『舞台で脚本や演技を侮辱すれば呪われる』
 そんなありがちな噂が、月桂学園(げっけいがくえん)の演劇部にはあった。
 部員以外の生徒たちは、よくある学校の七不思議として、面白半分に知っているだけの、この噂。
 しかし、当の演劇部員たちはこの噂を信じ、舞台での失敗を犯さぬよう、日々稽古を続けていた。前例があるわけではない。あくまで、彼らのプライドだ。
 そして今日、月桂学園演劇部は、新たな脚本で、生徒の前で公演を行う。
 偶然迷い込んだ村娘。
 酒好きで聡明な主人。
 心優しい奥様。
 少しわがままなお嬢様。
 面倒見が良い見習い召使。
 無邪気で明るい見習いメイド。
 物腰柔らかな執事。
 お調子者なメイド。
 これは、彼らが織りなす吹雪の屋敷で起こる事件の物語である。
 今日のために整えられた舞台の上で、幼い兄妹——否、見習いのメイドと召使が踊る。自らの重みを感じさせないような軽快な踊りと、その口から紡がれる歌声に、舞台袖にいた(うた)は自然と足がすくんだ。
 そこから見える客席には、全校生徒が立錐(りっすい)の余地もないほど密集し、彼らの演技を見逃すまいと、ステージという一点に視線を集中させていた。
 詩が通う月桂学園では、演劇部による新入生歓迎舞台、その予行として、今年度の卒業生も招いて公演を行っていた。月桂学園の演劇部は、卓越した演技力と演出で有名な、開校当初から続く歴史ある部だ。 
 いまから、その舞台に立つのだ。しかも、初めて。そのうえ〝主役〟として。詩はごくりとつばを飲む。大丈夫だと、自分に何度も暗示をかけ、心を落ち着かせる。
 ついに出番がやってきて、詩——村娘はステージに飛び出す。

「す、すみません。誰かいませんか?」

 声が震えそうになるのを堪えて、詩は脚本通りのセリフを口にする。そのセリフをを聞いて、副部長でもある(りん)——執事が柔和な笑みを浮かべて、村娘である詩に駆け寄る。

「おや、可愛らしい村娘さん。どうかなさいましたか?」

 ミルクティーのような、甘くて柔らかな声だった。

「実は道に迷ってしまって……一晩だけでもいいので泊めてもらえませんか?」

「まあ」執事らしい上品な仕草で口をふさぐ。「それは大変ですね。外は冷えるでしょう、どうぞなかへお入りください」

 執事に導かれるように、舞台の中央へと誘導される。この狭いステージ上で、こうやって空間をしっかりと分けることができるのだから、演劇の世界はすごいと思う。
 舞台中央では、華やかなパーティが催されている。先ほどまで楽しく踊っていたポーレット——見習いメイドとアレン——見習い召使が、物珍しそうな目でこちらを見てくる。ふたりは双子で、アレンは部内の衣装係も務めている。

「執事~? その子はだあれ?」と見習いメイドは問う。チャーミングな少女の声だ。

「なに? 不審者?」と見習い召使は詩を睨みつける。変声前の、少し高い少年の声だ。

「違いますよ、ふたりとも。彼女はただの迷子の村娘さんです」

 執事の紹介に、詩は練習通り、軽くお辞儀をする。演技だとはわかっているものの、あまりにも自然なしゃべり方と仕草に、彼らの演技力の高さがうかがえる。

「お客さんとは珍しいね」

 それまで舞台中央の椅子に腰かけていた部長——部の伝統で部員は座長と呼んでいる——である瑠夏(るか)——主人が立ち上がる。それにつられて、隣に座っていた美香(みか)——奥様も立ち上がり、こちらを見る。幼い頃から日本舞踊を(たしな)む彼女の所作は、ひとつひとつ美しい。もとの演技力も相まって、まるで本当に良家の奥方だ。

「せっかくだし、新しいワインでも開けようかな」と言う主人に、ひとりがけのソファに腰かけていた姸子(きよこ)——お嬢様は眉間にしわを寄せる。そんな表情ですら、牡丹や芍薬のように美しい。さすが、部内の花形役者、といったところだろうか。

「やだ、お父様ったら、また飲まれるの? わたくし、お酒は好きじゃなくってよ?」とお嬢様が言う。

「あなた、はしゃぎすぎないようにしてくださいね」と奥様が言う。

 その光景を見かねたように、お嬢様の横で突っ立っていた朝奈(あさな)——メイドがため息交じりに、でもどこか軽快に微笑み、

「じゃあ、お茶はいかがですか? 執事自慢のブレンドティーですよ?」

 と茶目っ気たっぷりにウインクする。

「メイド、ワインも忘れないでね♪」

「メイド、お父様の言う事なんて無視していいわよ。これ以上は体に悪いわ」

 きっぱりと言い切るお嬢様に、見習いメイドが大声で笑いだす。

「キャハハ! お嬢様に言われてますよ、旦那様。メイド! あたしはジュースがいいわ!」

 ここぞとばかりに手を掲げる見習いメイドの脇を、見習い召使が小突く。

「僕たちも使用人なんだから、手伝いをするんだよ」

「えーっ! めんどくさいなあ……」と喚く見習いメイドを脇に、見習い召使は詩の方を向く。その真剣そうな表情に、演技とはいえ、内心胸がきゅっと締まる。

「騒がしくてすみません。どうぞ、そちらの椅子におかけください」

 と言って、お嬢様の向かい側の席を勧めた。

「あ、ありがとうございます。でも……」

「気にする必要はなくってよ。わたくしの話し相手になって頂戴」

 無邪気に微笑み、お嬢様も席を勧める。そこまで言われて、詩はようやく席につく。「し、失礼します」

「旦那様、ワインをお持ちしましたよ」いつの間にか舞台袖に戻っていた執事が、ワインボトルを手に微笑む。その横で、お嬢様が、「余計なことしなくていいのに……」とぼやく。それをなだめながら、執事はワインの説明をする。

「今回は十年物の玄人(くろうど)向けのものをご用意いたしました」

「君は本当に気が利くね、ありがとう」

 執事から受け取ったワインをグラスに注ぎながら、主人は笑う。穏やかな笑みだった。

「いえいえ」と、謙遜しつつ詩の方へ向き、「初心者向けの飲みやすいものもご用意いたしましたので、ご安心ください」と声をかけた。とても自然な流れだ。

「いいわね。執事、わたくしはそちらをいただくわ」

「お嬢様はおこちゃま舌ですものねえ。いつになったら改善するのやら」

 やれやれといった様子で、わざとらしく大ぶりな反応をするメイドに、お嬢様は「はあ!?」と声を荒げる。

「誰がおこちゃま舌ですって!? わたくしはあえて飲まないだけよ!」

「お嬢様、言い訳は見苦しいですよ」

 見習い召使が突っ込む。

「……み、見習いのくせに生意気なのよ! お父様、早くコイツを(くび)にしてよ!」

 癇癪を起すお嬢様を、主人は「まあまあ」となだめる。しかし、それ以上はなにも言わなかった。『お嬢様』は、我儘(わがまま)でひとの言うことを全く聞かない人物なのだ。

「さて、さあ村娘さんもどうぞ」

 奥様が差し出したワイングラスを、詩は震える手でそっと受け取る。なかにはワインを模したぶどうジュースが注がれている。

「……ありがとうございます」

 詩はゆっくりと正面を向く。その瞬間、観客である全校生徒の視線が、一気に詩へと集まってくる。背筋が、すっと冷えた。先ほどまで、詩はずっと舞台という小さな世界だけを見ていた。そこは現実とは違う異世界のような空間で、仲間たちのおかげもあって、練習通りの演技ができていたのだ。
 しかし、いまは違う。

