「最近、寝不足なのよねぇ」
カウンターで頬杖をつきながらグラスを傾けるさとみ。
「珍しいじゃない。何か考え事でもあるの?」
氷見子がワイングラスを磨きながら尋ねる。
「珍しいとは失礼ね。あたしにも悩みくらいあるわよ」
「例えば?」
「そんなの恋の悩みに決まってるじゃない。ねー? きょ・う・す・け!」
と、さとみが教助に向けてウインクをする。
「ん? まぁ私も若い頃はそんなものに熱を上げていた時期もあったな」
教助は読んでいる新聞から目線を逸らさずに答えた。
「え? 教助の若い頃の恋バナ聞きたーい!」
さとみは興味津々に目と口を丸くさせた。
 
「私も気になります!」
氷見子もそれに便乗した。
「人に聞かせるほどの事ではないさ」
「じゃあなんで別れちゃったの?」
「この世から旅立ってしまったのでね」
教助はさらっと顔色を変えずに言う。
それを聞いたさとみはしばし口をつぐんでから話し出す。
「なんか……ごめんなさい」
「気にする事はない。もう10年近くも昔のことだ」
「その人の事、今でも好き?」
「そうだな。死人には敵わないとつくづく思わされる」
「そっか……」
さとみは悲しげな表情を浮かべる。

それを見た氷見子はグラスを差してさとみに声をかけた。
「お、おかわりどうする?」
「じゃあハイボール! うんと濃いめにして!」
「了解!」
氷見子は話題を変えようと、空いたグラスを下げる際に尋ねる。
「そう言えば、寝不足の理由はなんだったの?」
「そうなのよ! それよ! 最近夜中に隣の部屋から壁を叩く音が聞こえるの! コンコンコンって!」
「え? 何それ! めっちゃ怖い!」
氷見子は後ろに仰け反りながら反応する。
「でしょ? しかも夜中ずーっと聞こえるの! 気味が悪いし怖いしで眠れないのよ!」
 
「隣にはどんな人物が住んでいるのだ?」
教助が話に入ってくる。
「30代くらいのサラリーマンの男よ」
「一人暮らしなのか?」
「あたしのアパートは一人暮らし専用だからそのはず」
「ペットは飼える物件なのか?」
「ペットも禁止よ」
「それは不可解だな」

「音が聞こえる方向は間取的にクローゼットの中だから、もしかしたら隠れて飼ってるのかも知れないけど……」
「もしそうじゃなかったら……」
氷見子が恐ろしげな表情で呟く。
「ちょっとやめてよ! 帰れなくなるじゃない!」
「そっか! それで今日こんな時間に飲みにきたんだ」
「そうよ。教助に助けて貰おうと思って」

「隣の男が君のファンやストーカーという線は?」
「あたしが住むよりも前から住んでた人だし、お店に来た事もないからそれはないと思う」
「ここ最近、それ以外で何か変わった事は?」
「そう言えば、音が聞こえるようになった日に男の怒鳴り声が隣から聞こえたわ」
「その男には交際相手はいたのだろうか?」
「分からない。あたしが隣人と顔を合わせるのは、朝のゴミ出しの時くらいだし……」
「なぜ男がサラリーマンだと?」
「いつも会う時はスーツを着てるの。会社へ向かうついでにゴミを出してる様子だった」

「詳しくはいつ頃から続いているんだ?」
「3日前の夜から……」
「どんな音が聞こえるか、やってみてくれないか?」
さとみは夜中聞こえる音を真似てカウンターを叩いた。

その音を目を瞑り聞いていた教助は、目を開き話し出す。
「すぐに高山に連絡して隣の部屋へ向かって貰うんだ」
「え? どう言うことですか社長?」
氷見子がポカンとした顔で尋ねる。
「説明は後だ。とにかくその隣の部屋で恐らく女性が監禁されていると高山に連絡をするんだ」

連絡を受けた高山を含む警察官が部屋へ入ると、クローゼットの中から縛られて口をガムテープで塞がれた女性が発見され、すぐに病院へ運ばれたが命に別状はなかった。男はその場で現行犯逮捕された。
犯行の動機は付き合っていた被害者の女性に別れ話を切り出され逆上し暴行した後、縛りつけクローゼットに監禁していたという事だった。
こうして最悪の結末にならずにこの事件は幕を閉じた。


「社長、なんで女性が監禁されていると分かったんですか?」
「そうよ! どうして分かったの?」
氷見子とさとみが不思議そうに尋ねる。
 
すると教助は2人にカクテルを提供する。
「今日は『アプリコットフィズ』。アプリコットブランデーにレモンジュースを混ぜて、砂糖と炭酸を加えたカクテルだ」
「このカクテル言葉に秘密があるのね?」
教助がさとみの言葉に頷き説明を続ける。
「アプリコットフィズのカクテル言葉は『振り向いて』。これは自分の恋心に気付いて欲しいという切ない恋のエピソードに由来しているのだが、今回は少し違ったようだ」

「社長! もったいぶらないで早く教えて下さい!」
「さとみが聞いたという音が全てだ」
そう言ってカウンターを9回叩く。
コンコンコン、コン、コン、コン、コンコンコン。

その後、教助はこう続ける。
「これはモールス信号でSOSを意味する。彼女は眠っている男にバレないように隣人のさとみにずっと助けを求めていたのだ」
「じゃあ、あたし気付いてあげられなかったんだ……」
「君は悪くない。今は被害者の無事を祝おうじゃないか」

 こうしてさとみの寝不足は解消されたかと思ったのだが、もう一つ恋の悩みが増えてしまい、これから数日間は眠れない夜が続いたのだと言う。