秋月先生がやってきて、一週間が経った。
 幸先が不安になるようなやり取りがあったにも関わらず、僕たちのクラスは“平和”だった。

 あの日以来、秋月先生は普通の先生だったし、彼らも先生には噛みつかなかったから。

 どうやら、僕の心配しすぎだったみたいだ。

 それならそれで構わない。
 日常なんて、平和で平穏が一番なんだから。

 そんなことを思いながら、放課後、僕は誰もいない教室で蒼唯の机の中を整理していた。
 新学期ということもあり、あっという間にプリントが溢れるようになってしまっていた。

 みんな、適当に入れすぎだろう。
 プリントの端どころか、プリント自体が折れてるじゃないか。

 まったく……そんなに蒼唯に興味ないか?
 僕は、あれほど優しい男を知らないが?

 少しイライラしながら、机でプリントを揃える。

 でも、それよりも、全員がいなくなってからじゃないと蒼唯の机に近付けない僕に、ムカついた。

 やっぱり僕は、臆病者だ。

「……優しいですね」

 唐突に背後から声をかけられたことで、僕は肩をビクつかせ、せっかく揃えたプリントを床にばらまいてしまった。
 振り向くと、そこには秋月先生が立っていた。

 ずっと真顔が多い秋月先生。
 あっても、ニヤリと笑うくらい。

 そんな秋月先生の表情がとても柔らかくて、僕はまたさらに驚いてしまった。

 僕が衝撃で固まってしまったのに対して、秋月先生はプリントを拾っている。

 しまった、先生にだけ拾わせるわけにはいかない。

 僕もしゃがんで、プリントを集める。

 結構、先生と距離が近くなってしまったからか、甘い匂いが鼻に届いた。
 シャンプーなのか、柔軟剤なのか、それとも香水なのか。

 あまり興味を抱いてこなかったせいで、まったく判別できないけれど、なんだか、知っている匂いな気がした。

樋野(ひの)君は友達思いですね」
「え……いや、僕は、そんな……」

 無様にどもってしまった。
 なんてかっこ悪いんだ。

 それにしても、友達思い、か。
 その言葉を素直に受け止められたら、どれだけよかっただろう。

 最後の一枚に手を伸ばしたが、それは一時停止ボタンを押されたかのように、止まった。

「……僕は、蒼唯の友達なんでしょうか」

 言葉を見失いかけても、ずっと考えていたことが、思わず口を出た。

 何度も、何度も、何度も。
 考えないようにしては出てくる悩み。

 去年は、自信を持って友達だって言えていたんだけどな。

「こうしてプリントの整理をしてあげていますし、友達だと思いますよ?」

 僕が急に変なことを言ったことで、先生は首を傾げている。

「プリントを揃えるくらいなら……友達じゃなくてもできますよ」
「でも、クラスの誰も動いていません。樋野君だけが、こうして行動しています」

 先生はそう言いながら、ラスト一枚を拾い、僕に渡してくれた。

 そう言われてしまうと、僕は僕のことを許してしまいそうだ。
 蒼唯を裏切ってしまった僕のことを。

「少なくとも、彼らよりは友達と言えるのではないですか?」
「彼らって……」
「……人の心を忘れた怪物、ですかね」

 きっと、冴木君たちのことを言っているんだろう。
 言い得て妙ではあるけれど、教師が使う表現とは思えなかった。

 なにが、先生にここまで言わせているんだろう。

「秋月先生は、彼らのことが……苦手、ですか」

 僕なりに言葉を選んだつもりだ。
 本当なら、「嫌いですか」と聞いてもいいところだけど、さすがに「はい」と答えられては、反応に困る。
 それゆえに、少し柔らかいニュアンスの言葉にした。