 ——みんなが、わたしを……『村娘』を見ている。

 その事実が、ひどく緊張を煽る。いますぐにでも逃げ出したくなるほど、怖くてたまらない。詩は一度、深呼吸をした。体中に酸素がいきわたると、不思議と心が落ち着く気がするのだ。これも、部員のみんなが教えてくれたことだ。

 ——わたしも、みんなに近づきたい。

 ここに立つ部員たちと肩を並べられる存在になるために。そして、月桂学園演劇部が織りなす素晴らしい舞台の一部になるために。
 詩は意を決して、ワイングラスのぶどうジュースを飲み干した。
 初演は、結果として大成功に終わった。また、新入生勧誘舞台に向けて、また練習漬けの日々へと逆戻りである。しかし、詩の気分は、いままで以上に高ぶっており、HRの先生の話はまともに聞けなかった。駆け寄ってくるクラスメイトたちをかわしながら、詩は部室へ向かった。部室は旧校舎の一階隅にある広い教室だ。開校当初から、場所は変わっていないらしい。旧校舎は、詩の教室がある高等部から近く、そのうえHRが終わるのも早かった。

 ——さすがにまだ、誰もいないよね。

 そう思いながら、部室に向かっていると、かすかにミシンのような機械音が耳に入る。まさか、もう誰かいるのだろうか。
 足音を立てないようにそっと部室に近づき、戸を開けなかに入る。古い校舎なので立てつけが悪く、静かに開けるのは至難の業で、少し軋んだような音が出てしまった。

「あっ……」

 部室の端、日差しがよく入る窓辺で、アレンがミシンに向き合って作業をしていた。きっと、役者たちの衣装の手直しでもしているのだろう。戸を開けて入ってきた詩の存在には気づいていないようだ。どうやらかなり集中しているらしい。

 ——綺麗……。

 詩は、思わず口に出しそうになったのをすんでのところで飲み込んだ。アレンと妹のポーレットは、幼い頃に家族の仕事でイギリスから日本に移住してきたらしく、それゆえ日本人の価値観的に言えば、顔立ちが整っている。澄んだ冬の空のような青い瞳に、はっと息を呑むような金髪。特に彼の髪は、わずかに傾いた陽光に照らされて、まるで金の糸のような輝きを放っている。そんなアレンに恋心を抱く生徒は少なくなく、彼が所属している中等部だけではなく、高等部にもファンクラブがある。
 しかし、人気の理由は容姿だけではない。アレンの中学生とは思えないほどに優れた演技力、それが老若男女問わず、人々の心をとらえて離さないのだ。見た目にそぐわぬ老獪(ろうかい)な役も、邪悪な悪役も、もちろん王道な王子様まで、アレンにかかれば完璧に演じてしまう。歴史があるとはいえ、こんな一介の演劇部の部員としてとどめておくのはもったいない。そう思わざるをえないほどの天才子役。それがアレンだった。

 ——そんな彼と、わたしは同じ舞台に立った。

 実を言うと、詩が主役になれたのは、演技の才があったからではない。単に、詩が今回の物語の主人公にぴったりだったから。ただそれだけの理由で、脚本家の朝奈と座長の瑠夏に頼み込まれたのだ。実力だけで考えれば、外部進学者で、なおかつずっと裏方をしていた詩よりも、適任は他にもいたはずなのだ。
 そんな、演劇のえの字も知らないような詩に、演技を叩き込んだのがアレンだった。はっきり言って、スパルタ以外の何物でもなかったが、そのおかげでいまの〝村娘としての詩〟がいる。

 ——お礼言わないと……。

 とは思いつつも、いま言えば、眉をひそめて「そういうのは公演が終わってから言うものだよ」と言われそうだ。そう思っていると、立てつけの悪い扉が開く音が響く。これにはさすがのアレンも我に返って作業を中断した。
 その瞬間、ようやく気付いた詩の存在に驚いたのか、アレンは悲鳴を上げて椅子から滑り落ちた。いつもどこかこましゃくれた雰囲気の彼だが、めっぽう怖がりだとポーレットが教えてくれたことがあった。

「あのー、なにがなんでも怖がりすぎでは? わたしまで驚いたんですけどー?」

 のびのびとした猫のような声は、朝奈のものだ。どうやら入ってきたのは彼女だったらしい。伸びとあくびをしながら、「お疲れ様ですー」と言っている。朝奈は詩よりも年下だが、演劇の世界では先輩だ。そのうえ文才もある彼女は、脚本家も兼任している。

