僕たちの教室には、誰も座らない席がある。
新学期になってもその席がなくならないのは、持ち主がまだこのクラスに所属しているから。
持ち主の名は、長谷川蒼唯。
去年の秋に入院してから、一度も学校に来ていないのだが、そんな蒼唯のことを心配する声は、少ない。
……いや、ないと言い切ってもいいかもしれない。
蒼唯がどんな状態なのか、知っているのは僕くらいじゃないだろうか。
僕は蒼唯としか仲良くなれなかったし、未だに友達を作るのが下手だ。
そんな僕からしてみれば、蒼唯のいない教室なんて、つまらない。
だから、はやく蒼唯に回復してほしいと思うけれど……こんな地獄には戻ってきてほしくないとも思っている。
クラスのヒエラルキーがはっきりと現れた、小さな王国には、二度と。
「席に着いてください」
予鈴が鳴り、見たことない女の先生が教室に入ってきた。
女性にしては低めの声だけど、やけに通る声で、僕は彼女を目で追った。
彼女が教卓に向かって歩くと、長い黒髪がなびいた。
教卓の前に立ち、彼女と対面してから、真っ赤な口紅が塗られていることに気付いた。
女性は武装するためにメイクをすると聞いたことがあるけれど、まさにそれを感じた瞬間だった。
しかし、先生が目の前にいるのに、教室内の騒がしさは収まらない。
教師の言うことを聞くなんて、バカがすることだ。
そんなふうに思っている彼らは、先生の言葉に耳を傾けようとしない。
まるで王様や女王様のように、わがままに振る舞う彼ら。
教室の隅に存在することしかできない僕たちからしてみれば、本当にここは地獄だ。
「冴木冬也君、柿崎志緒里さん、仲原綾香さん。予鈴はすでに鳴っています。自分の席に移動しなさい」
もはや誰もが諦めて、彼らに注意をしないというのに、その先生は名指しで言い切った。
いつもとは違う様子に、三人は先生を睨んでいる。
……ああ、ダメだ。
あの先生もまた、一ヶ月経たないうちに辞めさせられてしまう。
彼らは、とにかくこの空間を、自分たちにとって過ごしやすい空間にしてきた。
自分たちが楽しく、自由でいられる空間。
それは、僕たちにとって居心地のいい空間ではない。
けれど、彼らからしてみれば、そんなことはどうでもいいことだった。
物語において名前をつけてもらえないような僕たちのことなんて、彼らは一切興味を持たない。
それは別に、構わなかった。
自分でも、主役になれるようなタイプではないと思うし。
でも、自分たちの居心地の良さのために気に入らないものを平気で排除するのは、頷けない。
蒼唯がここにいないのも、彼らのせいだし。
それなのに、僕は臆病者だから、彼らに文句の一つも言えていなかった。
その中でも、担任の先生というのは、排除の対象になりやすかった。
「センセーさあ……今、うちらが楽しく話してるの、わかんない? 空気読めない女は嫌われるよー?」
凍りついた空気の中で、柿崎さんが耳を塞ぎたくなるような嫌な声で言った。
それに続いて、冴木君と仲原さんの笑い声が聞こえてくる。
今までの先生なら、ここでおどおどしてしまって、そのまま見ないふりをする。
けれど、彼女は違った。
ゆっくりと口角を上げる仕草は、妖艶に見えた。
「空気が読めていないのは、貴方たちでしょう?」
よく言った、とは思わなかった。
僕たちが、どれだけ我慢してきたと思ってるの?
彼らの横暴に堪えて、平和を守ってきたか、貴方は知らないでしょう?
