冷たく、薄暗い空気が肌に触れ、いやでも意識は浮上する。それでもまぶたは鉛のように重くて、とてもじゃないが開けられない。それに対抗しようと試みるが、寝起き特有のまどろみが阻害して、結局は失敗する。
頭に、鈍い痛みが走った。
——わたしは、なにをしてたんだっけ?
部活が終わってから、衣装を着替えずに体育館へ向かった。それ以降の記憶がごっそりと抜け落ちている。まるで、記憶を映像のようにカットしたようだ。意識は、時と共に徐々にはっきりとしてくる。くぐもった声を上げながら、まぶたをゆっくりと上げる。周りの景色の輪郭がはっきりと形作られた瞬間、詩の意識は一気に覚醒した。
——え……?
知らない場所だった。知らない部屋のベッドの上で、詩は眠っていた。鈍く痛む頭をかばいながら、詩はあたりを見渡す。沈み込むほど柔らかいベッド、薄暗い部屋のなかでも、年代物だと分かるアンティークな調度品の数々。どう考えても、学校の体育館でも、詩の家でもない。
——ここは、どこ?
けたたましく鳴り続ける鼓動を抑えつつ、詩はゆっくりと立ち上がる。ブーツは履きっぱなしだった。眠っていたはずなのに、左右で編んで垂らしていた三つ編みは乱れていなかった。
窓から、カタカタと音が聞こえる。どうやら外は季節外れの吹雪のようだ。真っ白でなにも見えない。
「な、なんで……」
胸元を強く握り、詩は扉へと走り、ドアノブをひねる。そして力一杯扉を開け、外へ飛び出した。
「うわあっ!?」
廊下に響く聞きなれた声に、詩は反射的に声がした方を見る。
驚いた。そこには、アンティークなティーワゴンにティーポットとカップを乗せたアレンが、目を大きく見開いて立っていた。
アレン、と名を呼ぶよりも先に、彼が口を開く。
「お目覚めでしたか、アーリーモーニングティーをお持ちしましたよ」
「あ、アレン……?」詩は困惑した。いまの彼の装いは、白いカッターシャツに黒いジャケット。青いネクタイを締めた、使用人のようなものだった。そう、アレンが演じる、『見習い召使』の衣装と全く同じだ。
詩の声掛けに、アレンは怪訝そうな顔をする。
「はあ? なにをおっしゃってるんですか。僕は見習い召使ですよ、『村娘』さん」
「え?」
詩はぽかんとした。いま、なんと言ったか。アレンはいま、自身を見習い召使と名乗り、詩を村娘と呼んだ。なぜ、脚本の役職名で呼ぶのだ。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか? もしかして、どこか具合が悪いのでは……」
そう言って詩の頬に触れようとするアレンをはねのけ、「だ、大丈夫です!」と言い残し、彼の横をすり抜けた。廊下の中央にあった階段を横切り、奥の部屋へと一心不乱に走る。
——いったい、なにが起こっているの?
