徳永さんと別れ、カフェを出たわたしはスマホで〈ホテルTEDDY(テディ)〉に電話をかける。ここがわたしの生まれ育った実家であり、半年前に脳梗塞で急死した父が遺してくれたわたしの大事な居場所で財産である。父がオーナーだった頃までは、〈ホテルくまがや〉という小さなリゾートホテルだったのだけれど。

『はい。お電話ありがとうございます。〈ホテルTEDDY〉の支配人・大森(おおもり)(うけたまわ)ります』 

 ダンディな声で電話に出たのはホテルの支配人、大森さんだった。もうすぐ還暦を迎える彼は、祖父がオーナーだった頃に入社して以来四十年近く家で働いてくれているベテランのホテルマンだ。

「大森さん? わたし、(はる)()です。今打ち合わせが終わって、今から帰るところなんです」

『ああ、オーナーでしたか。打ち合わせ、お疲れさまでございます。もうじき朝のミーティングが始まりますよ』

「ええ、分かってます。大急ぎで帰りますから。――スタッフはみなさん揃ってますか?」

『それがですね……、コンシェルジュの(こう)()君がお客様から頼まれた用事で出かけたきり、まだ戻ってきておらんのです』

「高良さん……、またですか」

 わたしは眉をひそめた。ウチのホテルの若きコンシェルジュ・高良(りく)さんは大手ホテルチェーン社長のご子息なのだけれど、どうもご実家の経営方針に不満があるらしく、専門学校を卒業してからずっとウチのホテルで働いてくれている。年齢はわたしの六歳上の二十九歳で、わたしにとってよき相談相手でもある。
 コンシェルジュとしての仕事に誇りをもってくれているのは大変いいことだと思うのだけれど、熱心すぎるところがあるのが困りもの。たとえそれが誰が聞いてもムチャぶりだと思うような要望でも、お客様の望みはすべて叶えたがるのだ。

「彼にはわたしから注意をしておきます。せめてミーティングには顔を出すように、って。――とにかく、もうすぐ着きますから」

『はい、かしこまりました。オーナーも大変でございますねぇ。当ホテルの経営をなさりながら、人気小説家でもあるのですから』

「……ええ、まぁ。でもわたし自身が決めたことですから、そんなにつらくはないですよ。……じゃあ」

 速足で歩いていると前方にホテルの外観が見えてきたので、わたしはそう言って電話を切った。


 ――わたしは熊谷春陽、現在二十三歳。大学時代に応募した文芸コンテストで入選して小説家デビューし、今やすっかりベストセラーを何本も抱える人気作家となっている。