君の愛もいらない


 あの日は僕の人生の中で、最高で、最悪な日だった。


   *


 秋の土曜日という二度寝をしたくなる朝、僕の目はすっきりとしていた。
 肌寒くて布団に戻りたくなる気持ちなんてまったくなくて、僕は鼻歌を口ずさみながら、ベッドを整える。
 今日は瀬凪(せな)がうち来て、泊まりで受験勉強をする日だ。
 瀬凪と同じ高校に行くには、少し学力が足りない現状なのに、瀬凪が勉強を見てくれることが嬉しくて、危機感なんてものは存在していなかった。
 顔を洗って、服を着替えて。
 瀬凪が僕の部屋に来るのは初めてじゃないけど、お泊まりは久しぶりだし、少し部屋を綺麗にして。

「これでよし」

 いつもよりも気合いを入れて掃除した部屋を見て、僕は呟いた。
 同時に、チャイムが鳴る。

「透空(とあ)ー! 瀬凪君来たよー!」

 僕よりも先に里桜(りお)姉が出たようで、階段を降りていると大きな声で呼ばれた。
 そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえるよ、瀬凪がいるのに恥ずかしいな。
 いつもだったら、そういう不満は口にするけど、今日は些細な不満なんて、どうでもよかった。

「はーい」

 急いで降りると、瀬凪が大きめのリュックサックを背負ってそこにいた。
 慌てている僕を見て、柔らかく笑っている。

「瀬凪! おはよう」

 瀬凪に会えて嬉しい気持ちが、声、そして表情に現れた。
 だからなのかわからないけど、瀬凪にさらに笑われてしまった。

「おはよ」

 僕は「へへ」と照れ笑いをすると、隣から嫌な感じの視線を感じた。
 里桜姉が、生暖かい目で僕を見ていた。
 すん、と笑顔から表情が変わったのが、自分でもわかる。

「……なに」
「別に? 一緒に受験勉強するなんて、仲良しだなあと思って。瀬凪君にしっかり教えてもらいなよー?」

 里桜姉はニヤニヤと笑いながら、リビングに消えていった。
 というか、最後の一言は余計だよ。

「相変わらず仲良いよな、透空と里桜姉」
「そんなことないよ」

 瀬凪が靴を脱ぐところを見守りながら、僕は少しだけムッとして言った。
 だからか、瀬凪は笑みをこぼす。

「それが仲良いって言うんだよ」

 僕は違うと思うけどなあ、と心の中で返しながら、僕たちは二階に上がる。

「どうぞ」
「あれ。掃除したんだ?」

 部屋に入って一番にニヤリと笑うなんて、浮かれ気分の僕が変みたいじゃないか。
 なんか、今の瀬凪は里桜姉みたいだ。

「勉強するために、ちょっと広くしただけだよ!」

 僕はわかりやすく拗ねたように言い、今日のために置いておいたローテーブルの前に座る。

「へえ?」

 瀬凪はそれが嘘だということまでも見抜いたかのような笑みを浮かべながら、僕の隣に来て勉強道具を並べていく。
 ワークの表紙には“応用”という文字が並び、やっぱり僕とは頭の作りが違うんだと思い知らされる。
 僕もこのレベルができないといけないのだとしたら、浮かれている場合じゃない。
 そして僕たちは、ときどき瀬凪に教えてもらいながら、黙々と受験勉強を進めていった。
 休憩の合図は、僕のお腹の音だった。
 わりと集中してきたタイミングでのことだったからか、僕たちは目を合わせて一瞬時が止まったように固まる。
 すると瀬凪が笑い、僕は恥ずかしさで俯いた。

「十時半か……昼前だけど、なんか買いに行く?」
「行く! 行きたい!」

 一階に降りると、母さんと里桜姉がなにか話しながら料理をしていた。
 僕がリビングに顔を覗かせたことで、僕たちに気付いた里桜姉と目が合い、その雑談は止まる。

「どうかした?」
「ちょっとお菓子とか買ってこようかと思って」
「あ、じゃあ」

 里桜姉はそう言って、自分のカバンから財布を取り出した。

「これで買っておいで」

 差し出されたのは、二枚の千円札。
 いつもなら僕にお金を渡すなんて絶対にしないから、思わず二度見してしまった。

「いいの?」
「うん。瀬凪君も買ってきなよ? 透空に教えてくれてるお礼みたいなものだし」

 瀬凪が「俺も?」と言うと、里桜姉は笑って頷いた。
 なんだ、僕よりも瀬凪に向けてだったのか。
 それならありがたくもらっておくかな。

「ありがとう、里桜姉」

 お金を受け取ると、里桜姉は僕たちを追い払うように手を払った。
 外に出ると、空には厚い雲が流れている。

「今日って雨降るんだっけ?」
「あー……今朝の天気予報で、夕方に少しだけ雨が降るかもって言ってた気がする」
「そうなんだ。瀬凪、傘持ってなかったよね」
「ないけど……まあ、大丈夫だろ」

 たしかに、今日はお泊まりだし、夜に雨が降るくらいなら問題ないか。
 そして僕たちは近所のコンビニに着き、勉強の合間につまめるお菓子をいくつか買って、家に戻った。