どう考えても支離滅裂な考えしか浮かばず、焦りと恐怖ばかりが募る。それに任せて、詩はとにかく走った。廊下の角を曲がり、そこで見つけた部屋に飛び込む。
扉を開けると、その部屋にいた五人の人物が、いっせいにこちらを見た。どうやら、ここは談話室のようだ。
「あっ! 起きてきた!」
座っていたソファから飛び降りて、詩を指さしたのは、ポーレットだった。ただ、その装いは『見習いメイド』のものと全く同じ。
「おはよう、村娘さん。昨日はよく眠れたかい?」と言ったのは、『主人』の装いをした瑠夏。
「まったく! このわたくしに酔っぱらいの介抱をさせるだなんて、いい度胸がおありね」と文句を言ったのが『お嬢様』の装いをした姸子。
「ほとんど指示していただけのくせに、よく言えますねー」と口をはさんだのは、『メイド』の装いをした朝奈。
「……」
わけがわからない。そもそも、なぜ部員たちは動揺していないのだ。これではまるで、公演の真っ最中ではないか。
「……みんな、どうしちゃったの?」詩は声を絞り出した。「だって、もう練習は終わったのに。なんでまだ、みんな役職名を……」
演劇部の伝統で、練習中、役者は必ずお互いを役職名で呼び合わなければならない。
「練習ー?」
それを聞いた朝奈は、億劫そうにため息をつき、詩をねめつけた。
「なにを言ってるんですか村娘さん。もしかして、今日見た悪夢の話ー?」
「ち、違うっ! ここはなんなの? みんなはどうして、舞台の役になりきってるの……!」
「役って……村娘さん、〝アレ〟を見てついにおかしくなっちゃったんですかー?」
「あ、アレ……?」
アレとは、いったいなんだ。聞き返そうと口を開いた時だった。
「メイド、変なことを村娘さんに吹き込まないで」
いつの間にか戻ってきていたアレンだった。彼はいま、朝奈を『メイド』と呼んだ。——やっぱり、なにかおかしい。
「兄さんったら、相変わらずメイドにきっびし~」
「きっと、彼なりの照れ隠しよ、見習いメイド」
美香は上品に口許を隠して微笑む。
「ふーん、へえ……?」
いまいちわかっていなさそうなポーレットに、アレンはわかりやすくため息をつき、詩の方を向く。
「顔色が優れませんね。朝食はお部屋にお持ちしますので、部屋でお休みください」
アレンの気づかいに、詩は安心する。彼のこういった優しさは、この異常事態でも健在だ。詩はひと言、「そうするよ」とだけ伝え、部屋へ戻ろうとした。
——が、無我夢中で走ってきたため戻り方が分からず、結局アレンに案内してもらった。
部屋でひとり、詩は窓の外を眺める。吹雪は未だ止む気配を見せない。先ほどアレンが持ってきてくれた朝食も、いまは喉を通る気がしない。身を抱え、震える。
——いったい、なにが起こったの?
ここはどこなのか。なぜ部員たちが、舞台の役のように動き、役名で呼び合っているのか。
詩のなかに、ひとつの仮説が立つ。
——ここは、脚本の世界なの……?
あまりにも非現実的で、滑稽な説だと思う。だが、この状況自体がすでに異常だ。ドッキリにしてはやり過ぎているし、夢にしてはリアリティがあり過ぎる。
——まさか、そんな……。
総身が冷える思いがした。
不意に、ポケットから音がした。なにかが入っている。詩はポケットに手を突っ込み、なかを漁る。入っていたのは、一通の手紙だった。真っ白な便せんではなく、色褪せて茶色くなった古い便せん。詩はつばを飲み、封を開ける。なかに入っているのは、一枚の紙。
『ゲームをしよう』
大きくそう書かれていた。
『ここから出たければ、物語を〝物語〟を完璧に終わらせろ。そうすれば、君たちは脱出できる』
『しかし、少しでも間違えれば、その時点で失敗とみなす。失敗すれば、その場に残った全員を処刑する』
そして、最後に一文。
『〝完璧〟になるまで、終わることはない』
手紙に書かれているのは、たったこれだけ。
「なに、これ……」
手紙を持つ手が震える。少しでも力を抜けば手紙をぽろりと落としてしまいそうだが、少しでも力を入れれば、びりびりと破いてしまいそうだ。
物語を終わらせる。つまりここは、本当に脚本の世界なのか? そして、物語を〝完璧〟に終わらせなければ、本当に殺されてしまうのか。
手紙の最初に書かれた、『ゲームをしよう』という言葉。ゲームはゲームでも、これではまるで、デスゲームではないか。
——ど、どうすれば、どうすれば……。
その時、一階から悲鳴が聞こえた。我に返った詩は悲鳴がした方へと駆け付ける。そこには、尻もちをついた朝奈と、その場に立ち尽くすポーレットの姿があった。
その目線の先には、脚本のなかには出てこないはずの、知らない男が、泡を吹いて倒れていた。
彼の手元には、わずかに中身が残った、ワイングラスがあった。
頭に、鈍い痛みが走った。
——わたしは、なにをしてたんだっけ?
