その日は6月6日だった。連日五月雨が降り、空気が重々しい日々が続いていた。

「なんかこう雨ばっかりだと、気分までジメジメとしてきちゃいますよね……」
氷見子が窓の外を見ながら言う。
「君にも季節を感じとる繊細な感性があったとはな」
教助はそれに目も合わせずに皮肉で返した。

「失礼ですね社長! 私はこう見えても結構繊細なんです! 季節の変わり目には必ず風邪を引きますし、毎年インフルエンザにだってかかります!」

「それは感性が繊細なのではなく、単に日頃の体調管理がなっていないだけだろう。生活習慣を見直したまえ」

「ぐぬぬ……」
氷見子が悔しがっていると店の扉が開き、1人の男が入店した。バックヤードにいた氷見子は慌てて客席へと出る。

「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
氷見子がそう尋ねると男は声を出さず人差し指を立てる。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」

男がカウンターに座り教助がバックヤードから出てくると、一瞬だけ教助の動きが止まり、氷見子にこう言った。
「すまないが、買い物に行ってきてくれないか」
「え? 良いですけど……」
不思議そうな顔をする氷見子。その理由は、買い出しはオープン前に既に済ませていたからだ。

レジからお金を取り出し、メモ帳に食材を書き出してちぎると、それを氷見子に渡す教助。
メモにはこう書かれていた。
 
タマネギ
カリフラワー
山芋
オクラ
ミント
セロリ
にんにく
ヨーグルト
ベーコン

「どれだけ時間がかかっても良いから全て揃えるんだ。店にある大きな傘を持っていくと良い」
「分かりました。じゃあ行ってきます――ごゆっくりどうぞ」
客の男に一礼して店から出る氷見子。
扉を開く際にもう一度2人の方に視線をやると、何やら訳ありな雰囲気なのだけは理解した。

男は黒いスーツに黒のハットと、全身が黒づくめだった。ハットからはみ出した髪にはウェーブがかかっており、その目は冷たく、まるで遠くを見ているかのようだった。年齢は恐らく教助と同じ頃だろうか、氷見子はその男に初めて出逢う不気味なオーラを感じていた。
そして先ほどの教助の態度に少し疑問を持ちながらも、雨の中を大きな傘を差して買い出しへと向かった。

氷見子が出て行ったのを確認した教助は男に向かって話し出す。
「なぜ来た……?」
「久しぶりに、お前と遊びたいと思ったんだ」
「もし高山がいたらどうするつもりだったのだ?」
「勿論居ない事を知った上で来てる。俺達のゲームに水を刺されたくはないだろ?」
「私は貴様と遊ぶつもりはない」
 
「ありゃりゃ。随分とつれないな。俺たち友達だろう? なぁ教助」
「偶然大学が同じだっただけだろう。私も高山も、もう貴様を友人だとは思っていない」
「そうかぁ。友達にそんな事言われるときついなぁ。じゃあ……さっきまでここに居たお嬢ちゃんが危険だって話をしたら、俺と遊んでくれるかい?」
「貴様っ! また何をするつもりだ!」
「まぁ落ち着けって。例えばの話だよ。例えばの……」
そう言って不気味な視線を送る男。
 
男の名は『辺見零(へんみれい)』(30歳)、教助と誠と共に大学で犯罪心理学について学んだ旧友であった。

「私に何をしろと言うのだ」
「だから言ってるだろ? ゲームだよ」
「そんな事をして何になる」
「やっぱり……昔のように俺に負けるのが怖いか? 名探偵」
「お前はそうやって、いつも探偵を馬鹿にしていたな」
「探偵なんて、偉そうにただ事実を並べているだけだ。いいか教助、犯罪とは人間の心そのものだ。それを起こした人間の感情が見えるから美しいんだ。完全犯罪や不可能犯罪は俺に言わせれば美しくない。人の拙さが生み出す芸術(犯罪)にこそ価値がある」
そう悠長に述べる零の言葉に飲まれそうになる教助。

「だから……あんな事件を起こしたと言うのか?」
「お前も自分の力を試してみたくなる瞬間があるだろう? 教助、お前はこっち側の人間だ。俺には分かる」
「貴様と一緒にするな!」
「そう怒るなよ。ハゲるぞ?」
零は小馬鹿にしたような顔で教助を見つめる。

