初演は、結果として大成功に終わった。また、新入生勧誘舞台に向けて、また練習漬けの日々へと逆戻りである。しかし、詩の気分は、いままで以上に高ぶっており、HRの先生の話はまともに聞けなかった。駆け寄ってくるクラスメイトたちをかわしながら、詩は部室へ向かった。部室は旧校舎の一階隅にある広い教室だ。開校当初から、場所は変わっていないらしい。旧校舎は、詩の教室がある高等部から近く、そのうえHRが終わるのも早かった。
 ——さすがにまだ、誰もいないよね。
 そう思いながら、部室に向かっていると、かすかにミシンのような機械音が耳に入る。まさか、もう誰かいるのだろうか。
 足音を立てないようにそっと部室に近づき、戸を開けなかに入る。古い校舎なので立てつけが悪く、静かに開けるのは至難の業で、少し軋んだような音が出てしまった。
「あっ……」
 部室の端、日差しがよく入る窓辺で、アレンがミシンに向き合って作業をしていた。きっと、役者たちの衣装の手直しでもしているのだろう。戸を開けて入ってきた詩の存在には気づいていないようだ。どうやらかなり集中しているらしい。
 ——綺麗……。
 詩は、思わず口に出しそうになったのをすんでのところで飲み込んだ。アレンと妹のポーレットは、幼い頃に家族の仕事でイギリスから日本に移住してきたらしく、それゆえ日本人の価値観的に言えば、顔立ちが整っている。澄んだ冬の空のような青い瞳に、はっと息を呑むような金髪。特に彼の髪は、わずかに傾いた陽光に照らされて、まるで金の糸のような輝きを放っている。そんなアレンに恋心を抱く生徒は少なくなく、彼が所属している中等部だけではなく、高等部にもファンクラブがある。
 しかし、人気の理由は容姿だけではない。アレンの中学生とは思えないほどに優れた演技力、それが老若男女問わず、人々の心をとらえて離さないのだ。見た目にそぐわぬ老獪(ろうかい)な役も、邪悪な悪役も、もちろん王道な王子様まで、アレンにかかれば完璧に演じてしまう。歴史があるとはいえ、こんな一介の演劇部の部員としてとどめておくのはもったいない。そう思わざるをえないほどの天才子役。それがアレンだった。
 ——そんな彼と、わたしは同じ舞台に立った。
 実を言うと、詩が主役になれたのは、演技の才があったからではない。単に、詩が今回の物語の主人公にぴったりだったから。ただそれだけの理由で、脚本家の朝奈と座長の瑠夏に頼み込まれたのだ。実力だけで考えれば、外部進学者で、なおかつずっと裏方をしていた詩よりも、適任は他にもいたはずなのだ。
 そんな、演劇のえの字も知らないような詩に、演技を叩き込んだのがアレンだった。はっきり言って、スパルタ以外の何物でもなかったが、そのおかげでいまの〝村娘としての詩〟がいる。
 ——お礼言わないと……。
 とは思いつつも、いま言えば、眉をひそめて「そういうのは公演が終わってから言うものだよ」と言われそうだ。そう思っていると、立てつけの悪い扉が開く音が響く。これにはさすがのアレンも我に返って作業を中断した。
 その瞬間、ようやく気付いた詩の存在に驚いたのか、アレンは悲鳴を上げて椅子から滑り落ちた。いつもどこかこましゃくれた雰囲気の彼だが、めっぽう怖がりだとポーレットが教えてくれたことがあった。
「あのー、なにがなんでも怖がりすぎでは? わたしまで驚いたんですけどー?」
 のびのびとした猫のような声は、朝奈のものだ。どうやら入ってきたのは彼女だったらしい。伸びとあくびをしながら、「お疲れ様ですー」と言っている。朝奈は詩よりも年下だが、演劇の世界では先輩だ。そのうえ文才もある彼女は、脚本家も兼任している。
「詩先輩も来てたんですねー」目をこすりながら朝奈は言う。「いやあ、アレンの集中力には脱帽ですねー。わたしもそれぐらいの集中力があれば、すぐに脱稿できるのになあ」
「そ、そうだね」
 朝奈自身は、筆が遅い人間を自称しているが、瑠夏や霖いわく、歴代の脚本家のなかでも頭ひとつ抜けて速いらしい。
「はあ、君は本当にのびのびとしてるね。だからすぐに転んだり、原稿を忘れたりするんじゃない?」
