがあるだろうに。
「あ、でも下着とかない……」
「新品のやつ、貸すよ」
瀬凪はクローゼットを開けると、棚から包装されたままの下着を渡してくれた。それだけでなく、服まで貸してくれて。
「ありがとう」
僕がそう言うと、瀬凪は微笑んで返してくれた。
そして風呂場に向かう。
そこには洗濯機だけでなく、洗面台まであった。僕が借りている部屋にはないから、ちょっと羨ましい。
最初はいらないと思ってたけど、狭いシンクで顔を洗うのは結構不便で、小さくてもいいからほしいと思い始めていたから。
そして洗面台の前に立って、僕はひとつのことに気付いてしまった。
「芸術点満点じゃん……」
強風に煽られたあとのように靡いた寝癖に。
こんな状態でさっき瀬凪と話してたのかと思うと、恥ずかしくてたまらない。
はやくお風呂に入ってしまおうと、シャツのボタンを上から外していたときだった。
「透愛ごめん、タオル……」
閉めていたはずのドアが開き、瀬凪が姿を見せた。
目が合い、僕も瀬凪も固まって無言の時間が流れる。
「……ごめん!」
それからすぐに、瀬凪がドアを閉めた。あまりにも派手に閉めるから、相当慌てていたんだと思う。僕たちの間柄で、そんな反応をするなんてちょっと予想外だ。
「タオル、適当に使っていいから」
ドアの向こうにいる瀬凪が、そう言ってから離れていくのがわかった。
一緒にお風呂に入ったこともあるのに、変な瀬凪。
それから瀬凪のシャンプーなどを借りて、僕はお風呂を済ませた。
「瀬凪、お風呂ありがとう」
髪を拭きながら瀬凪のもとに戻ると、瀬凪は目を見開いた。
なにか、変なところでもあるのかな。しいて言うなら、瀬凪の服が大きくて着こなせていないところかな。
でもこれは、僕は悪くないと思う。瀬凪が成長しすぎなだけで。
「あー……っと、ドライヤーなかった?」
瀬凪は驚いた顔を見せたことをなかったことにしたいのか、なんでもなかったかのように言った。
あれをなかったことにするのは無理だと思うけど、まあ触れないでおこう。僕が惨めになるだけな気もするし。
「あったけど、自然乾燥でいいよ」
「ダメ。風邪引いたら困るし、ちゃんと乾かしてきて」
「……わかった」
大人しくお風呂場に戻り、瀬凪の言う通りに髪を乾かしていく。ある程度乾いたところでドライヤーを止めると、様子を見に来ていた瀬凪が鏡越しに僕の髪を見つめた。どこか不満そうに見えるのは、きっと気のせいではない。
「貸して」
僕はもういいのに、瀬凪は納得できないらしく、僕からドライヤーを受け取ると、そのまま僕の髪を乾かし始めた。
暖かい風を浴びながら、瀬凪が僕の髪に指を入れて動かす。なんというか、犬になった気分だ。ちょっと気持ちがいい。
それからカチッと音がしたと思えば、冷風に変わった。急に冷たい空気になったので、肩がビクッと跳ねた。
「うん、これでオッケーかな」
冷風はすぐに終わり、瀬凪はドライヤーのスイッチを切った。
なんとなく髪に手を通すと、すごくふわふわになっていた。
「ありがとう、瀬凪」
「ん」
少し照れ臭そうに返すところは、変わっていないみたいだ。それもまた嬉しくて、僕の頬はますます緩んだ。