「詩先輩も来てたんですねー」目をこすりながら朝奈は言う。「いやあ、アレンの集中力には脱帽ですねー。わたしもそれぐらいの集中力があれば、すぐに脱稿できるのになあ」

「そ、そうだね」

 朝奈自身は、筆が遅い人間を自称しているが、瑠夏や霖いわく、歴代の脚本家のなかでも頭ひとつ抜けて速いらしい。

「はあ、君は本当にのびのびとしてるね。だからすぐに転んだり、原稿を忘れたりするんじゃない?」

「ええ……アレンが冷たい……むり、わたし死んじゃう……」

 わざとらしくその場にしゃがみ込んで、いじけたふりをする朝奈に、とどめの一撃を指すように、アレンは「勝手に死んだらいいじゃん」と言い放った。

「あ、アレンさん……」詩はいつものことながら言葉に詰まった。

「ぐすん、めそめそ……もういい、わたしグレてやるー!」

 わざとらしい泣き真似をしたと思ったら、荷物を置いたまま部室を飛び出してしまった。いつものことながら、嵐のような寸劇だった。

「しょうもない」とつぶやきながら、アレンは作業を再開しようとする。詩はそれを咄嗟に止める。なんとなく、アレンと話したい気分だった、という我儘だ。

「なに?」アレンは問うてくるが、特に言うことを考えていなかったので、黙り込んでしまう。作業を邪魔しておいて、本当に情けない。

「……今日の演技、なかなか良かったよ」

「え?」詩はぽかんとした。

「初めて観客を前にしての演技にしては、上出来だった。本番の活躍次第だけど、これからも役がもらえる可能性はあると思うよ」

「ほ、本当?」

「嘘ついたって意味ないからね」

 詩は黙って下を向く。もちろん、悪い意味ではない。演劇の師であり、部内でも髄一の演技力を誇るアレンにそう評価されたことが嬉しくて、顔を隠したくなったからだ。

 ——きっと、締まりのない顔してるから。

「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」

 思ってもみない反応だったのか、アレンはいくらか驚いたような反応を見せて、そっぽを向く。

「べ、別に、俺は君の演技に正当な評価をしただけであって、なにも特別なことは言ってないよ」

「そ、そっか……」

「あとさあ……」頬杖をついて、アレンはムスッとした顔をする。「その、〝アレンさん〟ってやめてくれる? 一応俺の方が年下だし……」

「え……?」詩は当惑した。師であるアレンを呼び捨てにするなんて、いままで考えたこともなかったのだ。

「べ、別に距離感を感じるから嫌なわけじゃなくてね? 同じ演劇部の仲間として、仲間意識を持つのは大事だと思うというか……」

 ぶつぶつと言い訳をするアレンに、詩は思わず微笑んだ。その様子が、なんだか可愛らしく思えて、胸に暖かな明かりがともったような心地になった。

「じゃあ、アレン……でいいのかな」

「あ、アレン……」自分の名前を言ったきり、アレンは黙り込む。心なしか、頬が染まっているように見えたが、陽の光のせいだろうか。

「……ほら、もうすぐ練習の時間だよ!」

 椅子から勢い良く立ち上がり、「朝奈先輩探しに行ってくる。どうせ自販機でパックジュースを選んでるだろうから」と言いながら部室を出て行った。その後はぞろぞろと部員が入ってきたが、アレンがいない部室は少し物足りない気がした。
 

 日が傾いて、薄暗いステージは、どこか物悲しい。昼間の華やかさは鳴りを潜め、いまは寂しさが残るのみだ。
 そんなステージに、ひとりの村娘が立っている。
 詩はステージの上から、体育館を見渡す。本番は、きっと今日と同じぐらい緊張するのだろう。だが、いまから当日が楽しみで仕方がない。今日の公演で自信がついたのと、アレンに褒めてもらえたからである。
 詩が舞台に立つのは、これが最後かも知れない。ああは言われたが、次もキャスティングされる保証はない。この公演が終われば、また裏方に徹することになるかもしれない。だからこそ、いまできる全力を尽くそうと思った。あのひとたちに、少しでも近づけるように。そして、自分に自信をつけるためにも、だ。

 ——よし、明日も頑張ろう。

 そう思った後、ふと足元を見た。詩の右側に、一冊の冊子が落ちている。表紙は色褪せており、見ただけで古いものだと分かった。詩は一瞬たじろいだ。こんなもの、ステージに上がった時はなかった。
 しゃがみ込み、それを手に取る。触り心地も、見た目通りの古そうな感触だった。
 それを開き、なんの気なしに読み始める。
 しかし、読み始めてすぐに違和感を覚えた。それを払拭したくて、一心不乱に書かれた文字列を追う。

 ——そんな、まさか……。

 その瞬間、詩は強い衝撃を覚えた。
 冷たく、薄暗い空気が肌に触れ、いやでも意識は浮上する。それでもまぶたは鉛のように重くて、とてもじゃないが開けられない。それに対抗しようと試みるが、寝起き特有のまどろみが阻害して、結局は失敗する。
 頭に、鈍い痛みが走った。

 ——わたしは、なにをしてたんだっけ?

 部活が終わってから、衣装を着替えずに体育館へ向かった。それ以降の記憶がごっそりと抜け落ちている。まるで、記憶を映像のようにカットしたようだ。意識は、時と共に徐々にはっきりとしてくる。くぐもった声を上げながら、まぶたをゆっくりと上げる。周りの景色の輪郭がはっきりと形作られた瞬間、詩の意識は一気に覚醒した。

 ——え……?

 知らない場所だった。知らない部屋のベッドの上で、詩は眠っていた。鈍く痛む頭をかばいながら、詩はあたりを見渡す。沈み込むほど柔らかいベッド、薄暗い部屋のなかでも、年代物だと分かるアンティークな調度品の数々。どう考えても、学校の体育館でも、詩の家でもない。

 ——ここは、どこ?

 けたたましく鳴り続ける鼓動を抑えつつ、詩はゆっくりと立ち上がる。ブーツは履きっぱなしだった。眠っていたはずなのに、左右で編んで垂らしていた三つ編みは乱れていなかった。
 窓から、カタカタと音が聞こえる。どうやら外は季節外れの吹雪のようだ。真っ白でなにも見えない。

「な、なんで……」

 胸元を強く握り、詩は扉へと走り、ドアノブをひねる。そして力一杯扉を開け、外へ飛び出した。

「うわあっ!?」

 廊下に響く聞きなれた声に、詩は反射的に声がした方を見る。
 驚いた。そこには、アンティークなティーワゴンにティーポットとカップを乗せたアレンが、目を大きく見開いて立っていた。
 アレン、と名を呼ぶよりも先に、彼が口を開く。

「お目覚めでしたか、アーリーモーニングティーをお持ちしましたよ」

「あ、アレン……?」詩は困惑した。いまの彼の装いは、白いカッターシャツに黒いジャケット。青いネクタイを締めた、使用人のようなものだった。そう、アレンが演じる、『見習い召使』の衣装と全く同じだ。
 詩の声掛けに、アレンは怪訝そうな顔をする。

「はあ? なにをおっしゃってるんですか。僕は見習い召使ですよ、『村娘』さん」

「え?」

 詩はぽかんとした。いま、なんと言ったか。アレンはいま、自身を見習い召使と名乗り、詩を村娘と呼んだ。なぜ、脚本の役職名で呼ぶのだ。

「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか? もしかして、どこか具合が悪いのでは……」

 そう言って詩の頬に触れようとするアレンをはねのけ、「だ、大丈夫です!」と言い残し、彼の横をすり抜けた。廊下の中央にあった階段を横切り、奥の部屋へと一心不乱に走る。

 ——いったい、なにが起こっているの?

 どう考えても支離滅裂な考えしか浮かばず、焦りと恐怖ばかりが募る。それに任せて、詩はとにかく走った。廊下の角を曲がり、そこで見つけた部屋に飛び込む。
 扉を開けると、その部屋にいた五人の人物が、いっせいにこちらを見た。どうやら、ここは談話室のようだ。