少し悩んでから教助が口を開く。
「そのゲームで私が勝ったら?」
「お? やる気になったか? そうだな。じゃああの時の事件の真相を教えてやるよ」
「いいだろう……」
教助はその提案に乗った。
「ゲーム内容はシンプルなクイズだ」
そう言った零が続けて語り出す。

「ある所に死神がいた。
死神はりんごが好物だった。
でも死神の世界にりんごはない。
だから死神はりんごを食う為にとある人間に取り憑いた。
この人間をイブとしよう。

イブにはアダムという恋人がいた。
イブがりんごを木から取ろうとすると、アダムがそれを止めた。
何故ならりんごを食べると死んでしまう為、絶対に食べてはいけないと神に禁じられていたからだ。
だが、それは神のついた嘘である事を死神は知っている。

死神はアダムを説得する方法はないか考えた。
結果イブとアダムはりんごを食べてしまい神の国を追われる事となった。
さて、死神はどうやってアダムを協力させたのか?

ちなみに付け加えるとこの物語にファンタジー要素などはない。叙述トリックや言葉遊びでもなく、純粋に人間の心理に基づいたクイズだ」

教助は顎を手に乗せてしばらく目を瞑った。そして目を開けるとこう答えた。

「りんご以外の食べ物を、全て隠した」

零はニヤッと笑みを浮かべた。
「流石は名探偵だ。だが、それだけでは半分のみ正解だな」
「それ以上何をしたと?」
零は更に不吉な表情で語り出す。
「食べる物がなくなり空腹に苦しむアダムに、イブの姿をした死神がりんごの味を饒舌に語って教えたんだ」
「なるほどな……。吐き気がするほど残忍なやり口だ」
 
「人間は誰もが死神を心の中に宿している。たとえそれが罪だと知っていても、そしてその罰が死に等しいものだとしても、人間はその醜い『欲望』には決して敵わない。だがそれこそが人間の本質なんだ」

そう言い切った零は更にこう続けた。
「このゲームは引き分けだな。お前の発想はやはりこちら側だよ」

深い溜息をついた後、教助が口を開く。
「せっかくだ、1杯飲んでいけ」
教助がカクテルを提供すると、零が笑い出した。

「ふはは、『エル・ディアブロ』か!」
「そうだ。名前に『悪魔』を持つこのカクテルはテキーラをベースにカシスリキュール、ライムジュースとジンジャーエールを合わせた、まるで血のように赤いカクテルだ」

それを聞いた零がこう補足する。
「カクテル言葉は『気をつけて』。悪魔のささやきに負けてしまったアダムにお似合いのカクテルだ。さっきのゲームは引き分けだった訳だから、カクテルのお礼にこの情報を渡そう」
そう言って零は1枚の名刺を渡す――そこには心理カウンセラー『森谷一茶(もりやいっさ)』と書かれていた。

「誰の名刺だ?」
「俺が今名乗っている名前と肩書きだ」
「貴様らしい、ふざけた名だ……」
「ははは、この洒落にも気付いてくれたか!」
「どうせホームズの宿敵である、モリアーティ教授のオマージュといったところだろう」
「今後お前が関わる事件にこの名前が出てきたら、詳しく調べてみると良い」

零がそう言った瞬間、店の扉が勢いよく開く。
「辺見!!」
そう言って入ってきたのは、怖い顔をした誠だった。
「思ったより早かったじゃないか。あぁ面倒だ」
零はゆっくりと立ち上がる。
「辺見! お前を拘束する!」
「令状はあるのか? なんの罪だ? 任意なら断る」
「うるさい! 黙れ!」
誠はいつもの姿からは想像出来ないほど取り乱していた。

「そう言えば、ここで働いているお嬢ちゃん。今頃商店街のスーパーに着いている頃だろうが、早く迎えに行ってやった方がいいかもしれないぞ?」
「なんだと! 氷見子ちゃんに何をするつもりだ?」
「辺見、貴様」
誠と教助は零を睨みつける。
「金に困っているチンピラなんて掃いて捨てる程いる」
「くそっ!」
高山はその言葉を聞いて、氷見子の元へと走っていった。