なにも知らないくせに、僕たちの保ってきた均衡を壊さないで。
そう思っても、僕はなにも言えなかった。
また、言葉が溜まってしまった。
言えなかった言葉。
最近は、僕の中に何個も言葉が溜まってきて、ノートに何度も重ねて、たくさんのことを書き殴ったみたいに、文字が見えなくなってきた。
もう、僕の言葉はどこにあるのか、僕でもわかっていない。
言葉の渦に飲み込まれそうになっていたのを、現実に引き戻したのは、机がずれる音だった。
ガタガタ、という音は、冴木君が机を蹴った音のようだった。
「お前、なに」
「このクラスの担任ですよ」
冴木君も、柿崎さんも、仲原さんも。
全員が、先生のことを気に入らないと睨んでいる。
これ以上はやめてくれ。
どこにしわ寄せがくるか、先生は知らないから、そんなふうにしていられるんだろうけど。
「そして、貴方たちはこのクラスの生徒。まるで自分たちがこのクラスを仕切っているかのように振舞っていますが、皆さん平等の生徒ですよ」
「はあ? どう考えてもウチらとコイツらじゃ、住む世界が違うでしょ」
仲原さんが僕たちを見下しているのは、その声を聞けば明らかだった。
同じ教室にいながら、なにが『住む世界が違う』だ。
そう思っているのは、僕だけではないだろう。
でも、まだ声は上がらない。
すると、ため息が聞こえてきた。
それは、先生のため息だ。
「貴方がそんな態度だから、彼氏に浮気されて捨てられたのではないですか?」
ずっと逃げ出したい空気だったけど、この一言で、また別の空気の凍り方をした。
それは、僕たちも知らない話だった。
僕が、興味を抱いていなかっただけで、ほかの人たちは知っていたのかもしれないけど。
どちらにせよ、普通はこういう公の場では言わないようなことを、先生はしれっと言った。
普通なら誰にも知られたくないようなことを、みんなの前で。
すると、仲原さんは椅子を倒すような勢いで立ち上がった。
「はあ!? ふざけんな、なんでアンタにそんなこと言われなきゃなんないんだよ! つーか、なんで知ってんの!?」
「仲原さんは私の生徒ですから」
仲原さんが怒りのままに声を荒らげているから、先生の声がやけに冷たく聞こえた。
でも、なんで知っているのか、というのは僕も気になった。
いくら担任でも、そんなことまで知っているのはおかしいだろう。
「綾香、落ち着きなって」
感情のままに暴れようとしている仲原さんを、柿崎さんが宥めるようなことを言った。
その光景が、信じられなかった。
てっきり、柿崎さんも仲原さんと一緒に先生を責め立てると思ったのに。
もしかして、自分のこともなにか言われると思った?
だとすれば、さっきの暴露は効果抜群だったらしい。
それが一時の効果ではないことを祈りたいところだけど……まあ、期待しないほうがよさそうだ。
「落ち着けるわけなくない!? ありえないんだけど!」
当然のごとく、仲原さんの怒りは収まらなかった。
「それはそうだけど……」
柿崎さんは先生に視線を送る。
僕も、釣られるように先生を見た。
教卓の前に佇む先生は、まっすぐに仲原さんを見ている。
感情はあるのだろうか。
そう思ってしまうくらいに、無表情だ。
すると、仲原さんは不機嫌なまま、席に着いた。
空気は最悪なまま、改善なんてされていない。
やり方だって、賛成はできない。
だけど、彼女たちを黙らせた。
それは間違いなく事実だ。
僕は、それに驚いた。
「それでは、ホームルームを始めます」
先生は小さく口角を上げているが、瞳の黒さが不気味さを残しているように感じた。
それから先生は、簡単な自己紹介と、連絡事項の伝達をした。
初日からとんでもない印象を与えた先生は、秋月紫乃先生というらしい。
担当教科は古典で、新任だそう。
それにしては、緊張している様子がなかったというか、むしろ、堂々としていたような気がする。
なんなら、仲原さんに喧嘩まで売って。
とても、教師とは思えなかった。
ちなみに、誰にも知られたくないことを暴露された仲原さんは、物の見事に不機嫌が続いていて、最近の“お気に入り”で憂さ晴らしをしている。
僕はそれを、見て見ぬふりをすることしかできなかった。
関わればどうなるか。
そんなの、子供でもわかる。
こうして、見たくないものから目を逸らすのが、大人になるってこと、なんでしょ?
ウソをついて、自分を守るのが、上手に生きるコツなんでしょ?