「あっ! 起きてきた!」 

 座っていたソファから飛び降りて、詩を指さしたのは、ポーレットだった。ただ、その装いは『見習いメイド』のものと全く同じ。

「おはよう、村娘さん。昨日はよく眠れたかい?」と言ったのは、『主人』の装いをした瑠夏。

「まったく! このわたくしに酔っぱらいの介抱をさせるだなんて、いい度胸がおありね」と文句を言ったのが『お嬢様』の装いをした姸子。

「ほとんど指示していただけのくせに、よく言えますねー」と口をはさんだのは、『メイド』の装いをした朝奈。

「……」

 わけがわからない。そもそも、なぜ部員たちは動揺していないのだ。これではまるで、公演の真っ最中(、、、、、、、)ではないか。

「……みんな、どうしちゃったの?」詩は声を絞り出した。「だって、もう練習は終わったのに。なんでまだ、みんな役職名を……」

 演劇部の伝統で、練習中、役者は必ずお互いを役職名で呼び合わなければならない。

「練習ー?」

 それを聞いた朝奈は、億劫そうにため息をつき、詩をねめつけた。

「なにを言ってるんですか村娘さん。もしかして、今日見た悪夢の話ー?」

「ち、違うっ! ここはなんなの? みんなはどうして、舞台の役になりきってるの……!」

「役って……村娘さん、〝アレ〟を見てついにおかしくなっちゃったんですかー?」

「あ、アレ……?」

 アレとは、いったいなんだ。聞き返そうと口を開いた時だった。

「メイド、変なことを村娘さんに吹き込まないで」

 いつの間にか戻ってきていたアレンだった。彼はいま、朝奈を『メイド』と呼んだ。——やっぱり、なにかおかしい。

「兄さんったら、相変わらずメイドにきっびし~」

「きっと、彼なりの照れ隠しよ、見習いメイド」

 美香は上品に口許を隠して微笑む。

「ふーん、へえ……?」

 いまいちわかっていなさそうなポーレットに、アレンはわかりやすくため息をつき、詩の方を向く。

「顔色が優れませんね。朝食はお部屋にお持ちしますので、部屋でお休みください」

 アレンの気づかいに、詩は安心する。彼のこういった優しさは、この異常事態でも健在だ。詩はひと言、「そうするよ」とだけ伝え、部屋へ戻ろうとした。
 ——が、無我夢中で走ってきたため戻り方が分からず、結局アレンに案内してもらった。

 部屋でひとり、詩は窓の外を眺める。吹雪は未だ止む気配を見せない。先ほどアレンが持ってきてくれた朝食も、いまは喉を通る気がしない。身を抱え、震える。

 ——いったい、なにが起こったの?

 ここはどこなのか。なぜ部員たちが、舞台の役のように動き、役名で呼び合っているのか。
 詩のなかに、ひとつの仮説が立つ。

 ——ここは、脚本の世界なの……?

 あまりにも非現実的で、滑稽な説だと思う。だが、この状況自体がすでに異常だ。ドッキリにしてはやり過ぎているし、夢にしてはリアリティがあり過ぎる。

 ——まさか、そんな……。

 総身が冷える思いがした。
 不意に、ポケットから音がした。なにかが入っている。詩はポケットに手を突っ込み、なかを漁る。入っていたのは、一通の手紙だった。真っ白な便せんではなく、色褪せて茶色くなった古い便せん。詩はつばを飲み、封を開ける。なかに入っているのは、一枚の紙。

『ゲームをしよう』

 大きくそう書かれていた。

『ここから出たければ、物語を〝物語〟を完璧に終わらせろ。そうすれば、君たちは脱出できる』

『しかし、少しでも間違えれば、その時点で失敗とみなす。失敗すれば、その場に残った全員を処刑する』

 そして、最後に一文。

『〝完璧〟になるまで、終わることはない』

 手紙に書かれているのは、たったこれだけ。

「なに、これ……」
 手紙を持つ手が震える。少しでも力を抜けば手紙をぽろりと落としてしまいそうだが、少しでも力を入れれば、びりびりに破いてしまいそうだ。
 物語を終わらせる。つまりここは、本当に脚本の世界なのか? そして、物語を〝完璧〟に終わらせなければ、本当に殺されてしまうのか。
 手紙の最初に書かれた、『ゲームをしよう』という言葉。ゲームはゲームでも、これではまるで、デスゲームではないか。

 ——ど、どうすれば、どうすれば……。

 その時、一階から悲鳴が聞こえた。我に返った詩は悲鳴がした方へと駆け付ける。そこには、尻もちをついた朝奈と、その場に立ち尽くすポーレットの姿があった。
 その目線の先には、脚本のなかには出てこないはずの、知らない男が、泡を吹いて倒れていた。
 彼の手元には、わずかに中身が残った、ワイングラスがあった。
 螺旋状に伸びる石造りの階段が延々と続いている。自身の足音が無駄に響き、心をざわつかせる。冷たい空気。乱れた息遣い。そのすべてが鬱陶しい。

 ——どうしたら家に帰れるの……?

 終わらせればいいのだ。終わらせれば、この悪夢も終わる。
 だが、どう終わらせればよいのか。物語はすでに、詩の知っている筋書きから脱線していた。

 ——真実の鍵はどこに、どこに……!

 たどり着いた部屋。不意に輝く鍵。
 詩はうっすらと笑みを浮かべ、つぶやいた。

「……みーつけた」

 そこで、夢は終わった。

♢♢♢

 屋敷は、十九世紀のイギリスを彷彿とさせるカントリーハウス風で、二階建て。別館等は存在しない。使用人の数からも想像できる通り、少し手狭な屋敷だ。詩の部屋は、二階の角の方、北側にあった。玄関の正面に階段があり、吹き抜けになっているので、玄関の声はよく聞こえる。
 詩はとりあえず一階を散策しながら、現状を整理していた。
 台本に存在しない人物の登場、そして死。おそらくあれは、ゲームで言うMPCだと、詩は思った。詩以外の部員も、おそらくそうだ。
 この世界は、詩の知っている脚本の世界観を土台とした、まったく別の物語の世界——そう考えた。それか、詩の知っている脚本に捻じれが生じているだけで、本質としては同じなのか。
 現状判断は難しいが、大方そう言ったところだろう。
 どっちにしても、最悪な状況である。

 ——そして、選択次第では、わたしたちは殺される。

 この世界の本質が分からない以上、なにが原因で死ぬのかもわからない。ひと言で言えばまずい、非常にまずい。
 だが、それと同じくらい気になることもある。

 ——『〝完璧〟になるまで終わらない』って、なに?

 このゲームは、マルチエンディングではないということか? 〝完璧〟に終わらせる以外に、脱出の方法がないということか。
 考えるのは後だ。いまはとにかく、物語を進めないといけない。
 詩は執事からもらった見取り図片手に、屋敷の散策を続けた。
 しばらく散策していると、声が聞こえてきた。聞こえにくいが、見習いメイドと見習い召使の声だ。

「この先は……」見取り図を指でなぞりながら、詩は位置を確認する。「遊戯室……かな」

 さすが貴族のお屋敷。遊戯室等の娯楽を楽しむ部屋まで完備ときた。詩は声と見取り図を頼りに、遊戯室へ向かった。
 ノックして入ると、予想通り、見習いメイドと見習い召使がいた。どうやらポーカーをしているらしい。執事がディーラーを担当している。

「あっ!」こちらに気が付いた見習いメイドが、詩に小さく手を振る。「こんにちは、村娘さん」

「あ、はい。こんにちは」とぎこちなく挨拶を返す。

「おや、村娘さん。どうかされましたか?」執事が問う。「なにか御用ですか?」

「もしかして、あたしたちとポーカーがしたいの~?」

 まだなにも答えていないのだが……そう考える間に、「あたしは強いから、やめておいた方がいいわよ~」と忠告された。見習いメイドは、感情がすぐに顔に出るタイプなので、絶対に弱いだろうと思う。
 見習い召使も同じ考えだったようで、彼はわざとらしく息を吐く。

「はあ、さっきから僕に負け続けてるのに、よく言えたもんだよ」

 それを聞いた執事は、寛雅(かんが)に微笑むと、
「いまのところ、見習い召使さんの全勝ですものね♪」
 と言った。
 見習いメイドは顔を真っ赤にしながら、「つ、次こそは勝つから!」と意気込んだ。