 すると、先生はゆっくりと口角を上げた。
 僕が知っている中で、最も狂気じみた笑みだ。

 なにか間違えれば、人を殺してしまいそうな、冷ややかな瞳。
 それを目の当たりにして、思わず背筋が凍る。

「樋野君? 顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」

 秋月先生は僕の顔を覗き込みながら、優しい声で聞いてきた。

 ほんの数秒前まで、恐ろしい表情を浮かべていたとは思えない豹変っぷりだ。

「いや、えっと……大丈夫、です」

 自分の生徒のことを『人の心を忘れた怪物』と言って。
 平気で憎しみが込められたような笑みを浮かべる。

 そんな人が今、目の前でなにを考えているのか。 
 僕にはわからなくて、ますます恐ろしく思った。 

「……すみません、あの、僕……帰ります」

 僕は散らかしたプリントを置いて、机にぶつかりながら自分の席に向かった。
 そして、机の上に置いていたリュックを右肩に掛けると、教室から逃げ出した。



 その、翌朝のこと。

 教室に入ると、久々に空気が悪かった。
 誰かが誰かを噂する、嫌な空気。

 クラスメイトの視線は、僕に向けられている。
 どうやら、噂の的は僕らしい。

 その理由は、黒板にはっきりと書かれていた。

『秋月、桶野と密会!?!!』

 どこの週刊誌の見出しなんだ。

 ご丁寧に、昨日の放課後の写真まで貼られている。
 僕が蒼唯のプリントをばらまいて、しゃがんでいるときの写真が、何枚か。
 撮られていたなんて、まったく気付かなかった。

 でも、僕が挙動不審なのは、写真でもわかる。
 本当に無様だ。

 といっても、僕の名前を間違えて書いているあたり、僕には興味がないことを示しているように感じる。
 これはきっと、僕宛てじゃない。

 そのとき、秋月先生が教室にやって来た。
 先生の後ろに真面目なクラスメイトがいることから、この事態を先生に伝えに行ったのだろう。

 彼女の正義感は評価されるべきだろうけど、この判断は正しいようには思えなかった。

 前の方の出入口から入ってきた先生は、まっすぐ黒板を見つめている。

「教師のくせに、生徒に手を出すとかヤバくない?」

 戸惑いの空気が流れる中で、仲原さんが声を上げた。

「もしかしてさあ、若い男捕まえるために、教師になった? だとしたらごめんね? 邪魔しちゃって」

 隣で柿崎さんが笑う。

 違う。
 僕は先生とそんな話はしていない。
 そんな空気にすらなっていない。

「お前も言ってやれよ。迷惑だって」

 冴木君は困惑する僕に右腕を回し、肩を組んできた。

 迷惑。
 あのときと、同じだ。

 あれを繰り返すなんて、僕は嫌だ。

 本当のことなんか言うなよ?

 だけど、そんな圧を感じてしまって、僕は本当のことが言えなくなってしまった。

「若ければ相手してもらえるとでも思ったー?」
「ウチらからしてみれば、センセーは余裕でオバサンだからさあ」

 仲原さんと柿崎さんの攻撃力が、どんどん上がっていく。

 嘘に嘘が重ねられ、真実に塗り替えられていく。
 彼らには、それを実現する力があった。

 僕はまた、この大きな嘘の一部になるのか?

