今日のために整えられた舞台の上で、幼い兄妹——否、見習いのメイドと召使が踊る。自らの重みを感じさせないような軽快な踊りと、その口から紡がれる歌声に、舞台袖にいた詩は自然と足がすくんだ。
そこから見える客席には、全校生徒が立錐の余地もないほど密集し、彼らの演技を見逃すまいと、ステージという一点に視線を集中させていた。
詩が通う月桂学園では、演劇部による新入生歓迎舞台、その予行として、今年度の卒業生も招いて公演を行っていた。月桂学園の演劇部は、卓越した演技力と演出で有名な、開校当初から続く歴史ある部だ。
いまから、その舞台に立つのだ。しかも、初めて。そのうえ〝主役〟として。詩はごくりとつばを飲む。大丈夫だと、自分に何度も暗示をかけ、心を落ち着かせる。
ついに出番がやってきて、詩——村娘はステージに飛び出す。
「す、すみません。誰かいませんか?」
声が震えそうになるのを堪えて、詩は脚本通りのセリフを口にする。そのセリフをを聞いて、副部長でもある霖——執事が柔和な笑みを浮かべて、村娘である詩に駆け寄る。
「おや、可愛らしい村娘さん。どうかなさいましたか?」
ミルクティーのような、甘くて柔らかな声だった。
「実は道に迷ってしまって……一晩だけでもいいので泊めてもらえませんか?」
「まあ」執事らしい上品な仕草で口をふさぐ。「それは大変ですね。外は冷えるでしょう、どうぞなかへお入りください」
執事に導かれるように、舞台の中央へと誘導される。この狭いステージ上で、こうやって空間をしっかりと分けることができるのだから、演劇の世界はすごいと思う。
舞台中央では、華やかなパーティが催されている。先ほどまで楽しく踊っていたポーレット——見習いメイドとアレン——見習い召使が、物珍しそうな目でこちらを見てくる。ふたりは双子で、アレンは部内の衣装係も務めている。
「執事~? その子はだあれ?」と見習いメイドは問う。チャーミングな少女の声だ。
「なに? 不審者?」と見習い召使は詩を睨みつける。変声前の、少し高い少年の声だ。
「違いますよ、ふたりとも。彼女はただの迷子の村娘さんです」
執事の紹介に、詩は練習通り、軽くお辞儀をする。演技だとはわかっているものの、あまりにも自然なしゃべり方と仕草に、彼らの演技力の高さがうかがえる。
「お客さんとは珍しいね」
それまで舞台中央の椅子に腰かけていた部長——部の伝統で部員は座長と呼んでいる——である瑠夏——主人が立ち上がる。それにつられて、隣に座っていた美香——奥様も立ち上がり、こちらを見る。幼い頃から日本舞踊を嗜む彼女の所作は、ひとつひとつ美しい。もとの演技力も相まって、まるで本当に良家の奥方だ。
「せっかくだし、新しいワインでも開けようかな」と言う主人に、ひとりがけのソファに腰かけていた姸子——お嬢様は眉間にしわを寄せる。そんな表情ですら、牡丹や芍薬のように美しい。さすが、部内の花形役者、といったところだろうか。
「やだ、お父様ったら、また飲まれるの? わたくし、お酒は好きじゃなくってよ?」とお嬢様が言う。
「あなた、はしゃぎすぎないようにしてくださいね」と奥様が言う。
その光景を見かねたように、お嬢様の横で突っ立っていた朝奈——メイドがため息交じりに、でもどこか軽快に微笑み、
「じゃあ、お茶はいかがですか? 執事自慢のブレンドティーですよ?」
と茶目っ気たっぷりにウインクする。
「メイド、ワインも忘れないでね♪」
「メイド、お父様の言う事なんて無視していいわよ。これ以上は体に悪いわ」
きっぱりと言い切るお嬢様に、見習いメイドが大声で笑いだす。
「キャハハ! お嬢様に言われてますよ、旦那様。メイド! あたしはジュースがいいわ!」
ここぞとばかりに手を掲げる見習いメイドの脇を、見習い召使が小突く。
「僕たちも使用人なんだから、手伝いをするんだよ」
「えーっ! めんどくさいなあ……」と喚く見習いメイドを脇に、見習い召使は詩の方を向く。その真剣そうな表情に、演技とはいえ、内心胸がきゅっと締まる。
「騒がしくてすみません。どうぞ、そちらの椅子におかけください」
と言って、お嬢様の向かい側の席を勧めた。
「あ、ありがとうございます。でも……」
「気にする必要はなくってよ。わたくしの話し相手になって頂戴」
無邪気に微笑み、お嬢様も席を勧める。そこまで言われて、詩はようやく席につく。「し、失礼します」