「あ、あの……!」詩は、きり良きところで三人を制止した。そうしなければ、おそらく彼らは永遠にしゃべり続けてしまうだろう。物語が進むように。

 ——やっぱり、みんなには意思はないのかも……。

「……みなさんは、平気なんですか? あんなことがあったのに」

 先ほどの光景は、衝撃的にもほどがあった。死体なんて、ドラマでしか見たことがない。ここが物語の中で、あれがMPCだとしても、ショックが大きすぎる。
 しかし、それもあくまで、意志を持った『村娘(うた)』だけの話なのかもしれない。

「平気なわけないでしょ? ただ、悲観したって事実は好転しないんだから、うじうじしてるだけ時間の無駄ってだけ」

 なるほど、確かにそうだと思った。この状況を嘆いたところで、なにも変わらない。

「ていうか、アンタなんじゃない? あのひとを殺した犯人」

 詩はぽかんとした。一瞬、その場の時が止まった。
 見習いメイドをキッと睨みつけ、

「馬鹿なこと言わないでよ。彼女は昨日、偶然この屋敷に来ただけの客人だよ。あのひとを殺す動機なんてないじゃないか」

 と、見習い召使は反抗する。

「ふたりの言い分は分かりますが……現状はなんとも言えませんね」執事は少し苦そうな顔をしている。「確かに、昨日偶然居合わせただけの村娘さんには、殺人の動機はないかもしれません。ですが、信頼関係のない村娘さんが怪しまれるのも仕方がありません。動機なんて、聞いてみるまで分からないものですから」

 総身が冷える思いがした。視線の端に映る見習い召使の表情もこわばっている。

「ちょっと、執事はどっちの味方なのよ」

「どちらでもありませんね。あくまで中立です」

 そう言いつつも、疑いの目が詩に向けられていることは明らかだった。

「ふん、あれだけ僕の意見を否定してきて、よく言えたものだね」

「あくまで可能性の話ですよ。私だって、確証がある訳ではありませんから」

 メガネのフレームの奥で、執事の茶色い瞳が怪しく輝いている。知的でありながら、冷徹さもにじむ光だ。

「確証がない話をしないで。時間の無駄だし……腹が立つ」

「……」詩は、見習い召使の言動に、微かな違和感を覚えていた。彼は、こんなに村娘を擁護する立場だっただろうか。もちろん、物語の捻じれと言われれば、それまでだ。だが、いまの見習い召使はまるで——

 ——本物のアレンみたいな……。

 見習い召使は席を立ち、「……もういい、飽きた。あとは勝手にして」と言い残して、部屋を後にした。我に返った詩は、アレンを追いかけて部屋を飛び出した。
 見習い召使は正面玄関前の階段にいた。彼を見つけた詩は、慌てて呼び止める。振り返った時、どこか不機嫌そうな顔をしていた。

「あの……さっきは、ありがとう、ございました」

 やっとのことでそれだけ言うと、見習い召使は、

「……別に、根拠もなく疑われてるのが気にいらなかっただけ。君を助けたかったわけじゃないよ」

 そう吐き捨て、さっさと階段を昇って行ってしまった。
 現実世界のアレンにそっくりな言い回しだった。

 ——やっぱり、アレンみたいな……。

 そうは思いつつも、その答えがどこかにある訳でもない。詩はその足で、談話室へと向かった。

 
 談話室の顔を出すと、主人、奥様、お嬢様の三人が、ティータイムを楽しんでいた。殺人事件が起きているというのに、なんて呑気なひとたちだろうか。まだ一度も会っていないメイドは、お茶の追加を用意しているのか不在だった。

「あらら? こんなところになんの御用で? 村娘さん」

「ああ、えっと……」理由までは考えていなかった。この状況で、正直に探索をしていたことを話すのは、相手方の気分を害しかねない。「少し、場所を変えて休もうかなと……」

「ふうん……」

 お嬢様は、訝し気にこちらを見ながら、ミルクティーのような色の巻き髪を弄ぶ。「なら、適当な場所に座って頂戴。入り口で突っ立っているのは無作法ですわ」

「あ、はい」

 詩はひとり掛け用のソファに浅く腰掛けた。初めて来たときは気づかなかったが、手触りがよく、見るからに高級そうな布張りのソファだった。

「気分が悪くなるようなものを見せてしまってごめんね。まさか、わたしの屋敷で事件が起こるだなんて……」

 主人の愁いを帯びた声音に、奥様も「ええ、そうですね」と眉を下げた。

「この吹雪では、しばらく助けも呼べそうにないですし……大変ですね」

 詩がそう言うと、主人と奥様はそろって暗い顔をする。

「きっと毒殺されたに違いありません! そして、わたくしにはもう、犯人の目星はついておりますのよ!」

 自信たっぷりに言い張るお嬢様は、役通りのわがままで高慢な令嬢である。
 なんとなくその先が想像できるが、一応聞くことにした。

「それは……村娘さん、あなたよ!」

 ——やはり、そうくるのか。

 予想通りではあるが、思わず顔がこわばる。

「こらこら、そうやってすぐに物事を決めつけるのはよくないよ」

 主人がフォローを入れた。詩は内心ほっとした。

「まあ、動機は無いものね……それに、彼女は昨日この屋敷に来たばかりだし……」

 奥様は言う。しかし、執事同様、疑いが隠しきれていない。

「まあまあ落ち着いて♪ ごめんね、村娘さん、彼女は生来疑り深くてね……」

「ああ、いえ、大丈夫です」

 脚本の中でも、『お嬢様』は無駄に疑り深い性格をしているので、それほど気にしてはいない。どちらかと言えば、見習いメイドに疑われた時の方が堪えたものだ。

「では、わたしはこれで……」

「あら、紅茶は飲まないの?」

 奥様が引き留めるが、詩は遠慮して部屋を出た。長居してもいいことはなさそうだ。

 ——部屋に戻ろう。

 そう思って正面玄関へ向かっていると、メイドとすれ違った。ティーワゴンに、紅茶のほかにマドレーヌが乗っている。

「あ、こんにちは」

 声をかけると、メイドは冷たい視線を詩に向ける。背筋がすっと冷たくなるような、氷のような視線だった。

「えっと……」

 なにか話さなければ、そう思っていると、

「あなたはなにもしなくて結構ですからね。余計なことはなにもしないでください」

 そう言われた。思わず「えっ……?」と声が漏れる。

 ——なにもしなくていいって……。

 どういうことだ。それも余計なこととは——
 ふたりの間に落ちた沈黙。それを破ったのは、

「ちょっと、なにしてるの?」

 見習い召使の声だった。先ほどよりも不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、険しい表情を作っている。

「見習い召使……」

 メイドが力なくつぶやく。

「こんなところで道草食ってる場合? 早く紅茶とお菓子を届けないと、お嬢様にぶつくさ文句を言われるよ」

 メイドは黙り込む。しばし考えるようなしぐさを見せた後、見習い召使の言葉に返事をすることなく、談話室へ向かっていった。なにか、不愛想な雰囲気である。
 見習い召使は、いつのまにかいなくなっていた。
 詩は微かなもの悲しさを感じながら、部屋へ戻った。


