新しい生活にもぼんやりと慣れ始めた、四月下旬。僕のことを知っている人がほとんどいないような土地で、僕は大学生をしていた。
友達作りってこんなに難しかったっけ?と思う毎日。でも、人がたくさんいると疲れてしまう僕にとって、講義中の休憩所は居心地がよかった。
二限が始まった今、僕を含めて、片手で数えられる程度しかいない休憩所。先日買った本でも読もうかと鞄を漁っているときだった。
「透愛ー!」
静かな空間で、僕の名前を呼ぶ声が響いた。
顔を上げると同時に、声の主が僕の前に座る。昨日まで明るい茶髪がふわふわしていたのに、今日はそれがハーフアップのようにまとめられていて、楽しそうな表情がよく見える。
僕とは違う、誰とでも仲良くなれるタイプの人は、まとう空気が違う気がする。
「中津くん、おはよう」
僕が言うと、中津くんは白い歯を見せて笑って「おはよ」と返してくれた。でもすぐに、なにかを企んでいるかのようにニヤリと笑っているように見えた。
僕と真反対な彼が、僕に話しかけてくれる理由は、ひとつしか思い当たらない。
「あ、今日のノートだよね? ちょっと待ってね……はい、どうぞ」
僕が一限で使ったルーズリーフをまとめた青いバインダーを差し出すと、ふと影ができた。
「ちょっと大知」
中津くんの名前が呼ばれ、僕たちは顔を上げた。高校時代には僕の周りにはいなかった、垢抜けた女の子が二人、そこにいた。たしか、黒髪ショートカットの子が田町さんで、茶色の髪をふわふわさせてるのが橋本さんだったはず。
今、中津くんに声をかけてほんの少し軽蔑するかのような目を向けているのは、田町さんだ。
それに対して、中津くんは一瞬気圧され、「な、なんだよ」と言葉を詰まらせた。
「また笹森くんに迷惑かけてるの?」
「はあ? またってなんだよ、またって」
心外だと言わんばかりの言い方だけど、入学して一ヶ月も経っていないのに、何度貸しただろうかと数えてしまうくらいには、中津くんにノートを貸した気がする。
「笹森くんも断っていいからね? 単位落としても、自分のことなんだし」
穏やかな雰囲気をまとっている橋本さんが発した辛辣な言葉に、曖昧に笑って返すことしかできない。ここで、僕は別に気にしないと言えば、さらに中津くんが責め立てられるような気がしたから。
対して、中津くんは文句言いたげだ。
「そうは言うけど、お前らだって透愛のノートあてにしてるときあるだろ」
すると、二人はそろって視線をそらした。図星だと言っているようなものだけど、そんなやりとりがされていたなんて、知らなかったな。
「それはまあ……」
「笹森くん、まとめ上手だし」
「自分のを見るより勉強になるし?」
すらすらと並べられる言葉に、僕は少し驚いたけど、中津くんは鼻で笑った。
「物は言いようだな」
二人は頬を膨らませて中津くんをにらんでいる。だけど、中津くんはまったく気にする様子を見せずに、立ち上がった。
「じゃあ透愛、ちょっとだけ借りるわ」
そして中津くんは学内にあるコンビニに向かった。
彼が去っていく中で、二人はさっきまで中津くんが座っていた席を陣取り、並んで座る。
「ホント、大知って笹森くんに甘えすぎだよね」
「笹森くんも、嫌なときは嫌って言っていいなよ? そうしないとアイツ、ずっと調子に乗るから」
「あはは……」
二人の言葉の勢いに、僕は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
そして、二人は僕がいることも忘れたかのように、二人で会話を始めてしまった。中津くんへの小言から、僕が知らないことへと話題が展開されていき、ついていけなくなった僕は、改めて本を読むことにした。
「透愛、ノートありがとな」
僕が二ページくらい読み進めたとき、中津くんが戻ってきた。そのページに竹製の栞を挟み、バインダーを受け取る。