「ええ……アレンが冷たい……むり、わたし死んじゃう……」わざとらしくその場にしゃがみ込んで、いじけたふりをする朝奈に、とどめの一撃を指すように、アレンは「勝手に死んだらいいじゃん」と言い放った。
「あ、アレンさん……」詩はいつものことながら言葉に詰まった。
「ぐすん、めそめそ……もういい、わたしグレてやるー!」
 わざとらしい泣き真似をしたと思ったら、荷物を置いたまま部室を飛び出してしまった。いつものことながら、嵐のような寸劇だった。
「しょうもない」とつぶやきながら、アレンは作業を再開しようとする。詩はそれを咄嗟に止める。なんとなく、アレンと話したい気分だった、という我儘だ。
「なに?」アレンは問うてくるが、特に言うことを考えていなかったので、黙り込んでしまう。作業を邪魔しておいて、本当に情けない。
「……今日の演技、なかなか良かったよ」
「え?」詩はぽかんとした。
「初めて観客を前にしての演技にしては、上出来だった。本番の活躍次第だけど、これからも役がもらえる可能性はあると思うよ」
「ほ、本当?」
「嘘ついたって意味ないからね」
 詩は黙って下を向く。もちろん、悪い意味ではない。演劇の師であり、部内でも髄一の演技力を誇るアレンにそう評価されたことが嬉しくて、顔を隠したくなったからだ。
 ——きっと、締まりのない顔してるから。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
 思ってもみない反応だったのか、アレンはいくらか驚いたような反応を見せて、そっぽを向く。
「べ、別に、俺は君の演技に正当な評価をしただけであって、なにも特別なことは言ってないよ」
「そ、そっか……」
「あとさあ……」頬杖をついて、アレンはムスッとした顔をする。「その、〝アレンさん〟ってやめてくれる? 一応俺の方が年下だし……」
「え……?」詩は当惑した。師であるアレンを呼び捨てにするなんて、いままで考えたこともなかったのだ。
「べ、別に距離感を感じるから嫌なわけじゃなくてね? 同じ演劇部の仲間として、仲間意識を持つのは大事だと思うというか……」
 ぶつぶつと言い訳をするアレンに、詩は思わず微笑んだ。その様子が、なんだか可愛らしく思えて、胸に暖かな明かりがともったような心地になった。
「じゃあ、アレン……でいいのかな」
「あ、アレン……」自分の名前を言ったきり、アレンは黙り込む。心なしか、頬が染まっているように見えたが、陽の光のせいだろうか。
「……ほら、もうすぐ練習の時間だよ!」
 椅子から勢い良く立ち上がり、「朝奈先輩探しに行ってくる。どうせ自販機でパックジュースを選んでるだろうから」と言いながら部室を出て行った。その後はぞろぞろと部員が入ってきたが、アレンがいない部室は少し物足りない気がした。
 

 日が傾いて、薄暗いステージは、どこか物悲しい。昼間の華やかさは鳴りを潜め、いまは寂しさが残るのみだ。
 そんなステージに、ひとりの村娘が立っている。
 詩はステージの上から、体育館を見渡す。本番は、きっと今日と同じぐらい緊張するのだろう。だが、いまから当日が楽しみで仕方がない。今日の公演で自信がついたのと、アレンに褒めてもらえたからである。
 詩が舞台に立つのは、これが最後かも知れない。ああは言われたが、次もキャスティングされる保証はない。この公演が終われば、また裏方に徹することになるかもしれない。だからこそ、いまできる全力を尽くそうと思った。あのひとたちに、少しでも近づけるように。そして、自分に自信をつけるためにも、だ。
 ——よし、明日も頑張ろう。
 そう思った後、ふと足元を見た。詩の右側に、一冊の冊子が落ちている。表紙は色褪せており、見ただけで古いものだと分かった。詩は一瞬たじろいだ。こんなもの、ステージに上がった時はなかった。
 しゃがみ込み、それを手に取る。触り心地も、見た目通りの古そうな感触だった。
 それを開き、なんの気なしに読み始める。
 しかし、読み始めてすぐに違和感を覚えた。それを払拭したくて、一心不乱に書かれた文字列を追う。
 ——そんな、まさか……。
 その瞬間、詩は強い衝撃を覚えた。