 入浴を済ませたあと、部屋に戻ると、一枚のメモ書きが残されていた。
 優美な文字で、ひと言、

『伝えたいことがある。今夜、ワインセラーに来てほしい』

 とだけ書かれていた。

 ——この筆跡は……座長の。

 座長——つまり、主人が書いたもの、ということになる。——いったい、なんの用だろう?
 そして、ここでワインセラーに行くのが、正しい選択なのかどうか。もし、間違っていたら……詩はつばを飲んだ。
 だが、行かないことには変わらない。もしかしたら、物語の重要ななにかを、主人が握っているかもしれないのだから。
 詩は上着を羽織り、廊下に出た。外は暗く、空気が冷たい。部屋をゆるりと抜け出すと、そのまま階段の方へ向かう。ワインセラーは地下にある。階段を降り、もうすぐ地下への階段だという時だった。
 足元に、微かな違和感を覚えた。

「……あれ?」

 廊下の角で、偶然踏まなければ、気づかないような違和感だ。

 なにかあるのだろうか。詩は床を探る。すると、カーペットの下に、金属製の取っ手のようなものを見つけた。
 隠し通路、と言ったところか。

「……」詩はおもむろに取っ手に手をかけ、扉を開く。その先には、石造りの階段が螺旋状に伸びていた。

 ごくりとつばを飲み、詩は階段に足を下した。

♢♢♢

 蝋燭の暖かな光が、煌々と輝くなかを、詩は慎重に進んでゆく。長い階段だ。このまま、地獄へとたどり着いてしまうのではないかと思うほどだった。石橋を叩いて渡るように降りていくと、木製の扉が立ちはだかっていた。鍵はかかっていない。ドアノブに手をかけ、ゆっくりとその扉を開ける。
 そこにあったのは——大量の棺だった。

「——」

 なにか、言葉を発しようとしたが、できなかった。目の前にある棺の山は、行儀よく並べられており、それがかえって不気味だった。詩は、その場にぺたりと座り込んだ。

『また、また失敗した……』

 不意に、少年の声が聞こえてきた。聞き覚えのある、優しい声。

『次は、次こそは成功させる……させますから』

 いまにも泣きだしそうな沈痛な声に、胸が引き裂かれそうになる。
 そしてこの声。もう、正体は分かっている。

『ごめんなさい、ごめんなさい。——』

 そこで、はっと目が覚めた。

♢♢♢

 沈み込むように柔らかなベッドの上で、詩は目覚めた。なぜかまた、頭が痛い。ただ、昨日のような頭の内側から鈍く痛むような痛みではなく、こう、殴られたような痛みというか。
 その時、甲高い悲鳴が響き渡る。お嬢様の声だ。

「……」

 嫌な予感を押し殺し、詩は頭をかばいつつ、昨日と同様、悲鳴がした方へと向かう。
 場所は、地下にあるワインセラー。そこに、ひとりの男性が胸から血を流して倒れていた。まるでワインをこぼしたような赤黒いシミが、彼を中心に広がっている。
 その男性こそ、『村娘(うた)』をワインセラーに呼び出した、主人そのひとだった。
「……村娘さん、名乗り出た方がいいんじゃないですか」 

 一触即発の空気のなか、メイドが冷たく言い放った。背筋がぞわりと粟立つような感覚を覚えた。
 その場にいた皆の視線が詩に集まるなか、見習い召使が口を開き、

「……急になにを言い出すつもり?」

 と言った。険しい声音だった。

「昨晩、あなたは旦那様に呼び出されていたでしょう? ……そう、このワインセラーに」

 その場にいる全員が息を呑んだ。
 なぜ、そのことをメイドが知っているのか。詩の部屋に入った時に偶然見たのか、そもそもあの書置きを届けたのがメイドだったのか。どちらにしても、最悪な状況である。
 詩は慌てて反論する。

「ち、違いますっ! 確かに昨日、旦那様に呼び出されましたが、わたしは行かなかったんです! だから殺したのはわたしじゃありません……!」

「夜中、彼女を見かけたひとはいますか?」

 執事の問いに答える者はいなかった。詩自身も、昨晩は誰にも会わなかった。つまり、証人はいない。
 しかし、そこではたと気づく。

 ——誰がわたしを、寝室まで運んだの……?

 詩は昨晩、地下への階段の近くで、隠し通路を見つけた。そして、気づいたら部屋で寝ていたのだ。つまり、誰か運んだ人間がいるはずなのだ。もちろん、詩がひとりで部屋へ戻ったが覚えていない、という可能性もないわけではないが、現実的に考えれば、前者である可能性が高いだろう。
 仮にそうなのだとすれば、目撃者がいるはずなのだ。

 ——でも、なぜか名乗り出ない……。

 どのような意図があるのかどうかわからないが、いま言えることは、詩が最も怪しい人物である、という事だけである。
 頭はまだ、痛いままである。


 窓が少ない書庫は、ただでさえ暗い屋敷内の中でも、さらに暗い。そのうえ大して掃除もされていないのか、ほこりっぽかった。部屋に設置された振り子時計だけが、その空間の時を動かしている。
 ひとりになるには、もってこいの場所だ。詩は適当に選んだ本をぱらぱらとめくる。内容はあってないようなもので、まったくと言っていいほど入ってこない。
 MPCと主人を殺した犯人。そして詩を寝室まで運んだ人物。普通に考えれば、ここは同一人物と考えるのが自然だろう。それなら、名乗り出なかった理由にも筋が通る。だが、それでもなお、運んだ理由については分からない。犯人に仕立て上げたいのなら、それらしい細工をしていてもおかしくないだろうに、それらしいものは一切なかった。

 ——物語の真相……か。

 考えれば考えるほど、意味が分からない。

「ちょっと」急に後ろから声をかけられる。

「わあっ!?」

 思わず小さな悲鳴を上げる。見習い召使が、むっつりと立ち尽くしている。

「そんな暗いところで読んじゃだめだよ。目が悪くなっちゃうから!」

 拗ねたような言い方だ。

「あ、ごめん」

「ふん……」

「あの……わたしになにか用?」

 おもむろに尋ねると、

「さっきのことを気に病んでるんじゃないかって思って、見にきただけ」

 つっけんどんに言った。いつもの見習い召使だ。

「そうだったんだ……ありがとう」

 ふたりの間に、すっと沈黙の帳が下りる。耳に痛い。
 それを破って、「……不安?」と見習い召使が問うてきた。急な質問に一瞬きょとんとしてしまったが、すぐに我に返って「え、うん。そうだね」と答えた。

「いつ自分が死ぬか分からないし……」

 ——なにが間違いなのかもわからないし……。

 詩の心に、そっと影が差す。
 そんな詩の手を、見習い召使がそっと取った。はっと顔を上げる。真っ赤に染まった彼の顔があった。

「し、心配しなくていいよ。君が死ぬことは、きっとないから。それに——」

 詩の手をそっと離し、見習い召使は踵を返す。去り際、彼はひと言、

「次に死ぬひとは……もう決まっているよ」
 と、言い捨てたのた。

「え?」

 その言葉の真相を尋ねる暇もなく、見習い召使は書庫を出てしまった。

 ——どういう意味だ?