「いえいえ」
「笹森くん、次は見せなくていいからね」
僕がバインダーを鞄に入れていると、田町さんが釘をさすように言った。
「はあ? なんでお前らが決めんの」
中津くんは文句を返しながら、今度は僕の隣に座った。
ここから僕を除いた会話が続けられることが確定しているのなら、ちょっと居心地が悪いから、この席を立ちたい。でも、ここで急に立ち上がる勇気もないから、僕は手元の本を開いた。
「じゃあ、今日休んだ理由言ってみてよ」
「寝坊」
橋本さんに言われて、中津くんは間髪入れずに返した。朝が弱いとは言っていたけど、やっぱり今日もだったんだ。
「ほらみなよ」
「どうせ昨日もどっかの飲み会に参加してたんでしょ」
「未成年のくせに」
「あーもう、うるさいな。お前らに関係ないだろ」
二人の小言を、中津くんは強制終了させる。その声が少し大きくなって、周りから視線を感じたけど、中津くんたちはまったく気にしていない。
「うちらは笹森くんの代わりに言ってるだけだし」
田町さんはそう言ってくれるけど、僕が頼んだことは一度もないんだよな。
「……まあいいや。なあ透愛、今日ってヒマ?」
「え」
急に僕に話題が降られ、間抜けな声が出てしまった。それは僕が話を聞き流していたと言っているようなもので、中津くんはもう一度「今日の夜、ヒマ?」と尋ねてくれた。
「今日? えっと……」
僕はスマホのスケジュールアプリを開く。相変わらず空白のスケジュール。見るまでもなかったな。
「うん、バイトも休みだし、予定はないよ」
「じゃあさ、透愛も飲み会参加しない?」
中津くんの表情はワントーン楽しそうになった。
なるほど、彼が企んでいたのは、これだったのか。
でも、中津くんが参加するような飲み会に僕が参加したら、空気を悪くしてしまうような気がしてならない。断ろう。
だけど、もう予定はないと言ってしまった手前、どんなふうに断るのが最善だろうか。
「でも僕、まだお酒飲めないし……」
「それは俺もだし、飲めなくても全然楽しめるよ」
僕が頭をフル回転させて導き出した理由が、たった一言で論破されてしまった。本当に僕が気にしているのは、空気に馴染めるかどうかなんだけど、中津くんには伝わらなかったらしい。
「それもそっか……でも、なんで僕?」
「そりゃあもちろん、透愛が友達だからだよ。一緒に行きたいなって思っただけ」
中津くんは嘘偽りのない笑みを浮かべた。
友達。中津くんと、僕が?
まあ、一度でも話した人はみんな友達みたいに言う中津くんだから、僕もその一人ってだけなんだろうけど。それでも、友達という単語に受かれている僕がいた。
「じゃあ……」
「おっけ、了解」
僕が完全に頷くより先に、中津くんが応えた。僕が言うってわかっていたみたい。いや、断られるとは微塵も思っていないと言ったほうが正しいのか。
「えー、うちらは?」
「笹森くんだけ?」
すると、田町さんと橋本さんがなにかを期待したような目で中津くんを見ていた。
「今日は透愛と遊ぶ日だからな。却下」
「あっそ」
田町さんのそれをきっかけに、二人は立ち上がった。
「じゃあ笹森くん、大知になにかされたら、すぐに教えてね」
「うちらは笹森くんの味方だから」
橋本さんは僕には軽く手を振ってくれたけど、中津くんのほうを見て、威嚇するように舌を出した。
二人が去っていく背中を眺めながら、中津くんは「なんだよ……」とこぼすと、続いて立ち上がった。
「透愛、次授業あったよな?」
「うん」
必修ではないけど、ちょっと気になっていた講義が、三限にある。つまり、中津くんは取っていない授業だ。
「じゃあ、それが終わったら連絡して」
「わかった」
そして中津くんが「またな」と言って去ると、休憩所は静寂の空間へと戻った。
やっぱりこっちのほうが僕にあっているのかもしれないなんて思いながら、。僕は読書を再開した。



