それからは――本当に一瞬の出来事だった。

その男がゴブリンの腹の辺りを殴りつけると、その凄まじい威力に体の内側から弾け飛んで霧散した。それを見たもう一匹のゴブリンが背中を向け逃走を図るが、すぐに追いつき背後から放たれた男の蹴りによって頭が消し飛び、残された胴体がその場に横たわる……。

難なく仕事を終えた男は僕に近づき手を差し出した。
僕は握手かと思いその手を握り返すと男は声を荒げる。
「誰が握手なんか求めるか! 早く金をよこせクソガキ」
「あ、なるほど……。えっと……金貨30枚でしたよね」
そう言ってポケットを探す仕草をしたが、この世界のお金など持っている訳がない。

「おいガキ、まさか金がねぇとは言わねぇよな?」
「すみません。必ずお支払いするので少し待っていただけませんか?」
「いつまでだ?」
「あのぅ……。ちなみに金貨30枚って、どの位働けば稼げる金額なんでしょうか?」
「成人男性の平均月収ってところだな」
「に、2ヶ月ほど待って頂ければ……」
「お前、地球からの転生者か?」
「は、はい。さっきこっちに来たばかりです」
「国はどこだ?」
「日本です」
「同じだな。まぁ俺の場合は転移だけどな」
「同じ境遇の人に出会えて安心しました」
「俺の労働力として従順に働くなら、住む場所と仕事を恵んでやってもいいぞ」
「本当ですか? 是非お願いしたいです!」
「俺はシン。お前、名前は?」
「……」
僕はなんとか名乗らないで済む方法を考えていた。

「聞いてんのか? 名前だよ名前!」
再度自己紹介を求められた為、僕がしぶしぶ名を名乗るとシンさんの笑いが収まるまでの数分間が永遠かと思うほどに長かった。

ひとしきり笑った後に、シンさんは肩をプルプルと震わせながら話し始めた。
「せっかくの格好いい名前が勿体ない気もするが、省略してお前の事はシルバと呼ぶ事にする」
「そうして貰えると助かります。やっぱり異世界でもこの名前は珍しいんでしょうか?」
「そりゃお前……キラキラネームみたいなもんだよ。名前を聞いた奴を笑い殺す気か? これじゃむしろ新世界の神の方のキラじゃねぇか……。流石のキラも笑っちまってノートに名前書けねぇよ!」
そう言って腹を抱えて再度笑い出すシンさん。

僕の場合は笑いを堪えるのではなく、恥ずかしさで震える体をどうにか抑えながら話題を変える。
「ところでシンさんはどんな商売をしているんですか?」
「俺はこう見えてもギルドマスターなんだ。十人程度の小さいギルドだが、様々な依頼を受けてる」
「異世界でギルドを作るなんて凄いですね」
「今日からお前もメンバーの一人だ。そうと決まればこの書類にサインをしてくれ」
僕は渡された書類にすぐさま署名をする。

先程の草原からしばらく歩いて行くと、シンさんのギルドである『クロノワール』へと到着した。そこそこ大きな建物でメンバーの寮も兼ねているらしい。庭には綺麗な花が咲いていて素敵な外観だと思ったが、シンさんらしくはないと感じた。場所は街の外れに位置しており、そこから見える街の様子はアニメで良く見る中世ヨーロッパの世界観と言えば分かりやすいだろう。

「シンおかえりー。早かったね」
「おう。新入り連れて来たから後頼むわ」
シンさんと話していた恐らく僕と同い年くらいであろう女の子が声をかけて来た。その姿は金髪ショートカットの碧眼で、頭の青いカチューシャと白い薔薇の髪飾りが特徴的だった。
「あなたが久しぶりの新人さんね!」
「よろしくお願いします」
そう挨拶をすると嫌な予感に襲われる……。
「あたしはロゼッタ! ここで受付をしているわ。あなたのお名前は?」
ほらね――こうなる。この後、ロゼッタは必死に笑いを堪えながらギルドの中を案内してくれた。
今日から住む事になる部屋を見せて貰ったり、世間話をして色々と教えてもらった。