「旦那様、ワインをお持ちしましたよ」いつの間にか舞台袖に戻っていた執事が、ワインボトルを手に微笑む。その横で、お嬢様が、「余計なことしなくていいのに……」とぼやく。それをなだめながら、執事はワインの説明をする。
「今回は十年物の玄人向けのものをご用意いたしました」
「君は本当に気が利くね、ありがとう」
執事から受け取ったワインをグラスに注ぎながら、主人は笑う。穏やかな笑みだった。
「いえいえ」と、謙遜しつつ詩の方へ向き、「初心者向けの飲みやすいものもご用意いたしましたので、ご安心ください」と声をかけた。とても自然な流れだ。
「いいわね。執事、わたくしはそちらをいただくわ」
「お嬢様はおこちゃま舌ですものねえ。いつになったら改善するのやら」
やれやれといった様子で、わざとらしく大ぶりな反応をするメイドに、お嬢様は「はあ!?」と声を荒げる。
「誰がおこちゃま舌ですって!? わたくしはあえて飲まないだけよ!」
「お嬢様、言い訳は見苦しいですよ」
見習い召使が突っ込む。
「……み、見習いのくせに生意気なのよ! お父様、早くコイツを馘にしてよ!」
癇癪を起すお嬢様を、主人は「まあまあ」となだめる。しかし、それ以上はなにも言わなかった。『お嬢様』は、我儘でひとの言うことを全く聞かない人物なのだ。
「さて、さあ村娘さんもどうぞ」
奥様が差し出したワイングラスを、詩は震える手でそっと受け取る。なかにはワインを模したぶどうジュースが注がれている。
「……ありがとうございます」
詩はゆっくりと正面を向く。その瞬間、観客である全校生徒の視線が、一気に詩へと集まってくる。背筋が、すっと冷えた。先ほどまで、詩はずっと舞台という小さな世界だけを見ていた。そこは現実とは違う異世界のような空間で、仲間たちのおかげもあって、練習通りの演技ができていたのだ。
しかし、いまは違う。
——みんなが、わたしを……『村娘』を見ている。
その事実が、ひどく緊張を煽る。いますぐにでも逃げ出したくなるほど、怖くてたまらない。詩は一度、深呼吸をした。体中に酸素がいきわたると、不思議と心が落ち着く気がするのだ。これも、部員のみんなが教えてくれたことだ。
——わたしも、みんなに近づきたい。
ここに立つ部員たちと肩を並べられる存在になるために。そして、月桂学園演劇部が織りなす素晴らしい舞台の一部になるために。
詩は意を決して、ワイングラスのぶどうジュースを飲み干した。
そこから見える客席には、全校生徒が立錐の余地もないほど密集し、彼らの演技を見逃すまいと、ステージという一点に視線を集中させていた。
詩が通う月桂学園では、演劇部による新入生歓迎舞台、その予行として、今年度の卒業生も招いて公演を行っていた。月桂学園の演劇部は、卓越した演技力と演出で有名な、開校当初から続く歴史ある部だ。
いまから、その舞台に立つのだ。しかも、初めて。そのうえ〝主役〟として。詩はごくりとつばを飲む。大丈夫だと、自分に何度も暗示をかけ、心を落ち着かせる。
ついに出番がやってきて、詩——村娘はステージに飛び出す。
「す、すみません。誰かいませんか?」
声が震えそうになるのを堪えて、詩は脚本通りのセリフを口にする。そのセリフをを聞いて、副部長でもある霖——執事が柔和な笑みを浮かべて、村娘である詩に駆け寄る。
「おや、可愛らしい村娘さん。どうかなさいましたか?」
ミルクティーのような、甘くて柔らかな声だった。
「実は道に迷ってしまって……一晩だけでもいいので泊めてもらえませんか?」
「まあ」執事らしい上品な仕草で口をふさぐ。「それは大変ですね。外は冷えるでしょう、どうぞなかへお入りください」
執事に導かれるように、舞台の中央へと誘導される。この狭いステージ上で、こうやって空間をしっかりと分けることができるのだから、演劇の世界はすごいと思う。
舞台中央では、華やかなパーティが催されている。先ほどまで楽しく踊っていたポーレット——見習いメイドとアレン——見習い召使が、物珍しそうな目でこちらを見てくる。ふたりは双子で、アレンは部内の衣装係も務めている。
「執事~? その子はだあれ?」と見習いメイドは問う。チャーミングな少女の声だ。
「なに? 不審者?」と見習い召使は詩を睨みつける。変声前の、少し高い少年の声だ。
「違いますよ、ふたりとも。彼女はただの迷子の村娘さんです」
執事の紹介に、詩は練習通り、軽くお辞儀をする。演技だとはわかっているものの、あまりにも自然なしゃべり方と仕草に、彼らの演技力の高さがうかがえる。
「お客さんとは珍しいね」