「貴様は本当に悪魔のような男だ」
教助が零に言う。
「悪魔か……。教助、お前は変だとは思わないか?
何故神でもない人間が人間を裁くのか?
誰かが決めたルールで誰かを裁く権利が人間にあるのか。
それなのに、人は皆平等だなどと言っている事に矛盾を感じないのか?
個ではなく多が正義になるのなら、俺はその個をひっくり返し、革命を起こす。その為には喜んで悪魔にだってなるさ」
「お前1人でそんな事出来るものか!」
「だから俺はこの数年で仲間を集めた。そしてその最後のピースが、お前だよ教助。これは最後の勧誘で忠告だ。俺の仲間になれ」

教助は一度目を閉じ、すぐに開くとこう答える。
「私は一流のバーマンとして、このカウンターに立ち続けなければならない」

「残念だよ教助……ではこれからはお前のことも、敵とみなす事にする。せいぜい夜道には気をつけろよ、名探偵」
そう言った零は静かに店を後にした。



その後すぐ、ずぶ濡れになって帰ってきた氷見子に教助が声をかける。

「おい君! 大丈夫なのか?」
「え? 社長、血相変えて一体どうしたんですか?」
「なぜそんなに濡れている? 傘はどうした?」
「スーパーの傘立てに入れてたら、誰かに盗られちゃったんですよ……。ホント災難でした」
「途中で高山に会わなかったか?」
「会ってませんけど」
「君を迎えにいった筈なんだが……」
「雨を避ける為に遠回りして、なるべく屋根のある道を通ってきたんで、それで行き違いになったのかな……。でもどうして迎えなんて?」
「いや、なんでもない……」
「なんかいつもと雰囲気違いませんか?」
「それより早く体を拭きたまえ、風邪を引いてしまう」
「やっぱりなんか変だ……」

誠も店へ戻って来て、氷見子がビニール袋から食材を取り出していると、1枚のメッセージカードが入っていた。

――――――――――――

俺は泥棒じゃないから
傘は今度返しに行くよ。
森谷一茶

――――――――――――

「あれ? いつの間にこんな紙入ったんだろう……」
氷見子が首を傾げる。
「見事にしてやられたな……」
「教助。奴は何か言っていたか?」
「仲間が集まったから、革命を起こすと言っていた」
「もうそこまで準備が出来ていたのか……」
「どういう事だ?」
「僕はあの事件から奴を個人的に追いかけてきた。するとある宗教団体との繋がりが見えてきて、それを調べていたんだ」
 
「ではその仲間というのは……?」
「日本では珍しい悪魔崇拝の宗教団体である、『ディアブロ教団』だ」
「あ、悪魔ですか?」
それを聞いた氷見子が驚嘆の声を上げる。
「奴は危険だ。君も次に奴を見かけたらすぐに逃げるんだ」
「わ、分かりました。でもあの人は一体何をした人なんですか?」
「奴は8年前、僕たちの通っていた大学でテロ事件を起こした。死者数は30名以上という最悪の事件だ。だが奴が主犯であるという明確な証拠は何も見つからなかった」

「冤罪ってことはないんですか?」
「僕たちは、奴本人の口から聞かされたんだ」
「じゃあそれを警察に言えば!」
「言ったろ? 証拠がないんだ。奴が否認すれば逮捕は出来ない」
「そんな……」

そこで教助が話題を変える。
「そう言えば、君はなぜ律儀に買い物を?」
「え? 社長が買って来いって言ったじゃないですか!」
「もしや暗号に気付いていなかったのか?」
「はい? 何のことですか?」
「買い出しメモの1番上の文字だけを読んでみたまえ」
「タカ山オミセにヨベ……うわぁ本当だぁ!」
「せっかく君でも分かる難易度にしたと言うのに……」
「へへへ……」
照れたように笑う氷見子。
「それでは高山は何故ここに?」
「何言ってるんだ。教助から奴が来ているとメールを受けたんじゃないか!」
「私はそんなメールはしていない」
「……」
「全て奴の手の平の上で踊らされていたわけか……」
「今日は完敗だな……」

「じゃあ気を取り直して()()しましょう! なんちゃってー! へへへ」
暗い顔をする2人をみかねた氷見子がくだらない冗談を言うと、いつもと違う反応が返ってくる。

「そうだな。こんな日はその方が良いのかもしれん」
「あれ? 珍しい……。じゃあ給料からは……」
「引かないでおこう」
「やったぁあ!」
飛び跳ねながら喜ぶ氷見子。

こうして再び相見える宿命のライバル、新田教助と辺見零の壮絶な戦いが始まろうとしていた。