部活が終わってから、衣装を着替えずに体育館へ向かった。それ以降の記憶がごっそりと抜け落ちている。まるで、記憶を映像のようにカットしたようだ。意識は、時と共に徐々にはっきりとしてくる。くぐもった声を上げながら、まぶたをゆっくりと上げる。周りの景色の輪郭がはっきりと形作られた瞬間、詩の意識は一気に覚醒した。
——え……?
知らない場所だった。知らない部屋のベッドの上で、詩は眠っていた。鈍く痛む頭をかばいながら、詩はあたりを見渡す。沈み込むほど柔らかいベッド、薄暗い部屋のなかでも、年代物だと分かるアンティークな調度品の数々。どう考えても、学校の体育館でも、詩の家でもない。
——ここは、どこ?
けたたましく鳴り続ける鼓動を抑えつつ、詩はゆっくりと立ち上がる。ブーツは履きっぱなしだった。眠っていたはずなのに、左右で編んで垂らしていた三つ編みは乱れていなかった。
窓から、カタカタと音が聞こえる。どうやら外は季節外れの吹雪のようだ。真っ白でなにも見えない。
「な、なんで……」
胸元を強く握り、詩は扉へと走り、ドアノブをひねる。そして力一杯扉を開け、外へ飛び出した。
「うわあっ!?」
廊下に響く聞きなれた声に、詩は反射的に声がした方を見る。
驚いた。そこには、アンティークなティーワゴンにティーポットとカップを乗せたアレンが、目を大きく見開いて立っていた。
アレン、と名を呼ぶよりも先に、彼が口を開く。
「お目覚めでしたか、アーリーモーニングティーをお持ちしましたよ」
「あ、アレン……?」詩は困惑した。いまの彼の装いは、白いカッターシャツに黒いジャケット。青いネクタイを締めた、使用人のようなものだった。そう、アレンが演じる、『見習い召使』の衣装と全く同じだ。
詩の声掛けに、アレンは怪訝そうな顔をする。
「はあ? なにをおっしゃってるんですか。僕は見習い召使ですよ、『村娘』さん」
「え?」
詩はぽかんとした。いま、なんと言ったか。アレンはいま、自身を見習い召使と名乗り、詩を村娘と呼んだ。なぜ、脚本の役職名で呼ぶのだ。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか? もしかして、どこか具合が悪いのでは……」
そう言って詩の頬に触れようとするアレンをはねのけ、「だ、大丈夫です!」と言い残し、彼の横をすり抜けた。廊下の中央にあった階段を横切り、奥の部屋へと一心不乱に走る。
——いったい、なにが起こっているの?
