この日、珍しく『Bar Loiter』には客が居た。
「良いお店なのに、随分と空いているのね」
「ウチは穴場なんです……」
氷見子が引き攣った笑顔で返す。
「そのようね。騒がしい店よりは好みだわ」
「気に入っていただけて良かったです」
「おかわり、いただけるかしら?」
「はい、喜んで」
氷見子がドリンクを提供すると、その客は溜息を漏らす。
「何かあったんですか?」
氷見子は溜息の理由を尋ねた。
「あら、聞こえちゃったかしら。ごめんなさいね……。今日素敵な男性に出会ったんだけど、その人の名前も連絡先も聞かずに別れてしまった事を後悔していたの」
「一目惚れですか?」
「こんなに胸がときめいたのは久しぶりだったわ……。だから舞い上がっちゃって、名前も聞けなかった」
「私もそんな恋してみたいです!」
「あなたには恋人はいないの?」
「い、いません……」
「好きな人は?」
「恥ずかしながら誰かを本気で好きになった事がなくて……。だからそういう話にすごく憧れちゃいます!」
「でも、もうニ度と会う事はないかもしれない……」
「弱気になっちゃ駄目ですよ! そんなに素敵な出会いがあったんならもっと大切にするべきです!」
「ありがとう。でもね……私は出張でこの街に来ているだけで、2日後には地元に帰らなくてはいけないの」
「そうだったんですか……。ちょっと待ってください! もしかしたらその男性を見つけられる人がこの店に居ます!」
「えぇ? それはどういうこと?」
「ほら早く! こっちに来てください!」
氷見子はバックヤードから教助を引っ張り出して来た。
「一体どうしたと言うのだ」
教助が気怠そうに尋ねるが、氷見子は教助の問いには答えずに客の女に紹介する。
「この人は名探偵なんです! その男性との出会いを詳しく聞けば、どこの誰なのか分かるかも!」
「そんな事、本当に出来るの?」
「出来ますよね? 社長!」
2人の女性から期待の眼差しで見つめられた教助は、珍しく空気を読んだ。
「聞くだけ聞こうか。だが、期待はするなよ?」
「あれは……今朝の事だった……」
客の女性は男性との出会いを語りだした――
私は取引先とのアポまで少し時間があったから、綺麗な景色につられて河川敷を散歩していた。
景色に気を取られていた私は段差に気付かずに、つまづいて転んでしまったの。
すると後ろから声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
振り返ると、男性が手を差し伸べてくれていた。私がその手を取ると、彼はぐっと引き上げてくれた。
「お怪我はなかったですか?」
「は、はい。ありがとうございます……」
「ここ、景色が綺麗ですよね。実は僕も昔、ここで転んだ事があるんです」
そう言って、その男性は私にはにかんだ。
「この近くにお住まいなんですか?」
「えぇ。仕事の都合で寮生活なので」
彼はスポーティな服装で、大きなリュックサックを担いでいたわ。
「今日はお休みですか?」
「はい。これから大会なんです」
「そうですか。が、頑張ってくださいね!」
「ありがとうございます! 必ず優勝してきます! それでは!」
そう言って彼は河川敷を走って行ってしまったの。
――以上が女性の語る出会いの記憶だった。
「その男性の身体的特徴を詳しく教えてもらえるかな?」
「年齢は恐らく20代後半。身長は180cmくらいで、体格はスラっとした細身だった。髪型はベリーショートで清潔感のある黒髪。眉毛もキリッとした好青年で右目の下に涙ボクロがあったわ」
「これから大会っていう事は、その人は何かスポーツをやっているってことですね」
氷見子が呟く。
「あぁ。その河川敷から男性が走って行った方向は最寄り駅とは反対方向だ。つまりその付近で行われていた大会が分かれば特定出来るかもしれない」
「本当ですか社長!」
教助はタブレットを操作しながら話す。
「インターネットやSNSを見る限り、河川敷から徒歩圏内で本日行われていたスポーツの大会はこの3つだ」
・青空球場……社会人野球大会 (2回戦)
・青空テニスコート……テニス大会 (シングルスの部)
・青空体育館……剣道大会 (全日本大会予選)
「野球とテニスと剣道ですか……」
「他に何か思い出せる事は?」
教助が更に情報を引き出す。
女はしばし考え、思い出した様に語る。
「うーん……。そう言えば差しだされた手が大きくてゴツゴツとしていたわ!」
「どれも手にタコが出来そうなスポーツですね……」
氷見子が頭を抱える。
「では、その男性はリュックサックの他に何か持ってはいなかったかな?」
「去っていく時に背中に黒くて長い筒状の物を担いでいたような……」
「ということは、テニスの線は薄まりますね」
「あぁ。そうなるな」
「その人は野球をやってたんじゃないでしょうか? 黒い筒の中にはバットが入っていたんじゃ!」
「その可能性もあるが、近所で試合があるのなら服装は最初からユニフォームを着て行くのではないだろうか。それに本日の野球の試合は2回戦だ。今日勝ったとしても優勝にはならない」
「た、確かに……。ってことは、その男性のやっていたスポーツは剣道ですね!」
教助はタブレットであるページを開く。
「これだな」
それはその日の剣道大会のホームページだった。
「男性の参加者は何名いるんですか?」
「100名以上だな」
「そんなにっ!」
「これ以上はもうどうしようも無いわね……」
女性客は諦めたような顔をした。
「いや、恐らくこの彼だろう」
「え? もう分かったんですか?」
氷見子が唖然とする。
「あなたは運がいい。本来ならもう少し時間がかかっただろう」
そう言って教助はタブレットで男性の写真を出した。
「か、彼よ! どうしてこんなに早く見つけられたの?」
「今回は推理小説に出てくる探偵業とは違い、よりリアルな探偵の仕事と言えるだろう。この100名を超える参加者の中から、まずは20代後半の人物は24名まで絞り込めた。この大会ホームページには参加者のフルネームと年齢が載っている為、SNSで1人ずつ検索をかけていき、証言に近い人物を割り出しただけに過ぎない」
「本当に見つかるだなんて……」
「偶然だがこの大会を私の友人が見学していたようだ。そして今、2人は一緒にいるらしいのだが……」
「高山さんですね! もしかして、その男性は警察官だったんですか?」
「君にしては勘が冴えているじゃないか。2人は後でこの店に来ると言っている」
「良かったですねお客さん! これはきっと運命ですよ!」
氷見子は自分の事の様に喜んだ。
「ちょっと緊張しちゃうわね……」
女性客は少し照れている様子だった。
「では緊張をほぐすドリンクを……」
そう言って教助は1杯のカクテルを提供する。
「本日は『チェリーブロッサム』。季節外れの春を感じさせる『印象的な出会い』というカクテル言葉が込められた日本生まれのカクテルだ」
「美味しいわ……。なんだが初恋の時の気持ちを思い出したみたい……」
その後、連絡先を交換した2人は、この数ヶ月後に交際を始めることになる。
そして数年の遠距離恋愛の末、ゴールインを果たした2人の結婚祝賀会の会場には『Bar Loiter』が選ばれる事になるのだが、それはまだ先のお話。