 まさか、一連の事件の犯人は、見習い召使なのか。彼はもう、今日殺す人物を決めているというのか。
 詩はその場に立ち尽くして、呆然とすることしかできなかった。
 翌日、殺されていたのはお嬢様だった。背中に血の花が鮮やかに咲いていた。それを見つめる見習い召使の表情には、限りなく〝無〟に近いなにかがあった。
 昨日のことが気になった詩は、急いで書庫へと向かった。案の定、見習い召使はそこにいた。
 なんともないように詩の方を見て、

「……なにか気になるの?」

 と、見習い召使は問う。詩は微動だにせず、答えなかった。

「安心して。〝俺〟は犯人じゃないし」

「……」

 まただ。詩は思った。やはり彼は、他の役者たちと一線を画している。
 詩のような、自我がある。

「……アレン」

 詩がその名を口にすると、見習い召使は一冊の本を詩に差し出した。

「まず、この本を読んで。話はそれからだよ」

 タイトルは『Dirty Ending』 ——汚された結末……。
 詩はつばを飲んで、ページをめくった。

♢♢♢

 むかし、劇団にひとりの少女がいました。
 少女は、生まれて初めて役をもらいました。それも主役です。
 少女はできる限りの力を発揮して、舞台に臨みました。結果は大盛況! 第一回の公演は大盛況で幕を閉じました。
 しかし、少女はその日、知ってしまうのです。自分たちが演じた脚本が、とある作品の盗作であるということに!
 しかしそれを誰かに知らせるよりも前に、とある人物によって、少女はステージから突き落とされ、頭を打ってしまいました。
 
♢♢♢

 物語は、中途半端なところで終わっていた。

「——」

 思い出した。たったいま思い出した。この世界に来る前、なにをしていたのか、なにがあったのか。

「わ、たし……ステージから、つき、突き落と、されて……!」

 動揺ゆえに、要領を得ないような言葉を繋げる詩の手を、見習い召使はそっと、自らの手で包み込む。

「大丈夫、落ち着いて。俺がここにいるから」

「……」

 不思議なことに、その言葉はまるで魔法のように、詩の心を鎮めてくれた。しばらくの間そうしたあと、「こっちに来て」と手を引かれた。
 そして誘導された、壁一面に並んだ書架(しょか)。数えるだけで気が遠くなるほどの冊数が、一台のなかに収められている。

「……」

 圧巻される詩に、見習い召使——否、アレンが告げる。

「ここにあるすべてが、いままで俺たちが歩んできた、このデスゲームの軌跡だよ」

 呆気にとられる、とは、まさにこのことだった。

 ——これまで歩んできた、デスゲームの……軌跡……?

 そこから考え出される答えなんて、ひとつしかない。

 ——このデスゲームは、何度も何度も繰り返されてるってこと……?
『〝完璧〟になるまで、終わることはない』

 詩はこの文言を〝物語を完結させる以外に脱出方法がない〟と解釈していたが、そうではなかったのだ。
 そのままだったのだ。
〝完璧〟になるまで、何度もやり直しをさせられるのだ。失敗した瞬間、処刑(リセット)してふりだしへと戻るのだ。
 それは一見、何度でもやり直しがきく、易しい設定ではないかと思ってしまうかもしれない。しかし、死んでも死ねない。その事実は、参加者の精神をすり減らし続け、最終的には、なにも感じない屍同然の人間と化すのだ。
 普通のデスゲームの、何倍もたちが悪い。
 しかし、詩にはその記憶がない。それは不幸中の幸いなのかもしれない。
 だが、アレンはどうだ。彼は、ずっと記憶を持ったまま、このデスゲームを繰り返しているのではなかろうか。
 詩はいま、アレンのことが心配で心配で、たまらなかったのだ。


 呆然と、それこそ糸が切れたマリオネットのように動かない詩を見て、アレンはため息をついた。

「……やっと思い出した? もう、ここまで来るのに苦労したよ」

 やれやれといった様子で、アレンは言った。

「アレン……」

 詩は、ゆっくりとアレンに近づき、彼をそっと抱きしめた。

「うええ!? な、い、いきなりなんなんだよ!?」

 動揺し大声で騒ぐが、詩は離さなかった。そしてただひと言、「ありがとう」と言った。

「いままできっと、頑張って来てたんだよね? それなのにわたし、なにも覚えてなくて……でも、もう大丈夫だよ」

「……うん」

 いまにも消え失せそうなほどか細い声で、アレンは答えた。

「俺は大丈夫だから……年下だからって舐めないでよね」

「そ、そんな……舐めたことなんてないよ。アレンはいつだって、わたしにとって尊敬できる素敵なひとだから」

 アレンはなにを思ったのか、それを聞いて詩から猫のような勢いで離れた。「そ、そんなこと言われたって、なにも出ませんからね!」と本人はご立腹なご様子だった。なにかを出そうとして言ったわけではなかったのだが……。正直、こんな反応をされてしまうと、こちらまで照れ臭くなってしまう。

「と、とにかく! 強制エンドルートに行きそうになった時は、手荒なことをしちゃったけど……とにかく、ここまで来れてよかったよ」

「強制、エンドルート?」

 アレンが、ばつの悪そうな顔をしている。

「……なんでもないよ。知りたいなら、こんなデスゲームを終わらせてからだよ」

「う、うん」

 確かに、アレンの言うとおりである。

「とりあえず……詩さん、明日は俺たちの——見習い召使と見習いメイドの部屋に向かってください」

 アレンの言ったことに、詩は静かにうなずいた。アレンは、安心したような、いや複雑そうな顔をして書庫を出て行った。
 次の日、奥様と執事が、毒杯を煽って死んでいた。それを見たアレンの表情は、すべてを悟ったような、いやなにも感じていないような、複雑な表情だった。

♢♢♢

 覚悟を決めなければならない。
 詩は見習い召使と見習いメイドの部屋の前で、ひとり立ち尽くしていた。アレンに言われた通り、詩はふたりの部屋に来ていたのだ。
 ここでなにが起こるのか、それは教えられなかった。それも、すぐにわかることだ。

「……よし」

 詩はようやく覚悟を決め、扉を開いた。
 しかし、詩は部屋に入ってすぐに、その場に固まった。
 詩の目の前には、胸から血を流して倒れる見習いメイドの姿だった。怖かったのだろう。泣きはらしたような痕跡があった。

「なんで、なんで……」

 アレンは、部屋に来るように言った。なのになぜ、見習いメイドが死んでいるのだ。
 その時、詩の背中を圧迫感が襲う。その直後、焼けるような激しい痛みが、全身を駆け巡る。

 ——刺された。

 刺されたことはないが、そう確信できた。

「あ、あ……」

 しかし、気づいたときにはもう立っていることもできず、膝から崩れ落ちた。
 床が、冷たかった。
『舞台で脚本や演技を侮辱すれば呪われる』

 それを最初にアレンに話したのは、彼の妹であるポーレットだった。
 初めて聞いたときは、ありがちな噂だと思った。月桂学園(げっけいがくえん)の演劇部は、全国的に見ても、演技力と演出がほかの学校の演劇部から一線を画している。そんな彼らのプライドから生まれた噂なのだと、アレンは決めつけた。
 しかし、その噂は本当だった。
 そう言わざるを得ないようなことが、現実に起こってしまったのだから。
 