どう考えても支離滅裂な考えしか浮かばず、焦りと恐怖ばかりが募る。それに任せて、詩はとにかく走った。廊下の角を曲がり、そこで見つけた部屋に飛び込む。
扉を開けると、その部屋にいた五人の人物が、いっせいにこちらを見た。どうやら、ここは談話室のようだ。
「あっ! 起きてきた!」
座っていたソファから飛び降りて、詩を指さしたのは、ポーレットだった。ただ、その装いは『見習いメイド』のものと全く同じ。
「おはよう、村娘さん。昨日はよく眠れたかい?」と言ったのは、『主人』の装いをした瑠夏。
「まったく! このわたくしに酔っぱらいの介抱をさせるだなんて、いい度胸がおありね」と文句を言ったのが『お嬢様』の装いをした姸子。
「ほとんど指示していただけのくせに、よく言えますねー」と口をはさんだのは、『メイド』の装いをした朝奈。
「……」
わけがわからない。そもそも、なぜ部員たちは動揺していないのだ。これではまるで、公演の真っ最中ではないか。
「……みんな、どうしちゃったの?」詩は声を絞り出した。「だって、もう練習は終わったのに。なんでまだ、みんな役職名を……」
演劇部の伝統で、練習中、役者は必ずお互いを役職名で呼び合わなければならない。
「練習ー?」
それを聞いた朝奈は、億劫そうにため息をつき、詩をねめつけた。
「なにを言ってるんですか村娘さん。もしかして、今日見た悪夢の話ー?」
「ち、違うっ! ここはなんなの? みんなはどうして、舞台の役になりきってるの……!」
「役って……村娘さん、〝アレ〟を見てついにおかしくなっちゃったんですかー?」
「あ、アレ……?」
アレとは、いったいなんだ。聞き返そうと口を開いた時だった。
「メイド、変なことを村娘さんに吹き込まないで」
いつの間にか戻ってきていたアレンだった。彼はいま、朝奈を『メイド』と呼んだ。——やっぱり、なにかおかしい。
「兄さんったら、相変わらずメイドにきっびし~」
「きっと、彼なりの照れ隠しよ、見習いメイド」
美香は上品に口許を隠して微笑む。
「ふーん、へえ……?」
いまいちわかっていなさそうなポーレットに、アレンはわかりやすくため息をつき、詩の方を向く。
「顔色が優れませんね。朝食はお部屋にお持ちしますので、部屋でお休みください」
アレンの気づかいに、詩は安心する。彼のこういった優しさは、この異常事態でも健在だ。詩はひと言、「そうするよ」とだけ伝え、部屋へ戻ろうとした。
——が、無我夢中で走ってきたため戻り方が分からず、結局アレンに案内してもらった。
部屋でひとり、詩は窓の外を眺める。吹雪は未だ止む気配を見せない。先ほどアレンが持ってきてくれた朝食も、いまは喉を通る気がしない。身を抱え、震える。
——いったい、なにが起こったの?
ここはどこなのか。なぜ部員たちが、舞台の役のように動き、役名で呼び合っているのか。
詩のなかに、ひとつの仮説が立つ。
——ここは、脚本の世界なの……?
あまりにも非現実的で、滑稽な説だと思う。だが、この状況自体がすでに異常だ。ドッキリにしてはやり過ぎているし、夢にしてはリアリティがあり過ぎる。
——まさか、そんな……。
総身が冷える思いがした。
不意に、ポケットから音がした。なにかが入っている。詩はポケットに手を突っ込み、なかを漁る。入っていたのは、一通の手紙だった。真っ白な便せんではなく、色褪せて茶色くなった古い便せん。詩はつばを飲み、封を開ける。なかに入っているのは、一枚の紙。
『ゲームをしよう』
大きくそう書かれていた。
『ここから出たければ、物語を〝物語〟を完璧に終わらせろ。そうすれば、君たちは脱出できる』
『しかし、少しでも間違えれば、その時点で失敗とみなす。失敗すれば、その場に残った全員を処刑する』
そして、最後に一文。
『〝完璧〟になるまで、終わることはない』
手紙に書かれているのは、たったこれだけ。
「なに、これ……」
手紙を持つ手が震える。少しでも力を抜けば手紙をぽろりと落としてしまいそうだが、少しでも力を入れれば、びりびりと破いてしまいそうだ。
物語を終わらせる。つまりここは、本当に脚本の世界なのか? そして、物語を〝完璧〟に終わらせなければ、本当に殺されてしまうのか。
手紙の最初に書かれた、『ゲームをしよう』という言葉。ゲームはゲームでも、これではまるで、デスゲームではないか。
——ど、どうすれば、どうすれば……。
その時、一階から悲鳴が聞こえた。我に返った詩は悲鳴がした方へと駆け付ける。そこには、尻もちをついた朝奈と、その場に立ち尽くすポーレットの姿があった。
その目線の先には、脚本のなかには出てこないはずの、知らない男が、泡を吹いて倒れていた。
彼の手元には、わずかに中身が残った、ワイングラスがあった。