 そんなの二度とごめんだと思っていたのに、いざ突きつけられると、僕は飲み込まれることしかできなかった。

「ほら、樋野君も言ってあげな? 勘違いすんなって」

 仲原さんも柿崎さんも、その表情で”言え”と命令しているようだった。

 僕には、それに応える勇気もなかった。

「ありゃりゃ。先生のせいで樋野君が黙り込んじゃったじゃん。どーすんの?」

 秋月先生に視線をやると、先生はただ静かに目を伏せた。

 それを見て、三人は声を上げて笑った。

「もしかして、ショック受けちゃった!?」
「やっぱ現実が見えてなかったかあ」
「てか、男子高校生を狙って教師になるとか、教師失格じゃね?」

 ……違う。
 あれは、ショックを受けた顔じゃない。
 僕に失望した表情だ。

 あんたはそんなふうに蒼唯を裏切ったのか。

 そう言っている。

 やっぱり先生は、蒼唯が入院した原因を知っているんだ。

「はいはーい、こちら、生徒に手を出しちゃうヤバーいセンセーでーす」

 それなのに、彼らはそのことに気付かず、柿崎さんに至っては、先生にカメラを向けて動画を撮っている始末。
 絶対にやめたほうがいいのに、誰も彼らを止められない。

「はい、先生。一言どーぞ?」

 仲原さんが促すと、先生は柿崎さんが持っているスマホを見て、微笑んだ。
 だが、まったくもって目が笑っていない。

 真正面にそれを見た柿崎さんたちは、一瞬言葉を飲んだ。

「そうやって他人を陥れて、楽しいですか?」
「……なに? 説教? うざいんだけど」

 一度、秘密を暴露された過去があるからか、仲原さんの言葉には覇気がなかった。
 それでも、虚勢を張ったまま。
 きっと、彼らの辞書には『引きさがる』という文字はないのだろう。

「説教? そんな生温いもの、貴方たちには物足りないでしょう」

 まさか、柿崎さんが動画を撮っていることを、利用するつもりか?
 またあの日みたいに、彼女たちの秘密を暴露するんじゃ……

「柿崎志緒里さん。わがままを貫く、自己中心的なプリンセス様。そのわがままで、どれだけの人から笑顔を奪ってきたんでしょうね」
「ちょっと、本名言わないでよ! これ、ライブなんだけど!」

 柿崎さんはそう言いながら、慌ててスマホを操作している。

 今、ライブで配信していたのか?
 秋月先生にカメラを向けて?

 その行為に、僕はゾッとした。
 こんなにも簡単に世界中に晒してしまうなんて、同じ高校生とは思えない。

「そうやって、自分のことを晒されることは嫌だと思っているのに、他人を晒すことに抵抗はないんですね」

 どれだけ彼女たちが感情のままに叫んでも、先生は冷静のままだった。

 やっぱり、それが僕には恐ろしかった。

「……だったらなに!? あんたがヤバいこと共有してるだけじゃん、それのなにが悪いの!?」
「その理論で行けば、私が柿崎さんのことを晒しても文句は言えないことになりますが」
「べ、別に、私はヤバいことなんてしてないし! 晒されて困ることなんて」
「昨夜は楽しかったですか? ちろりさん」

 秋月先生は柿崎さんの言葉を遮って言った。
 先生はやっぱり、にやりと笑っている。

 ……ちろりって、なんだ?

「なんであんたが、それを、知ってんの……」
「それはもちろん、生徒のことをしっかりと見ることが、私の仕事ですから。ですが、私はあのアカウントはやめるべきだと思いますよ? 承認欲求を満たすためだけのエロ垢なんて。あら、すみません、口が滑りました」

 なんともわざとらしい言い草だ。
 言おうって決めていたとしか思えないが。

 しかし、そんなことよりも、今、なんて言った?

「志緒里、エロ垢なんか作ってるの……?」

 仲原さんも驚きを隠せていない。
 つまり、仲原さんも知らなかったのだろう。

 本当に、秋月先生はそんな秘密をどこから見つけて来たんだ?

 柿崎さんは動揺しているのか、仲原さんの問いかけに対して口ごもっている。

 そして、当然、その矛先は先生に向いた。

「……なんなの、あんた! 生徒の秘密を勝手にばらしてさあ! それが教師のやること!?」
「普通はしませんよ? ですが、言ったでしょう。貴方たちには説教では足りない、と」

 先生はそう言いながら、まだ僕の隣にいる冴木君に視線を送った。

 このクラスの誰もが理解した。
 次は、冴木君の番だ、と。

 もちろん、本人もそれがわかっているようで、いつの間にか僕の肩から手を離していた。

 彼らが王様の時代は、終わったのかもしれない。

 張り詰めた空気の中で、僕はそう思った。