僕は、そうやって学んできたんだ。
新学期になってもその席がなくならないのは、持ち主がまだこのクラスに所属しているから。
持ち主の名は、長谷川蒼唯。
去年の秋に入院してから、一度も学校に来ていないのだが、そんな蒼唯のことを心配する声は、少ない。
……いや、ないと言い切ってもいいかもしれない。
蒼唯がどんな状態なのか、知っているのは僕くらいじゃないだろうか。
僕は蒼唯としか仲良くなれなかったし、未だに友達を作るのが下手だ。
そんな僕からしてみれば、蒼唯のいない教室なんて、つまらない。
だから、はやく蒼唯に回復してほしいと思うけれど……こんな地獄には戻ってきてほしくないとも思っている。
クラスのヒエラルキーがはっきりと現れた、小さな王国には、二度と。
「席に着いてください」
予鈴が鳴り、見たことない女の先生が教室に入ってきた。
女性にしては低めの声だけど、やけに通る声で、僕は彼女を目で追った。
彼女が教卓に向かって歩くと、長い黒髪がなびいた。
教卓の前に立ち、彼女と対面してから、真っ赤な口紅が塗られていることに気付いた。
女性は武装するためにメイクをすると聞いたことがあるけれど、まさにそれを感じた瞬間だった。
しかし、先生が目の前にいるのに、教室内の騒がしさは収まらない。
教師の言うことを聞くなんて、バカがすることだ。
そんなふうに思っている彼らは、先生の言葉に耳を傾けようとしない。
まるで王様や女王様のように、わがままに振る舞う彼ら。
教室の隅に存在することしかできない僕たちからしてみれば、本当にここは地獄だ。
「冴木冬也君、柿崎志緒里さん、仲原綾香さん。予鈴はすでに鳴っています。自分の席に移動しなさい」
もはや誰もが諦めて、彼らに注意をしないというのに、その先生は名指しで言い切った。
いつもとは違う様子に、三人は先生を睨んでいる。
……ああ、ダメだ。
あの先生もまた、一ヶ月経たないうちに辞めさせられてしまう。
彼らは、とにかくこの空間を、自分たちにとって過ごしやすい空間にしてきた。
自分たちが楽しく、自由でいられる空間。
それは、僕たちにとって居心地のいい空間ではない。
けれど、彼らからしてみれば、そんなことはどうでもいいことだった。
物語において名前をつけてもらえないような僕たちのことなんて、彼らは一切興味を持たない。
それは別に、構わなかった。
自分でも、主役になれるようなタイプではないと思うし。
でも、自分たちの居心地の良さのために気に入らないものを平気で排除するのは、頷けない。
蒼唯がここにいないのも、彼らのせいだし。
それなのに、僕は臆病者だから、彼らに文句の一つも言えていなかった。
その中でも、担任の先生というのは、排除の対象になりやすかった。
「センセーさあ……今、うちらが楽しく話してるの、わかんない? 空気読めない女は嫌われるよー?」
凍りついた空気の中で、柿崎さんが耳を塞ぎたくなるような嫌な声で言った。
それに続いて、冴木君と仲原さんの笑い声が聞こえてくる。
今までの先生なら、ここでおどおどしてしまって、そのまま見ないふりをする。
けれど、彼女は違った。
ゆっくりと口角を上げる仕草は、妖艶に見えた。
「空気が読めていないのは、貴方たちでしょう?」
よく言った、とは思わなかった。
僕たちが、どれだけ我慢してきたと思ってるの?
彼らの横暴に堪えて、平和を守ってきたか、貴方は知らないでしょう?