♢♢♢

 静かになった屋敷。アレンがエントランスへ来た時、相手はすでにそこにいた。
 純白だったエプロンを深紅に染め、片方の手には赤黒くなったナイフを握ったその人物は、猫のような豪快なあくびをした。
 とろんとした目つき。しかし、その奥にいつもの剽軽(ひょうきん)さはない。
 メイド役の朝奈だった。

「やっほー」と手を振る朝奈を無視して、アレンは正面から向かい合った。

「これで……終わりだよ」

 アレンは言った。

「まさか、現実世界じゃないとはいえ、人殺しになるだなんて思わなかったー……」

 アレンは眉間にしわを寄せ、渋面を作る。「それは、俺だって同じだよ。物語のなかとはいえ、誰かを傷つけることになるだなんて……」

「でも、それももう終わりだねー」

「どの口が言ってるの?」

 そもそも、なぜアレンたちが脚本の世界に閉じ込められたのか。
 それは、予行公演が終わった後のことだった。
「なん、て、ことを……!」

 声が、情けないほどに震えていた。アレンは動揺したまま、目の前の光景に、絶望にも似たなにかを覚えた。
 (うた)が、頭から血を流して力なく倒れている。息はある。だが、いまにも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
 とん、とん、と足音が近づいてきて、アレンのすぐそばで止まった。ゆっくりと振り返る。そこには、うつろな目をして立ち尽くす朝奈の姿があった。片方の手にある古い冊子は、力を入れすぎてしわができていた。

「……なんで、なんであんなことしたの!」

 怒りに任せて、アレンは叫ぶように問いかけた。その声が、静かな体育館にこだまする。
 余韻が消えるのを待たずに、アレンは、

「盗作なんて……こんなの、脚本や舞台を、侮辱したも同然じゃないか! どういうつもりなんだよ! どんな気持ちで、必死に練習する俺たちや、舞台の準備をするひとたちを見てたんだよ!」

 と捲し立てるように言った。
 朝奈が今回書き上げた作品は、いまは廃部になった文芸部の部員が執筆した小説のパクリ——盗作だったのだ。
 いま朝奈が持っている冊子は、その元になった小説だった。
 悲しかった。ずっと信じて、一緒にやってきた仲間が、盗作をしていたという事実が、辛くてしょうがない。そして、これまでの部員が守っていた、『舞台で脚本や演技を侮辱すれば呪われる』という噂を、彼女は実行してしまったのだから。

「……演じたかったの、この作品を。なぜか分からないけど、狂おしいほどに……」

 朝奈は、力なく答えた。いつものような、伸びのある声ではなく、なにかにとり憑かれたような声音だった。

「……」これに、アレンは罵声を浴びせることはできなかった。ただ黙って、朝奈を睨みつけることしかできない。
 アレンは、この脚本を読んだ時から、この物語が盗作であると気づいていたのだ。入学してすぐ、掃除のときに入った教室で、原作を読んでいたからだ。しかし、わかっていて、アレンは黙っていたのだ。
 なぜか。それは、朝奈と全く同じだった。

 ——俺も、あの物語を演じてみたかった。

 だが、それと同時に、脚本や舞台を侮辱することになってしまう。そんな罪悪感を感じた。心の中で、そのふたつの感情が振り子のように揺れ続け、そしていま、罪悪感がアレンの中で勝ったのだ。
 お互いに、沈黙のまま見つめ合う。
 時計の針の音が、徐々にふたりを、この世界から切り離してゆく。

 そして——
「は……」

 気づいたときにはもう、現実世界からすら、ふたりは切り離され、隔絶されたのだ。
 脚本という、永遠の世界へ。

♢♢♢

 実際のゲームの全容はこうだ。
 このゲームでは、三つの幕が存在しており、いまは第三幕である。その物語を、登場人物であるアレンたちは本来の筋書き通りに進めなければならない。
 朝奈が盗作した作品は、三つあるシリーズのひとつだった、ということだ。
 第一幕は、村娘が地下にある大量の棺を見てしまい、気が動転したことにより、屋敷の人間を皆殺しにして終了する。
 第二幕は、朝奈が盗作した原作通りのストーリーで、ここまでは大した苦労はなかった。
 しかし、問題は第三幕だ。ここだけは、何十回、何百回といった試行錯誤の末、ようやく導き出された結末だった。
 最悪なことに、一度失敗すれば、どこからであろうと、必ず第一幕に戻されるのだ。つまり、セーブが存在しない。そのうえ、第一幕以外であの棺の部屋にたどり着いてしまうと、即リセットになってしまう。俗に言う、即死トラップだ。
 唯一の救いは、物語内にあるイベントとイベントの間の行動までもは制限されないということ。つまり、物語の進行上、都合が悪くなったときは、殴って気絶させたとしても、問題ないということ。
 これは、詩が第三幕で棺の部屋に入ろうとした際に使った方法だった。心苦しかったが、進行上仕方がないことだったと、割り切るほかない。
 ほかの部員たちは、確かに本人だ。しかし、役に意識を乗っ取られている、というのか、自我はほとんど存在しない。
 詩も、他の部員と同じように、役に意識を乗っ取られている状態なのだと思っていた。しかし、物語を進めていくうちに、詩だけは例外であることに気づいた。全く同じというわけではない。彼女は幕が変わるごとに、記憶が無くなっているのだ。
 なぜ、詩だけが例外なのか。それはアレンにも分からなかった。
 しかし、物語ももうすぐ終わる。もう何度繰り返したのか分からないこのゲームを、終わらせる時が来たのだ。

♢♢♢

「これから、どうなっちゃうんだろーね」朝奈は言う。

「物語は終わったし、そろそろ脱出できてもいいよねー」

「そんなの俺が知ってるわけないでしょ? 物語を終わらせたのは、これが初めてなんだから」

「確かにねー……でもさ、もっとこう、わあって感じで終わると思ってたんだけど……」

 なんか期待外れだなあ、とぼやく朝奈を見て、アレンは思った。

 ——まさか、まだ終わってないのか?

 だとすれば、脱出できないことにも納得がいく。だとしたら、なにを見逃しているのだ。第三幕に、これ以上どんな展開が隠れているというのだ。
 その時だった。
 朝奈の背後で、物音がしたかと思えば、それが一気に距離を詰め、彼女の背中を刺した。

「えっ……」

 朝奈はそのまま、うつぶせに倒れこむ。刺さっているのは、金色の鋭利な刃物。こんなもの、ステージ上に会っただろうか。
 考えて、はたと思い立った。

 ——大時計の針だ。

 書庫にあった、アレンよりもずっと高さのある、あの大時計。刺さっているのは、その長針だった。
 おそるおそる、顔を上げると、そこに立っていたのは——詩だった。いまにも倒れそうなほど顔色が悪く、立っているのもやっとといった状態だった。どうやって朝奈と距離を詰め、彼女を刺殺したのだろう。いったいどこに、そんな力があったのだろう。詩はもう、立っていることもできないのか、その場に倒れこんだ。
 そして、思った。
 処刑(リセット)されない、と。
 つまりこれが、正しい選択なのだ。

「……詩、さん」

 アレンは、詩のもとへ歩み寄った。その道すがら、朝奈に刺さった長針を引き抜いた。