それまで舞台中央の椅子に腰かけていた部長——部の伝統で部員は座長と呼んでいる——である瑠夏——主人が立ち上がる。それにつられて、隣に座っていた美香——奥様も立ち上がり、こちらを見る。幼い頃から日本舞踊を嗜む彼女の所作は、ひとつひとつ美しい。もとの演技力も相まって、まるで本当に良家の奥方だ。
「せっかくだし、新しいワインでも開けようかな」と言う主人に、ひとりがけのソファに腰かけていた姸子——お嬢様は眉間にしわを寄せる。そんな表情ですら、牡丹や芍薬のように美しい。さすが、部内の花形役者、といったところだろうか。
「やだ、お父様ったら、また飲まれるの? わたくし、お酒は好きじゃなくってよ?」とお嬢様が言う。
「あなた、はしゃぎすぎないようにしてくださいね」と奥様が言う。
その光景を見かねたように、お嬢様の横で突っ立っていた朝奈——メイドがため息交じりに、でもどこか軽快に微笑み、
「じゃあ、お茶はいかがですか? 執事自慢のブレンドティーですよ?」
と茶目っ気たっぷりにウインクする。
「メイド、ワインも忘れないでね♪」
「メイド、お父様の言う事なんて無視していいわよ。これ以上は体に悪いわ」
きっぱりと言い切るお嬢様に、見習いメイドが大声で笑いだす。
「キャハハ! お嬢様に言われてますよ、旦那様。メイド! あたしはジュースがいいわ!」
ここぞとばかりに手を掲げる見習いメイドの脇を、見習い召使が小突く。
「僕たちも使用人なんだから、手伝いをするんだよ」
「えーっ! めんどくさいなあ……」と喚く見習いメイドを脇に、見習い召使は詩の方を向く。その真剣そうな表情に、演技とはいえ、内心胸がきゅっと締まる。
「騒がしくてすみません。どうぞ、そちらの椅子におかけください」
と言って、お嬢様の向かい側の席を勧めた。
「あ、ありがとうございます。でも……」
「気にする必要はなくってよ。わたくしの話し相手になって頂戴」
無邪気に微笑み、お嬢様も席を勧める。そこまで言われて、詩はようやく席につく。「し、失礼します」
「旦那様、ワインをお持ちしましたよ」いつの間にか舞台袖に戻っていた執事が、ワインボトルを手に微笑む。その横で、お嬢様が、「余計なことしなくていいのに……」とぼやく。それをなだめながら、執事はワインの説明をする。
「今回は十年物の玄人向けのものをご用意いたしました」
「君は本当に気が利くね、ありがとう」
執事から受け取ったワインをグラスに注ぎながら、主人は笑う。穏やかな笑みだった。
「いえいえ」と、謙遜しつつ詩の方へ向き、「初心者向けの飲みやすいものもご用意いたしましたので、ご安心ください」と声をかけた。とても自然な流れだ。
「いいわね。執事、わたくしはそちらをいただくわ」
「お嬢様はおこちゃま舌ですものねえ。いつになったら改善するのやら」
やれやれといった様子で、わざとらしく大ぶりな反応をするメイドに、お嬢様は「はあ!?」と声を荒げる。
「誰がおこちゃま舌ですって!? わたくしはあえて飲まないだけよ!」
「お嬢様、言い訳は見苦しいですよ」
見習い召使が突っ込む。
「……み、見習いのくせに生意気なのよ! お父様、早くコイツを馘にしてよ!」
癇癪を起すお嬢様を、主人は「まあまあ」となだめる。しかし、それ以上はなにも言わなかった。『お嬢様』は、我儘でひとの言うことを全く聞かない人物なのだ。
「さて、さあ村娘さんもどうぞ」
奥様が差し出したワイングラスを、詩は震える手でそっと受け取る。なかにはワインを模したぶどうジュースが注がれている。
「……ありがとうございます」
詩はゆっくりと正面を向く。その瞬間、観客である全校生徒の視線が、一気に詩へと集まってくる。背筋が、すっと冷えた。先ほどまで、詩はずっと舞台という小さな世界だけを見ていた。そこは現実とは違う異世界のような空間で、仲間たちのおかげもあって、練習通りの演技ができていたのだ。
しかし、いまは違う。
——みんなが、わたしを……『村娘』を見ている。
その事実が、ひどく緊張を煽る。いますぐにでも逃げ出したくなるほど、怖くてたまらない。詩は一度、深呼吸をした。体中に酸素がいきわたると、不思議と心が落ち着く気がするのだ。これも、部員のみんなが教えてくれたことだ。
——わたしも、みんなに近づきたい。
ここに立つ部員たちと肩を並べられる存在になるために。そして、月桂学園演劇部が織りなす素晴らしい舞台の一部になるために。
詩は意を決して、ワイングラスのぶどうジュースを飲み干した。