なにも知らないくせに、僕たちの保ってきた均衡を壊さないで。
そう思っても、僕はなにも言えなかった。
また、言葉が溜まってしまった。
言えなかった言葉。
最近は、僕の中に何個も言葉が溜まってきて、ノートに何度も重ねて、たくさんのことを書き殴ったみたいに、文字が見えなくなってきた。
もう、僕の言葉はどこにあるのか、僕でもわかっていない。
言葉の渦に飲み込まれそうになっていたのを、現実に引き戻したのは、机がずれる音だった。
ガタガタ、という音は、冴木君が机を蹴った音のようだった。
「お前、なに」
「このクラスの担任ですよ」
冴木君も、柿崎さんも、仲原さんも。
全員が、先生のことを気に入らないと睨んでいる。
これ以上はやめてくれ。
どこにしわ寄せがくるか、先生は知らないから、そんなふうにしていられるんだろうけど。
「そして、貴方たちはこのクラスの生徒。まるで自分たちがこのクラスを仕切っているかのように振舞っていますが、皆さん平等の生徒ですよ」
「はあ? どう考えてもウチらとコイツらじゃ、住む世界が違うでしょ」
仲原さんが僕たちを見下しているのは、その声を聞けば明らかだった。
同じ教室にいながら、なにが『住む世界が違う』だ。
そう思っているのは、僕だけではないだろう。
でも、まだ声は上がらない。
すると、ため息が聞こえてきた。
それは、先生のため息だ。
「貴方がそんな態度だから、彼氏に浮気されて捨てられたのではないですか?」
ずっと逃げ出したい空気だったけど、この一言で、また別の空気の凍り方をした。
それは、僕たちも知らない話だった。
僕が、興味を抱いていなかっただけで、ほかの人たちは知っていたのかもしれないけど。
どちらにせよ、普通はこういう公の場では言わないようなことを、先生はしれっと言った。
普通なら誰にも知られたくないようなことを、みんなの前で。
すると、仲原さんは椅子を倒すような勢いで立ち上がった。
「はあ!? ふざけんな、なんでアンタにそんなこと言われなきゃなんないんだよ! つーか、なんで知ってんの!?」
「仲原さんは私の生徒ですから」
仲原さんが怒りのままに声を荒らげているから、先生の声がやけに冷たく聞こえた。
でも、なんで知っているのか、というのは僕も気になった。
いくら担任でも、そんなことまで知っているのはおかしいだろう。
「綾香、落ち着きなって」
感情のままに暴れようとしている仲原さんを、柿崎さんが宥めるようなことを言った。
その光景が、信じられなかった。
てっきり、柿崎さんも仲原さんと一緒に先生を責め立てると思ったのに。
もしかして、自分のこともなにか言われると思った?
だとすれば、さっきの暴露は効果抜群だったらしい。
それが一時の効果ではないことを祈りたいところだけど……まあ、期待しないほうがよさそうだ。
「落ち着けるわけなくない!? ありえないんだけど!」
当然のごとく、仲原さんの怒りは収まらなかった。
「それはそうだけど……」
柿崎さんは先生に視線を送る。
僕も、釣られるように先生を見た。
教卓の前に佇む先生は、まっすぐに仲原さんを見ている。
感情はあるのだろうか。
そう思ってしまうくらいに、無表情だ。
すると、仲原さんは不機嫌なまま、席に着いた。
空気は最悪なまま、改善なんてされていない。
やり方だって、賛成はできない。
だけど、彼女たちを黙らせた。
それは間違いなく事実だ。
僕は、それに驚いた。
「それでは、ホームルームを始めます」
先生は小さく口角を上げているが、瞳の黒さが不気味さを残しているように感じた。
それから先生は、簡単な自己紹介と、連絡事項の伝達をした。
初日からとんでもない印象を与えた先生は、秋月紫乃先生というらしい。
担当教科は古典で、新任だそう。
それにしては、緊張している様子がなかったというか、むしろ、堂々としていたような気がする。
なんなら、仲原さんに喧嘩まで売って。
とても、教師とは思えなかった。
ちなみに、誰にも知られたくないことを暴露された仲原さんは、物の見事に不機嫌が続いていて、最近の“お気に入り”で憂さ晴らしをしている。
僕はそれを、見て見ぬふりをすることしかできなかった。
関わればどうなるか。
そんなの、子供でもわかる。
こうして、見たくないものから目を逸らすのが、大人になるってこと、なんでしょ?
ウソをついて、自分を守るのが、上手に生きるコツなんでしょ?
僕は、そうやって学んできたんだ。