その内容は、この世界で転生者や転移者はさほど珍しくなく、大勢いるという事。ロゼッタは隣国のお姫様だったが、訳あってお兄さんと共に国を出て、今は2人でこのギルドに所属している事。そしてこの街に住む上で関わってはいけない人達についてだった。

「書類にはもうサインしたんだっけ?」
「さっき済ませたよ」
「ちょっと見せて」
その書類を見たロゼッタは血相を変えて怒鳴ってきた。
「あなた! なんでこんな書類にサインしたの?」
「え? なんかマズかった?」
「住む場所は確保されてるけど、これじゃそれ以外は殆どタダ働きの契約じゃない! しかも契約期間は2年よ!」
「えぇ!? そんなことシンさんは一言も……」
「シンに騙されたわね」
「契約の解除は出来ないの?」
「この世界で署名をするという行為は魂との契約なの。双方の合意がない限り解除は出来ないわ」
「そ、そんな……」
「これを機に、今後は契約書はよく読むことね……」

そこへ浮かれた様子のシンさんがスキップをしながら通りかかった。
「シンさん! 僕を騙したんですか?」
シンがその軽快な足を止める。
「お前俺に言っただろ、金ならいくらでも払うと。せめてもの温情で2年の期限付きにしてやっただけありがたく思えよクソガキ」
「なっ! あなたそれでも大人ですか?」
「どんな世界だろうと弱い奴は強い奴に喰われるんだ。悔しかったらお前も喰う側に回れ」
ベーっと舌を出す32歳の男に腹が立つも、何も言い返す事が出来なかった。

「ちょっとシン、どこへ行くの?」
ロゼッタがシンに尋ねる。
「未来の臨時収入が入ったからな。賭場で更に増やしてくる」
そう言ってシンさんは満面の笑みで出かけていった。
「これで分かったでしょ? アイツは腕は立つけど、酒と女とギャンブル狂いのクソ野郎なのよ……」
ロゼッタがため息を漏らしながら言った。
「なんで初日からこんなことに……」
僕が肩を落としていると、見かねたロゼッタは優しい声をかけてくれた。
「また何かあったら言いなさい。あたしに出来る事なら協力してあげるから……」
「ありがとうロゼッタ」

「気を取り直してお茶にしましょう?」
ロゼッタの提案で僕たちは中庭でティータイムと洒落込んだ。この世界に来てやっと落ち着つけた瞬間だった。
「このお茶すごく美味しいよ」
母さんにもこのくらい素直に言えば良かったと、思い出して切なくなる。
「でしょ? 今朝に焼いたクッキーもあるから食べて!」
だがすぐにその切なさは吹き飛び、僕は目を疑った。
「ねぇロゼッタ……これはどこの隕石?」
「失礼ね? どう見ても美味しそうなクッキーでしょう?」
「いやいやそんな訳ないよ。どう見てもこれ月の石とか太陽の石だって。こんなの食べたら進化しちゃうよ」
「うるさいわね! 文句は食べてから言いなさいよ」
と、口の中にその謎の物体を無理やり押し込まれた。
僕は意識が遠くなり本日2度目の死を味わうと、あの忌々しい女神の顔が脳裏に浮かんだ事でギリギリ手前で踏みとどまった。

「ロゼッタ! これ味見した?」
「ちっ、また失敗か……」
この時の表情でロゼッタの裏の顔を見た気がした。
「さては僕を毒味役にしたな!」
「少しは上達したかと思ったんだけどなぁ。今からあたし料理上手のメイドにクッキー作りを教わりに行くけどあなたも来る?」
「め、メイド? 行きます! ぜひお願いします!」
「あからさまに元気になったわね」
メイドは異世界のアイドルだ。この機会を棒に振っては、きっと世間は許してくれないだろう。

2人でティータイムの片付けをしていると、誰かに背後から肩をポンと叩かれた。
「君は新入りかい?」
振り返ると、そこには恰幅が良くスキンヘッドの推定50代くらいの凛々しい顔つきのおじさんが居た――。